水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

バランス

2010年10月27日 | 日々のあれこれ
 9組さんが調理実習試食をもってきてくれた。
 牛丼とかき玉汁。
 どちらも普通につくれば失敗の危険性は少ないメニューとはいえ、なかなかおいしかった。
 ごはんがかために炊けていたこと、牛丼のつゆの量が適切だったのがとくによかった。
 あの有名な西荻窪の坂本屋のカツ丼は、たしか山本益弘氏の進言で、丼つゆが少なめになって、よりおいしさが増したという話をきいたことがあるけど、実際絶妙のバランスだった。
 丼もののつゆだくというのは、基本おかしいと思う(て、こんな強く言う必要などまったくないのですが)。
 丼のご飯は、白いところとつゆで茶色くなったところが混在してないといけない。
 バンドレッスンの先生にいつも、このバンドは全部mfだなという注意をいただいてしまう。
 変化がないといけない。
 メロディーと伴奏のバランスはご飯とつゆの関係のようにきわめて大事。
 味付けは同じでも、バランスがかわるだけで印象が全く変わってしまう。
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白酒

2010年10月26日 | 日々のあれこれ
 桃月庵白酒というふくよかな顔立ちをした噺家さんがいて、本校の0先生のお顔の形が白酒師匠のそれにそっくりなのだが、似てるよねと語れる相手がいない。
 先日新宿の紀伊国屋で師匠の新しいCDを買った。
 「井戸の茶碗」という好きな噺が入っている。
 ライブやCDで今までにきいた中で、トップクラスにいい出来だ。
 今一番定評のある、さん喬師匠のよりも自分的にははまった。
 自分にあうあわないは、声質とリズム感の好き嫌いだろう。
 授業も、音楽もまったく同じことが言えそうだ。
 それにしても、白酒師匠、落語界では若手に分類されるけど、ものすごい力量だ。
 これからどの境地にまでいってしまうのか、楽しみすぎる。
 
 
 
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センター試験

2010年10月25日 | 日々のあれこれ

 ~ 大学入試センター試験を難易度別に2種類にする検討を、独立行政法人「大学入試センター」が始める。新しい学習指導要領で学んだ高校3年生(現在の中1)が受験する2016年1月実施が目標になる。えり好みさえしなければ誰でも大学に入れる「全入時代」が迫り、受験生の学力の幅が広がったことなどから、1回1種類のセンター試験で学力をつかむのが難しくなったためだ。 ~

 学力不足の高校生を作り出したのは誰だろう。
 もちろん、特定の誰かの責任を糾弾して解決する問題ではないし、自分も当事者のつもりで仕事はしているつもりではある。
 しかし、「ゆとり教育」はじめ、いろんなことをやれと言われて現場の教員ははたらいている。
 自分らの施策のせいでおバカちゃんを多数作り出しておいて、こんどは試験を簡単にする?
 学力の幅が広がった、つまり今のセンターの問題だと全然点数をとれない子が増えすぎたということだ。
 だったら、試験を簡単にするのではなく、点をとれる力をつけるためにみんなでなんとかしていこうという方向性で考えることなんじゃないのか。
 そうでなかったら、なんのために指導要領? なんのための大学受験? そこまでして大学に入れてあげないといけないの? という思いを抱くのはおれだけではないと思うけどなあ。

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おにいちゃんのハナビ

2010年10月24日 | 演奏会・映画など
 日本の文学の二大素材は「恋愛」と「死」です。「相聞(恋の歌)」「挽歌(死者を悼む歌)」が二大素材だった万葉集の時代から変わってません。だから、両方つかえば、簡単に小説が一本書けます。
 誰かを好きになった、ラブラブになれた、どちらかに死が訪れる、「助けてくださ~い!」でいっちょうあがりです … 、などという話を小説を教える最初のよくする。

 映画「おにいちゃんのハナビ」も、また「白血病テーマか」という気持ちが正直あったので、どうしようかなと思っていたが、敬愛する快楽亭ブラック師匠がほめてらしたので、新宿武蔵野館にでかけてきたのだが、早く観て、みなさんにお勧めすればよかったと後悔するような素晴らしい作品だった。

 こんなシーンを入れれば、ほらみんな泣くでしょ、というようなあざとさが全然ない。
 もちろん、亡くなる寸前まで周囲を気遣い、明るくふるまおうとする少女のけなげさは、とことん胸をうつ。でも谷村美月ちゃんのお芝居もあってのことだが、わざとらしさが感じられない。
 妹を看取るのが恋人ではなくて兄という設定も大事だ。
 しかも兄は、妹の病気療養のために引っ越してきたこの土地になじめず、ひきこもりになっているところから映画ははじまる。

 半年の入院を経て家にかえった妹の華は、そんな兄をなんとかしようとする。
 クラスメイトに頼んで街に連れ出してみたり、アルバイトを紹介したり。
 兄からすれば、はっきりいってうざいだろうなと思う。母親がおなじことをするなら、「うるせぇ、ほっといてくれ」と言って、家中であばれまくることだろう。
 そこは妹だから、兄もしぶしぶ従わざるを得ないのだが、それも含めてひきこもりの度合いは、そんなにひどいものではないのだろう。

 そんな兄にとって一番きつかったのは、その土地の同級生たちの寄り合いに参加させられることだ。
 なんとか会という名前の同級会の単位がその町にはあり、その会が二十歳、厄年、還暦などの節目節目の年に花火をあげることが、村の最も大きな行事になっている。
 花火の好きな華は、兄にその会に入り、しっかり花火をあげてほしい、おにいちゃんの花火が見たいと言う。
 もちろんそれは自分のためにというより、この土地で暮らしていく兄が、少しでもまわりにとけこめるようにとの思いに基づいた願いでもある。
「おめえみたいなよそ者は、会には入れられねえ」と拒絶する地元の若者の姿や、会の運営のようす、祭りに向けてのいろんな確執が描かれるのだが、これも地元の雰囲気をよくとらえ、共同体の良い面も悪い面もきちっと伝わる。
 というように、白血病の妹、成長していく兄の様子、それを支え見守る両親、またその家族の生きる地域共同体の姿が、多層的に描かれていることが、たんなるお涙頂戴でなくしている。

 様々なエピソードや伏線が一気に収斂していく最後の花火のシーンは、見事としか言いようがなかった。
 すでにその場にはいない妹が、兄のために一生懸命まいてくれた種が、花火大会の夜、大輪の花を咲かせる。
 花火にこめられたたくさんの人の思いが夜空をいっぱいに彩る。
 それが人々の心には焼きつけられるものの、現実の美しさ自体は一瞬のうちに消えていくことまで含めて、花火はわたしたち人間の一生を象徴するようで、胸にせまってくる。
 人は一人では生きられないこともないではないけど、複数で生きた方がいいよ、そんなに臆病にならなくていいよ、気がつかないうちに支え支えられている関係ってあるんだよというメッセージが、おしつけがましくなく伝わってくる。
 グッジョブ!というより、監督さんありがとうと叫びたい気持ちだった。

 それにしても、「大奥」とか「海猿」とかはどこででもやっているのに、この作品が都内の2館ぐらいでしかやってないのはもったいなさすぎる。
 美月ちゃんがあまりにかわいかったので、いきおいで「明日やること、ゴミ出し、愛想笑い、恋」も見にいったら、こちらは普通の学芸会レベルでした。
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ヌードの夜

2010年10月23日 | 演奏会・映画など
 正直にいえば、R15指定で、佐藤寛子さんがガッツリ裸体をさらしているという情報があればこそ出かけた映画だ。だからその面についてはありがとうございましたと言うほかない。
 作品全体については、監督さんの感覚がもう古いというか、もう使い古された素材しかないものにも思えてしまったのも確かだ。
 作品全体が寓話? それともこれが現実と言いたかったのか?
 現実を描くなら、もっとちゃんといろんなことを考証しないといけないし、こんなにぽんぽん人を殺して野放しになっているほど、日本の警察が無能とは思えない。
 寓話として、何か深淵な思想を形にしようとしたのだろうか。
 何十年前なら、こんな感じの作品にころっとだまされそうな進歩的文化人がいたと思うけど、いまはどうだろう。文化人や女優さんはだませても、おいらはだまされないなあ。
 大竹しのぶ、竹中直人といった宝をこんなふうに消費していいのかなという疑問も抱く。
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学び方

2010年10月23日 | 日々のあれこれ

 二回目の学校説明会。
 大講堂が満席になった。ありがたいことである。
 全体説明のあとに、個別相談を約20組。まだまだいけたな。
 終わりしだいソッコーで準備して合奏。
 基礎を10分やって、「にじの家祭り」で演奏する曲を一気に通したら、ちょうど終了時間になった。
 学年だよりを書いて業務終了である。

 ~ 2学年だより43「効率」 ~
 物事は効率よくやった方がいい。
 誰しもそう思うだろう。
 少ない努力で多くの成果をあげることができるなら、それにこしたことはない。
 勉強にも当然あてはまるし、実際に効率のよい勉強法は存在する。
 書店にいくと勉強法を説いた本は山にようにある。
 個人的には、これまで段ボール数箱分はそんな本を読んできた。
 なので、ほぼ答えはわかっている。
 わかっているのだけど、昨日も『最小の努力で結果を出す超合格法』(荘司雅彦著)、『あの人はなぜ勉強が続くのか』(中谷彰宏著)という本を買って読んだ。
 そして、自分の知っている勉強法の正しさを再確認した。
 昨日読んだ本の言い方を使わせていただくと、最も効率のよい勉強の仕方はあらく言って二つ。
 1「学び方を学ぶ」ことと、2「根っこを学ぶ」ことだ。
 この二つは、今まで何度も話したり書いたりしていたことを、言い方を換えて言っているだけだともいえる。
 以前「予習をしよう」と話したことがある。
 「予習とはわかる部分とわからない部分の仕分け作業だ」と、その意味も話した。
 つまり勉強とは「わからないところをわかるようにしていく」作業である。
 これが「学び方」だ。
 こんなふうに学べば身に付いていくのか、という実感をしていく経験を積むのが学校だ。
 だから、ほんとうのことを言うと、学ぶ教科は実はなんでもいい。
 英語や数学でなくてもいい。物理や日本史でなくてもいい。
 週に音楽6時間、家庭科8時間、保健体育10時間、LHR6時間の学校があったっていいのだ。
 そこで学び方を身につけることができるのなら。
 学び方を知っていれば、または学ぶとはなんたるかを知る経験をしていれば、大人になっても必要なときに必要なことは身につけていける。
 学んだことが何であっても、そのことによって体質は変わっている。顔も変わる。
 国語でもいいし、数学でもいいし、美術でもいいし、スポーツでもいいのだが、学んだ人はそういう顔になっている。
 スポーツで学んだ人は、受験的な教科はできないかもしれないが、学んだ顔をしている。
 何事も学ばない人は、学びを知らない顔のまま人生を送っていくことになるだろう。
 もちろん、みなさんは大学入試に必要な教科で学び方を学ぶのが、最も効率がいいだろう。
 それらは、大学に入ってからの学問の基礎でもある。
 大学での学問にしても、何を学ぶかよりも、学ぶことを学ぶのが大事だ。
 就職のためだけの勉強に陥ってしまうと、顔が変わらないままになってしまい、意外と就職活動で苦労することにもなりうるのだ。

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データ

2010年10月22日 | 日々のあれこれ
 先日学習した東大の過去問の一節。

 ~ 人に話せない心の秘密も、身体に秘められた経験も、いまでは情報に吸収され、情報として定義される」とウィリアム・ボガードはいう。私たちの私生活の行動パターンだけではなく、趣味や好み、適性までもが情報化され、分析されていく。 … 個人の身体の周りや皮膚の内側とその私生活のなかにあったプライバシーは、いまでは個人情報へと変換され、個人を分析するデータとなり、情報システムのなかで用いられる。 ~

 いま現代文で読んでいる教科書の一節。

 ~ 電話の通話記録、クレジットカードやATM使用、街中の監視カメラなど、「私」の行動は今日、電脳空間に記録され蓄積されている。 ~

 ふと思ったけど、パソコンに入っているデータ、たとえばアマゾンの注文履歴とか、ちけっとぴあの購入履歴とか、メールの内容とか、とんでもない量のデータを総合されたら、一人の人間の姿がうかびあがることはまちがいない。
 宮部みゆきさんに頼めば相当分厚い一冊に仕上げてくれるだろう。
 そこで立ち上がる人間像というのは、はたして自分が思っている「自分」になるだろうか。
 みんなが思っている「自分」になるだろうか。
 興味深さとおそろしさと両方ある。
 以前ならなんに記録にも記憶にも残らないような情報も、電脳空間に蓄積されてしまっている。
 本屋さんでちょっとエロい本を買おうとしたとする。
 もちろん買わないけど。
 でも小心者だから、たぶん内田樹先生の『街場のメディア論』と『漫画好きですが、何か』の間にはさんでレジに出すような気がするのだ。たとえばだけど。
 アマゾンでの注文は、誰にも知られずに注文できているはずなのに、コンピューターを調べられたら一発ではないか。
 犯罪につながるものを購入したように記録を改ざんすることも、その気になればできるだろう。
 本当に『ゴールデンスランバー』の時代になっている。
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結果

2010年10月21日 | 日々のあれこれ
 ある生徒さんに「今回やっちゃったことは、たまたまじゃないよね。今までの過ごし方の結果じゃないか。だからこれをきっかけに変わろう。じゃ、あとは担任の先生に叱られておいで」と話すような出来事があって、なるほど俺はいいことを言うなあ、すべてはその時点での結果なのだなあと自分で納得したのだった。

 問題が起きたときというのは、ピンポイントで原因が一個とか二個とかあるのではなく、それまでの過程から必然的に生まれているものだ。
 だからたまたま顕在化した問題がそれほど大きなものでなければ、問題が起きたことを喜び、修正を加えていけばいいのだろう。
 かなり問題が大きくなっていても、そこをターニングポイントにすればいい。
 問題であることにうすすす気づきながらそのままにしておくのが、最も危険だ。

 合奏してて、音が合わないのは、その瞬間に問題があるのではなく、それまでの過程で何が足りなかったのか、練習方法なのか、方法が悪いとしたらなぜ正しい方法が身に付いていないのか、それとも楽器の調子なのか、楽器の調子が悪いならなぜ悪いままにしてしまったのか、そんな過程段階のことを地道に直すしかない。
 音があわないこと自体を怒ってもしょうがない(と自分を戒める)。

 コンクールでいい演奏ができるのかどうか、入賞できるのかどうかは、曲を演奏し始める瞬間にはすでに確定している。 
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千と千尋の神隠し

2010年10月20日 | 日々のあれこれ
 遠い昔の話のようだが、去年はインフルエンザで試験後の球技大会ができなかった。
 今年は、無事実施できたのだが、つまり2年生ははじめての球技大会だったのだ。
 そのおかげで昼間は採点がすすみ、合間に楽譜のコピーと、「千と千尋の神隠し」のはじめの方を観れた。
 なるほど、このシーンの音楽だから微妙に不安げな和音をつかっているのかなどと思える。
 練習をしはじめた「千と千尋ハイライト」の譜面には入っていない曲も、聴いていると全部やりたくなってくるのは、さすが久石譲大先生だと感じる。
 
 

 
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「味噌汁・ご飯」授業

2010年10月19日 | 国語のお勉強
 横浜の野中先生が提唱される「『味噌汁・ご飯』授業」とは、教師が年間通して行う日常のごくふつうの授業を指す。
 とかく授業研究というと、ある教材について莫大な時間を割いて研究し、その成果を研究授業の形で世に問う、という形がイメージされる。
 でも、それは野中先生に言わせると「ごちそう授業」であって、毎日与えることも、食べ続けることもできないものである。
 毎日普通に行う授業のあり方をこそ研究して形にしていくべきだという主張がそこにある。
 先生のブログを読んでなるほどと思ってはいたものの、そこまでだった。
 自分もそのいったんを担いたいなどとは思わなかった。
 最近の野中先生がこう書かれている。
 次のような授業の「基本形」を作りたいとおっしゃられているのだ。
 
~ たとえば回転寿司、ファミリーレストラン、ちゃんぽん(リンガーハットなど)などのチェーン店業界は、バイトで成り立っていると聞いている。
 バイトの人が、充分食べ物を作ってお客様に出していくことができるのである。
 それはきちんとしたマニュアルが備わっていて、それに従って作っていけば注文のメニューができあがる。
 専門店のような味のメニューを作り出すことはできないが、普通に食べようとすれば、そこそこの味である。
 きちんとしたマニュアルが決め手である。
 私たちが準備しようとしているのは、そのきちんとしたマニュアルである。
 それを「基本型」と言っている。 ~

 えー、そんなー。学校の授業ってそんなんでいいんですか? と思ったあなた。
 いらっしゃいますね、きっと。
 外食産業と、授業とが同じにくくられていいのか、と。
 私的には、ひさしぶりに「これだ!」と思った。
 
 しばらく前に、教育学部に在籍して教員免許をとれるようになるのを、4年ではなく6年にしようという議論が国会でも行われていたはずだ。
 教員を目指す人間が、大学生活を6年間過ごすことにはものすごく賛成する。
 自分もそうだったし。
 4年間ふつうに勉強してサークルもやって、5年、6年では教育実習より何か別の職種の現場で実習して、それから現場に出られるぐらいの時間はあってもいいと思う。
 しかし、先日の6年制の議論のときは、大学のなかでよぶんに2年過ごすだけのような話ではなかったか。
 現場での教員の仕事を教えられる大学の先生は、日本全国見渡してもほとんどいらっしゃらない。
 それは、経済学の先生が企業での働き方を教えられないのと同じだから、別にしょうがない。
 問題点をあげるとすれば、大学の先生のなかに、ご自身の理論が子供の前でそのまま通用すると考えてらっしゃる方がおられることだろう。
 通用する場合もあれば、だめな場合もある。
 それは理論そのものの正当性というより、誰がやるかの問題が大きい。
 そういう「誰」をつくるのが大事なのだが、簡単にはいかない。

 そんなふうに、立派な「誰」かしかなれないのだとしたら、たぶん先生のなり手は不足する。
 だから、立派でなくても、カリスマでなくても、ふつうに大学を出てきて、学校の先生になろうという気持ちさえあるなら、あとはこれに従えば授業は成立するよという基本形はぜったい必要だと思う。
 昔みたいに、何言っているのかはよくわかんないけど、でも先生の言うことだからちゃんと聴こうという感覚でみてくれる人々はいなくなった。
 親も子も、「先生」という人種に権威性を認めない状況下で、授業までへたくそだったら、言うことをきいてくれるはずがない。
 こと国語の授業でいえば、国語には正解がないとか、いろんな解釈があるとかいう神話があって、一方で国語はセンスだとか、本さえ読んでれば国語力がつくという都市伝説を信じる人もたくさんいる。
 一定の日本語能力のある人なら、誰が教えてもそれなりの授業ができるという型が必要だ。
 考えてみると、何事もまず型を身につけるところから始まる。
 授業はその型を教えられる人が大学教育学部にはほとんどいず、民間の教育団体も、TOSS(教育技術法則化)以外には、ほんとにローカルに存在しているだけだ。
 

 ~ 人間教育である私たちの仕事に、このようなマニュアルは適しないと批判されるかもしれない。
 だが、私たちが基本型として考えようとするのは、授業づくりの領域でのことである。
 なぜ、それを考えようとするのか。
 日常に耐えられる授業を作るためである。
 「日常に耐えられる」というのは、短い時間にできるという条件が必要である。
 多くの時間をかけないで、どんどん作っていくことができる、そういう条件である。
 しかも、その基本型を何度も実践していくうちに、自分の力量として身につき、自分から教材研究と授業づくりができるようにしていくものである。
 それが大きな目標である。 ~

 なんかひさしぶりに、授業のあり方を考えてみたいと思う文章にであった。
 

  
   
 
 
 
 
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