水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

1月31日

2009年01月31日 | 日々のあれこれ
 つい、この間「おめでとう」って言ってたと思ったら、もう1月もおわり。
 はやいなあ。あっという間に卒業式、そして定演だ。
 今日は久しぶりに合奏に参加できた。
 定演3部で演奏するディズニー系の曲のうち二つを合奏した。
 ちょっと予習不足でのぞんでしまったが、完成したら実に楽しめそうだと感じる。
 「魔法にかけられて」は鈴木英史先生の安定感あるアレンジ、「美女と野獣」は真島俊夫先生で、やっぱこういうコード入るよね的なゾクゾク感がある。
 ちゃんと譜読みしよ。
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1月30日

2009年01月30日 | 日々のあれこれ
 放課後の教科会議でひさしぶりにあつい意見を述べてみた。
 そういう自分がなつかしかった。
 内容は書けないが、なんかゆるかったから。
 センター試験の結果が思わしくないのは、該当学年である私たちに一番の責任があるのはわかっている。
 でも、毎年この分野が弱いなあ的な分析はできてきているのだ。
 だとしたらなんらかの対策をとろうとするのはあたりまえで、「前に決めたことだから、このまま行こう」という発想ではお役人と同じ。
 「ほんとうの国語力をつけるためにじっくり取り組むべきだ」というのんきな意見は、公立の先生に言わせておけばいい。
 ていうか県立さんの方がよほどいろいろやられていると最近感じる。
 「本当の国語力」というような、これまで国語教育界で誰も定義できていない言葉を聞くと、虫ずが走る(なんか、あついぞ、おれ)。
 ただ、内心はこんなでも、会議中は温厚に話しているところが、自分で成長を感じる。
 
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1月29日

2009年01月29日 | 日々のあれこれ
 部活をこばやし君たちに依頼し、所用で新宿へ。
 早い時間に電車に乗ると、なるほど高校生はうるさいな。
 それが不快なときとそうでないときとがあって、原因の一つにはこちらの体調もあるのだろうが、主に声質とかトーンとか、音量ではない要素が大きいような気がする。
 内容があまりにもちょっとの内容だともちろん不快になる可能性は高いけど、話し方がかわいいと許してしまうから。
 前の話だが、座って本を読んでたら、前に立った女子校生が「あたし家ってあんまり落ち着かないんだよね、家族仲よくないし」的な話をしてるのが聞こえてきて、つい聞き入ってしまった。かわいそかったけど、声かけたら変なおやじになってしまうので、心のなかで「いつかいいことあるからね」とはげましていた。やまない雨はない。明けない夜はない。冬来(きた)りなば春遠からじ。
 電車のなかで、ひすいこたろう『心にズドン!と響く「運命」の言葉』(王様文庫)を読む。
 富士山を見て勇気をもらう著者は、あるとき富士山にのぼって気づいた。
 足下にあるのは石や小石だったのだ。
 「おまえだったのか、美しい富士山は砂や石でできていた」と。
 つまり(あんまり「つまり」じゃないけど)栄高校さんのゴージャスなサウンドも、伊奈学園さんのこの世のものと思えない美しい音も、メンバー一人一人が集合することでできているんだと思った。
 もちろんメンバーが砂や石だと言いたいわけではないが、全員が等しい美しさをもったダイヤモンドでないことはたしかだろう。
 われわれは、砂や石や雑草かもしれないけど、みんなでよってたかって一つの音にすれば、美しさはきっと生まれる。
 だとすると、まずは音色よりピッチ、そして縦ということかな。
 


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1月28日

2009年01月28日 | 日々のあれこれ
 3年の登校日。
 あらたに面接指導が必要になった生徒を集めたり、急遽小論文を書き始めた子の相談を受けたりする。
 授業がなくて力があまっているので、書いたものを見てくださいともってきた子にじっくり話をする。
 現代文の授業でも最近とくに感じるのは、あらためて説明しないレベルの言葉を理解してない子が多い点だ。
 今日は「古典」とか「文化」とかいった言葉の意味がずれていて、会話を成り立たせるのに時間がかかった。
 後で自分の方がおかしいのかなと思い直して確認したくらい。
 たしかに「文化って何?」と聞かれて、10秒で説明しきるのは難しい。
 大学入試レベルの難しい概念語ではなく、ふだんある程度目にしたり聞いたりするであろう、少し抽象的な語というものの理解を、ふだんからちゃんとやらないといけないなと思った。
 辞書的意味を一度教えればいいというものではない。
 たぶん、そういう語に接する機会が減りつつあるのだ。
 少年ジャンプの読者層が、おれが子どもの時は小学生メインだったけど、今は中学生になり、しかもマンガさえ読まない層が増えているという。
 そういう現象の一つの結果だと思う。
 だから、センターの評論を読む際も(今年のような低レベルなものであっても)、傍線部Aにたどりつくまえの部分で「ええっと、どんな意味だっけ」という状態で読んでる子が多いのだ。
 新1年生を迎えたら、徹底的に言葉力を確認していかねばならないと考えた。
 
 HRのあと、3年の部員に集まってもらい新しい譜面をわたし、早く受かってもどってこいと伝えた。
 
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1月27日

2009年01月27日 | 日々のあれこれ
 2部の台本は、いきづまって佐光君にまるなげしてしまったが、それがもどってきた。
 うまく各パーツをつなげてくれてあった。ごくろうさま。
 エンディングシーンを読んで、その場面を想像したら泣きそうになった。
 イメージの上では、今年も大成功である。
 これで、配役、読み合わせなど、実質の練習にうつっていけると安心。
 並行して書かねばならない、予餞会(3年生を送る会)で上映するビデオの台本もだいぶできてきた。
 これも、撮影現場を想像すると楽しくなってくる。
 これで給料をいただいていいのだろうか、いやいいに決まっている。
 
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1月26日

2009年01月26日 | 日々のあれこれ
 単願で合格した方の入学手続き。
 事務室とわれわれ3年の教員でもろもろの動きをする。
 吹奏楽部希望者のSくんと喜びをわかちあったり、何人かの方から「兄がお世話になってます」と声をかけてもらったり。
 兄弟入学が年々増えるのは、自分たちの仕事が認めてもらえているのではないかと、うれしい。
 午後は、大学合格者のプレート掲示の仕事。
 推薦合格者分なのでまだ数は少ないが、来月以降、この作業にひいひい言いたいものだ。
 プレートをかける板のスペックが変わっていて、とまどった。
 去年の3年の先生方の要望で改良が加えられたそうだが、きいてなかったのだ。
 3年前と同じ作業のつもりで向かっていったら、手順を決められずに少しいらっときたが、聞かなかったおれがわるいのだろうか。
 仕事が3年単位で動くのはいい面もあるが、悪い面もある。
 学年のメンバーがある程度固定されていると、いちいち会議でやること決めなくても勝手にすすんでいけるし、誰がどういうことを考えてそうかはだいたいわかる。
 それはマンネリにもつながるし、排他的な性質をおびることもありうる。
 メンバーの入れ替わりの少ない私立では、その危険性を意識しながらチームを動かさねばならない、とか中間管理職っぽく考えてみたりして。
 ひさしぶりに一日立ち仕事だったし、午前中はずっといい人っぽくしてたから、ちょっと疲れた。
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入試

2009年01月24日 | 日々のあれこれ
 木曜から本校の入試がはじまった。
 前に吹奏楽部を見学にきてくれた子が合格してくれててうれしい。
 貴重な経験者である。昨日の昼ミーティングでみんなにも話したが、経験者は練習の核になってくれるとともに、演奏会の集客の面でもがんばってくれる。
 後輩を誘ってくれるのだ。
 うちの9割の部員達は元運動部だから、中学の後輩を連れてこいと言っても、きびしいものがあるだろう。
 有名校の演奏会にでかけると、あちこちから「なんとか先輩!」と叫ぶ声があがるのをうらやましく見ている。
 もちろん、自信をもって後輩に「来い」と言えるバンドであることが大前提ではあるが。
 演奏会に来てほしいとたくさんの人を誘えるかどうかは、楽器の上達具合と密接な関係がある。
 自分のやっていることへの矜持のあらわれなのだろう。
 教員の世界で言うと、研究会を自分で企画できる人、研究会に参加する人、外に勉強しにいかない人、の3段階でみたとき、その授業レベルには乗数的な差があるけど、それと同じかもしれない。

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センター試験の小説

2009年01月22日 | 日々のあれこれ
 小説もまた古い作品だ。この「雨の庭」を収める短編集が出版されたのが1984年で、「かんけりの政治学」が発表された年。何か深い意味がかくされているのだろうか(隠されてないって)。
 こんな注がついていた。

注1 塵芥の山に火を付けた … 当時、家庭の廃棄物を個人で焼却することは禁止されていなかった。

注4 盆碁には業者から山なす付け届けをもらい … 当時の商慣習として、出入りの業者が便宜をはかってもらおうと、取引先に贈答品を届けるということがあった。

 なるほどねえ。
 今の高校生には、こういう注が必要なのね。
 たしかに現在においては、自分の家でゴミをかってに燃やす人はいないし、業者さんの付け届けなんていう風習はなくなっているから、注が必要になるのだろう。
 って、ほんとすか?
 そういう思いで注をつけたのですか? この注がないと読解に支障があると。では、ここで問題です。

問 「注1」「注4」をつけた問題作成委員の気持ちを説明したものとして最も適当なものを選べ。

 ア 自宅でゴミを燃やすことが禁じられている現在、そのような光景を目にしたことがない受験生にとって、この部分の記述は全体の読解の妨げになるほど不可解な表現であろうと判断したから。
 イ 自分でゴミを燃やすことや、付け届けをもらうといった行為が、父親の人間像を表現しようとしたものではないということを明らかにしておきたいと考えたから。
 ウ 出入り業者による盆暮れの付け届けというような商慣習は、現在の感覚からはきわめて非倫理的なものであり、この一節を読むことによって純粋な受験生が嫌悪感をおぼえることを避けたかったから。
 エ 自分でゴミを燃やす、付け届けの商慣習といった表現がある文章を問題として選んだことに対して、公のテストとしては不謹慎ではないかとの批判を受ける心配をしてしまったから。

 だいたいこの2カ所に注をつけておいて「無聊にたえられない」の意味を問うのはおかしいでしょ。
 つまり読解の補助としての注ではないのだ。

 入試の問題文は、不道徳な内容が含まれない文章を用いるという暗黙の了解がある。ひょっとしたらセンターは、暗黙ではなくマニュアルがあるのかもしれないな。お役人の仕事だし。
 中学入試や高校入試だと、かなり徹底してこのルールは守られているので、題材にはかなり偏りができる。
 主人公は少年か少女、父親と和解する話とか、友人関係に悩む話とか。
 さすがに大学入試レベルになると、そこそこきわどい文章も見ないことはないけど、ふつうに本屋で売っているような文学ちっくなものは出題されない。
 山田詠美も『風葬の教室』の学校の場面は出題されたが、『ベッドタイムアイズ』のばしばしヤってるとこがでるはずはない(ここでもすでにやばいかな … )。
 日本文学の中心話題は古代から現在にいたるまで「愛」と「死」だ。
 中心をはずしながら小説問題を作らねばならない作成委員の先生が大変だと思うけど、だからといって、こんなお役人的な注をつけて責任回避しようとするのは、あまりにも志が低いと思ってしまうのだ。
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センター試験の評論

2009年01月19日 | 日々のあれこれ
 土曜日はセンター試験の応援、日曜日はアンサンブルコンテストの駐車場係を担当しながら、センターの問題を解いていた。
 国語の先生らしく感想をかいておきます。
 1番の評論は、20年以上も前にかかれた文章である。
 ここまで古い文章が出題されるのは珍しい。
 繰り返し読んでみたが、なにゆえこの文章が? という疑問は消えない。読解力が足りないのだろうか。
 自分が入試問題を作る時には、数百人の中3生に50分真剣に読んでもらうのだから、読んで価値ある文章を使いたいと考える。
 できることなら、その文章が入試が終わったあとも記憶の片隅に残り、高校に入ってから、または大学で何か読んだときに、ふと思い出してもらえるようなものでをあってほしいと願う。
 そして設問を解くことによってその文章への理解が深まり、新たに生じた問題意識で頭の中がぐわんぐわん回りはじめてしまうような問いを作りたいとも思う。
 ささやかな志である。
 もちろん毎年ほぼ同じレベルにするとか、得点結果を正規分布に近いものにするとかは、プロとしては当然である(かっこいい! ていうか、センターの人はなんでできないの?)
 今回の文章には、出題者としての志がまったく感じられなかったのである。
 それはちょうど朝日新聞の天声人語の読後感と似ている。

 筆者(栗原彬氏)は、こどもたちの遊びが、ただの「隠れん坊」から「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」になっていることをとりあげる(20年以上前の話)。
 そして外での遊びに飽きた子どもは「人生ゲーム」に興ずるという。
 たしかに私たちが子どものころ、人生ゲームと野球盤が、室内での一番の遊びだった。
 で、「人生ゲーム」についてこう述べる。

 ~「人生ゲーム」は、周知のように、金を操作することによって人生の階段を上昇することを争うゲームである。ルーレットをまわすたびに金が動く。人生の修羅場をくぐって他人を蹴落としながら、自動車を買い、会社に入り、結婚し、土地を買い、家を建て、株を売買する。こうして最終的に獲得した財産の(ウ)タカに応じて、その人の人生の到達度が量られる。成功の頂点は億万長者、ついで社長で、最底辺は浮浪者である。その間に万年課長とか平社員とかレーサーといった地位・職業が位階づけられて配列されている。~

 天声人語ぽくね?
 そして「人生ゲーム」も「陣オニ」も同じ性質をもつ身体ゲームだという。
 これらを通して子供達は、近代市民社会の「私生活主義と競争民主主義」を身につけるというのだ。
 なるほどねえ、と思う人はいるだろう。
 でも、ふつうの高校生の感覚だと、ほんとに? というところではないだろうか。
 筆者は「かんけり」にはこんな意味を見出す。
 「かんけり」には、「人生ゲーム」にも「陣オニ」にも飽きた、つまり市民社会のルール学びに飽きた子供の遊びだというのだ。

 ~ かんを蹴るとき、人は市民社会の「真の御柱」を蹴る身ぶりを上演している。輪が市民社会を示すとすれば、かんは秩序の中心であり、管理塔でもある。子どもたちはかんを蹴ることによって、家、学校、塾、地域、社会一般、そして自己内面の管理社会のコスモロジーに蹴りを入れているのだ。 ~

 まあ、そう思うのは自由で、一つの考えとしてはありでしょう。
 筆者は小学校6年生から聞いた話を何カ所か挿入している。

 ~ 小六の少年はまたいう。かんけりは隠れているとき、とっても幸福なんだよ。なんだか温かい気持ちがする。いつまででも隠れていて、もう絶対に出て来たくなくなるんだ。 ~

 いわねえって。そんなこと、とつっこみたくなったのが、日本中でオレだけということはないだろう。
 いまはすっかり落ち着いた私だが、もし高校生のとき読んでたら「つくり話だろ、おっさん!」と叫んでいたような気がする。

 
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台本

2009年01月15日 | 日々のあれこれ
 たしかにさこう君の言うように、はやく台本をしあげねばならないのはわかっている。
 でも例年のペースだと2月もなかばをすぎて、せっぱつまってはじめて筋がおりてくるのだ。
 内田けんじ監督は、「アフタースクール」の脚本に3年かかったというではないか。
 って言い訳ですね。
 何事も早めに取り組めと言っている以上、そろそろ自分にはっぱをかけたい。
 ボーナス効果というのがあって、この仕事をしあげたら○○を買っていい、○○をしていいというようにマイご褒美を設定すると、モチベーションが持続するという。ニンジン作戦とも言う。
 勉強も同じで、この問題集を2ページやりおえたら30分ゲームやっていい、というように設定するのだ。ここまで終わったらケーキ買ってたべていいとか。
 何か自分にニンジンを設定しようかと思ってみたが、四十数年も幸せに生きさせていただいていると、手頃なニンジンというのはないものだと思う。住むところにも困ってないし、車もあるし、タキシードも買った。
 何より仕事があるということを喜ばないわけにはいかない。
 ほんとうに欲しいものはと言われたら、肌のツヤとかコシのある髪とかになってしまう。ぎゃくにいらないものでシワとかシミとかすぐ思い浮かぶ。
 ほしいものがすぐに具体的に思い浮かぶのが若者で、捨てたいものがすぐ思い浮かぶのが年配者という定義を思いついた。
 
  
 
 


 
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