水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

俳優亀岡拓次

2016年01月31日 | 演奏会・映画など

 

 俳優の亀岡拓次は、知る人ぞ知る名脇役だ。
 だから、知らない人は知らない。
 「知る人」といっても業界筋の人が知っているということであり、一般人にとってはせいぜい「そう言われれば見たことがある」程度の知られ方だ。
 B級俳優といっていいかもしれない。しかしB級のなかにも一流と二流以下がある。
 一般にB旧グルメと称さられる庶民的な食べ物、たとえばラーメン一つとっても、すべての面で一流と呼んでいいお店もあれば、同じ750円とは思えないほど志の低い一杯を出す店もある。
 亀岡拓次は、B級ではあり、しょせん自分はA級ではない、主役をはる役者ではない、そこまでの野望もないと自覚し、あらゆるオファーをこなす。
 今日は流れ弾にあたって死ぬ浮浪者、明日は時代劇の泥棒役、スナックでフィリピーナを口説く役、やくざに殴られる旅館の番頭さん … 。
 本人がどこまで意図的にしたことかはわからないものの、結果的にミラクルとよばれるような仕事をも時にはする … という役者の物語だ。
 演じるのは安田顕。
 顔をみれば、「あ、この人ね、あれに出てたっけ」ぐらいに思われるのが一般的な感覚ではないだろうか。
 もちろん、二流でもB級でもない方だ。
 でも、安田さんの存在感は、役柄の「亀岡拓次」と重なってしまい、このへんは素のママなんじゃないかと思ってしまうくらい自然なのだ。
 だから、全編を通して、そんな大きなドラマは起きない。波瀾万丈の人生は描かれない。
 事件と言えば … 、スペインの有名な映画監督にオーディションを受けろと言われることだろうか。
 舞台に上がることになり、憧れの大女優とエロい芝居ができたことだろうか(それにしても、三田佳子さまは昔から「女優」の役がほんとに上手)。
 一番の事件は、地方ロケに出てたまたま入った居酒屋にきれいなおかみがいたことだ。
 麻生久美子さんがいるほどの奇跡は普通ないが、「あの店のママさんきれかったなぁ」と、後でしみじみ思い出すぐらいの事件なら、人生のなかに起こっても不思議ではない。
 ママさんといい感じで話がはずみ、そのママは出戻りの独り身で、なんていう境遇を知れば、いつしか自分の台詞における口説き比率が高くなるのも普通だろう。
 「またぜったい来てね」「今度は花束もってくるよ」という言葉のやりとりを、女性はかるいやりとりのつもりでも、男の99%は本気だととらえる。
 その絶妙なリアルさが全編にただよっていて、安田さんへのそれなのか、亀岡拓次という男へのそれなのか、いやおそらく観ている自分の対するものであろう愛おしさがこみあげてくる。
 未来と夢のかたまりのような高校生が観ても、感動する作品ではないのかもしれない。
 味わい深いなあとしみじみした自分を感じたとき、齢を重ねてきたこともわるくはないなと思えた。

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川越市合同演奏会

2016年01月30日 | 演奏会・映画など

 

川越市吹奏楽連盟 第11回合同演奏会

 会  場 川越市やまぶき会館

 日  時 1月30日(土) 11:00開演 16:15終演

 演 奏 曲 M.ルグランの世界  メイク・ハー・マインBrassRock

  ご来場ありがとうございました!!

 

コメント (2)
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合同な日

2016年01月30日 | 日々のあれこれ

 

 まあ雨だし、たいしたことにはならないだろう、こっちの人はホントニ少しの雪で大騒ぎしすぎだよ、積もらないよと思って寝て、起きたら車を出せなくなってて、電車で行こうとしたら乗れなくて、休校になったことを知りラッキー! 教員も休みでしょ、てか行けないもんねと思って自宅に帰ってたら、何してんの、みんな来てるよと電話かかってきた … のは、二週間前のことだった。
 さいわい、無理に来いとは言われず、ずっと来なくていいとも言われなかったから助かったものの、雪を甘くみてはいけないと思い直した2016年の冬。
 今日は何があってもちゃんと対応するつもりでいて、目覚めたとき窓の外を見て安心した。
 シャワーをあびて車を出して、山田うどんに寄って、玉子かけ朝食(260円)に冷や奴(160円)で腹ごしらえする。こうすると冷や奴についてくるかなり大量の刻みネギとかつお節を、玉子かけ御飯の上に載せることができ、そのおいしさといったら、日本人に生まれたことを感謝したくなるのだ。
 聞いた話だけど、欧米の方は生卵はムリらしい。なので、「ロッキー(1)」でシルベスター・スタローンが生卵をジョッキに五個ぐらい入れてのみ込むシーンでは、映画館内から悲鳴があがったんだって。
 山田うどんさんは、土日祝日は朝七時から営業するので、こうしてここぞという日は利用させてもらっていたが、2月からはすべての日で9時開店となるそうだ。残念。
 登校してチラシやステージ図を確認し、楽器を積んだバンで市民会館へ向かう。
 全体のだんどりは、本田先生、中島先生に任せておけば何の問題もなさそうだったので、駐車場の整理をしていた。楽器をおろしたあと、自分だけいったん学校にもどる。スキー実習の説明会があったからだ。
 体育科からの説明のあとマイクをいただき、「純粋な遊びで行くのではないですよ、社会性を身につける貴重な機会と考えて取り組んでください。食べ放題だからといってポテトを独り占めしたり、部屋を自宅と同じようにちらかしまくったりしてはいけません … 」という話をし、会場にもどった。
 城北埼玉さん、川越一中さん、今成小学校さんなどの充実した演奏を聴いて感想を書き、自分たちの準備に向かう。チューニング室にハーモニーディレクターまで置いてある。プレーヤー目線と指導者目線の両方を持ってらっしゃる方にだんどりしてもらう会は実に動きやすい。
 来年のこの会はウエスタ川越開催で、私めがまとめ役になる予定なので、記憶しておきたい。
 演奏を終えて片付けしたあとは、さすがに客席は一杯で入れなかったので、星野さんのスペシャルメドレーは外で聞いた。ますますパワーアップしてるのではないだろうか。
 「ビリーブ」の全員合唱は扉付近で、ドア係をやってくれてた城北の生徒さんと歌った。男子高勢だけでも次回はハモりパートを歌わせたい。
 学校にもどりながら、片付けチームのメンバーと今後のことを少し話をした。
 今日の演奏は、いいところも悪いところもあった。
 定期演奏会に向けての課題を、次のミーティングで確認しておこう。
 本番の日は、なんとなく昼食を食べないままのことも多く、夕方ご褒美もかねてラーメン屋さんでも行こうかという気分になる。そしてそんな時真っ先に思い浮かぶのが、いや近年はここしか思い浮かばないのが、南古谷駅前の「みかみ」さんだった。
 どうしたのだろう、何があったのだろう。閉店ではなく改装でしたよと、復活したりする日は来ないのだろうか。年のはじめにこんな大きな喪失感を抱かせられる事態に遭遇するとは思いもよらなかった。

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朝で決まる(2)

2016年01月29日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「朝で決まる(2)」

 

 人間の脳が最も効率よく働き、習ったことをぐんぐん消化できる午前中の時間帯。
 この時間に脳が働くようにするためには、必要な睡眠時間を確保しなければならない。
 ただ、個人差があるのは事実だ。6時間で十分な人もいれば、8時間寝ないとすっきりしない人もいるだろう。「明日のために寝よう!」と意志をもって蒲団に入る場合と、なんとなく「眠くなったら寝よう」というテンションの場合とでは、眠りの質にも差が生まれる。
 世の中の「成功者」と呼ばれる人は、ほとんどが早寝早起き型だ。
 規則正しい生活をする人、朝型で勉強したり働いたりする人が成功しやすいことは、科学的には当然の結果であると、脳科学者の中野信子先生は述べられる。


 ~ 私たちの体には、はっきりと確認されているものだけで25種類もの神経伝達物質がありますが、このなかに安心感や安らぎなどのしあわせ感をもたらしてくれるものがあります。そのひとつがセロトニンです。セロトニンは心のバランスを整え、安心感をもたらすために、しあわせホルモンなどとも呼ばれます。「運をよくする」ためには必須の物質、ともいえるでしょう。
 セロトニンは、不規則な生活を送っていると、出にくくなってしまいます。早寝早起きの、規則正しい生活を送ることが大事というのは、この点からもいえることなのです。
 … 睡眠時にはメラトニンという物質が上昇します。メラトニンは、良質な睡眠をつくり出すとともに、体の中の活性酸素を分解し、抗ウイルス作用を強めるなど、体を守り、老化を防止するのにも役立つ重要なホルモンです。
 そしてこのメラトニンは、脳の松果体でセロトニンからつくられます。つまり、セロトニンがしっかり分泌されていないと、メラトニンも減ってしまうのです。
 セロトニンは、朝の自然光を網膜が感じると分泌されます。そしてセロトニンが分泌されはじめた15時間後にメラトニンが分泌を開始するのです。
 つまり、セロトニンとメラトニンを十分に分泌させるためには、もともと体に備わっているサーカディアンリズムにのっとった生活をすること、すなわち朝は早めに起きて朝日をしっかり浴び、夜は早めに就寝することが大事なのです。
  … セロトニンはお風呂に入っているときなどリラックスした状態のときに分泌されることもわかっています。さらにセロトニンがつくられるためには適度な運動も必要です。
 つまり、早寝早起きをして、適度な運動をする、ゆっくりお風呂に入ってリラックスする、というある意味オーソドックスな規則正しい生活が、セロトニンの分泌を促すのです。 (中野信子『科学がつきとめた「運のいい人」』サンマーク出版) ~


 さわやかに起きて、登校して、授業を集中して受けて、体育や芸術の時間も積極的に取り組んで、放課後は部活をして、帰宅後は、御飯を食べて、授業の復習をして、お風呂に入って、暗記ものの勉強をして、寝る。何でもない日常を規則正しく繰り返すことは、科学的に見ると、最も「運のいい人」になる状態、目標に向かって進んでいる状態なのだ。

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「富嶽百景」の授業(5) 二段落 第二場面

2016年01月27日 | 国語のお勉強(小説)

 

二段落 〈第二場面 三ッ峠〉

 

 私が、その峠の茶屋へ来て二、三日たって、井伏氏の仕事も一段落ついて、ある晴れた午後、私たちは三ッ峠へ登った。三ッ峠、海抜千七百メートル。御坂峠より、少し高い。急坂を這うようにしてよじ登り、一時間ほどにして三ッ峠頂上に達する。蔦かずらかき分けて、細い山道、這うようにしてよじ登る私の姿は、決して〈 見よいものではなかった 〉。井伏氏は、ちゃんと登山服着ておられて、軽快の姿であったが、私には登山服の持ち合わせがなく、ドテラ姿であった。茶屋のドテラは短く、私の毛ずねは、一尺以上も露出して、しかもそれに茶屋の老爺から借りたゴム底の地下足袋を履いたので、我ながらむさ苦しく、少し工夫して、角帯を締め、茶店の壁に掛かっていた古い麦わら帽をかぶってみたのであるが、いよいよ変で、井伏氏は、人のなりふりを決して軽蔑しない人であるが、このときだけはさすがに少し、気の毒そうな顔をして、男は、しかし、身なりなんか気にしないほうがいい、と小声でつぶやいて私をいたわってくれたのを、私は忘れない。とかくして頂上に着いたのであるが、急に濃い霧が吹き流れてきて、頂上のパノラマ台という、断崖のへりに立ってみても、いっこうに眺望がきかない。何も見えない。井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰を下ろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた。いかにも、つまらなそうであった。パノラマ台には、茶店が三軒並んで建っている。そのうちの一軒、老爺と老婆と二人きりで経営している地味な一軒を選んで、そこで熱い茶を飲んだ。〈 茶店の老婆は気の毒がり 〉、本当にあいにくの霧で、もう少したったら霧も晴れると思いますが、富士は、ほんのすぐそこに、くっきり見えます、と言い、茶店の奥から富士の大きい写真を持ち出し、崖の端に立ってその写真を両手で高く掲示して、ちょうどこの辺に、このとおりに、こんなに大きく、こんなにはっきり、このとおりに見えます、と懸命に注釈するのである。私たちは、番茶をすすりながら、〈 その富士を眺めて、笑った。 〉〈 いい富士を見た。 〉〈 霧の深いのを、残念にも思わなかった。 〉

Q12「見よいものではなかった」私に、井伏氏はどう対応したか。該当する部分を45字以内で抜き出し、最初と最後の3文字づつを記せ。
A12 男は、~くれた

Q13 井伏氏の人柄が類推できる部分を抜き出せ。
A13 井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰を下ろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた。いかにも、つまらなそうであった。

Q14 井伏鱒二の人柄を、「私」はどのようにとらえているか。
A14 細かいことにこだわらず自然体でふるまう、超然とした人物
     ↓
   世俗の価値観から自由な人物であり、憧れと尊敬の対象

Q15 それに対して、(1)「私」の人柄はどのようなものかはどうか。(2)それはどの部分からわかるか。
A15(1)他人からどう見えるかを気にしてしまう。
  (2)決して見よいものではなかった
     我ながらむさくるしく いよいよ変で

 ☆ 人物像も「私」との対比で考える


 井伏氏 
  具 ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた
    つまらなそうであった
  抽 他人の目を気にしない        =世間の目を気にしない
    こまかいことにこだわらない   超然
   ↑
   ↓         ↑  あこがれ・尊敬
 「私」
  具 見よいものではなかった
      我ながらむさ苦しく・少し変
  抽 他人の目を気にする         =世間の目が気になってしょうがない


Q16「茶店の老婆は気の毒がり」とあるが、なぜか。(50字以内)
A16 せっかく三つ峠まで登ってきたのに、急に出た濃い霧のせいで
   富士山の眺望がきかなくなってしまったから。

Q17 老婆の懸命さが表現されている一文を抜き出せ。
A17「茶店の老婆は気の毒がり、本当にあいにくの霧で、もう少したったら霧も晴れると思いますが、富士は、ほんのすぐそこに、くっきり見えます、と言い、茶店の奥から富士の大きい写真を持ち出し、崖の端に立ってその写真を両手で高く掲示して、ちょうどこの辺に、このとおりに、こんなに大きく、こんなにはっきり、このとおりに見えます、と懸命に注釈するのである。」

Q18 この一文は、(1)何を、(2)どのように描いているのか。
A18(1)峠から見える富士の見事さをなんとしても伝えたいという懸命さと伝えきれないもどかしさを、
  (2)文を切らずに、たたみかけるような表現で描写している。


事件 見えない富士を説明する老婆の懸命な姿を見る
 ↓
心情 いい富士を見た 残念じゃない
 ↓
行動 笑った


Q「その富士を眺めて、笑った」について

Q19「その富士」とはどの富士か。(20字以内)
A19 茶店の老婆が高々と掲げた写真の中の富士。

Q20「笑った」のはなぜか。(60字以内)
A20 写真を持ち出してまで見えない富士の姿を説明する老婆の様子が、
   あまりにも一生懸命で、その純粋な真心がうれしかったから。

Q21「霧の深いのを、残念にも思わなかった」とあるが、なぜか説明せよ。(60字以内)
A21  霧が深くて富士山が見えなかったからこそ、
   懸命に富士の様子を説明してくれる
   老婆の真心に触れることができたと思ったから。


 井伏氏・私 作家 (超世間・反世間の存在)
  ↑
  ↓
 茶店の老婆 一般人 (世俗を生きる人)


Q22「いい富士を見た」と述べる「私」の思いとはどのようなものか。
A22 世俗を生きる老婆の、何の他意もない善意にふれたことへの感慨

 ☆ 三つ峠の富士(B) … 世俗の人の心に触れた、いい富士

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「富嶽百景」の授業(4) 二段落 第一場面

2016年01月27日 | 国語のお勉強(小説)

 

二段落 〈第一場面 御坂峠〉

 昭和十三年の初秋、(※)思いを新たにする覚悟で、私は、かばん一つさげて旅に出た。
 甲州。ここの山々の特徴は、山々の起伏の線の、変にむなしい、なだらかさにある。小島烏水という人の『日本山水論』にも、「〈 山の拗ね者 〉は多く、この土に〈 仙遊 〉するがごとし。」とあった。甲州の山々は、あるいは山の、げてものなのかもしれない。私は、甲府市からバスに揺られて一時間。御坂峠へたどり着く。
 御坂峠、海抜千三百メートル。この峠の頂上に、天下茶屋という、小さい茶店があって、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、籠もって仕事をしておられる。私は、それを知ってここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないようなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思っていた。
 井伏氏は、仕事をしておられた。私は、井伏氏の許しを得て、当分その茶屋に落ち着くことになって、それから、毎日、いやでも富士と真正面から、向き合っていなければならなくなった。この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当たっていて、北面富士の代表観望台であると言われ、ここから見た富士は、昔から富士三景の一つに数えられているのだそうであるが、私は、あまり好かなかった。〈 好かないばかりか、軽蔑さえした。 〉あまりに、おあつらい向きの富士である。真ん中に富士があって、その下に河口湖が白く寒々と広がり、近景の山々がその両袖にひっそりうずくまって湖を抱きかかえるようにしている。私は、ひと目見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書き割りだ。どうにも注文どおりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった。

※ 思いを新たにする覚悟 … 内縁の妻の不義密通を知った事件をふまえる

Q7「山の拗ね者」とあるが、どういう様子を「拗ね者」(素直ではなく、ひねくれている者)と評しているのか。20字程度で抜き出せ。
A7 山々の起伏の線の、変にむなしい、なだらかさ(21字)

Q8「仙遊」の「仙」と反対の意味をもつ漢字一字を一段落から抜き出せ。
A8 俗

甲州の山々 … むなしいなだらかさ
         ∥
       拗ね者・げてもの
   ↓
 私も … 仙遊(俗世間を離れ悠々とすごす)

事 御坂峠から富士を望む
    ↓
心 好かない・軽蔑・恥ずかしい
        ↓
行 狼狽・顔をあからめる

御坂峠から見る富士山
     真ん中に富士・その下に河口湖・近景の山々が両袖に
      ↓
 世間 北面富士の代表・富士三景の一つ
  ↑
  ↓
「私」 おあつらい向き・注文どおり
    風呂屋のペンキ画だ。芝居の書き割り
      ↓
    軽蔑・恥ずかしい

Q10「好かないばかりか、軽蔑さえした」のはなぜか。(30字以内)
A10 あまりにも注文どおりの景色で、通俗そのものと思えたから。

Q11 この部分から何が読みとれるか。

 ☆ 御坂峠の富士(A) … 嫌悪感をもよおす通俗的な富士
A11 世間の価値観を安易に認めない「私」の姿勢

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「富嶽百景」の授業(3) 一段落

2016年01月26日 | 国語のお勉強(小説)

 

  「富嶽百景」の授業(3) 一段落


 富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらい、けれども、陸軍の実測図によって東西および南北に断面図を作ってみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの〈 絵の富士 〉は、鋭角である。頂が、細く、高く、華奢である。北斎にいたっては、その頂角、ほとんど三十度くらい、エッフェル鉄塔のような富士をさえ描いている。けれども、〈 実際の富士 〉は、鈍角も鈍角、のろくさと広がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。たとえば私が、インドかどこかの国から、突然、鷲にさらわれ、すとんと日本の沼津辺りの海岸に落とされて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだろう。ニッポンのフジヤマを、あらかじめ憧れているからこそ、ワンダフルなのであって、そうでなくて、〈 そのような俗な宣伝 〉を、いっさい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、はたして、どれだけ訴え得るか、〈 そのことになると、多少、心細い山である 〉。低い。裾の広がっているわりに、低い。あれくらいの裾を持っている山ならば、少なくとも、もう一・五倍、高くなければいけない。


Q1 この部分で対比されているものは何と何か。
A1 絵の富士と実際の富士

Q2「絵の富士」は、富士をどのような山として描いているか、10字で抜き出せ。
A2 秀抜の、すらと高い山

Q3「実際の富士」はどういう山だと「私」はとらえているか。本文の語を用いて15字以内で記せ。
A3 裾が広がっているわりに低い山。

Q4「そのような俗な宣伝」とはどのようなものか。(60字以内)
A4 日本を象徴する屈指の山として、秀抜ですらりと高い富士山のイメ
   ージが作り上げられ、世間一般に広げられたもの。

〔別〕見た人がみな「ワンダフル」と無条件に賞賛する富士のイメージが
   、現実とは異なって作られ、世間に流布しているもの。

Q「そのことになると、多少、心細い山である」について

Q5「そのこと」とは何か。(30字程度)
A5 何の先入観もなく富士を見た人が、感動する山かどうかということ。

Q6「そのことになると、多少、心細い山である」と言うのはなぜか。(60字以内)
A6 先入観を持たずに富士を見た場合、世間一般で評価されているほど
   の感動を生み出す山ではないと、「私」は見ているから。

 

絵の富士 … 具 広重・文晁・北斎
           ∥
        鋭角・高い・華奢(か細い[+イメージ〕)
        秀抜の、すらと高い山
           ↓
        ワンダフルなフジヤマ(=俗な宣伝) ※ 世間の視点
  ↑
  ↓

実際の富士 … 具 陸軍の実測図
         裾が広がっているわりに低い  
          ↓
         心細い山  ※「私」の視点

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朝で決まる

2016年01月26日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「朝で決まる」


 先週の大雪の翌日、スクールバスで登校した。朝、上福岡のバス停の列に並び文庫本を読もうと取り出してふと見ると、つまり上福岡一号車を待つ皆さんを見ると、ただ立って待っているだけの人がいることに気づいた。時間、もったいなくね? その日は、英単語のテストもあったはずだ。余裕で全部覚えている人がいるわけないことは、よく知っている。バスの待ち時間とか、車内は、単語や例文を覚える最適時間だ。
 より効果的なのは、前の晩に勉強したことを確認する時間として使うことだ。


 ~ 勉強には大きく分けて二つある。考える勉強と、憶える勉強だ。
 考える勉強が上で、憶える勉強が下というわけではない。
 どちらも役割が違うだけで、どちらも大切な勉強なのだ。
 ただそれらを習得するタイミングを誤ると、単に「自分の頭が悪いからだ」という、一番わかりやすくてお手軽な理由に逃げてしまう。
 考える勉強は、心身がリフレッシュしているタイミングで行うことだ。
 憶える勉強は、心身がやや疲れ気味である「寝る直前」に行うことだ。
  … さらに、あなたが突出できる後押しをしたい。
 朝起きて、寝る前に憶えたことを1分でいいからサッと復習することだ。
 復習というよりも、目を通して確認するのだ。
 1割や2割の記憶の漏れがここで完璧に修繕される上に、それ以外の記憶もより強固なものになるのだ。
 あとは通学時間やテスト前の休憩時間にリラックスしてぼんやり眺めておくだけで、ほぼパーフェクトの結果が出るだろう。 (千田琢哉『人生の勝負は、朝で決まる』Gakken) ~


 真逆の方法も書いておこう。
 試験の直前に必死で一気に暗記しようとする。そして徹夜明けの頭で試験に臨む。
 結果として、試験が始まる段階ですでに記憶はあいまいなものになっているばかりか、試験が終わるとすぐに、忘却の彼方に去ってしまうだろう。
 日常生活においても、例外的な体質を持つ何%か以外の人にとっては、夜更かし型の勉強は効果が低いのだ。
 寝る前に暗記物を中心に勉強し、朝のフレッシュな頭でしっかり考える問題を解く。
 登校してからに午前中の時間帯は、最も思考に適した時間帯だ。
 睡眠時間をけずると、この一番重要な時間帯、つまり授業中にぼおっとすごすことになる。
 授業中に居眠りする人が例外なく結果を残せないのは、授業の過ごし方だけの問題ではなく、一日の時間の使い方、大げさに言うと高校生活の「生き方」そのものに問題があるからだ。

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「富嶽百景」の授業(2) 太宰治が生きた時代

2016年01月25日 | 国語のお勉強(小説)

 

1 明治維新に始まる近代化への歩みは、西欧の制度やもの考え方を一気に日本に取り入れようとする形として具現化されていった。
 制度は変わっても、人々の頭のなかは容易に変わらない。
 たとえば「平等」という概念が言葉で伝わったとしても、その内容を実感できた人は少ないだろうし、現実の世の中の様相とはかけ離れている。
 「へぇ、西洋にはそんな考えがあるらしい」と他人事のようにとらえる一般人には特に問題はない。
 しかし、その思想を知り、「すべての人は平等であるべきだ」と思いこんでしまった知識人にとって、現実の日本の世はきわめて理不尽にうつったことだろう。
 キリスト教を前提にした西欧独特に一つの考え方にすぎないと、相対化できた知識人は少なかったはずだ。これは今もそうだが。
 新しい考え方を本気で取り入れようとする人々は、現実と理論のかけ離れた状態に苦悩することになる。


 ~ 阿部謹也「個人と世間」

 我が国においては個人は長い間西欧的な個人である前に自分が属する人間関係である「世間」の一員であった。したがって何らかの会合において発言する際には個人としての自分の意見を述べる前にまず自分が属する「世間」の利害に反しないことを確認しなければならない。まず「世間」人として発言しなければならなかったのである。自分自身の意見は本音として「世間」の蔭に隠れていた。「世間」を代弁する発言はこうして個人にとっては建前となり、本音と区別されたのである。こうして「世間」と個人の関係の中で我が国における建前と本音の区別が生まれたのである。
 このような建前と本音の違いがくっきりとした輪郭をもって現れたのが明治以降の我が国のあり方、特に近代化、西欧化との関係の中においてであった。明治政府は欧米の近代化路線を採用することを決めた。しかしその際に真の意味で我が国を欧米化することが考えられたわけではなく、少なくとも社会構造や政府機関の組織、軍制や教育などの面での近代化が考えられていただけである。制度やインフラストラクチャー(組織などの下部構造)の面での近代化にすぎず、西欧精神の面にまで視線が届いていたわけではなかった。つまり表面の近代化に過ぎず、精神の面では旧来の路線の上ですべてが考えられていたのである。
 … こうして建前と本音の世界の区別が生まれたのである。人々は公的な発言をする際には常に欧米流の内容を主として発言し、公的な場を離れたときには自分の「世間」に即して本音でしゃべったのである。明治以降我が国はこのようにして理念の世界と本音の場の世界との二つの極をもつことになり、特に知識人の場合はその相克は深刻なものがあった。 (阿部謹也『教養とは何か』より) ~


2 文学も近代化した。
 色恋沙汰や勧善懲悪を主眼とする江戸時代の娯楽としての文学から、人間の現実を描こうとする芸術としての文学が模索された。
 言文一致、写実主義、自然主義という文学の潮流が生まれる。
 近代国家において、人々は、藩、村、家の呪縛から解放され個人として尊重されるようになるはずだった。
 しかし現実には、制度や組織が変わっても、日常においては、人は昔ながらの人付き合いをしながら暮らしていく。
 理想と現実の間に生まれた葛藤や苦悩を、そのまま描こうとするのが近代小説である。
 明治後半、産業革命が進み、資本主義社会として巨大化していく日本において、社会と個人との間に生まれる軋轢は益々大きくなる。
 社会側を糾弾しようとするするプロレタリア文学、徹底して個人を掘り下げようとする私小説の二方向に、文学が大きくかじをとったのは、時代の必然だった。

3 明治の終わり、青森の豪農に生まれた太宰治は、なまじ頭がよかったゆえに、近代国家へと歩もうとする日本社会に生じている歪みをわがことのように感じたのであろう。
 今なら「中二病か?」と相対化し、いろんな昇華の方法を探しえたかもしれない。「近代的自我」を本当に持ってしまったがために、持ち得ない一般人の苦悩まで含め、すべてを背負ってしまった作家であると言える。


近代社会の論理
 藩・村・家・血族など = 前近代的なしがらみ(桎梏・くびき)
    ↓解放
  個人・自我

現実の社会
 従来通りの人間関係 = 村社会・世間
    ↓しばられたまま
 従来通りの存在(誰それの子ども、どこそこの誰 … )

  個人  ←→  世間
    理想 ←→ 現実
    ↓
   葛藤・苦悩  → 近代文学


太宰治 1909(明42)年~1948(昭23)年
 青森県津軽地方の豪農の家に生まれ、幼い頃から文才を発揮する。
 東大仏文科中退。井伏鱒二に師事し、戦後は坂口安居、織田作之助と交流を深めた。
 作品に、「晩年」「富嶽百景」「女生徒」「駈込み訴え」「走れメロス」「故郷」「斜陽」「人間失格」など、自らの経験に材をとった小説を書いた。

私小説(ししょうせつ/わたくししょうせつ)
 作者が直接に経験した事柄を素材にして書かれた小説。
 一人称「私」の視点で世界を描写し、その内面を描く。

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「富嶽百景」の授業(1) 太宰治の年譜

2016年01月25日 | 国語のお勉強(小説)

 

太宰治 1909(明42)年~1948(昭23)年

1909年(明治42年)青森県、津軽郡金木村の大地主、津島家の六男として生まれる。父の源右衛門はのちに貴族院議員をつとめ金木の殿様と称された。

1916年(大正5年)7歳。尋常小学校入学。

1923年(大正12年)14歳。父親が死去し、長兄が家督を継ぐ。青森中学校に入学。

1925年(大正14年)16歳。校友会誌に最初の創作を発表。友人と同人誌をつくり、数々の作品を発表する。

1927年(昭和2年)18歳。弘前高等学校に入学。敬愛する芥川が自殺し衝撃を受ける。学業をおろそかにし、花柳界に出入りし、15歳の芸妓小山初代と知り合う。

1929年(昭和4年)20歳。左翼思想に傾倒する。自殺未遂。資産家の子という自己の出身階級への悩みか。

1930年(昭和5年)21歳。東京帝国大学仏文科入学。井伏鱒二に師事。左翼運動にも関わる。芸妓の小山初代を出奔させ上京させる。カフェの女給の田部シメ子と鎌倉で心中をはかるが、太宰のみ生き残る。

※ 心中(しんじゅう) … 男女がお互いの心の真実(まこと)を誓いあい、その究極の形として死を選ぶこと

1931年(昭和6年)22歳。小山初代と暮らし始める。

1932年(昭和7年)23歳。非合法活動から離れ、執筆に専念する。

1933年(昭和8年)24歳。卒業できず留年。「魚服記」「思い出」

1935年(昭和10年)26歳。都新聞の入社試験に失敗。鎌倉で自殺未遂。第一回芥川賞候補になるも落選。「逆光」「道化の華」
                               
1936年(昭和11年)27歳。薬物依存を治すために入院。「晩年」

1937年(昭和12年)28歳。入院中の妻初代の不貞を知る。谷川温泉で心中未遂。初代と離別。「二十世紀騎手」「ダスゲマイネ」「虚構の彷徨」

1938年(昭和13年)29歳。井伏氏の勧めで天下茶屋に逗留。石原美知子と婚約する。

1939年(昭和14年)30歳。「富嶽百景」「女生徒」

1940年(昭和15年)31歳。「駈込み訴え」「走れメロス」

1941年(昭和16年)32歳。長女園子誕生。「東京八景」「新ハムレット」

1942年(昭和17年)33歳。「正義と微笑」

1943年(昭和18年)34歳。「故郷」

1944年(昭和19年)35歳。「津軽」

1945年(昭和20年)36歳。空襲をのがれ甲府に疎開、さらに津軽に移る。終戦。「御伽草子」「惜別」

1946年(昭和21年)37歳。妻子とともに三鷹の自宅に帰る。坂口安吾や織田作之助と交流を深めた。「パンドラの匣」

1947年(昭和22年)38歳。次女の里子(津島佑子)誕生。長兄文治が青森県知事に就任。『斜陽』がベストセラーになる。愛人太田静子との間に娘(太田治子)が誕生し認知する。山崎富栄と出会う。「トカトントン」「ヴィオンの妻」「斜陽」

1948年(昭和23年)39歳。過労と乱酒で結核が悪化。山崎富栄と玉川上水に入水する。6月19日に遺体が発見された。「桜桃」「人間失格」「グッド・バイ」

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