12月31日。東京駅でおみやげを買って、米原まわりで帰省。
さすがにこの時期は、ほくほく線回りのキップを買おうという気にならないが、来年からは北陸新幹線を使える。東京起点で福井までの工程を比較すると、東海道新幹線と北陸新幹線の大きな違いはない。
でも大宮から乗って金沢まで約2時間、特急の接続も設定されるだろうから、埼玉県から福井方面に向かうには、便利になるはずだ。
東京駅構内は人でごったがえしている。ただ、中心部から少しはなれると閑散としてくる。
時間的余裕があったので、八重洲地下のすいてるカフェでサンドイッチをつまみながら少し本を読み、おもむろにおみやげを買いまくり、新幹線に乗る。
そんなに間際にとったキップではないのに、B席だった(3人がけの真ん中)。両側の方々とも自己主張の強いタイプらしく肘掛けが使えないではないか。座って帰れるのだから、ぜいたく言ってはいけないが。
米原でしらさぎに乗り継ぎ、芦原温泉駅へ。弟に向かいに来てもらい、雪道を走る。
帰省の際には必ず用意してもらえるムツの照り焼きでビールを呑みながら、両親と紅白歌合戦を観る。じっくり聴きたい歌のときにかぎって歌手の悪口などを言い出す父に内心いらっとしながら、あいずちをうつ。ありがたいことである。
それにしてもV6さんのふるまいは立派だ。業界で確固たる地位を築いている方々なのに、低姿勢で先輩方を立て、初出場を感謝する。若い歌手達は勉強になるのではないか。むしろ、えらそうなベテランが学ぶねきかもしれない。相変わらず、NHKの制作側は、出場歌手に対するリスペクトが足りない。ていうか「歌謡曲」系の歌手に対して。一方で「アーティスト」系の人たちにはへいこらする。
どちら側に属するか微妙な位置にいる西野カナさんはよかった。
今年の好きな歌ベスト10に入る「ねえダーリン」を歌ってくれたし。
基本的に洋物ミステリーは、人物の名前を覚えられないので読まないが、あまりに世評が高いので読んでみた。
三部構成の第一部は、アラサーの美しい女性が、パリ市街の路上で何者かに拉致されるところから始まる。
全裸にされ手足が伸ばせない状態で木箱に閉じ込められ、ロープで吊される。わずかな隙間から水とドッグフードが供給される。
なぜ女はこんな目にあうのか、監禁しているのは誰かという疑問とともに、早く警察に発見してほしい、助けてあげてほしいとの思いがマックスになる。警察がやっとめぼしをつけて追い込んだ犯人は、追跡の途中、ハイウェイの高架から身を投げて死んでしまう。
えっ? いったい、この先どうなるの。まだ三分の一なのに。
女の素性があきらかになる第二部、さらに展開する第三部。ほんとはもう少し筋を書きたいが、これから読まれる方がいるやもしれぬ。
話はけっこうえぐいけど、まさに「巻を措く能はず」(おもしろすぎてやめられない)、世評の高さに心から納得した。
昨日ジュンク堂で英語版を見かけたので、最初のページを開いてみたら、なんとなく読めそうな気がした。印象的な場面が頭に残っているからだろう。原文のフランス語をさらに英訳したものだからでもあるかな。勉強になると思い、買ってみた。なんたってグローバルな人なので。
3年生たちが必死こいてセンター英語やっているのに、趣味的な感覚で恐縮だが、帰省の電車の中でかっこよく読んでみようと思う。
センターが終わるまでは、添削も自然にお休みになるが、今年もそれなりに赤ペンを入れた。
予備校の先生みたく、毎年やっていれば日常化できるのだが、どうしても三年に一度の仕事になってしまう。
木野目交差点のマクド、ウニクスのフードコート、タリーズ、川越街道沿いのドトール、星野珈琲エキア川越店さんには随分お世話になった。
今年やった分をきちっと蓄積しておくシステムが自分の中にあればいいのだが、その構築にかける時間と、教員生活そのものの残り時間とのバランスを考えないといけなくなってきた。いいかな、次もいきあたりばったりで。
今年の指導を反省してみると、「問題を結果ととらえる発想」を、もっと意図的に持たせるべきだったと思う。
与えられた「問題」を、そのまま「問題」として考えたとき、生徒さんはすぐに「答え」を書こうとする。
しかし、小論文の課題として出される「問題」に解決策などない。
ないからこそ、今「問題」として横たわっているのだ。
環境問題、少子高齢化問題、格差社会問題 … 。
いじめ、TPP、終末期医療、SNS依存、遺伝子治療、介護と福祉 … 。
どれも、高校生が1時間考えて、800字で解決策がみつかるはずがない。
問題をどういうものととらえたか、どれほど自分のこととして受け止められたかを、書くべきなのだ。
目の前にある問題は、2014年にふってわいて起こったものではない。
戦後の日本が、または近代化し続けたこの社会が、結果として受け取った姿だ。
こうしよう、こうつくろうとして、その通りになった事態を「問題」とよんでいるのだから、「問題」とかよばれてしまった方も、「え? だめなの?」と心外だという顔をしてるのではないだろうか。
「日垣隆メールマガジン」にこんな文章があった。
~ 私個人にとって少子化は「問題」ではありませんし、子どもを増やすように多くの夫婦を説得する自信もなければ、やる気もなく、そんな「努力」をする意味も必要性も感じない。むしろ世界の貧国での人口爆発のほうが大問題だと考えています。 ~
「問題」とあったら、誰にとっての? という発想も必要だろう。
「高齢社会」は、財務省にとっては大問題だろうが、高齢者向けの様々なサービス産業にとっては、パイが大きくなるだけだから、あからさまに喜ばないかも知れないが、今後益々勝負! と思ってる経営者もいるにちがいない。
大学の先生にとっては、「少子化」は疑うべくもない問題だ(あ、自分にもだった)。
見方を変えて、本当にそれが問題なのだろうかという発想までできてはじめて、「おっ」と思わせる小論文が書けるのではないか。
ちなみに、日垣氏の言葉を敷衍してみると、「少子高齢化」を「問題」としてしかとらえられない発想は、大学の先生がすきな「グローバル」からは、ほど遠いものだと気づく。
「グローバル」か … 。
現代文や小論文の問題で、もしくは志望理由書の文章で、今年どれほど目にした単語だろう。
正直いって、いまだに何を意味して用いられている言葉なのかわからない。
たんにアメリカ的価値観をそうよぶ人もいれば、第三世界目線至上主義の人もいる。
いちばん多いのは、あまり深く考えずにとりあえず使ってみた例だったような気もする。
グローバルとか言うまえに、まずセンターの英語ぐらい普通に満点とれへんかったら話にならんやろ、とキムタツ先生はおっしゃるだろう。
さらに自分的には、外人さんと話せるのは大事やけど、日本人同士がまず挨拶できなくてどないすんねんとも言いたい。
そのへんの考え方の注入を、三学期の一つの仕事に設定しておこうと思う。
センター試験の2014年追試を配ったクラスの子が、解説的なものをほしいと言うので、「かるくつくっておくよ」と安請け合いしてちょっとだけ後悔してる。2014年の、つまり最新のと同じで、古文はやたら難しいのだ。
しかし、なぜ古文だけは東大よりも早稲田文学部よりも難しくするのだろう。
「古文はやればできる」「単語と文法をさらえば点数がかせげる」と書いてあるセンター対策本も見かけるが、近年の何題かについて言えば、それは嘘だ。大嘘だ。真に受けて時間を無駄に使う受験生がいたらかわいそう。
あ、でも、センター以外の古文は、だいたいやればできるようになる。東大二次などその典型で。
国語で9割以上取りたいと計算する生徒を除けば、古文については半分プラス勘で一問は取る、ぐらいの目標でいいのではないだろうか。それで本当に30点越えたらもうけもんだ、ぐらいで。
だから時間配分も、評論25分、小説20分、古文15分、漢文15分に設定し、5分を予備にとっておく計算がいいと思う。さらに細かいことを言うと、評論、小説から少し融通できて漢文に17、18分費やすと、一問分(7、8点)精度があがると思う。
年明けのセンターが今年以上に古文を難しくしてるとはさすがに思えないので、もし普通に読めそうなら、予備5分をすべて投入すればいい。
学校や自宅で行うセンター対策の問題演習は、必ず時間を測って解こう。
間違えた問題の原因を、なんとなくではなく「言葉化」しておこう。
「対策問題」だけでなく、必ず「過去問」そのものの復習を忘れないようにしよう。
リスニングって、たぶん毎日やってるよね。たぶん当日も聴くよね。そうしないと脳の準備が遅れるから。
国語についても、たぶん現代文も、同じ感覚があると思う。
過去問独特の、つまり予備校の先生がつくった職人的なものではなく、大学の先生が練った(ちょっと練りすぎの)選択肢の感覚に慣れて本番に臨むのがいい。
多数のご来場ありがとうございました。
保護者会のみなさま、ケーキ、お菓子ありがとうございました!
おかげさまで、年内の活動をつつがなく終えることができました。
新年もよろしくお願いいたします(_ _)
何を基準に決めているのか自分でも説明できないが、今年「最強」の女優さんは、文句なく、安藤サクラさんだったと言える。最強度第1位 安藤サクラ、2位 満島ひかり、3位 堀北真希、はゆるぎない。
「0.5ミリ」でみせた、したたかな天使像もすごかったが、なんといっても「百円の恋」での身体性は、役者さんを越えていた。
「プロのジムからも誘われた」と、「阿川佐和子のこの人に会いたい」で答えてたと記憶するが、それを読んだあとに作品を見て、心から納得した。
映画冒頭のぶよぶよの贅肉状態の体から、ボクシングきれきれ姉ちゃんシーンの撮影まで2週間だったことは、人間の体ってほんとにそんな短期間で変えられるものかと驚く。
お芝居そのもののうまさは元々言うまでもないのだが、映画にあわせてそこまで体を変えきる姿勢って、外国の役者さんではよく話をきくけど、このレベルは日本初じゃないだろうか。
バイト中に、コンビニの店内で行うシャドーを見るだけでも1800円の値打ちあると思う(テアトル会員なので1300円だったけど)。
作品自体もよくできている。サクラさんはじめ、今はやりの「格差社会」的目線で見れば、下ランクの世界に生きる登場人物たちばかりが描かれ、全編にどうすることもできない閉塞感が漂っている。その中で、ボクシングに目覚めて一歩踏み出していくサクラさんの姿を描くことで、「希望」って、もってもいいんじゃないかと、お説教臭を全く廃して語りかけてくるのだ。
「寄生獣」「百円の恋」「バンクーバーの朝日」「ゴーンガール」は、年末年始のおすすめ作品です。
「立教新座中学高校定期演奏会」は、「男祭り」会場と同じ、新座市民会館で開催された。
午前中普通に練習したあと、部員は中島先生バスで上福岡へ、自分は車で直接現地に向かう。
はやくついたので隣接する図書館で添削しようとしたら、うちの生徒さんを発見した。
演奏会は、中学の部、高校の部、合同ステージという三部構成で、各ステージにおいて楽しい曲、クラシカルな曲と混在している。「淀工方式」と言えるだろうか。
一部はクラシック、二部はポップスのように分ける学校さんの方が多いが、お客さん的には混じっていた方が聞きやすいかも知れない。よほど上手な学校さんじゃないと、一部がちょっと眠くなるのは自分だけだろうか。
それにしても、立教さんはよく「鳴る」。中学生ステージは30人もいなかったと思うが、そしてあらっぽい音もないとは言えないが、会館のうしろの方まで音がしっかりとんでくる。明らかに「男祭り」のときより上手だ。
うちの部員たちは驚いたのではないだろうか。
この子たちが受験でのブランクもなく高校にあがって続けるとしたら、新年度の戦力はますます充実する。
二部の高校ステージは、よく鳴るバンドがさらに洗練されたかんじになり、三部は二つのバンドの合同感あふれるサウンドになっていた。今年から中学・高校を完全に分けて練習している効果が見事にあらわれた演奏会だった。
それにしても、新座市民会館は響きがいい。客席の拍手の音もよくまとまって響く。
残念ながら川越市民会館はその点では劣ると言わざるを得ないが、いよいよ新年度は新しいホールが西口に完成する。でも使用料高くなるだろうなあ。部員を増やして、実力的にも新しいホールで演奏しておかしくないバンドにしたいと改めて思う。
オフィスの机に一人向かっている男。そのフロアで全体を見渡す位置にあるので、そこそこの役職という設定だろう。他の社員たちが帰ったあと、やり残した仕事を片付けてしまおうと、自宅に電話をかける。
「もしもし … 、うん、もう少しかかるから … 夕飯はいらない。先に寝てていいからね … 」
受話器をおいてため息をつく。
突然、そのデスクが崩れ始めたかと思うと、中からピエロのような格好をした男が現れる。
「お、おまえ、誰だ!」
「おいおい、つめたいねえ。忘れたのかい」
「警察よぶぞ!」
「よべばいいじゃないか。どうぞ。」
男は受話器をとるが、繋がらない。
「服、脱げ」
「え?」
「いいから、脱げよ。」
「道化」の異様な押しの強さに身の危険を感じた男は、思わずパンツ一枚になる。
「おまえの名前は今からパンイチだ」
「そのままんじゃないかよ!」
「ばか、汎神論とかの汎に、唯一無二の一だよ。いい名前だろ」
「おまえ、何が目的なんだ、オフィスでこんなことしていいと思ってんのか」
「おまえは、ここが会社に見えてるんだな。こんなものが」
と机や椅子を蹴りまくる。
段ボールで作られ組み上げられていたオフィスのセットが次々に崩れていく。
段ボールをペイントで色塗りし作られた小道具は、なかなかよくできたセットだなと、開演前に感じていた。
「こんなもんは、ただの段ボールじゃねえか!」
言葉とともに、見る側に課せられたお約束を、演じる側自身が壊していく。
あの「道化」は何を意味する存在なのかと不思議に感じているわれわれは、彼の行動の意味以上に、存在の次元を疑い始める。自分達がどの次元に身を置いて、この先お芝居を観続ければいいのか不安になるのだ。
「えっ? おれが誰かわからない? つめたいねえ。じゃ、最初からやるか」
汎一がイスに座らされると、ステージの周囲に座っていた役者さんたちが、突然大きな拍手を送る。
いったい、何が起こったのか。いぶかしがる汎一のそばに寄ってきた男女二人は、うれしそうにただ、見る。
「こんにちは … 」汎一が声を出すと「あ、何か言った」と手をたたく。
「あの、どちらさまですか」
「何か言ってるみたいよ」「なんていってるんだろうな」「かわいいなあ」
と男女が会話する。
汎一が赤ちゃんで、男女はその両親ということのようだ。
こんなふうにして、幼稚園時代、小学校、高校、大学生と汎一の人生がむりやり再体験させられるていく。
こんなだったのだろうか、自分の人生って … 。
渦中にいるときには気づきもしなかった真実や偽善を認識させられる汎一の姿が描かれる。
と同時に、見ているわれわれにも同じことがつきつけられるのだ。
中学の部活のシーンは、とくに印象的だった。
部活をやっている。しかし何部なのかはわからない。
でもみんな一生懸命練習している。部内での人間関係の葛藤なども描かれる。
運動部であることはわかる。柔軟体操やランニングを延々とやっているので(吹奏楽や演劇でも成立しそうだ)。
汎一が思いあまってキャプテン(女子)に訊ねる。
「あのお、これって何部なんですか?」
「汎一くん、何言ってるの! よけいなこと考えないで集中、集中」
「でも、何部かわからないと … 」
「それにどんな意味があるの。あたしたちは前に向かってすすんでいくだけよ」
「そうだぞ、汎一。大事なのは、みんなが一つの目標に向かって心をあわせることだ」
顧問の先生も言う。
「先生、ぼくたちは、どこに向かって進んでるんですか?」
「未来へだよ」
思わず笑うしかなかった、教員としてのこの気持ちを理解していただけるだろうか。
あまりにインパクトがあったので、数日後のチケットをすぐ予約して、二回めを見た。
イキウメさんのお芝居は初めてだったのかな。
こんな感じなんだ。今年見たお芝居はステージ上に具体物が多い系の作品が多かったので、実に新鮮だった。
抽象的ではあるが、不条理ではない。高度な象徴性も、役者さんの力量に支えられてびんびんに伝わってくる。
自分が読み取った以上の何倍もの意味が、おそらく込められてるのだろうなあと、前川知大さんを素直にすごいと思えた作品だった。
学年だより「時間割(2)」
毎日をルーティン化することは受験勉強最終期間の基本だ。
ただし「規則正しい生活」をすること自体が目的ではない。
最も効率よく成果をあげるための手段として「時間割」がある。
繰り返すが、「さて今日は何をやろうかな」と考える時間を減らすことが大切だ。
~ 「時間割」をつくって生活を「パターン化」することは、いいこと尽くめなのですが、カン違いしてほしくないのは、「時間割」は、あくまで成果というリターンを得るための時間投資であって、規則正しい生活を送ることそれ自体が目的なのではないということです。
この本で私が提案している「生活のパターン化」は、いわゆる九時~五時的な生活とは違います。単に、朝は定時にきっちり出勤し、正午になると食事に出かけ、夕方五時になれば帰宅する、というだけでは、なんのリターンも生み出せません。
そこには「成果意識」が欠如しているからです。 … 知識労働社会で求められているのは「時間内は真面目に働く」働き方ではなく、「同じ時間で、より効率的に働く」「同じ時間内で、より多くの成果を出す」働き方です。
まず「成果」というゴールありき。
それをクリアするために、俯瞰逆算スケジュールによって割り出したタスクを、確実に実行する「仕組み」が「時間割」なのです。「時間割」をつくるときに、予定と予定の間を、ラインで区切るのではなく、一つ一つの行動をボックスのように枠で囲む形にしているのも、「この時間の枠内で、より多くのことをやる」という意識の表明です。逆に、そのような意識さえあれば、オフィスに出てくる時間が五分遅れようが十分遅れようが、どうでもいいことなのです。 (本田直之『レバレッジ時間術』幻冬舎新書) ~
自分でつくった「時間割」にそって物理的にコツコツとやり続けること、そして「やってやろう」という強い精神面。勉強については、この二つがあって結果が出ないということはありえない。
ただし、期末テストの採点をしながら、まだどちらも(とくに気持ち面)足りないと感じられる答案を多々目にしたのも事実だ。
たとえば基本的な単語の意味が答えられない人がいる。簡単な年号がでてこない、計算ができない、化学反応式が書けない … 。
そのままにしておいて、「自然に」覚えられるということは絶対にない。
あくまで自分で、自分の頭にぶちこんでいくしかないのだ。
学校の定期考査程度の問題にてこずっている状態のまま、自然に目標が達成されることはありえない。目の前のこと、足下の内容がおろそかになってないだろうか。
問題を解いて答え合わせをすることは、勉強のスタートだ。
この先、センター試験講習を受ける人も多いし、受けない人も志望校の過去問中心の勉強になっていくことと思う。しつこいけど、問題を解くだけでは力はつかない。
できなかったことを出来るようにするのが勉強という基本中の基本を忘れないようにしよう。
本屋さんには「新年号」「新春特大号」といった雑誌が並びまくる季節になった。『このミス』を手にとってみると、読んでない本ばかりでさびしい。国内ものベスト10のなかで唯一読んだ『満願』は1位だが、そんなに面白かった記憶がない。今年記憶に残るミステリー系の作品ベスト3は … 。
第3位 阿部和重・伊坂幸太郎『キャプテン・サンダーボルト』
伊坂幸太郎といえば今年は『アイネクライネナハトムジーク』がよかった。殺し屋も死神も出てこない、「普通の人」が主人公の短編小説集。とはいえ、読み終わる頃には「普通の」登場人物たちが皆ヒーローに見えてきて、あったかい気持ちになれる。そして当然のことながら立体的に張り巡らされた伏線が一気に回収されていく構成は、見事としか言いようがない。映画でいうと、内田けんじ監督さんの作品で得られるカタルシスと通じる。
『キャプテン・サンダーボルト』は、伊坂氏が阿部和重氏との共作をしたミステリー作品。
登場人物はやはり一般人だが、こっちは、二人の主人公があれよあれよという間に、国際的なテロ組織も関与する大謀略にまきこまれていく。主人公たちがやろうとしたことは、最初は小さな悪さなのだ。いや、「悪さ」という感覚はないのか。お金をだましとられた友達のために一矢報いたいとの思いで、詐欺を働こうとする。それをきっかけに別の犯罪に巻き込まれ、気が付くといつ命をとられてもおかしくない状況になっている。
それを、ちょっとした機転と友情で、ぎりぎりのところでクリアしていく。背景には1945年の太平洋戦争末期に米軍が企てた作戦の失敗と、その事実を明るみに出したくない日米両国の思惑がある。二人の主人公が、東北を舞台に繰り広げる大活劇は、読み始めたらやめられなくて、夜更かししてしまった。