水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

新人戦

2014年11月29日 | 日々のあれこれ

 年明けに行われる新人戦の抽選会に行ってきました。

 大会二日目 1月17日(土) 会場:所沢市民文化センターミューズ

 高校の部出演順
  1 星野高校  2 大宮高校    3 川越東高校   4 慶應義塾志木高校
  5 浦和高校  6 市立浦和高校  7 越谷南高校

   夏のコンクール以上にしびれるラインナップになってしまいましたが、がんばります!


 今後の演奏予定

 2014年  12月27日 校内アンサンブル発表会(4F小講堂)
 2015年  1月11日 南古谷ニューイヤーコンサート(東邦音大グランツザール)
      1月17日 吹奏楽コンクール新人戦(所沢ミューズ)
      2月1日 川越市合同演奏会(川越市民会館)
      3月28日 第23回定期演奏会(川越市民会館)

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成長(2)

2014年11月28日 | 学年だよりなど

  学年だより「成長(2)」

 何のために大学にいくのか――。
 今さら何を言い出したのだろうと思うかもしれないが、一瞬想像してみてほしい。
 これから頑張って勉強して、見事、第一志望の大学に受かったとする。
 そのとき、誰からも「おめでとう」と言われなかったとしたら、どうだろう?
 ほとんどのみんなは、自分の成功を誰も喜んでくれない状況に自分がおかれることを想像しにくいだろう。
 それはそうだ。これだけ、周りの人たちから頑張れと励まされ続けているのだ。
 みなさんの親御さんは、合格という結果を必ずよろこんでくれる。ご家族や友だちからも祝福される。みんなを思う気持ちにおいて、親御さんの足下にもおよばない私たちも、みんなが目標をかなえてくれる姿を心から祝福する。
 大学で学ぶとはどういうことか――。
「自分の将来の夢をかなえるためです。そのために、しっかり勉強します」
 面接の練習を受けた人も、目をきらきら輝かせて上のように答えたと思う。
 その夢をかなえるのは何のためか。
 なぜ、将来それをやりたいのか。
 それは純粋に自分だけのためなのだろうか?
 みなさんには勉強の才能がある。
 一定時間机に向かい、文字を書き、問題を解き、単語を覚えるという行為をし続ける力は、万人に与えられたものではない。
 結果が出なくて焦ったり、疲れたり、面倒になったりすることもあっただろうが、まがりなりにもここまで勉強しようという気持ちを持ち続けてきた。


 ~ 能力や努力(できる能力)というのははっきり言って先天的なものです。「背が高い」とか「視力がよい」とか「鼻がきく」というのと同じ種類の天賦の資質です。それは天からの「贈り物」です。自分の私有物ではない。だから、独占してはならない。
  … 能力というのは「入会地」のようなもの、みんなが公共的に利用するものです。それがたまたまある個人に「天が授けた」。だから、背が高い人は高いところにあるものを手の届かない人のために取ってあげる。眼の良い人は嵐の接近や「陸地が見えた」ことをいちはやく知らせる。鼻のきく人が火事の発生に気づいて警鐘を鳴らす。そのようにして天賦の能力は「同胞のため」に用いるべきものなのです。 (「WEB内田樹研究室」より) ~


 健康な身体を持ち、衣食の心配も不要で、目先の生活ではなく将来の目標に向かって生きることが許されている。望みさえすれば大学に行かせてもらえる経済的裏付けもある。
 決して全ての人に与えられるものではないくつもの条件をクリアしている。
 そんな奇跡的な状況下において、大学合格が最終目標だったり、自分の幸せだけが目的だとしたら、人として小さすぎるではないか。

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成長

2014年11月26日 | 学年だよりなど

  学年だより「成長」


 大学入試は人生の大きな目標の通過点だ。
 センターまでの日数、私大・国立二次までの日数、つまり残された時間と、自分のやりたりないこととを付き合わせてみると、どうしたって時間が足りなく思えてくる。
 焦りが生まれてもしょうがないと思う。
 去年の今頃の自分を思い出してみよう。
 受験に対しての焦りなどなかった、という人の方が多いのではないだろうか。
 焦る気持ちが生まれたのは、それだけ成長したということだ。
 この先、もっと切羽詰まった感覚になってくる人もいるだろうが、むしろハラハラドキドキを楽しもうではないか。


 ~ 「1分前の自分」と「今の自分」は変化しています。
 これは「変化を恐れない」ということです。
 一流の人は、本業の仕事を楽しみながら、自分自身が成長していける人です。
 勉強にも習いごとにも同じことが言えます。
 楽しんでいる時はスピードが上がります。
 イヤイヤやっているとスピードが下がります。
 成長は好きでも、変化は嫌いな人が多いのです。
 変化しなければ、成長できません。
 二流の人は、自分を守ろうとして、今まで教わってきたことにしがみつきます。
 一流の人は、今まで教わってきたことを「それはそれ」と考えられます。
 ギターの新しいコードを覚えるのと同じです。
 新しい引出しを増やす感覚です。
 今までのものにはこだわらないで、新しく教わったことを受け入れます。
 これが成長できる人です。
 成長とは変化のことです。
 二流の人にとっては、成長はただの上乗せです。
 古いものを捨てていないので、根本的には何も変わりません。
 そこに限界があります。
 「変わりたい」という言葉より、行動が大切です。
 変化を恐れないでことで、1分ごとに成長できます。
 習いごとに来る時と変えるときとで、人間は生まれ変わります。
 1秒で進み、1分で生まれ変わるのです。 (中谷彰宏『一流の時間の使い方』リベラル社) ~


 焦ったり、つらかったり、逃げ出したくなったりしてる人ほど、成長している。
 偏差値あげるとか、大学に合格するとか、そんな小さな目標で視界をせばめず、一分単位でちがう自分にかわっていこう。

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「豈」の用法

2014年11月23日 | 国語のお勉強(漢文)

  「豈」の用法

 「豈」は「どうして?」という意味。
 「豈」を用いた文は、ほとんど反語文になっている。
 反語文とは、疑問文の形を借りた強い否定文のこと。
 だから、「豈勉強」と書いてあったら、「不勉強」を強く言っている。
 たんに「勉強しない」ではなく「勉強なんか、おれがすると思う? するわけねえだろ、このタコ!」という気持ちだ。
 多くの場合、語気詞(終助詞)「哉」「乎」をつけて「!」のニュアンスをつける。
 よって「豈(あ)に ~ せんや」といかにも反語だよという読み方で訓読することになる。
 「豈勉強」は「豈に勉強せんや」。

 「豈不勉強」の場合は、「どうして勉強しないことがあろうか、するに決まってるでしょ。」である。
 「豈に勉強せざらんや」と訓読する。
 「勉強しないわけないじゃないですか、ぜったいがんばりますよ!」という気持ちだ。
 シンプルにまとめると、

 ① 豈 V 哉。(豈にVせんや)= 不 レ V! → 絶対Vしない。

 ② 豈 不 レ V 哉。(豈にVせざらんや)= V! → 絶対Vする。

 Vが目的語をとっても同じ。

 ③ 豈 V レ O 哉。  → 不 レ V レ O! 

 ④ 豈 不 レ V レ O 哉 → V レ O! 

 Vの位置にC(名詞・形容詞的な語)がおかれても意味の取り方は同じ

 ⑤ 豈 C 哉。 → 不 レ O!(非 レ O!)

 ⑥ 豈 S C 哉。→ S 非 レ C!

 ⑦ 豈 不 レ C 哉。→ C!

 ⑦は、たとえば「豈 不(二)君 子(一)哉」という文だ。
 「君子でないわけないよね」→「まじ君子じゃね?」となるので、一般的に感嘆文と言われる。
 「んや」ではなく「豈に君子ならずや」と読む。

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脳は疲れない

2014年11月21日 | 学年だよりなど

  学年だより「脳は疲れない」

 失恋の痛みを癒やすのは、新しい恋だ。
 好きであった度合いが大きければ大きいほど、失った後のせつなさははかりしれない。
 「オレにはアイツしかいないんだ!」と泣き叫びたくなる場合もある。
 でも、生物学的に考えると、男女一組の関係性がその個体同士でしか成り立たないということは、あり得ない。人はAさんともBさんともCさんとも付き合い得る。
 「運命の糸」と呼びたくなる事態は存在するが、その糸はあらゆる方面にのび、結びつくことが可能だ。人は、むだに大脳を発達させてしまった結果、人と人との出会いに過剰な物語をつくってしまう。自分にだけ特別な恋愛ストーリーが発生するかのように思ってしまうものだが、それは錯覚にすぎない。恋に破れた悲しみを癒やしたかったら、とっとと他の相手をさがせばいい。いつまでもふられた相手に執着してはいけない。
 同様に、勉強の疲れは、勉強で解消するのが一番だ(ここから本題です)。
 基本的に脳は疲れない。
 脳が疲れるという事態は、そのまま生命体としての死につながる。
 人間の脳は、何もしないでぼおっとしているときも、寝ているときも、休まず働き続けている。
 だから、寝る前に解けない問題をインプットしておくと、寝ている間に脳が整理してくれて、翌朝すっきり解けることが多々あるのだ。
 数学の勉強をしてて疲れを感じたときは、一回のびをして英語に切り替える。
 とくに『ユメタン』のクイックレスポンスの練習などは、脳のリフレッシュに最高だ。
 脳は疲れないが、同じ姿勢で座り続けていると血流が悪くなるのはたしかなので、立ち上がって歩き回るといい。


 ~ 
糸井:なるほど。考えごとをして疲れを感じた時は、あれは脳が疲れているわけではない。だとしたら、「30分休憩して疲れを取って」という考え方をしないほうがいいですね。目の疲れだとか、同じ姿勢を取った疲れを補うことのほうが、実践的なわけだ。
池谷:はい。
糸井:じゃあ、姿勢を変えたり眼球を休ませたりするためには、動きながら考えるのって、すごくいいですか。
池谷:はい。実はぼく、それをよくやってるんですよ。まわりに「うるさい」って言われますが。
糸井:「脳は疲れない」と知るだけで、違う休息の方法が思い浮かぶ。
池谷:ぼくは、パソコンの前にいすぎて疲れたなぁと思う時には、 席を立って歩き回りながらも、同じことを考えつづけます。
糸井「わかります。いったん忘れるっていうのが、いちばんよくないんですよ。企画を考えている時なら、いったん忘れないで、考えたまま違うことをするのがいいと思う。ぼくの場合、トイレに行ったりするのですけど。経験則だけど、「考えつづけると、必ず答えが出る」と信じる と、いつもいい結果になる。  (池谷裕二・糸井重里『海馬/脳は疲れない』新潮文庫) ~

 歩きながら、さっき行き詰まった数学の問題にもどってみると、補助線が浮かんでくる。

 

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小論文のコツ的なもの(2)

2014年11月19日 | 学年だよりなど


6 接続語は使わない。下書き・構想の段階では書いてていい。提出稿を書くときは、頭のなかに「しかし」とか「つまり」とか浮かんでいても、あえてそれを書かずに次の文を書いてしまう。

7 「私は」「と思う」とは書かない。その中身だけを書くこと。

8 解決法を書かない。「少子化」も「地球温暖化」も「格差社会」も、受験生が一時間考えて800字で解決法を見いだせるわけがない。大学の先生もそんなことを書いてほしいのではない。

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小論文のコツ的なもの

2014年11月18日 | 国語のお勉強

 4時間目、調理実習をしてたクラスから一人前おすそわけいただく。
 松茸(!)ご飯、お味噌汁、鶏肉と根菜の炒り煮、卵焼き、みたらし団子。きちっとレシピに従っているせいか、実に手堅い味付けだった。
 お味噌汁が、埼玉ではいただく機会がまずない赤だしで、家庭科の先生に尋ねると信州味噌と八丁味噌のこだわりブレンドだという。ひさしぶりだ。
 午後一の授業がちょうどそのクラスだった。
「おいしかったです」とお礼を言うと、「センター前ヒットのお返し、ということで」と前の方のHくんが言う。なんか生徒さんといい関係できてるぽい感じではないか。
 センター古文の演習の授業だったが、いつも以上にアツい説明をした。
 
 授業の空き時間は、すべて添削に費やされる。
 今は、主に指定校推薦のためのものなので、内容の鋭さよりも、きちっとした日本語にすることを第一課題にしている。
 といっても、書くべき内容がずれていることも多いし、「君は自分の行く学部の学問内容をわかっているのか」と言いたくなることも多い。 
 一般入試の小論文以上に、いろんな分野の課題を指導する。
「東日本大震災の前後で科学技術についての意識がどう変わったか」
「統計的生命価値という考え方について思うところを述べよ」
「腐敗と発酵について説明しなさい」
 そういうのは、大学に入ってから習えばいいのにと思うけど、過去問にあるのだから仕方ない。
「格差社会について述べよ」「グローバリゼーションについて述べよ」というおおざっぱな出題もある。
「グローバル化から最も遠いのが日本の大学である」なんて真実を書かせるわけにはいかないし。

 一般入試の小論文にどの程度まで通用するかはわからないが、いくつかのコツを見いだした。

1 抽象的、一般的、おおざっぱな課題を与えられたときは、なるべく具体的で身近な例を想定して書くとよい。

2 限定された事例について論じるときは、そこから敷衍(ふえん)して、学問全体に通じる内容にふれていくといい。

3 YESかNOか、善か悪か、正しいか正しくないか、といった二項対立にして片方を選ぶ、という立場には立たない。

4 この問題をどう解決するかと問われたら、問題とは実は答えであると設定し、本質面に近づこうとするといい。

5 現象についてどう思うかと問われたら、現象ではなくその現象のもとになる精神について論ずる。

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スピードをあげる

2014年11月17日 | 学年だよりなど

  学年だより「スピードをあげる」


 プロ野球において、シーズン3割の打率を残せるバッターは、一流選手だ。
 3割。10回打席に立って、そのうち3回ヒットを打つことでさえ難しい。
 人生においても3割ヒットが打てるなら、たとえば3校受験して1校受かるなら、成功だ。
 人は、何かをやろうとしたとき、意外に一回目はうまくいく。
 気分よく繰り返そうとすると、2回目から8回目まで失敗し続ける。
 多くの人はこの段階で、もしくは3、4回失敗した時点で、チャレンジをあきらめる。
 やり続ければ9回目、10回目とうまくいくかもしれないにもかかわらず。
 自分はいまスランプかもしれないという時期は、4回目、5回目状態に似ているかもしれない。
 そこであきらめさえしなければ、乗り越える可能性が生まれる。
 一昨日、駿台川越校舎長の高久さんは、「現役生はこれからのびる」と強調されていた。
 わたしたちもそれは心底そう思う。そうでなければ説明できない事例をこれまで幾度も目にしてきたからだ。
 あきらめない、粘り強く取り組む、逆三角形で受験する、といった姿勢を保ち続ければ、光は見えてくるはずだ。
 ただし、今後は、単位時間の濃度を高めていく必要があるだろう。
 話を聞くなら聞く、問題を解くなら解く、という姿勢に、1秒で入れないといけない。
 その速さこそが集中を生む。


 ~ スピードを遠くすることで、集中力がついていきます。
 「集中力がある」→「スピードが速くなる」→「ますます集中力がつく」という正のスパイラルに入ります。
 モタモタしていると集中力が下がります。
 集中力が下がると、ますますスピードが遅くなります。
 「モタモタする」→「集中力が下がる」→「ますますスピードが遅くなる」という
 負のスパイラルに入るのです。
 どちらのスパイラルに入るかです。
 起きている時間がどれだけ長いかは、いっさい関係ありません。
 膨大な仕事をこなす人は、集中力でこなしています。
 1時間で数時間分の仕事ができるのです。
 集中力がなければ、10時間かけても1時間分の仕事しかできません。
 東大に何人も入るような一流校の生徒には集中力があります。
 「勉強は1日何時間やっているんですか」という質問は意味がないのです。
 一流の人は圧倒的な集中力を持っています。
 集中力は鍛えることでしか伸ばすことはできません。
 持って生まれたものではないのです。 (中谷彰宏『一流の時間の使い方』リベラル社) ~

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紙の月

2014年11月16日 | 演奏会・映画など

 ふつうにしてるだけできれいなのに、その存在だけで充分に多くの人の心をつかみ、満足を与えられる女優さんなのに、その位置には飽き足らないのか、ひたむきに演技する女優さんだ。
 しばらく前、コクーンでの「盲導犬」というお芝居で、はじめて生の宮沢りえさんを観た。その女優力たるや、すさまじいものがあった。旧態依然とした脚本と手垢のついた演出に辟易としながら、いや、だからこそかな、彼女の圧倒的な存在感に心打たれた。
 「紙の月」を観てみてあたためて思う。宮沢りえさんは、お芝居が好きで、大切でたまらないのだ。
 そのお仕事「によって」何かの成果を残したいという感覚ではなく、ただただ与えられた役を心をこめて演じようとしているのにちがいない。
 こういうお仕事ぶりを誠実という。
 見習いたいと思う。
 最初から最後までこんなに緊張感をもって目を話させない女優さんは、なかなかいない。
 演技力という点では一分の隙も無い小林聡美さんは、すごみのあるお芝居をし、アイドルくささをもうみじんも感じさせない大島優子さんは、大女優への道を歩んでいると思うほどに、リアルな女性像を演じていた(男目線なのかな)。
 それに比べて、男性陣が演じた役柄が、やや類型的だったのではないかとも思ったけど、ま、男ってわかりやすい生き物だから、ほどよいかな。
 今年の邦画を代表する作品であることは間違いない。

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太い心をもつ

2014年11月15日 | 学年だよりなど

  学年だより「太い心をもつ」

 冊子「大学入試センター受験案内」の「受験にあたっての注意事項」(49頁)の中にこうある。
「 エ 試験時間中に日常的な生活騒音等が発生した場合でも救済措置は行いません 」
「生活騒音」とは、試験場の外部の騒音、会場内での受験生のくしゃみ、試験監督の足音、空調の音、その他もろもろの音を指す。リスニングの試験中まで含めて、予期しない騒音が起こっても「何ら救済措置を講ずるつもりはない」と入試センターは言うのだ。
 受験には「図太い」神経が必要だ。
 乗り慣れない電車に乗り、はじめて入る建物の、慣れない机で問題を解く。自分の机にだけ小さな疵があるかもしれないし、イスがガタガタ動くかもしれない。暖房が強すぎる場所になるかもしれないし、トイレの臭いが気になる席かもしれない。隣に座った受験生が、妙に落ち着かない奴だったり、態度がでかかったり、筆圧が強くて机を揺らされたり、香水のきつい女子だったり、やたら鼻をすすっていたり … 。地下鉄に乗り間違えて、開始時間にぎりぎりになってしまうかもしれないし、急にお腹の具合が悪くなったのにトイレが見つからないかもしれない。
 開始の合図で問題冊子を開くと、過去問からの予想とは100%異なる内容だった、なんてことも「体感的」にはあるものだ。
 ふだん考えられないようなことが起きるのが「本番」だといっていい。
 何があっても動じない人というのは、たぶんいない。
 動揺している状態のなかでも、その時点での最善を尽くそうと思えるような心が必要だ。
 そういう心を得るための特効薬はない。毎日学校に来て、何があっても平然とやるべきことを積み上げていくことでしか作れないのだ。毎日学校に来て、ほんの少しずつの負荷を自分にかけ続けることでしか作れない。この陸の孤島に通い続けること自体が、みんなの心を太くしていく。


 ~ 自分に負荷をかけると成長する、私はそう思っています。でも、どうやって負荷をかけたらよいのでしょうか。イヤなことを無理してやるとか、そういうことではない気がします。多分、やりたいと思っていることを、恐れずにやること。好きなことだったとしても、それをするときには必ず、大小はあれ、ぶちあたる壁がやってくる。それから逃げないことかなあと思います。つまり「やりたいことを、できないと言い訳せずにやること」。それが自分に負荷をかけるということなんじゃないかなあ。(中略)
 体の筋力も、急にはつかず、徐々に鍛えるように、心の筋力も、ゆっくりとついていくのですね。筋トレは、筋肉の繊維を切るほどの負荷をかけて、再生するときにさらに太くなるといいますが、心だって同じなのでしょう。負荷をかけることで、だんだんと、強くなっていく。ゆっくりゆっくり、心の筋力は、ついてくる。焦らなくても大丈夫。徐々に強い自分になれるはずです。 (和田清華『その夢はいつやるんですか?』ゴマブックス) ~


 困難も辛さも、自分を成長させてくれるありがたい贈り物だ。

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