水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

前々日

2016年09月30日 | 日々のあれこれ

 

 放課後、楽器を積み込んで、いざ和光市サンアゼリアへ!
 明日の午前はまるまるつまっているので、今日中にリハーサルをやらせてもらおうと出かけた。
 会場につくと、すでに和国の女子部員さんたちがあれこれと準備を進めてくれている。
 一年ぶりのサンアゼリアだが、こんなによく響くホールだったのかと驚き、残念ながら音程のくるいはバレバレだ。根本的な技量はどうしようもないが、気持ちを一つにして集中することで何とかのりきりたい。
 去年以上の人数になる全員合奏は、立奏で、暗譜でという申し合わせをしたが、そうでないとまちがいなくステージにのらないだろう。
 前日リハは3時間はとってほしいと御大からご連絡をいただいたので、そうスケジュールした。
 男子達は明日燃え尽きてしまわないだろうか。いったいどうなることやら。楽しみすぎる。

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語彙力

2016年09月29日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「語彙力」


 どんな競技でも、身体技能が同じであれば、170㎝、60㎏の人は、180㎝、75㎏の人に勝てない。
 小さい方が有利という場合も局面によってはあり得るが、スポーツにおける身体そのものの優位性は動かしがたい。軽自動車はコーナリングでは有利でも、レースそのもので2000CCの車に勝てないように。
 大きい人に勝つためには、それ以上の身体能力が必要であり、技術を身につけなければならない。同じ技量ならば大きい人が勝つ。
 ただ、身体のサイズばかりは、努力でなんとかなるものではないのも現実だ。
 現在170㎝の人が来年までに180㎝になりたいと思って努力しても、結果が出る人はごくわずかだろう。そのわずかに入る人は実際は努力しなくても180㎝になるはずだ。
 サイズそのものはなんともならないからこそ、運動部のみなさんは技量を身につけるべく練習し、身体のポテンシャルを高めるトレーニングをし、筋肉そのものの量を増やそうと手を尽くす。
 頭脳はどうか。
 持って生まれた脳の性能は、人によって異なる。
 努力によってみんながボルト選手や伊調選手になれるわけではないように、勉強したからといって必ずiPS細胞を発見できるわけではない。
 人類の発展に貢献できるほどの頭脳をもちうる人は、イチロー選手と同じように限られている。
 では、100の能力をもつ今の脳を、来年150にすることは難しいだろうか。
 わかりやすい数字で言えば、河合模試偏差値40の人が60になるのは、難しいだろうか。
 結論から言えば、なんでもないと言える。
 トレーニング場にいってベンチプレスをしてみたら、20㎏に満たないシャフトさえ挙げられない人もいるだろう。しかし、それはベンチプレスをやったことがないだけだ。普通に練習すれば、自分の体重分までは確実に伸びる。
 偏差値40切ってる状態とは、勉強のやり方を知らないか、勉強経験がないかというレベルだから、やり方を習って普通に練習すれば、すぐに60㎏ぐらい挙がるようになる。
 その程度の筋力は、いまのみなさんならすぐにつくだろう。うらやましい。
 同じ程度に頭脳の性能をあげるのは簡単だ。
 脳の体積そのものはもちろん増えないが、言葉を覚えることによって性能はぐんとアップする。
 「語彙力」が、脳の性能のベースだ。知っている言葉の総和を語彙という。
 人は、持てる言葉の範囲でしか頭を使えない。逆に言うと、言葉を増やせば脳の働き方は大きく変わる。言葉をもっているということは、ちょうど身長が大きい人、体重が重い人のように、脳そのものが大きいことになる。
 だから先日の「合格体験談」で宮下先輩が言っていた言葉はものすごく腑に落ちる。


 ~ 自分のなかでは、英単語を覚えるのは勉強に入れてなかった。はみがきと同じレベルの習慣だった。(宮下凌也先輩)~


 言葉を覚えることは、考えるための手段を身につけるということだ。

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アレッサンドロ・ザナルディ(2)

2016年09月26日 | 学年だよりなど

 

   学年だより「アレッサンドロ・ザナルディ(2)」


 ロンドンからさらに四年の月日を経て迎えた今回のリオパラリンピック。
 ザナルディは49歳になった。
 9月14日、「タイムトライアル」では、見事に金メダルを獲得し二連覇を果たした。
 翌15日、「ロードレース」でも2大会連続の金メダルを狙ったが、最後のスプリントで南アフリカのエレンスト・ヴァン・ダイク選手に惜しくも競り負けての2位となった。
 ザナルディは、レース後すぐにダイク選手に近寄って祝福する。そして、こう語った。


 ~ 「私は全力を振り絞ったよ。コースの性質か、私の年齢か、睡眠不足が響いたのかは分からない  ―― でも、2位になれて本当に幸せだ」 ~


 インタビューでは、当然ながら15年前の事故についても質問を受けた。


 ~ 「15年前の今日、私は生まれ変わったんだ。なに、捨てたものじゃないよ――その記念日に銀メ ダルが手に入った。これ以上は望めないな。家に帰って、妻と子どもがキスをしてくれればそ れでいい」 ~


 予想もしなかったこと、思うようにならないこと、つらいこと、やりきれないこと、自分ではどうしようもないこと、人生はなんでも起こりうる。「それが人生」とも言えるだろう。
 大事なのは、自分がそれをどう受け止めるかだ。
 先々号で「大学は食べ放題の店だ」と書いた。
 そのことに気づかない人が多い、とも。
 勉強し放題、部活し放題状態にある今のみなさんは、実はすでに「食べ放題」の店にいる。
 それに気づくかどうか。気づいたとして、元がとれるほど食べまくれるかどうか。
 合格体験談を語ってくれた先輩達が、いま現在、大学生活の豊かさを享受できているのは、その下地としての高校生活の過ごし方と連動していることは間違いない。
 逆の例もある。高校時代を漫然と過ごし、それでも入れる大学は今はいくらでもあるので、なんとなく進学し、それでいて講義がつまらない、サークルが盛り上がらない、就職の指導をしてもらえない … と不満を感じながらすごすような場合だ。
 それだと、大学の学費はあまりにも高くつく。
 ありきたりな言葉だが、与えられた状況をどう受け止めるかで、その後の人生は変わる。
 想像を絶する大怪我さえ神様の贈り物と受け止めるザナルディには、失ったもの以上の別の何かが与えられた。そういう意味では、考え方一つで人生を変えることができたのだ。


 ~ 「僕は人生からたくさんの物を得てきた。幸運の女神が次々にいろんなものを与えてくれる。本 当に感謝するばかりだ。」 ~


 人生は、「生き放題」なのではないだろうか。

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合同練習

2016年09月25日 | 日々のあれこれ

 

 男祭りの合同練習。二回目の今日は、学校行事で参加できない日大豊山さんをのぞいて、ほぼそろった。二百数十人で位置どりして合奏することも慣れたみたいだ。
 曲もある程度は把握しているせいか、演奏自体は榊原先生の指示に従ってよくなっていく。ただし、そこに振り付けが加わると、演奏があまくなるし、動きのあやしい子も多数いた。
 あとは、前日のリハーサルからお越し頂ける植田薫御大の植田マジックでなんとかしてもらおう。
 全体合奏を終えたあと、共学校の男子達が集まっての不思議な編成の合同バンドの練習。それにあわせての編曲を川北先生がしてくれて、なかなかおもしろいことになっている。具体的に書きたい気持ちをおさえてお楽しみにしておこう。自分の作曲した曲(エンターテンメントマーチ)だと、こんなにいろいろ遊んでしまえるものなのかとうらやましい。
 リハーサルの打ち合わせ、パンフ原稿の確認などを顧問一同で行い、あとは成り行きでなんとかなるだろう。進行表つくったり、バスの配車したりまあまあ仕事した。

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アレッサンドロ・ザナルディ

2016年09月23日 | 学年だよりなど

 

    学年だより「アレッサンドロ・ザナルディ」


 リオパラリンピックの自転車ロードレースは、オリンピックパークの南西に位置するポンタル地区海岸沿いのなだらかなコースで開催された。
  9月15日、元F1ドライバーのアレッサンドロ・ザナルディ選手が、男子「ロードレース(H5・ハンドサイクルで最も障害が重い)」個人で銀メダルを獲得する。前日の「タイムトライアル」の金メダルに続き、今大会二つ目のメダルである。
 ちょうど15年前の9月15日は、ザナルディ選手が生死の境をさまよっていた日であった。

 

 レーシングドライバーだったザナルディは、1991年、初めてF1に出場を果たす。
 4年間参戦した後、活躍の場をアメリカに移し、「CART」(現在のインディカー)で二度チャンピオンの座につく。イタリア人初の快挙であり、アメリカ人レーサーをしのぐ人気を博していた。
 そして2001年、ドイツのラウジッツで開催されたCART第16戦。
 ザナルディはトップを走っていたが、バランスを崩したところに、後続車が横から時速300kmで突っ込んだ。炎に包まれた車から救出されたザナルディは、一命をとりとめはしたものの、両足切断の大事故となった。ザナルディのレーサー人生は終わったと誰もが思った衝撃的な事故だった。
 しかしザナルディは、2年後に復帰する。
 両足の操作が不要の、ハンドドライブ仕様のツーリングカーで「WTCC(世界ツーリングカー選手権)」に参戦したのだ。
 2005年には、事故が起きたドイツでのレースで初優勝を成し遂げ、世界中のモータースポーツファンに感動を与えた。
 2009年に引退してからは、ロンドン・パラリンピックへの出場を目指して自転車(ハンドサイクリング)の選手へと転向した。
 2012年、ロンドン・パラリンピックではイギリスの「ブランズハッチ」サーキットを使って開催された大会で「タイムトライアル」「ロードレース」2種目での金メダルを獲得した。
 ブランズハッチは、F1ヨーロッパグランプリも開催された名門サーキットだ。もちろん、ザナルディ選手もレース経験がある。レース後、彼はこう語った。


 ~ 「(21年前、ブランズハッチで)ポールポジションを取ったが、決勝では2位に終わった。このコースでは2位や3位は取ったことがあったけれど、表彰台の一番上に立ったことはなかったんだ。でも今日、それを成し遂げることができた。 … エンジンがあったときは、ここがこんなに起伏に富んでいるとは気づかなかったよ。」 ~

 

 ドライバー生命が失われたあと、すぐに立ち直って新しい人生に向かっていった … わけではないだろう。
 「不屈の精神力で」と、われわれは簡単にまとめがちだが、両足切断の後の苦しみや葛藤がどれほどのものであったか。
 彼の言葉を聞くと、われわれが簡単に「挫折」などと口にするのはおこがましいと思える。

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食べ放題

2016年09月20日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「食べ放題」


 ~ 大学生活はやろうと思えば何でもできる。ちょっとした決断が人生を決めるので、がんばってほしい。(田鹿和輝先輩)~

 ~ バスケットボールを大学でも続けている。顧問やコーチがいるわけではないので、自分たちで計画立てて、お互いに意見を言い合って全部やるのが大変だけど、たのしい。逆に自分でやらないといけないのが大学生活の厳しいところでもある。(小谷桔平先輩)~

~ 大学は実に自由なところ。自由な生活を手に入れたいという気持ちを目標にすえたらどうだろう。(山崎隼弥先輩)~

 大学生活をはじめて半年ちょっとの先輩たちだが、みな大学生であることの意義を十分に感じとり、充実した日々を過ごしているであろうことがわかるお話だった。
 先日、こんなツイートをみかけた。


 ~ 大学中退の話で盛り上がってるけど、大学って基本的には食べ放題の店みたいなもんだからな。図書館とか施設の類の学内の資源はほとんどタダで使い放題だし、授業の受け放題で先生とかに入り浸り放題。食べ放題の店で水だけ飲んでまずいって出てくるバカが多すぎる。 ~


 「大学は食べ放題の店」 … 。上手なたとえだと思う。
 ただし、それが明示されているわけではないので(というか、大学関係者にとっては当たり前すぎて、改めて指摘しないのだ)、気づかない学生さんが多い。
 自分が探し求めている学問内容について日本で最も知識をもっている人が、学食で隣に座っているおじさんだったりする空間だ。たまたまそれに気づき「教えてくれませんか」と言ってみたら、「いいよ」とこころよく研究室に招いてくれるばかりか、お茶やお菓子まで出して一時間語ってもらえる。もちろんタダだ。本までくださることもある。
 仲間を募って新しいことを始めようと思えば、声をかけてもいい同世代がうじゃうじゃ歩いている。みさかいなく声をかけても、不審者ともストーカーとも扱われない。ミーティングをする場所はいくらでもある。場所さえ選べば、歌ったり踊ったりしてても苦情はこないし、捕まらない。
 駅の構内でずっと寝ているとつまみ出されるが、大学構内なら相当汚い格好をして夜明かししても、人生について考えている表情でもしてれば、「風邪引くなよ」と守衛さんに気遣ってもらえる。
 日本の大学の学費は、アメリカを除けば世界でトップクラスの高さだが、それを嘆いていても現実は変わらない。大学をどういかすかという発想になるしかない。
 幸いにして、みなさんは大学進学をさせてもらえるくらいにご家庭の経済力に恵まれ、がんばればそれなりの大学に入れる知力も有している。
 いま自分の持っているリソース(資源)を最大限にいかし、さらに入学後は元を取っておつりが来るぐらいの学生生活を送るならば、そのこと自体が人生の大きな資産になる。

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こころ

2016年09月19日 | 日々のあれこれ

 

 久しぶりに「こころ」を読み返しながら、今の高校生にはどの程度通じるのかなと考える。大学生の年齢で、好きな女の子に告白するのに、こんなにうじうじするものだろうか。もともとKは特殊な存在として設定されているのだから、自分の信じる道のために人を好きになってはならない、でもできなかった … と、うじうじしてても、そういうキャラ設定で読めるだろう。まてよ、自分も硬派に生きようと決意した時期があったけど、簡単にころんだことがあったな。
 普通の大学生設定の「私(先生)」は、どうだろう。東大生を「普通」と言っていいかという問題もあるが。まして明治時代だし。
 社会学者の大月隆寛先生を、昔、進路講演会に招いたことがある。「最近東大でも教えているけど、やつら勉強はできが恋愛関係はほんとに奥手だ」と述べてらしたから、そういう面はたしかにあるのかもしれない。
 それに今の男子達はリアルな女子への興味が薄れているとも聞く。意外に「私」のうじうじした感覚は共感をもって読まれるかもしれない。
 そのへんを観察しながら読んでいくのは、ちょっとおもしろいかもしれない。
 「こころ」を実写化するなら、「私」は藤原竜也、「K」は松山ケンイチ、「お嬢さん」は黒木華でしょう。どうですか、この鉄板の布陣。「奥さん」は高橋恵子、原田美枝子と思い浮かぶが、ここは一つ言われなき批判を受けている高畑淳子さまにオファーを出してみたい。

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「 日本人の「顔」 」の授業 5  第五段落

2016年09月18日 | 国語のお勉強(評論)

 

  第五段落〈 34~38段落 〉 「顔」

34 日本人の顔についてさらにおもしろい観察ができる。
35 企業のイメージキャラクターに起用されたタレントは、テレビCMの中ではその企業やブランドを代表する「顔」でもある。また、不祥事を起こした子供の代わりに有名人の親が記者会見を開いて謝ったり、番組を降板したりすることもしばしば目にする光景だ。〈 これ 〉は〈 日本人の「顔」の不思議な連鎖 〉を意味している。
36 日本は集団を中心とした社会であり、個人は集団の一員という位置づけになる。日本人は、自分個人の顔とはまた別の、所属集団や社会的役割を反映した顔を持っているのだ。
37 鈴木さんは、「鈴木一郎」という個人の顔以外にも、家庭では「父親」の顔、会社では「○○商事の社員」の顔、営業本部の中では「営業部長」の顔、というように〈 いくつもの顔を持っている 〉。
38 日本人は、結局、所属集団から距離を置いて、一人の個人として振る舞うことが難しい。だから日本人の「顔」は、集団や組織、自分と利害関係のある集団のメンバー、そして世間との避けることのできないしがらみの中でさまざまに変化し、複雑な表情を見せるものだと言えよう。
36 日本は集団を中心とした社会であり、個人は集団の一員という位置づけになる。日本人は、自分個人の顔とはまた別の、所属集団や社会的役割を反映した顔を持っているのだ。
37 鈴木さんは、「鈴木一郎」という個人の顔以外にも、家庭では「父親」の顔、会社では「○○商事の社員」の顔、営業本部の中では「営業部長」の顔、というようにいくつもの顔を持っている。
38 〈 日本人は、結局、所属集団から距離を置いて、一人の個人として振る舞うことが難しい 〉。だから日本人の「顔」は、集団や組織、自分と利害関係のある集団のメンバー、そして世間との避けることのできないしがらみの中でさまざまに変化し、複雑な表情を見せるものだと言えよう。


Q29「これ」とは何か。
A29 自分の言動だけでなく、自分に関わる人や集団に関することにまで責任を負わされる事例。

Q30「日本人の「顔」の不思議な連鎖」とはどういうことか。本文の語を用いて60字以内で述べよ。
A30 日本人は、自分自身の顔だけでなく、所属集団や社会的役割を反映した顔をも持つ存在として振る舞うことが求められているということ。


 具体例
 企業のイメージキャラクターとしての「顔」
 不祥事を起こした子供の親が謝罪
   ∥
  これ
   ↓
 日本人の「顔」の不思議な連鎖


 日本 … 集団を中心とした社会
   ↓
  日本人 … 所属集団や社会的役割を反映した顔を持つ


 欧米の個人
  ↑
  ↓
 日本における個人 … 世間の一員としての面子・面目
  ↓
 世間の目が行動規範
 集団の利害を優先                日本人の絶対的・基本的ルール
 相手の顔をつぶさないこと
  ↓
 状況に応じて「顔」を変化させて生きる


Q31「いくつもの顔を持っている」とあるが、どのような顔をもっているのか。16字で抜き出せ。
A31  所属集団や社会的役割を反映した顔

Q32「日本人は、結局、所属集団から距離を置いて、一人の個人として振る舞うことが難しい」のはなぜか。全体の趣旨をふまえ、100字以上120字以内で記せ。
A32 日本のおける個人は、欧米の個人とは異なり、集団の人間関係に依存して成立しているため、世間に対して面目を保つことが個人の行動規範となり、集団や組織の利害を最優先して所属メンバーの顔をつぶさないように振る舞うことが基本的ルールとされているから。


〈最終段落でのまとめの問題〉

1 傍線部を含む意味段落の主旨を用いての説明する。→解答の骨格(40~50字程度)

 集団や組織の利害を最優先して所属メンバーの顔をつぶさないように振る舞うことが基本的ルール

2 全体のテーマの確認→冒頭にもどってみる。(30字~40字)

 日本人の「顔」と欧米人のfaceとのちがい

3 1を導きだすにいたる説明部分から、「対比」「理由」「前提条件」などを観点にキーワードをつかむ。(40字~50字)

 a 日本には欧米的な意味での個人は存在しない、
 b 個人とはあくまでも集団の一員
 c 「世間の目」が行動規範

4 1→2→3の順で箇条書き的にメモし、字数にあわせて解答にまとめる

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試験問題

2016年09月16日 | 日々のあれこれ

 

 試験問題は、今風の言葉でいうと、ある文章、ある作品のオマージュだ。
 年がら年中、何かいい文章はないかな、卓越した評論、心動かされる小説に出会わないかなと思いながら読んでいる。
 この文章で問題を作りたいと思う時というのは、この文章を多くの若者に読んでもらいたいとの思いが生まれたときだ。
 センター試験の問題に対する不満も、この点についてはある。はたして作成者は、全国50万の18歳近辺の若者たちに、ぜひともこの文章を読ませたいという情熱が根本的にあるのかという疑問。
 問題を作る際には、この言葉に気をつけるといいよ、こういう視点で読んでみると作品への見方が変わるよというメッセージをこめる。
 もちろん何も考えずに作られたようにしか見えない設問にも出会うが、いい問題は、文章そのものと作者への敬意と同時に、問題を解く者への愛情にあふれている。
 結果として、切り取られた(あるいは全文を用いた)本文と設問の総体はもとの作品とは別種の一作品になる。
 楽譜に書かれた作品が、演奏者によって全く別物になるのと似ている … というような思いで問題を作っている。
 だから「過去問集」を見ていて、著作権の都合で本文を載せられないと但し書きのついた空白を見かけたりすると、作者の狭量と問題に対する「差別」を感じてしまうのだ。
 「自分の文章が入試に出ていたので解いてみたら間違った」という述懐をする著者の方もときどきいらっしゃるが、入試問題のなんたるかを知らないということだろう。もしくは偏差値の不足か。
 こんなふうに内心思っている教員の創造力は、世間一般にはほとんど認められていないのは哀しい。作り続けるしかないけど。

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よろこびのうた

2016年09月15日 | おすすめの本・CD

 

 ~ 芸術の役割は、問題を解決することではない。むしろ問題を顕在化させる、鮮明化させることにある。by平田オリザ ~

 

 ヤマウチユージ『よろこびのうた』は、老老介護心中とよばれる、ある「事件」を題材に創作された作品だ。ヤマウチ氏が報道で知ったこの「事件」をもとに、コミック一巻分の作品にした。
 年老いた夫婦の心中であって、犯罪という意味での「事件」ではないのだが、その中身は衝撃だった。
 ともに80歳を越える夫婦。病弱な妻の面倒をみていた夫も、肉体的、精神的に生きることへの執着がなくす状況だったのだろうか、二人は人に迷惑をかけないように閑かに世を去ろうと準備をする。
 その周到な計画はメモに残され、何月何日の決行日に向かって何をしたかがわかるという。財産は市に寄付される手はずが整い、亡くなった直後に市役所にその手紙が郵送された。
 決行の日は、すでに使われなくなっていた火葬場に二人で入り、焼身自殺をする。十分に白骨化するほどの薪も準備してあった。
 積み上げられた薪に囲まれ、向かい合って横たわり、手を繋いでいる老夫婦の姿が、コミックの表表紙に描かれている。読み終わったあとにこれを再度見て、二人の顔に笑みが浮かんでいるのに気づくと、こらえきれなかった。
 この年になったからかもしれないが、この老夫婦が不幸なだけとは思えない。何より二人で死ねたこと。そして、死に向かって準備している時期は、それまでの終わりの見えない日常に較べれば、随分前向きにも感じられた時間ではないかと思えるから。
 こんな幸せさえ得られない老人は多く、それも決して他人事ではないという現実がある。今は目をそらしているが。なるほど、これは一つの方法かもしれない。
 福井県の大野市(マンガでは勝山市設定)での出来事を、このマンガを読むまで知らなかった。作者が想像で創り出した物語は、エンタメ作品としてももちろん完成度が高い。そして創作でありながら、より厳しく現実をつきつけてくる力をもっている。

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