たしかに「うまいだけ」にきこえる可能性はある。うまいからね。
うまいゆえに、最初から最後まで同じ程度にうまく、ビブラートのかけ方やフレーズの処理も種類が少ない。
たとえば本校に教えにきてくださるレッスンの先生方だったら、Aメロをこう歌ったらBメロはこうして、この音符のあとはいったん落として3泊目うらからクレッシェンドして、最後の音は長くのばした後にふっとビブラートかけて…、と細かく直してくださることだろう。
メジャーレーベルのCDとして発売されている以上、しかし、そういうディレクターは絶対いるはずだ。
だとしたら、彼女の感性を大事にしたのだろう。思ったとおり、感じているとおりに歌ってごらん、と。
こまかく細工することで失われるかもしれない彼女の根本的なエネルギーを大事にしたのではないだろうか。
たとえば、12曲目、中島みゆき「糸」。名曲だ。中島みゆき教祖以外にも、たくさんの人が歌っている。
プロ中のプロから、ほとんど素人の人まで。
名曲と呼ばれる曲ほど(小説も同じだけど)、感じ方は人それぞれになる。
何千人、何万人に受け入れられ、そのすべての人々に「自分だけがこの作品のほんとの深さがわかる」と感じさせてしまう作品が、名作の名作たる所以だ。
なので、これってなんか違うよねと感じる人もいるかもしれない。てか、おれがそうだったけど。
でも、2周目をききながら、思った。
他の曲もそうだけど、これが彼女の感じている音楽なのだと。
中島みゆきはそうは歌ってないけど、そう歌っているように聞こているのだ。
オリジナルは小さくささやく歌っている部分も、彼女にはものすごい情念を叫んでいるように聞こえる。
そしてその聞こえ方は正しい。
感じたとおりを表現してみました、という作品群なのだ。いわば、翻訳だ。
カバー作品とは、翻訳というオリジナルな作業なのだろう。
すると、歌のうまい人がそれをした場合、ただのモノマネ? みたく聞こえる場合があって、このアルバムにもちょっとそれに近い楽曲があり、かえって損をしてると思う。
それにしても、翻訳したうえで、完全に自分の世界をつくりあげている徳永英明さんは、あらためてすごいと思う。
とりあえず、「糸」の弾き語りをきちっと練習してみようと思って、楽譜をダウンロードしてみた。
パチパチパチ。上手、上手。
でも「そばかす」ときたか。ほんとちっちゃい頃でしょ、この歌って。
(はい、小学校に入ったぐらいです。)
つぎ何? もう入れたの? いやいやいいよ、ぜんぜん。どんどん入れないと、そのうちおれもがっつり入れちゃうからね。「マイレボリューション」…て、最近のバンド? 渡辺美里? なんで知ってるの。へえ、まさかの展開。次は「secret base」で、「赤いスイートピー」も入れたの?
ありがとう、聴きたいのばっか歌ってくれて。それに、ほんと上手だね。
おじさんもけっこう自信あるほうなんだけどね。
好きな歌って自分も歌いたいけど、やっぱこれは女の子に歌ってもらわないと、って曲はあるからね。
お母さんから習って覚えたの? 日本にきて何年?
へえ、そうなんだ。自然に聴いて…、うん、おぼえて…そうかあ。
じゃ、なんかデュエットしようよ、何がいい? あ、ひとりがいいのね。いいよいいよ。
「好きになって、よかった」て…、加藤いずみじゃん、
そんなとこついてこられたら、ほれてまうやろ!
若いお嬢さんとカラオケに行けたとして、こんなラインナップで歌ってくれたらたまらんがなという14曲をダイアナ・ガーネットさんが歌う。
ほかに「三日月」「また君に恋してる」「小さな恋のうた」「春~spring~」「雪の華」「DEPARTURES」「糸」「ありがとう」「残酷な天使のテーゼ」と続く。
車のなかで聴いてた娘が、ふうん、でも上手いだけだよね、ってつぶやく。
きびしくないか。おじさんには十分すぎます。
放課後、年明けに行われる「南古谷ニューイヤーコンサート」の打ち合わせに出かける。
こんどで第10回目になる。10年か。はやいものだ。第一回に出たのは20期関根部長の代だった。
当時部員70人を越えていたので、吹奏楽部門のなかで最後の方に演奏し、そのあと部員が少し減ってからも、合同バンド以外ではトリの出番で出演させてもらってきた。その責務もけっこう果たしてきたと思う。
打ち合わせを終えて、職員室にもどりパソコンに向かっていると、かぎしめをしたチャリ軍団のひとりが、先生アンコンのとき遅くまで練習させてくれてありがとうございました、と言ってあったかい紅茶花伝を差し出す。
結果出せなくてすいません、とか言い出すので、ばあか、全部終わったみてえなこと言ってんじゃねえよ、これからだるぉがよ、本番は! とっとと帰って勉強しろ! 的な言葉を返し、紅茶花伝を一口含んだら泣きそうになったがこらえた。
試験休みが明けたら、すぐアンサンブルの校内発表、新人戦、ニューイヤーコンサートと続く。
次から次へと … か。これがなくなったら、どうするんだろ。
10年後の自分には、たぶんないのだ。
一昨日一日練習しても、まだ休みが残っているなんて、週休二日の学校さんはこんなに余裕のある暮らしをしているのかと感じた昨日は、指揮のレッスンをうけ、辛味噌ラーメンをいただき、映画を一本観るという優雅な一日をすごさせていただいた。
ちなみに久喜総合文化会館の近くにある味噌ラーメン専門店「北の国もっけい」さんは、ハイレベルな一杯を供する。もやしと挽肉を炒める作り方も、西山製麺のちぢれ麺も、自分の好みの一杯となる要素をほとんどクリアしている。アンコンの帰りに寄って、ここも美味しいなあと思いながら、心のどこかで「みかみ」を求めている自分がいる。あの辛さが、あの悪魔的な濃さがほしいと思ってしまう。どこかでラーメンを食べるほど「みかみ」に行きたくなるなんて、もはや恋愛感情にも似たとらわれ方をしてしまっているのかもしれない。
満腹と満足とはちがう。それも恋愛と同じかもしれない。
夕方、「清洲会議」へ。
さすがに日曜だけあって、南古谷ウニクスにもそれなりにお客さんが入り、笑い声もおこっていた。
三谷幸喜さんらしい作品だ。
登場人物のすべてが色濃くキャラづけされ、誰もが人として愛おしい存在として描かれている。
結果的にやや冗漫に見える部分もあるが、それは自分にとっては必然に見えた。
小説でいえば宮部みゆき作品のような必然的冗漫さだ。
自分にちって羽柴秀吉と言えば火野正平であり、明智光秀と言えば近藤正臣である。
ふるいよねぇ。どんだけってかんじでしょ。「黄金の日々」の緒形拳も味わい深かったが。
小学校時代に大河ドラマですりこまれたイメージはそれほど強烈だ。
そのイメージを揺るがすぐらい、大泉洋の秀吉はキャラ立ちしていた。
ものすごく目新しい秀吉像とは感じない人も多いと思うが、自分の才能を存分に発揮するためにどうすれば最善なのか、それを徹底的に考え実行した人物に見えた。
自分の才能に正直であり、誠実な姿だ。
ほんとにそんな人だったかどうかはわからないし、たぶん違うと思うけど、こういう人物を造形したいという思いをぶつけるのが作品なのだから、それでいいのだ。
そんな秀吉を見て、佐藤浩市が小日向文也に語るセリフがある。
「天はわれわれに天下人になる器量を与えなかったが、天下人になる人物を見極める目を与えてくれたのだ」
人には分がある。
その分を自覚することも、自分の能力をいかした人生を送ることができるかどうかとい点で大事だ。
役者の道をあゆもうとして、自分にその天分はない、でも本を書く方なら … と若いころ考えたに違いない(と思うんだけどなあ)三谷氏の思いも重なる。
役者さんの天賦の才能を大切にしようとした結果の脚本という意味で、充実した作品だった。
学年だより「y=f(x)」(2)
やると決めたことはやるのだ。じゃ、いつやるの? 今でしょ。
誰がやるの? 君でしょ! じゃ、どれくらいやるの? 100でしょ!!
基本の単位は100である。
昔から「裁縫を覚えたければ雑巾を100枚縫え」とか、「読書百編、義自ずから通ず」とか言う。 何かを身につけようとする時には、「100」が最低の単位であることを私たちの先祖は感覚的に知っていた。
英語の長文読解力をつけようと決めたら、とにかく100題解いてみる。
シュート練習を一日100本、100日続ける。
思ったとおりの結果が出ない時に、すぐにやり方を変えたり、ちがうものに手を出したりせずに、最低100単位の積み重ねをしなければならない。
100の単位をクリアした時には、新しい世界がかすかに見えてくる。
100の単位をクリアしないと、それが正しいのかそうでないのかも実はわからないのである。
たとえば、部活をイメージしてみてほしい。
練習を積むことによって、筋力がつき、技が身に付き、上達していく。
しかし、しばらくするとスランプかなと思われる状態になる。
そこを、ふんばって練習し続ける。苦しくてもがんばって乗り切っていこうとする。
すると、ある時にふと、できなかったことができるようになっている自分に気づく。
それどころか、試合の中で、まったく想像もしてなかったようなプレーができてしまう。
こういう時、「fそのもの」が変化してるのだ。
「x」を入れ続けることによって、それにふさわしい容れ物になるように人は変わる。
内田樹先生の次の表現も、この「f」の変化のことを述べている。
~ 知的パフォーマンスの向上というのは、「容器の中に詰め込むコンテンツを増やすこと」ではないからである。
容器の形態を変えることである。
変えるといっても「大きくする」わけではない(それだとまた一次方程式的思考である)。
そうではなくて、容器の機能を高度化するのである。
問題なのは「情報」の増量ではなく、「情報化」プロセスの高度化なのである。 (内田樹『邪悪なものの鎮め方』木星叢書)
「fそのもの」が根本的に変化した場合、予想もしなかったパフォーマンス「y」がうまれる。
身体の関数が変わるのだ。
勉強でも、部活でも、高校生活の途中で突然変化をとげる生徒を、これまで何人も見てきた。
共通していたのは、素直にやる続ける子たちだったということだ。
アンコンにクラリネットが出たのはいつ以来だろう。
忘れてたら申し訳ないが、7期の内藤部長時代以来ではないだろうか。
れつ、さかい、あかがわ君との四重奏(メンバーあってるかな)。
あ、「ティコティコ」があった、村松部長の代か。
初心者スタートのクラリネットメンバーが、一年半で他校と勝負になる状況になることは、なかなかない。
今年は、同学年五人のクラメンバーが、みんな前向きに取り組んでいるので、アンコンにチャレンジしてほしいとけっこう早い時期に考えていたし、本人たちもその気だったのではないか。
結果は残念だったが、点数的には入賞まであとわずか。正直言うと本番の調子はいいとは言えなかった。直前のリハ室の方がよかった。でも、それが実力ということなのだろう。
この期間で随分音が変わった。音楽的理解も深まった。けっしてかっこつけでなく、賞と同じくらい、もしかしたらそれ以上に大切なものを身につけ、経験できたと思う。
学年だよりにも書き、金子先生からもお褒めの言葉をいただいた「y=f(x)」の話にそっていうなら、彼らはこの期間で十分「x」は入れ続けた。目に見える「y」を得ることはなかったが、いわば彼らそのもの「f」を変えることができた。ちなみに、これを、われわれの業界では「成長」とよんでいる。
ちなみに、大学のあり方うんぬんの答申を出してる方って、そのへんわかってないんじゃないかな。
大事なのはfなんだよね。勉強(x)してるともちろんyは変わるけど、それ以上に人間が変わる。
とくに高校のうちは、やみくもに勉強にのめり込む方が、中途半端な(大学の先生をクリアすればいいレベルの)プレゼン能力をつけさせることより、よほど人を成長させる。
現場にいれば、そんなことは自明だ(と、おれは思うんだけどなあ)。
サックスの面々も、本人たちにどれくらいの自覚があるかわからないが、実はずいぶん変わったのだ。
アンコンに出た8人が核となって、そしてみんなが核レベルになってくると、バンドのfも相当変わるはずだが、どこまでいけるだろうか。
え? そうですね、顧問もですね。明日ちゃんと指揮のレッスン受けます。
11月22日(金) アンサンブルコンテスト@久喜総合文化会館
クラリネット五重奏「上海スクエア」、サックス三重奏「のっぴきならない虹へ」
サックス3重奏チームが銅賞いただきました! 応援ありがとうございました!!
エンドスタートでがんばります!!!
11月の本番ラッシュも残すところアンコンだけとなった。
今日、練習の最後に、2チームに発表してもらった。
クラ5は音色が、サックスはさらいきるかどうかが、残された時間内での課題だろう。
どちらのメンバーも、合奏曲と平行して、よくがんばって練習してきたと思う。
もっと残して練習させてあげたいと思った日もあるが、勉強に支障をきたしているのを見て見ぬふりをするわけにはいかない。
何事もそうだけど、与えられた時間をどう使うか、つまりエネルギー分配が人生の妙であって、いくら好きなことでも一日に28時間をそれに費やすことは不可能だ。
いくら好きな人と一緒にいたくても、仕事もせずにいちゃいちゃし続けるわけにはいかない。
好きな人とすごす時間を大切にしたければしたいほど、一緒にいない時間をより有効に使わねばならない。
楽器を吹いてない時間は、指の練習はできてないかもしれないが、音楽的感性は1秒後に変わることもある。
難しい問題を考えに考えて、あきらめて一晩寝て起きたら、すらすら解けるようになることもある。
仕事で行き詰まったとき、いったん忘れたふりしてほったらかしておいたら、あっけなく解決の糸口が見えることもあれば、時が解決してくれることもある。
自分ひとりで抱え込んでいる状態というのは、自分が自分の意識のなかで解決しようとしている状態だ。
無意識や、からだ自身にまかせてしまう方がいい場合も多い。
ほかの人に相談してみるだけで、変わることもある。
たいへんな時ほど、息をはいて、一歩ひいてみるのがいいのではないだろうか。
学年だより「y=f(x)」
関数「y=f(x)」では、xの値を変えるとyの値が変わる。
xが原因で、yが結果だ。
自然界のすべてのものは、この原因と結果の関係で説明できるとする考え方を「機械論」という。
機械論は近代西洋哲学から生まれた考えだが、東洋においては、そのはるか昔にお釈迦さまが長い間の厳しい修行を経て、あるときこの式に気づいた。
人生って … 、「y=f(x)」なんじゃね?
そしてそれを「因果応報」という言葉で表現すると、それ以来二千数百年もの間、多くの人々の生きる指針となってきた。
xに良いものをいれると、yは良い結果になる。xに悪いものをいれると、yは悪い結果になる。
人生は、根本のところではシンプルな法則で成り立っている。
~ 奇跡とは、悪いものをインプットしておいて、あるいは、なにもしないで実りある結果を期待するようなものである。…
時間をかけてコツコツと精進すれば、大きな成果が得られる。思い出したようにあわてて努力すれば、そこそこの成果になる。努力を忘れた人は、もうしあわせを期待してはいけない。
極論すれば、このことさえわかっていれば、よい。人生、ジタバタする必要はどこにもないのである。 (成川豊彦『自分に勝つ法則』PHP出版) ~
この考えを信じてさえいれば、結果が出ないときはxが足りなかった、もしくはxの中身がよくなかったと思えばいいから、実にシンプルに反省できる。
ただし人は、自分が入れたx以上のyをつい求めてしまうものだ。
だから、時に結果が出ないことを自分以外に求めてしまったりもする。
それからもうひとつ大事なのは、人生は机上の計算とちがって、yの値が提示されるまでに時間がかかるということだ。
xになんらかの値を入れ続けていないといけない。そして結果をじっくり待たないといけない。
~ すぐによきy(結果)を求める人、言い換えれば、見通しなく目先のことばかりに気を取られている人は、よきxがゆっくりと活動をはじめるまで待っていられない。そして、がっついてせっついた挙句に、やらかしてしまうのだ。
後から悪いxを次々とインプットして … 台無しにしてしまう。
努力を積み重ねることは難しいが、積み上げたものを壊すのはいとも簡単なことなのだ。 ~
原因「x」が変われば、結果「y」が変わる。
あせらずに、じっくりと「よきx」を入れ続けることで、必ず実りある「y」を手にすることができる。
音楽座ミュージカル観劇&コンサート、無事終わりました。
ありがとうございました!
ご観劇くださった保護者のみなさま、お芝居についてご感想あったらお教えください(関係者かっ!)。
去年に続いて二回目の参加になる。今年の会場は新宿文化センター。銀座に比べると、すごい近い。
東新宿駅から徒歩5分で、会館そのもののつくりは古いが、周囲がひろびろとして、都会的空間がひろがっている。昼休憩のあいだ、中島先生とぼおっとしてたのだが、平日はきっとこういうベンチに、オフィス街からわらわらとあふれてきたOLさんたちが座ってランチしてるのかなと思う。自分たちの普段いる空間とちがうねと語り合っていた。
午前中、楽器の搬入を終えてから、集まった高校生たちにかんたんなワークショップ、そしてリハーサルの見学。 本番二時間前に、まだこんなにいろいろ変えてて、それにみなさん瞬時に対応するのだからすごいと思う。
昨年も感じたが、演出をしてらっしゃるプロデューサーの方と、役者さんとの距離感が、非常に近いのではないかと思った。もちろん、ほかの劇団のリハーサルを見たわけではないから、なんとなくでしかないのだが。
でも若い女優さんが、ふつうに質問したり意見を言ったりしているのを見ると、「うちは、みんなでつくってるんですよ」と前に聞いたのが、ほんとにそうだったんだとあらためて思う。
脚本、演出(なかには主演も)を担当するリーダーがひっぱっている劇団を観ることがふだん多いせいかもしれないが、音楽座さんのお芝居を生む大きな要素かもしれない。
観劇、コンサートを終えて、最後にロビーに集合する。
本校を担当してくださった富永波奈さんのおことば。
「みなさん、今日はほんとによかったです。でももっといけると思ってがんばってください。私たちも、これからまた練習です!」
えー?
「私たちは、エンドスタートという言葉を大事にしてて、少しでも前へ、と思ってます。また逢いましょう!」
そうだよなあ、おわった、はいよかったじゃなく、ここからスタートしていかないと。
一番必要なことかもしれない。