水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

マイレージマイライフ

2010年03月30日 | 演奏会・映画など
 ジョージクルーニー扮する主人公ライアンの仕事は、リストラ宣告人。
 年間300日を越える出張をこなし、全米を飛び回っている。航空会社のマイレージを貯めることが、彼の唯一の目標だ。
 冒頭、スーツケースに必要最小限のものを詰め込み、さっそうと飛行機に乗り込んでいく主人公の様子が描かれる。
 「プレジデント」とか「ゲーテ」とか読んでる会社勤めの方にとって、仕事内容自体はちょっときつそうだけど、けっこう憧れるかっこよさなのではなかろうか。
 どうせ出張にいくなら、湘南新宿ラインよりは新幹線で行きたいし、飛行機のしかもエコノミーではない席で行けたらエグゼクティブな気持ちになれる。
 出張といえばせいぜい吹連関係の会議とか中学校訪問だから、飛行機にも特急にも乗れない。
 楽しみと言えば、帰りにラーメン屋さんに寄っちゃおうかなぐらいのものだ。
 昔、中央大に出かけた帰り、立川駅のホームで缶ビールを一本いただいてしまったときは、背徳的な官能に身を浸すことはできたものの、おれもここまでおやじになってしまったか感を強く抱いたものだ。
 だから、出張先で綺麗なお姉さんと出会い素敵な夜をすごすことは起こりえないが、ジョージクルーニーはちがう。実にうらやましい展開が待っている。
 でも、そんな風に知り合った女性と、たとえば結婚を前提としたおつきあいに発展することなど考えもしないのだ。 
 なぜなら、彼にとって大事なのはビジネスであり、マイルを貯めることなのだから。
 物理的にも精神的にも荷物を持たずに颯爽と生きていくことが彼の生き方の哲学だから。

 高校の時、はじめて渡辺昇一先生の『知的生活の方法』を読んだとき、興奮して、寝ずに学校に行ったことがある。
 何か学びたい、勉強したい、研究したい、賢くなりたい、的な思いにとりつかれ、よおし俺も知的生活を送るぞと思った。
 結果たぶんその日の授業は(ま、その日にかぎらないけど)ずっと寝てたのだから何をか言はんやなのだが、でもそれくらい心揺さぶられた本だ。
 その本に結婚生活という一節があって、結婚は知的生活にプラスとマイナス両面があるという記述があった。
 結婚とは純粋に愛し合った者同士の共同生活であるという幻想を抱いていた当時の自分にとって、そんなふうに結婚をとらえる視点があるのかと思ったものだ。
 知的生活を結婚の上位概念としてとらえることへの驚きだったのかな。
 結婚しないのが理想とか書いてあったんだっけなあ。本棚を探すのが面倒なので、あいまいな記憶のまま書くけど、結婚して身のまわりの世話をしてもらって、自分の知的生活をより充実させられるならいいというニュアンスではなかっただろうか。
 よし身銭を切って勉強するぞとか、将来は書庫のあるうちに住みたいなとか考えて興奮しながら、こと結婚に関しては、そんなものなのかなという疑問をもったはずだ。

 知的生活を仕事におきかえたとき、ジョージクルーニーの生き方は、この価値観に近い。
 身軽に生きていたい、自由に飛び回っていたい、自分のペースで好きに仕事をしたい。
 そのための潤滑油になるための恋愛ならしてもいいが、面倒な関係になるのは避けたいと思っているのだ。
 もちろん、映画にはドラマがあるので、彼の身のまわりにもいろんな事件が起きる。
 一番は、新しく入ってきた優秀な女性社員が、彼以上に合理的に仕事を進めようとする人物であったこと。
 リストラする相手のところへわざわざ出向いて宣告しなくても、ネットで告げればいい、そうすれば莫大な出張旅費という経費が削減できると主張する。
 その提案を受け入れ実現しようとする経営者、それに反対する主人公。
 リストラを告げるのは人生の大きな岐路に立たせる仕事なのだから、面と向かってやらねばならないと考える主人公は、そういう意味では前近代的な考え方を有していると言えるのかもしれない。
 で、そんな女の子と一緒に出張し研修させたり、自分の妹の結婚に関わる一悶着があったりして、マイルを貯めることがほんとうに大切なのか、という思いがわいてきはじめる。
 ふつう考えれば、最初から疑問もてよ、ということなのだが。
 そして、そのときマイルではなく人とのつながりを欲している自分に気づいたライアンがどういう行動にでるか。
 そしてそれがどういう結果に終わるかは、よかったらご覧になってください。
 映画的なハッピーエンドにはならないし、ものすごい解決がおとずれていい爽やかな気持ちになるエンディングではない。
 でも、だからこそ現実感はあるし、どんな生き方も正解とか不正解とかではないのだろうなという結論に達することはできる。
 こういうテーマの作品は、「マイルより人とのつながりが大事ってわかったでしょ、仕事至上主義の価値観で生きちゃだめですよ」とまとめようとする方向性になることもあるけど、やはり人生とは(でっかくでたな)そんな単純なものではないと思うのだ。
 
 カードを提示して颯爽と飛行機に乗り込んでいくジョージクルーニーはかっこいい。
 かっこいいのだが、どこか滑稽にも見える。
 仕事仕事の毎日で、家族とか友達とか考えられなくなっている人は、今の日本にもきっといることだろう。
 本人は一生懸命やっているつもり、かっこよくやっているつもりで、実は滑稽になってしまっていることもあるだろう。
 でも、そんな人を「あの人って、人生の本質わかってないよね、さびしい人生ね」と上から目線で見たくはない。
 どっちかといえば、ジョージクルーニーの滑稽さと悲哀にシンパシーを感じてしまったのだ。
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アルヴァマー序曲

2010年03月29日 | 日々のあれこれ
 演奏会のオープニング曲。
 演奏会の曲決めミーティング資料をふとみたら、「グレードは4、実際の感覚では3.5かな」という情報を提供していた。
 あさはかだった。
 今回の演奏会を通して、自分の感覚では最も難しい曲がこれだった。
 たしかに音楽はわかりやすい。
 そして、よい曲であることは誰でもわかる。
 表面的な譜読み自体は、そんなに時間はかからない。
 そして、きちんとした演奏にするためには、とんでもない手間暇がかかる。
 やってみてわかった。
 次元はちがうけど、お正月に聴いた東京フィルさんの「アルヴァマー」も、実はもうひとつピンと来なかったのだ。
 ちなみにその東フィルさんの演奏も、バーンズ先生が「早すぎる!」と歎いたテンポ設定での演奏だった。
 では譜面の指示通りのゆったりとしたテンポでやったらどうかというと、よほど上手なバンドでないと、間延びしてしまう気がする。
 そのテンポのまま音楽の推進力をキープしていくのが実に難しい。
 で、テンポあげて軽快にやろうとすると、なんか音楽が軽くなっていく。
 今回、結果として何人かの先生に教えを請うことになったのだが、習えば習うほど、楽譜に書かれている内容の深さにおどろくことともなった。
 おそるべし。アルヴァマー序曲。
 栴檀は双葉より芳し。
 バーンズ先生のお若い頃の作品だが、その完成度の高さはとてつもないもので、これオープニングにいいよね的なのりで選ぼうとした自分のあさはかさを今更ながら感じた。
 とくにTpチームには苦労させてしまった。
 でも、いい曲だったなあ。 
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ありがとうございました!

2010年03月28日 | 日々のあれこれ
 本日は、お寒いなかご来場いただき、ありがとうございました。
 3月の終わりって、けっこう天気の悪い日が多いですね。
 いろいろ不安もありましたが、昨日のリハを終えた時点では、早く開演したいなという気持ちになれました。
 今日は、部員一同お客様のありがたさをひしひしと感じたことと思います。
 この気持ちを今後の活動の糧にしていきたいと思います。
 またそれをどのように形にしていくかが自分の仕事と思います。
 今後ともあたたかく見守っていただければ幸いです。
 ご来場いただいた皆様、日頃から支えていただいている皆様のご健康をお祈りいたします。
 ありがとうございました。
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前々日

2010年03月26日 | 日々のあれこれ
 二部の通し、一部の直し、荷造り、市民会館へ移動して仕込み。
 ステージ上の配置、ソリストが動けるかどうか、踊りの立ち位置などを確認して今日は終了。
 あとは、明日実際に音を出してみてのリハでどれくらいつめられるかになった。
 照明も例年より少しお金をかけてみることになった。
 このページをご覧いただいているみなさん、あさっては是非会場にお越し下さい。
 お待ちしてます! 
 それで、できるだけ前の方に座っていただけるとありがたいです。
 よろしくおねがいします。
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最後のつめを …

2010年03月25日 | 日々のあれこれ
 まだ二部は通らない。
 明日はいけそうな気がする、というか通さねば。
 三部はほぼだいじょうぶ。
 一部は音楽的課題をぎりぎりまで克服していかないといけない。
 明日の夕方は、会場入りして、もろもろの準備を行う。
 明日の午後出発したら、三年はもう小講堂にもどらないんだよと帰りの集合で連絡したら、急にさびしくなってきた。
 本番が終われば、気持ち的にひとだんらくするのはわかっていて、そこからさらに進んでいくべき道もはっきりしているが、なんかこの直前のあれこれの時期がなくなてしまうのはさびしい。しかたないけどね。
 
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五日前

2010年03月23日 | 日々のあれこれ
 五日前が終わった。
 困っていると救世主があらわれることがあり、今日はいっきにやるべきことが見えた日になった。
 今予定していることがすべてうまくつながったなら、すばらしい演奏会になることはまちがいない。
 あとは、それらを自信もってやれる状態にできるか。
 技術もそうだけど、気持ちの問題も大きい。
 明日であと四日。
 
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スプコン

2010年03月21日 | 日々のあれこれ
 午後から、星野高校さんのスプリングコンサートにでかけた。
 このごろは文化祭でしか接点はなくなってしまったが、多少なりともかかわりのあった生徒さん達が、この演奏を最後に卒業していくのだなと思うと感慨深い。
 うちの3年生達もあと一週間か。
 うちの定演も今年で19回、よくしぶとくここに居続けてるなと思う。

 内田樹先生が「学校はあまり変化しない方がよい」と書いておられた。なぜか。

 ~ それは「変わらない学校」が定点としてあることによって、卒業生たちは、自分が「そこ」からどれくらい離れたところまで来たのか、「そこ」にどれくらい深く繋がっているのかを計測することができるからである。 
 学校の、あるいは教師の重要な社会的機能は「定点」として、卒業生たちのために、「そこにいる」ことである。 ~

 そうか、いることが大事なんだ。
 そう考えれば少し気が楽か。
 何も与えられなかったとか、教えられなかったという後悔の念は必要なくなるから。
 大体、他人さまに何かをしてあげられるなんて考えてしまうことがおこがましい。
 渦中にいるときは、何がなんだかわけわかんなくて、てんぱってあれこれやってもらい、卒業して何年かして、突然ふらっと訪ねてきたときに、学校が、部が存在していればいい。
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終了式

2010年03月20日 | 日々のあれこれ
 二泊の合宿を経て終了式。
 今年度が終わったのだが、当然のことながら終わった感はまったくなく、昨日の学年の納会も、短時間顔を出して失礼し、夜の合奏にもどってきた。
 1部の曲を練習していると、やっただけ上手になるのだが、その他の曲の出来具合いが保存されずに劣化していくような気がしてしかたがない。
 皿回し勉強法というのがある。
 いろんな分野、教科の勉強をやらないといけない時は、一科目の完成にこだわらないで、次から次へとやっていくという勉強法だ。
 一曲目の皿をまわし、順々に皿をまわしていく。
 先にまわしはじめた曲がとまってしまわないうちに、またそれにもどってきて練習するという方法を明後日からやっていかないといけない。
 昨日の昼の合奏では、一回できてたはずのことができなくなっててすこしヘコんだ。
 最上級生が「大丈夫ですよ」という空気をかもしだしてくれるのかと思ったら、それも残念な結果になり少しヘコんだ。
 人間ができてないので、それが態度にでてしまい、何人かあやまりにきた。
 ごめんな、いちばんふがいないのは先生だ。
 職員室で安河内哲也先生の本を読んでたら、うまくいかないときに精神的反省をしてはいけない、同じミスを繰り返さないための技術的反省のみをせよ、と書いてあって、なるほどと思った。
 今日の合奏は一進一退。
 でも一進があったのはまちがいないし、さすが3年と言っていい音もすこしあった。
 明日は、宣伝や仕事の日だが、きっとあさっての合奏は二進ぐらいいくことを信じ、今日は早めに寝てもいいよね。
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ミッション

2010年03月17日 | 日々のあれこれ
 安河内哲也先生『人を「その気」にさせる方法』の冒頭に、「やらされてる感」があってはだめで、「その気」になって自分からやれるようになったら、人はいくらでも伸びるとあって、なるほどその通りだと思う。
 何年か教員をやってれば、「いくらでも」かどうかは別としても、自分からやる子は伸びるの原則を疑う人はいないだろう。
 一つの曲をいかにていねいに音楽にしたてあげるかを競うコンクールとはちがって、定演では実にいろんなことをやらないといけない。
 少しでもやらされてる感が垣間見えてしまうと、お客さまによろこんでもらえなくなる。
 喜んでもらえるためにはなんでもやる姿勢を身につけることが大事で、結果としてその経験は、音楽をつくる人になる正しい道のりでもある。
 もう一歩のとこまできてる。

 ふと思ったのは、自分は顧問として今の時期けっこういろんなことをやっていて、部員諸氏を駅まで送ったあと、楽譜をコピーしたり、台本なおしたりしてるけど、「やらされてる面」もあるとはいえ、純粋にやらされてるのだとしたらここまでは時間を割けないとは思うのだ。
 ではなぜ。安河内先生のおっしゃる「ミッション」だろうか。
 「ミッション」を見つけた人は伸びるとも書いてあったが、そんなたいそうなものもないような気がする。
 だいたい、もともとが「熱中時代」を見て教師になりたいと思ったレベルなのだから、「アホドラマ」にかんたんに感化されて、何かやると何かうまれるかもしれないと勝手な幻想を描いて、時に感動して、時に裏切られてを繰り返してるだけで、きっとこの先も同じことを繰り返していくのだろう。
 そういうことをやらせていただけるのは、やはり幸せとしか言いようがない。 

 
 
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トイレの神様

2010年03月16日 | 日々のあれこれ
 植村花菜の「やさしさに包まれたなら」をFMで耳にしてすぐアマゾンでCDを注文し、通しで聴いてみてその歌力に感激し、絶対ブレークする、よしその前に川東の文化祭によんじゃいましょうと進言して一蹴されてから3年(4年かな)経った。
 ひょっとしたら、この曲でぐんとメジャーになるかもしれない。
 おばあちゃんに育てられた植村さん自身の体験を歌にした作品。

 ~ 小3の頃からなぜだか おばあちゃんと暮らしてた
   実家の隣だったけど  おばあちゃんと暮らしてた
   毎日お手伝いをして  五目並べもした ~

とはじまる。トイレ掃除が苦手な「私」に、おばあちゃんは

 ~ トイレには それはそれはキレイな 女神様がいるんやで
   だから毎日 キレイにしたら 女神様みたいに 
   べっぴんさんになれるんやで ~

と語る。べっぴんさんになるために「私」はトイレ掃除をがんばりはじめる。
 「私」は、大人になるにつれて、おばあちゃんとぶつかったり、家にいつかなくなったりしはじめる。
 家族といるより彼氏といた方が楽しいのはあたりまえだ。
 おばあちゃんも、きっとそれがあたりまえだと思って見守っていただろう。
 「私」が上京してから2年がたち、おばちゃんとの別れが唄われる。
 ちゃんと育ててもらったのに、ちゃんとありがとうが言えなかったという悔いの残る別れ。
 歌の後半は、つぼにはまる人には涙がちょちょぎれるはず。
 でもけっして、感動の押し売り、無理やり泣かせてやる的な作品ではない。
 「トイレの神様」という幼いころのおばちゃんの教えを大事にし続けている「私」の人生。
 反発したり、家から足が遠のいたり、新しい生活に踏み出したりしても、その教えをいつも胸にいだいている「私」、つまりおばあちゃんと疎遠であったときも、心のどこかでつながっていることが感じられるからだ。
 そして、二人の思い出が「鴨南蛮」「五目並べ」みたいな具体でイメージできること。

 ~ 買い物に出かけた時には 二人で鴨なんばん食べた
   新喜劇録画し損ねたおばあちゃんを
   泣いて責めたりもした ~

 「ちゃんと録画してって、言うたやん!」と泣き叫ぶ孫と、「ごめんな、かんにんしてや」と宥めるおばあちゃんとの様子を思いうかべて、自分の昔と重ねたりなんかすると、もうやばくないですか。
 『四十九日のレシピ』がいいなと思われた方は、ぜひこの曲もきいてみてほしい。

 二部のお芝居も、血や肉がついてきて、ちょっとやばいとこでができそうだ。 
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