水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

西関東アンサンブルコンテスト

2011年01月30日 | 日々のあれこれ
 アンサンブルコンテスト西関東大会が、所沢ミューズで行われた。
 埼玉は西部地区の開催ということでは役員を免れるはずはなく、司会進行の大役を全うしてきた。
 とはいっても、全体の進行具合いは実質ステージ係のかわぐち先生が、自分のところに生徒さんをがっつり指導しながら司っていたので、だいたいの流れをみながら舞台袖にいればよく、出演団体の演奏をそれなりに味わわせていただくこともできた。
 西関東というと、コンクールでは埼玉県勢が上位を独占するので、アンコンもそんな感じでしょと思われている面もあるが、いやいや他県も上手です。
 とくに群馬県の学校さんは、今年はコンクールでも市立前橋さんが全国に進んだが、アンコンを聴いててどの団体も実に音楽性豊かに感じた。
 これでもかという技術をアピールする埼玉県勢より聞きやすいと思ったのも正直なところだ。
 高崎女子さんのフルートアンサンブルは賞こそ銅賞だったが、すごく豊かなひびきに聞こえたし、なんといってもおどろいたのが、高崎高校、前橋高校という二つの男子高校が出場されていたことだ。
 思わず袖で「がんばってね」と声をかけた。
「先生のとこも男子校なんだよ」「そうなんですか」「みんな経験者なの?」「いやうちは二人は高校からです(前橋の打楽器三重奏)」。
 高崎高校の木管三重奏は、フルート、オーボエ、ファゴットの三重奏。
 ファゴットの生徒さんは高校からだと言っていた。
 吹奏楽の一パーツともいえる楽器群のアンサンブルが続いたあとに、この編成が出てくると、いかにも室内楽の感じがする。
 もちろん技量も高いうえに、自分たちでつくる音楽が感じられ、会場全体が音楽を堪能する5分間だったと思う。
 たぶん本人たちはびっくりしたとは思うけど、納得の全国代表だった。
 うちもがんばらなきゃね。
 もちろん、もう一つの代表である埼玉栄高校さんの打楽器アンサンブルも横綱相撲だった。
 開会式、閉会式ともにかみかみだった司会ぶりなどなんの問題もない、いい大会だった。司会は原稿なしでやりたいなあ … 。
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届きました

2011年01月28日 | 日々のあれこれ

 「~無くんば、~せず」の構文を教えていて思いついた例文。

 みんな、大学行って就職して合コンかなんかで知り合った彼女といい感じになってきて、さて結婚なんて話を現実化するべき時期も近づいたかなというような自分をイメージしてみなさい。

 なあ、おれら将来のことさ、少しまじめに考えてもいいかもね。
 あたしのことそんな風に思っててくれたんだ、うれしい。
 そりゃあ、そうさ。
 いちおう聞くんだけどさ、貯金てある?
 いや、それはない。でもこれから貯めるし、無駄遣いしないようにするし …
 車あったっけ? 土地は? 家は? おうちからの援助って当てにできる?
 いや、そういうのはないけど、でも、○○ちゃんを好きな気持ちでは負けないし、これからがんばって幸せにできると思うから …
 あのね、観念じゃ幸せになれないの、悪いけどちょっと考える時間くれない。

 「無(二)資産(一)、不(二)結婚(一) … 資産無くんば、結婚せず。」

 この例文を書いたら、すごく納得してくれた。
 今の若者達にはただのネタには聞こえなかったのだろうか。
 そうか、この手の例文のくいつきがいいのかと気づき、「無愛、不交」と書くと、返り点つけなくてもみんなニヤニヤする。大人じゃないか。
 ここには書けない例文でもう一押ししておいた。
 そんな漢文を2コマやって職員室にもどると、イスの上にアマゾンみたいな箱。
 いや、アマゾン頼んでないよねと思ってもちあげると、全日本吹奏楽連盟とある。
 きてしまったか。
 課題曲一式である。
 またはじまってしまった。

 

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模試

2011年01月27日 | 日々のあれこれ
 模試の日。
 午前中は試験監督が入ってなかったので、会議室で国語の問題を解いていると、調子がいい。一読で大体頭に入ってくる。いきなり線もひけた。
 不調の日だと、評論を読んでて最後の方にいくと、最初に何が書いてあったかを忘れてしまうものだが。
 駿台の稲垣先生だったと思うが、線をひいたり、大事な言葉にチェックいれながら読むのは、数学で言えば途中計算だとおっしゃってて、なるほどと思う。
 問題は、何が大事か、どこに線をひけばいいかを生徒さんが習ってないからで、それを教えるのが大事だ。
 このさえた頭脳でセンターの評論を読み返してみたけど、やっぱり設問の質はよくなかった。おそらく我々が一題つくるのに比べたら何十倍も時間をかけて練っているはずだ。
 ひょっとしたら、練りすぎてダメにしちゃったのかもしれない。
 あいまに、一昨日読んだ芥川賞をとった西村賢太「苦役列車」をぱらぱらとめくる。
 恋人もいない、友人とよべる存在もいない、兄貴分もいない。一日5500円の日雇い仕事での、その日暮らし。唯一の計画性はわずかづつ積み立てたお金でたまに風俗店に行くことが、北町貫太の楽しみだ。
 「苦役列車」は、坂本純平とは真逆のそんな若者を描く。
 なんとなくだが、実に芥川賞らしい雰囲気をもつ作品だ。
 なぜだろう。
 よくよく考えてみると、書いてある内容自体は、小学生の作文と大差ないのだ。
 この素材が小説になるなら、日本人誰しも小説が書けることになる。
 ていうかもっと波瀾万丈の人生を送っている人の方が多いと思う。
 働いた、酒呑んだ、友達らしい存在ができた、でも気に入らないことがあった … 。
 「ぼくは、昨日○○をしました。そのとき、こう思いました」というだけのものだ。
 じゃ、なぜこれが文学作品として成り立つのか。
 これが小説だよなと感じさせるのか。
 「ぼくは」ではなく「貫太は」となっている点がまず第一なのだろう。
 「貫太は」となっていれば、表現としては「ぼくは」でもいいのだろう。
 物語と小説のラインをこれでひけないかなと考えているうち、冴えてた頭脳の冴えてる性が急におさまってきてしまい、試験監督中にいろいろ片付ける予定だった知的作業はあまりすすまなかった。
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純平、考え直せ

2011年01月26日 | おすすめの本・CD
 奥田英朗の最新作は、対抗勢力の組の組長を殺害せよ、鉄砲玉になれと命じられた下っ端やくざの、決行までの三日間を描く。
 主人公の坂本純平は、21歳。東松山市出身。
 兄貴分の北島には命を差し出してもおしくないと思うほど心酔し、話し方までまねをする。
 歌舞伎町を流していると、たくさんの人があいさつしたり、からかったりしてくれる憎めない若者で、純平の純は純粋の純なんだよなと思う。
 鉄砲玉を命じられた後、純平には自由な三日間が与えられる。
 その貴重な時間に、おいしいものを食べようとして、高級寿司店の敷居が高くて自分のちっぽけさを嘆くシーンとか、ナンパしたギャルに「おれ鉄砲玉になるから」と話したことがネット上の話題になることとか、「今」と「若者」を描くその具体がほんとうにうまい。
 具体を積み重ねていくことで、うらやましくなるくらいにまぶしくて、恥ずかしくなるくらいに切ない青春期の姿がうかんでくる。
 決行の日がせまる。
 つまりそれは、うまくいった場合、捕らえられて刑を償う数年をむかえることになるし、失敗すれば命を落とすことも十分ありうることで、純平自身ハラをくくってそれを成し遂げようとしているが、読者の側は、ほんとうに実行するの? 死ぬの? と思いながら読むことになる。
 もうこんな純な若者はなかなかいないよね、と純平にシンパシーを感じれば感じるほど、決行の日がこのまま来なければどれだけいいことか、という思いになっていく。
 「アンネの日記」でその日が近づくにつれて、胸がしめつけられるような思いにつつまれていったのと同じかもしれない。
 この三日間、純平はいろんな人と出会う。
 ほのかに思いをよせていた同世代にダンサーにも、少しは気持ちが伝わったという感覚も得る。
 他の組の同世代の若者と親しくなったり、昔世話になった地元の人と会ったりし、「こんな時にかぎっていろんな人に出会う」という感慨を純平は抱く。
 たぶん、ちがうんだいね。
 本当は毎日出逢っているのだ。
 いろんな人に。
 別にやくざじゃなくても。
 それに人は気づかない。
 この三日間を大事にしなきゃという思いで生きたからこそ、出逢っていることに気づけたのだ。
 死を意識した梶井の檸檬が爆弾になると本質的には同じだ。
 教訓。鉄砲玉だと思えば、なんでもできる。
 あと三日の気持ちで生きれれば、もっと人生が愛しくなる。
 それにしても手練れの作品である。
 
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センター試験

2011年01月25日 | 日々のあれこれ
 入試最終日。
 電車がとまることもなく、降雪もなく、問題のミスもなく、無事終わった。
 自分のつくった小説問題(「桜田門外の変」より)を見、受験生の設問ごとの正答率を見直すと、あらためて良くできた問題だなと自画自賛する。
 大学入試センターの先生方も、自分たちでつくるなら、ちゃんと勉強してからつくってもらえないだろうか。
 一教員が何かほざいても何も変わらないのはわかっているので、最悪を回避する防衛力を身につけさせなければならないとは思うが、やはりセンターの問題を見ると多少はがっかりする。
 トータルでみれば、国語の力を測れる問題だとは言えるのだが、ふだん予備校さんの模試で絶対的な力を発揮してた子も、いくつかはつまづくだろう。
 今年の、評論の問3、小説の問5、問6などは、予備校さんだったら、作問段階で100%没になる問題だ。もちろん本校入試でもだめ。
 それでいて、簡単な問題はやたら簡単。
 思うようにはいかないのが人生というのを味わうの文学だから、大学の先生もわざとおバカのふりして、こんな問題をつくっているのかもしれないな。
 授業で解説はするけど、これほどモチベーションがわかない問題というのもめずらしい。
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檸檬

2011年01月24日 | 日々のあれこれ

 友人のブログでさだまさし「檸檬」の歌詞を読んだら、無性に「私花集」がききたくなり、押し入れを探すのも面倒なのでアマゾンで注文して届くやいなや、車の中でかけはじめると、案の定歌詞がするすると口をつく。
 
 ~ 慣れないタバコにむせたと 涙をごまかしながら
   ちゃんとお別れが言えるなんて 君は大人になったね ~

  1曲目「最後の頁」の冒頭だ。
 情報量、多いね。
 普通の楽曲だと、これだけの内容を表現するのに、ワンコーラスまるまる使ってしまうこともあるだろう。
 作詞ではなく作詩とこだわるさだ氏ならではの詩だ。
 
 ~ 不思議なもんだね二人 上り坂はゆっくりで
   下りる早さときたら まるでジェットコースターみたいだ ~

 直喩であれ、隠喩であれ、比喩のたくみさについては、さだの前にさだなし、さの後ろにさだなしと言っていいだろう。
 ただし、この曲のここは、軽いジャブみたいなものだが。
 
 2番に入って、サビ前の部分。

 ~ 不思議なもんだね二人 もう何年か過ぎたら
   全くちがうレールを  きっと走ってるのだろうね ~

 1番の「ジェットコースター」の比喩がたんなるその場のジャブではなく、2番の「レール」でいきてくる。
 見事な縁語だ。
 少し前の古文の時間、キンキキッズ「ガラスの少年」などを使って縁語を教えたが、ここにこんなきれいな例があった。ネタに加えておこう。

 「もしも 僕たちの このあらすじが … 」という二番のさびのあと、再度一番歌詞の繰り返し。

 ~ 君が「サヨナラ」と マッチの軸で
   テーブルに書いた落書き 僕がはじから火をともせば
   ほら サヨナラが燃えてきれいだ ~

 ♪ ほらサヨナラがもえてきれいだ …
 
 まっさんの声が若い。そして一緒にくちづさんでいる自分の声も、高校の時ほど若くはないが、たぶん技量はあがっている。
 
 ♪ ほらサヨナラがもえてきれいだ …

 ちょっと、待って。これ危なくね?
 テーブルの上のマッチに火をつけて、ってこれどこでやってるんだろ。
 自分のなかでは喫茶店のイメージだったのだが、だとしたら「お客さん、何やってんですか!」って言われるんじゃないだろうか。
 いやあ、気がつかなかった。
 テーブルの上でやっていいのは「なくした愛の並べ替え」だけだ(「レモンティーで乾杯」)。
 
 そう思って聞いてみると、昔はそのまま現実の描写だと思って歌っていた歌詞も、実は観念の世界だったのかと思い直すものもけっこうあった。


~ 或の日湯島聖堂の白い 石の階段に腰かけて
  君は陽溜まりの中へ 盗んだ 檸檬細い手でかざす ~

 「盗み」は … 、ぎりぎりありかな。

~ それを暫くみつめた後で きれいねと云った後で齧る
  指のすきまから蒼い空に 金糸雀色の風が舞う ~

 なかなかほんとには囓らないよね。すっぱいし、洗ってないし。
 でも、この歌をはじめて聞いたとき、Gパンにトレーナーの細身の大学生のお姉さんが、囓った檸檬をかざしている光景がまざまざと目に浮かんだのだ。
 そんなきれいなお姉さんの隣に、タバコをくわえてたたずむ将来の自分の姿がイメージされたのだ。
 早く大学生になりたかった。

 ~ 喰べかけの檸檬聖橋から放る 快速電車の赤い色がそれとすれ違う
   川面に波紋の拡がり数えたあと 小さな溜息混じりに振り返り ~
      捨て去る時には こうして出来るだけ 遠くへ投げ上げるものよ ~

 放っていいのだろうか。
 橋から水面まで、けっこうな距離があるけど、波紋数えられるだろうか。
 そして「捨て去」ったものは檸檬だったはずなのに、この1番の最後の行にきて、いっきに檸檬が象徴するものに世界に引きずり込まれる。
 こうなると2番はさだ氏の独擅場だ。

 ~ 君はスクランブル交差点斜めに 渡り乍ら不意に涙ぐんで
   まるでこの町は青春達の 姥捨山みたいだという
   ねェほらそこにもここにもかつて 使い棄てられた愛が落ちてる
   時の流れという名の鳩が 舞い下りてそれをついばんでいる ~

 「なんとかという名のなんとか」も、けっこう多用されたなあ。

 ~ 喰べかけの夢を聖橋から放る 各駅停車の檸檬色がそれをかみくだく ~

 「挫折」なんていう言葉にあこがれ、酔ったのは、決して自分たちより上の世代だけの話ではない。
 おれらの世代だって、そしてきっと今の若い人たちも、夢と挫折などという、大人になると忘れてしまう言葉に対する憧れを抱いている。
 考えてみると「挫折」という概念を実感できるということ自体、若さゆえだ。
 何かになりたい、前に進みたいという身体をもっているからこそだから。
 今はもう、からだを維持するのさえきびしくなってきたもの。
 そういう若者の心象を、あざやかにきりとって提示してみせた「檸檬」は、フォークソングというジャンルははるかに越えていたし、歌謡曲の世界にあった歌詞とも、やはり別次元のものだった。

 ~ 二人の波紋の拡がり数えたあと 小さな溜息混じりに振り返り
   消え去る時には こうしてあっけなく 静かに堕ちてゆくものよ ~

 どこまでが現実で、どこからが観念のことばなのか、その境目のわからない詩。
 なるほど、昔耽溺した理由がいまになると、理屈でわかる。

 そういう目で一昨日のお芝居をふりかえってみると。現実と観念のいったりきたりが、まだちょっとぎこちないのかなとも思った。

 さらに昨日は、初めての本多劇場体験で劇団「鹿殺し」さんの「僕を愛ちて」。
 ここはけっこう名も知れてるっぽい劇団で、満員の客席も常連さんが多かったようだ。
 芝居の中に、ホーンセクション中心の生バンドが入っていて活躍する。
 そういう意味でこれも非常に定演の参考になった。
 ただそのピッチのあわなさ、音色の雑さは、一度本校でバンドレッスンをうけてみっちりしぼられた方がいいのではないかと思うくらい気になって残念だった。
 全体として、分かる人にだけ通じればいいよ的な内向きさも少しあるような気もしたが、常連さんと一緒に笑えなかった自分のひがみかもしれない。

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地下空港

2011年01月22日 | 演奏会・映画など
入試が始まって、授業や部活的には一段落した気分なので、今日のメインのお仕事である面接も、内面も機嫌良く行えた。
 ほとんど同じ質問をし続け、ほとんど同じ答えを聞き続けることもまったく苦痛ではない。担当したのが本校第一志望の生徒さんたちであったからかもしれない。
 午後の会議のあと、こがわ先生の知り合いの方が出演されている「地下空港」という劇団のお芝居を観に池袋に行った。
 「OLと魔王」という、その劇団の自信作のようだ。
 正直、話の筋は全然わからなかったし、何を言いたいのかはわからなかったが、若者のお芝居っぽくて、パワーにあふれていて、お芝居をやりたい気持ちが伝わってくる。
 できて5年ぐらいと聞いていたが、学生時代に結成して5年続けて、グリーンシアターの一番大きいホールで何日もできて、しかも満員のお客さんがいるのだから、よくがんばっていると思う。いろいろ大変だろうけど。
 そのへんは、アマチュアとは覚悟がちがうな。
 悪魔の着ぐるみの扱い、セットを自分たちで展開する所作など、こんどの定演にもいろいろ参考になった。
 あえて難を言えば、やはり1時間半ずっと絶叫系のセリフだと疲れることかな。
 もし音楽だったら、ずっとテンポ同じで、ずっとfだったら、伝わらないよと言ってしまうところだ。
 でも楽しかった。
 帰りがけ、いつも気になっていた立ち飲みの「かぶら屋」さんに寄る。
 これは大当たりで、気軽に、おいしく、ささっと、しかも安く呑むのに最適。
 いいとこをみつけてしまった。
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昨日のつづき

2011年01月21日 | 日々のあれこれ

 伊集院先生のもう一つの回答もじつは好きだった。
 若いOLさんの、妻子持ちの上司との不倫についてのもので「精神的、肉体的に彼しか考えられなくなっている」のをどうすればいいかという質問に対して。
 
 ~  男と女が逢っていて楽しくてしょうがないなんてことは、そうそうあるもんじゃありません。 … 続くものならずっとお続けなさい。 ~

 世の中の男女のカップルを想定したとき、そんな幸せな状況におかれている男女は実は少ないのだと先生は言う。
 ただ、もし家庭を捨ててほしいとか、最近私に冷たくなったのではないかという気持ちがわいてくるなら、別れ時かもしれないという。
 あなたがつらいとき、相手の人はもっとつらい場合もあるよ、と。

 ~ 忘れてほしくないのは、あなたにそう思わせてくれたことが半年でも一年でもあったことと、その時間をね、誉めてあげて下さい。感謝の気持ちを持ち続けてください。 ~ 

 出会いがあれば必ず別れがある。
 知り合って、縁あって添い遂げたとしても、そのまま生き続けることはできない。
 二人が過ごした時間の質は、長さだけではなく、思いの深さが規定する。
 その期間が30年なのか三週間なのかで、その価値をはかれるものではない。
 わずかな時間でも、夢を見させてもらえたことに感謝すべきだろう(あっ、一般論ですからね)。
 
 部活も同じだ。
 部活の場合は、添い遂げてもわづか3年。
 そこで得られるものに大きさは、3年という時間だけがつくるものではない。
 どれほどの思いでそこにいられたか、何をやれたか。
 たとえ、途中でやめる子がいたとしても、その子と過ごせた時間に感謝する気持ちを、顧問は忘れてはいけないのかなと思う。

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そんなものは友と呼ばんよ

2011年01月20日 | 日々のあれこれ

 「週刊文春」の伊集院静先生の悩み相談コーナー。
 「僕にはまだ親友といえる友がひとりもいない。自分の弱みを何でもさらけだせるような相手はいなくって … 」
 という21歳、男性への答えが、なんかよかった。
 そんなくだらないことは考えるな、とまずおっしゃる。
 俺たちは親友だな、そうだなと言い合うのが友情ではないからだと。
 相手がいるだけで喜ばしいと感じるところから友情ってものははじまるんだと書いてあって、なるほどなあと思う。

 ~ 相手が何をしてくれたかってことはどうでもいいことなんだ。相手がこの世に、同時代に生きていて、つまり出逢ったことに感謝できるかどうか。
 自分の弱みを何でもさらけだせる相手だって? そんなものは友とは呼ばんよ。君は相手が自分に手をさしのべてくれることが友情と勘違いしてるよ。友情というのはそんな薄っぺらなものじゃないよ。もっと緊張感があるものだ。 ~

 いつも一緒にいるのが友ではない。
 むしろいつも一緒にいなくて、お互いの存在をどこかで意識してて不快ではない、というような関係が友なのかもしれない。
 いつもべたべたしてる関係は、実は壊れやすかったりするし。
 大人になってしまえば、そういうのが物理的に不可能になるから、何年逢ってなくても友でいられるということもある。
 きっとそれは一方的な感情でもいいのだろう。
 一方的に、あの人と同じ時代を生きれて(ら抜きになってしまった)よかったなと思える存在。
 なんでも打ち明けようとは思わないけど、万が一そうした時、助けてくれるかどうかはわからないが、うけとめてはくれるだろうなという存在。
 自分も誰かのそんな存在であったらいいなあ。
 で、伊集院先生の結論。

 ~ 定義づけられないところに友情の奥の深さがある。自分を磨け。そうすれば自然と友はあらわれるよ。 ~

 そのとおりだ。

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今日も …

2011年01月19日 | 日々のあれこれ

 川越市合同音楽祭で演奏予定の「たなばた」の練習に入る。
 何回もやったことがあるので、さすがに音が間違っているのにはすぐ気づける。
 今日は、分奏にして譜読みをしていった。

 自分がどういうところでまちがいやすいのか、どんなところが苦手なのか、もうだいぶ分かってきたはずだ。
 他人に言われてではなくて、自分で自分の悪いところを直していかなきゃ。
 自分で自分を否定していかないと成長できないよ。
 と最後の集合で話した。

 おれって、なんていい話ができるのだろう。
 これは野口芳宏先生の「進歩と向上は、現状の否定と破壊から生まれる。」とのお言葉に基づいているな、と頭のなかで出典まで浮かんでいる。
 しかし。
 言うは易しだが、自分で自分を否定するのは難しい。
 他人の否定は簡単だけど。
 今日も尾木先生にからんでみたくなったのは、このお言葉。

 ~ 教育評論家の尾木直樹・法政大教授は「都教委は進学実績を上げることに必死だが、高校生活を受験勉強に特化させて東大に入っても、国際社会では全く通用しない。そんな高校教育は疑問だ。豊かな文化活動をする思春期を過ごした人間こそ、将来世界で活躍することができるのではないか」と話している。(毎日新聞) ~

 これは、東京都が、進学重点校に指定したいくつかの高校の取り組みを強化するという報道に対するコメントだ。
 進学重点校の指定、そしてその取り組みを強化しようとする都の施策は、間違っていると思う。
 億の予算を用意して、東大対策の冊子を作ったり、学生アルバイトを雇って指導させたりするそうだ。
 一方指定された側の学校では、部活動の時間を強制的に短縮して、家庭学習に取り組ませるという。
 学校じゃなくなってきてるな。
 すくなくとも公立の学校がやろうとする方向とは違う。
 そういう学校を求める親もいるから仕方ないと言うべきだろうか。
 ちがうな。やはり公の学校は、指導要領に書いてあるように「人間として調和のとれた」生徒を育てることが第一なのではないか。
 「東大合格者を増やせ」が都立高校のスローガンになること自体、おかしいと思う先生はたくさんいると思うのだが。
 埼玉の県立高校さんにも、同じようにあるべき姿を見失っている学校さんはあるけど。
 公立学校の教育と違ったものを求める方は、私立に行けばいいだけであって、私立っぽいことも公立もやるべきだと発想するのはおかしいのだ。
 それに、私立高校に子供を通わせている親御さんは、そちらの学費を負担しながら、税金で進学重点校にかかるお金も負担することになってしまう。
 
 なので、都の方針はおかしいと思うのだが、だからといって「そんなことをしても国際社会では通用しないから」と批判するのは、ずれている。
 やっぱり、東大を出た子の方が、そうじゃない子よりも国際社会で通用する可能性は高いはずですよ、尾木先生。
 受験勉強レベルをきっちりこなせるぐらいの基礎力はないと、「国際社会」なんて大きな話にはつながらない。
 尾木先生の言われる「豊かな文化活動」に、受験勉強も実は含まれるのだが、そういうレベルの勉強には想像が及ばないのだろうか。
 現場を離れると、ここまで感覚がにぶるものかと今日も思ってしまった。

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