友人のブログでさだまさし「檸檬」の歌詞を読んだら、無性に「私花集」がききたくなり、押し入れを探すのも面倒なのでアマゾンで注文して届くやいなや、車の中でかけはじめると、案の定歌詞がするすると口をつく。
~ 慣れないタバコにむせたと 涙をごまかしながら
ちゃんとお別れが言えるなんて 君は大人になったね ~
1曲目「最後の頁」の冒頭だ。
情報量、多いね。
普通の楽曲だと、これだけの内容を表現するのに、ワンコーラスまるまる使ってしまうこともあるだろう。
作詞ではなく作詩とこだわるさだ氏ならではの詩だ。
~ 不思議なもんだね二人 上り坂はゆっくりで
下りる早さときたら まるでジェットコースターみたいだ ~
直喩であれ、隠喩であれ、比喩のたくみさについては、さだの前にさだなし、さの後ろにさだなしと言っていいだろう。
ただし、この曲のここは、軽いジャブみたいなものだが。
2番に入って、サビ前の部分。
~ 不思議なもんだね二人 もう何年か過ぎたら
全くちがうレールを きっと走ってるのだろうね ~
1番の「ジェットコースター」の比喩がたんなるその場のジャブではなく、2番の「レール」でいきてくる。
見事な縁語だ。
少し前の古文の時間、キンキキッズ「ガラスの少年」などを使って縁語を教えたが、ここにこんなきれいな例があった。ネタに加えておこう。
「もしも 僕たちの このあらすじが … 」という二番のさびのあと、再度一番歌詞の繰り返し。
~ 君が「サヨナラ」と マッチの軸で
テーブルに書いた落書き 僕がはじから火をともせば
ほら サヨナラが燃えてきれいだ ~
♪ ほらサヨナラがもえてきれいだ …
まっさんの声が若い。そして一緒にくちづさんでいる自分の声も、高校の時ほど若くはないが、たぶん技量はあがっている。
♪ ほらサヨナラがもえてきれいだ …
ちょっと、待って。これ危なくね?
テーブルの上のマッチに火をつけて、ってこれどこでやってるんだろ。
自分のなかでは喫茶店のイメージだったのだが、だとしたら「お客さん、何やってんですか!」って言われるんじゃないだろうか。
いやあ、気がつかなかった。
テーブルの上でやっていいのは「なくした愛の並べ替え」だけだ(「レモンティーで乾杯」)。
そう思って聞いてみると、昔はそのまま現実の描写だと思って歌っていた歌詞も、実は観念の世界だったのかと思い直すものもけっこうあった。
~ 或の日湯島聖堂の白い 石の階段に腰かけて
君は陽溜まりの中へ 盗んだ 檸檬細い手でかざす ~
「盗み」は … 、ぎりぎりありかな。
~ それを暫くみつめた後で きれいねと云った後で齧る
指のすきまから蒼い空に 金糸雀色の風が舞う ~
なかなかほんとには囓らないよね。すっぱいし、洗ってないし。
でも、この歌をはじめて聞いたとき、Gパンにトレーナーの細身の大学生のお姉さんが、囓った檸檬をかざしている光景がまざまざと目に浮かんだのだ。
そんなきれいなお姉さんの隣に、タバコをくわえてたたずむ将来の自分の姿がイメージされたのだ。
早く大学生になりたかった。
~ 喰べかけの檸檬聖橋から放る 快速電車の赤い色がそれとすれ違う
川面に波紋の拡がり数えたあと 小さな溜息混じりに振り返り ~
捨て去る時には こうして出来るだけ 遠くへ投げ上げるものよ ~
放っていいのだろうか。
橋から水面まで、けっこうな距離があるけど、波紋数えられるだろうか。
そして「捨て去」ったものは檸檬だったはずなのに、この1番の最後の行にきて、いっきに檸檬が象徴するものに世界に引きずり込まれる。
こうなると2番はさだ氏の独擅場だ。
~ 君はスクランブル交差点斜めに 渡り乍ら不意に涙ぐんで
まるでこの町は青春達の 姥捨山みたいだという
ねェほらそこにもここにもかつて 使い棄てられた愛が落ちてる
時の流れという名の鳩が 舞い下りてそれをついばんでいる ~
「なんとかという名のなんとか」も、けっこう多用されたなあ。
~ 喰べかけの夢を聖橋から放る 各駅停車の檸檬色がそれをかみくだく ~
「挫折」なんていう言葉にあこがれ、酔ったのは、決して自分たちより上の世代だけの話ではない。
おれらの世代だって、そしてきっと今の若い人たちも、夢と挫折などという、大人になると忘れてしまう言葉に対する憧れを抱いている。
考えてみると「挫折」という概念を実感できるということ自体、若さゆえだ。
何かになりたい、前に進みたいという身体をもっているからこそだから。
今はもう、からだを維持するのさえきびしくなってきたもの。
そういう若者の心象を、あざやかにきりとって提示してみせた「檸檬」は、フォークソングというジャンルははるかに越えていたし、歌謡曲の世界にあった歌詞とも、やはり別次元のものだった。
~ 二人の波紋の拡がり数えたあと 小さな溜息混じりに振り返り
消え去る時には こうしてあっけなく 静かに堕ちてゆくものよ ~
どこまでが現実で、どこからが観念のことばなのか、その境目のわからない詩。
なるほど、昔耽溺した理由がいまになると、理屈でわかる。
そういう目で一昨日のお芝居をふりかえってみると。現実と観念のいったりきたりが、まだちょっとぎこちないのかなとも思った。
さらに昨日は、初めての本多劇場体験で劇団「鹿殺し」さんの「僕を愛ちて」。
ここはけっこう名も知れてるっぽい劇団で、満員の客席も常連さんが多かったようだ。
芝居の中に、ホーンセクション中心の生バンドが入っていて活躍する。
そういう意味でこれも非常に定演の参考になった。
ただそのピッチのあわなさ、音色の雑さは、一度本校でバンドレッスンをうけてみっちりしぼられた方がいいのではないかと思うくらい気になって残念だった。
全体として、分かる人にだけ通じればいいよ的な内向きさも少しあるような気もしたが、常連さんと一緒に笑えなかった自分のひがみかもしれない。