夜オリンピックを見てて朝起きてこない家族を尻目にシャワーをあびて家を出る。
少し曇り空だ。木野目交差点の吉野屋で牛鍋丼と味噌汁(330円)を食べ、これで昼は食べなくてすむかなと思い会計しようとしてたらふらっと同僚が入ってきたが、気付かないようなのでこちらも声をかけなかった。
学校につき、大講堂をあけて冷房をつけていると1年生がちらほらとやってくる。
勝手に音出してていいよと告げ、今日分の講習プリントを代役をお願いした先生に渡し頭をさげ、朝の集合でみんなの顔をみてから、一足先に会場にむかうと、文化センターに着いた頃にはかんかん照りになっていた。
駐車場の先生は大変だ。大変だけど、このところ毎年担当しているステージ係もけっこう気を遣うので、たまには外もやってみたいなと贅沢なことをふと考える。
野球応援で体調不良の子がでて参加できなくなった学校さんがあったため、10分おくれでD部門が始まった。こういう本末転倒を強いられる高校の部活の現状を嘆いてみようかと思ったけどアツいのでやめた。
越谷西さん70人の、ほんとにDメンバーですか? と尋ねたくなる演奏からはじまり、5番目に伊奈学園さんの「復興」を聞く。うばた先生の解釈がかいま見られ、伊奈学さんのサウンドが聴けて勉強になった。その後うばた先生と少しお話できたが、「7分におさめるのがきつかった、ほんとはもう少しゆっくりやりたい所もあった」とおっしゃっていた。さもありなんと思う。
8分演奏できるうちは幸せだ。実際譜読みをすればするほど、ほんとはどこもカットできないことがわかってくる。もう一校、「復興」に取り組まれる学校の先生とも話せたが「保科先生にメールでこことここでいいですか? ってきいたら、そこはだめとの連絡をいただいた」という話も伺った。ご本人に聞いたならそういう返答も当然ともいえるだろう。一方で、コンクール用にカットバージョンの楽譜を積極的に用意されている作曲家の方もいらっしゃる。
どちらが正しいというものでもないような気がする。
たとえば自分が曲を書いたとし … 、いや想定もできないな。
じゃ、お芝居の台本を書いたとし、90分の作品になったとする。
これは長い、60分に縮めてくれたら上演してあげるよと言われたら、もうどんどんカットしてしまうな。
書きあげて世に出そうとする以上、それをどううけとめられても仕方ない。
書いた本人がもっとも思い入れのあるシーンであっても、読んだ人がそう感じなくて、この場面なしでいいよねと扱われるならそれはそれでしょうがないと思うのだ。
それは書き手の力量の問題であり、作者の意図が何よりも優先されることのみが正しいわけではない。
「自分の文章が入試問題になったので、解いてみたらまちがった」的なお話を述べる作家さんがたまにいる。そして、この問題はよくない、作者の意図が読めてないとその後につづく。
そういう場合もあるだろう。
ただ、問題を作る立場からは、「そういう意図が表現された文章にはなっていないとも考えられませんか」とも言いたい。
えっと、何の話だっけ。そうだ、カット。
自分がかりに作曲家だったら、カットしまくりでも、演奏してもらえるなら何でも受け入れる。
だって演奏されなかったらナッシングだから。
松山高校さんを聞いて「お互いがんばりましょう」との思いを抱きながら、そろそろトラックが着く頃と思い、駐車場へ向かうと灼熱になっていた。
打楽器をおろしたあと、管楽器の方にもどり、集合場所にならぶ。
チューニング、リハーサル、そして舞台袖。
休憩時間直後の演奏順だったので、袖にいったときにはステージ配置は終わっていた。
休憩終了のベルがなる。
昌平高校のかわさき先生が「じゃ、どうぞ」という。
「がんばれ。さくさく歩け!」といって1年生を送り出す。
いい入場だ。いすに座ったたたずまいもばっちりだ。
この姿勢でやっていけば、どんどんうまくなるのは間違いない。楽しみだ。
男子サッカーではスペインが予選落ちしたのは、全国大会常連校が県大会で姿を消してしまうようなものだろうか。
県大会といえば、昨日の高校生クイズ選手権埼玉県大会で、あと1ポイントのところで全国出場に逃したという結果を知った。
くやしいーーっ。昨年は決勝6チームのなかに2チームを進めたものの浦和高校さんに敗れた。
今年は浦高さんにもリードを保ち、あと1ポイントとなった最後の早押しで栄東さんに押し負けたという。
残念だ。高校生クイズに出られると進学校ぽくてかっこいいし、来年こそぜひつかんでほしい。
明日、いよいよ本校1年生の初コンクールにいってきます。今年は全員1年という純度の高いチームになった。
昨夜、今ひとつ調子のでなかった男子体操や、残念というよりかわいそうだった福見選手を見ながら、「サッカーで運つかっちゃったんじゃないの?」と感じた日本人はけっこういたのではないだろうか(「日本人は」なんて単位でものを考えられる機会はめったにないなあ)。
今朝、パソコンをたちあげてすぐ「三宅選手が銀メダル」という記事をみてうれしかった。
なんといっても、日本人にとって重量挙げといえば「三宅」だ。高校生にはわからないだろうけど。
娘さんが重量挙げを始め、類い希な才能をもっていらっしゃることは伝わっていた。
しかし、重量挙げだ。オリンピックでしかその競技を目にすることはないけど、なんかすごそうな人しか出てないイメージがある。お父さんそっくりの顔だちだけど、かわらしい三宅宏実さんが世界のトップとわたりあうのはなかなか険しい道のりではないかと(日本人は)漠然と思っていたはずだ。
しかし自己新記録を、つまり日本新を五輪本番で出すという精神力の強さに頭が下がる。
「親孝行というより、こちらが感謝ですよ」というお父さんの言葉が泣けてしょうがない。
ほんとにねえ。高校入試や大学入試でさえ、たぶん本人よりどきどきしてるもの、親は。
「結果がすべてではない」というけれど、結果ほどそれまでに苦労に報いてくれるものはなかなかないとあらためて思う。結果かぁ。ちょっとほしいなあ。ちょっとじゃだめなんだよ!
せっかくだから重量挙げで今後期待される選手は、「三宅」という名を襲名したらどうだろう。
それだけで、目に見えない大きな力がはたらくのではないだろうか。それにしても暑い日が続く。高校野球でなんとベスト4に残っている母校に、ひょっとしたらと思っていたが、さすがに福商にはコールド負けだった。
夏期講習は第2クールに入り、現代文も読み始めた。
1年生が模試タイプの問題を解くのは初めての経験になる。
センターの評論と同じくらいの長さの文章は、トレーニングされてない高校1年生にはかなり長く感じられるはずだ。
自分でも、ぼおっと読んでたら、終わりの方を読む頃には最初に何が書いてあったかを忘れている。
ただし、長いとはいえ、いろんなことが書いてあるわけではなく、筆者の言いたいことが形をかえてくりかえされているだけだということを実感してもらうのが、当面の目標になる。
けっきょく、「どう繰り返してあるか」を読み取ることにつきる。
曲も同じだろう。
筆者の言いたいことが、作曲家の表現したいことが、どういうかたちで繰り返し表現されているか。
それをつかみ、それがわかっているかのように演奏すること。
こう読み取ったんですが、どうですか? と解答を書くこと、演奏すること。
吹奏楽の先生に国語の先生がけっこう多いのには、こういう構造の相似も関係してるかもしれないとふと思った。
今日は第一回目の「オープンキャンパス」。先日のスーパーアリーナでのフェアに続いて、本格的に学校見学シーズンがはじまった感じだ。
午前の講習の最後の時間帯に、見学の方が到着するだんどりになっている。
4階大講堂入り口が受け付けで、すぐそばの1年1組の授業担当がこの私めであるとは、期せずして本校はベストの選択をしているといえる。
4時間目、いつもどおりのプリントを配布し、「まちがっても寝ないように。日本にこんな高校があったのかと思われるくらい集中して解きなさい」と指示すると、「先生、いつもどおりでいいんじゃないですか」という子がいるので、だめだ、こういうときはウソも大事、ウソも死ぬまでつきつづければ本物になるんだよと諭すと、なるほどと納得してくれたが、これは何の指導だろう。
さて、そろそろ解説に入ろう、東大生も生み出す古文の基礎をいっちょ見せてやるかと話し始めるのだが、みんな素通りして行ってしまうではないか。気付かないかなあ、すぐそばの教室に流れる清逸な空気を。
拍子抜けしたまま、しかしいつも通り安定感あふれる授業、一見簡単なことを話しているようで、あとでふりかえるとあまりにも深く国語の神髄に到達している話、つまりいつも通りの授業を終える。
こういう日は学校が用意してくれるお弁当(登利平のとり弁当)をそっこうでかきこんで、レッスンの先生と連絡をとったり、合奏の準備をする。
3学年全部で合奏した方が見栄えがいいので、久しぶりに「チャルダッシュの女王」をとりだしてみたら、一年生がここ一ヶ月で成長しているので、西部地区のときよりずいぶんいいひびきになっていた。
小講堂のなかに設けたイスに座って見学してくれたのは一組だけだったので、その方の来年度の入学・入部を祈念して、全員で心をこめて演奏させていただいた。
その後お越しになった楽器のレッスンの先生に、今日は合奏もきいていただくと、曲のイメージをつくる上で極めて貴重なお話をいろいろとしていただく。ありがたいことだ。
今日のオープンキャンパスには1000人を越える方が来てくださった、例年よりも多いと後で聞き、ほっとする。あたらしい仲間をたくさんつくれるよう、これから秋にかけて営業がんばろう。
卒業するときに、川東に来てよかったと言ってくれる卒業生はたくさんいるのはうれしいが、そうでない子ももちろんいる。
反省すべきことは反省し、改善すべきことは小さなことでもやっていかないといけない。
でも、400人なら400人それぞれに別のメニューを提供するのは難しいし、同じメニューでもおいしいという子もいればまずいと感じる子もいる。まずいと感じる場合、最初から受け入れようとする姿勢に欠けている場合がけっこうあるのだ。
昨夜「怒り新党」で、マツコデラックスさんが「自分の居場所じゃないとこだと思っても、そこでとりあえず、すごくがんばるのよ。そうしたら新しい扉が開けるんだから」と言ってて、なんとまっとうなことを言われるのだろうと思って聞いていた。
居場所は自分でつくるしかないのだと思う。
探してみつかるものではないし、まして向こうからやってくるものではない。
なんかここは違うと思うのなら、潔く去る。それができないならそこでがんばってみる。
合わないと思った場所でも、がんばってみたら全然ちがった世界が広がることがある。
べつに本校でなくてもいいので、高校へ行ったなら、まずがんばってほしいなあ。
自分のことは棚にあげて言っているけど、本気で若者たちには、いい人生への一歩を踏み出してほしい、そして人として成長し、年老いていくわれわれの面倒をみてほしいものだ。
なんでもできることが自由を失わせることもあれば、何もないから自由になれることもある。
たとえば落語。
高座のざぶとん一枚の上でたった一人で演じるお芝居。
大道具も照明もない。音響はほんの少し可能。
不自由のきわみと言えるが、だからこそなんでもできる。
演者が「おはよう」といえば朝になる。
「カラスかあ~で夜が明けて」といえば吉原の朝になり、談笑師匠のように「らくだボゲゲェで夜が明けて」と言えばなんとイスラム世界にも連れてってもらえる。
ただ、あまりにも何もないため、演者自身がむきだしになる。
おもしろい噺家さんとそうでない方との差はまちがいなくあるが、それは技術の違いだけでない。
その人自身がおもしろいかどうか、魅力的かどうか、人生の修羅場をくぐっているかどうか、そういうものの総体がベースにあって、その上に存在する技術に価値がうまれる。
亡くなった談志師匠が、弟子達にいろいろ理不尽な修業をさせているのは、そのベースにこそ意味があると考えたからだろう。
ひるがえって学校の先生は、逆じゃないといいけないと思う。
つまり人としての存在感とか、器量の大きさとか、人間的魅力とか、そういうものが教師には必要だと主張する人もいるけど、それはちがう(と思う)。
そんなね、抜きんでた魅力をもった人が、全国何十万人も存在するわけがない。
授業にかぎって考えても、名人とよばれるような授業をできる人がそうそういるわけではない。
だから名人とよばれる人もいるのだが。
ふつうに「おじさん」「おばさん」が教師として生徒の前に立ち、マニュアルにしたがって業務をこなしていれば、子供たちは生徒としてふるまってくれる状態。
それが成立しないといけないのが学校であって、「聖職者」としての生き方が求められたり、「主体的に学び続ける人しか人前に立つ資格はない」と言われたりするのは、教師への要求の度合いとして虫が良すぎるのだ。
もちろん、教えるためには最低限の技術は必要だ。
車に乗るには、イグニッションキーをひねって、ウインカーをカチカチして、アクセルをふむことができないといけない。
赤信号は止まれ、黄色も実は止まれということは知ってないといけない。
自動車免許が必要なのと同じように、教員免許は必要だ。
または板前さんになるのに調理師免許が必要な程度に。
でも、司法試験や国家医師試験に匹敵するほどの資格は必要ない。
というか、それをもとめたなら、日本全国の学校に配置するほどの人材は得られない。
教員免許に問題があるとすれば、免許を取得するための勉強が、学校現場ではほとんど役に立たないという現実だろう。
せめて学生時代に、いろんなバイトをしてみたり、放浪の旅に出てみたりする経験の方が、教育法規の授業2単位取得するより役に立つ。
人とふれあう経験をまったくもってなくても、机の上の勉強だけしっかりできれば、免許はとれるし採用試験にもうかる。
そういう人生しか送らず、学校現場に丸腰ででかけていけば、蜂の巣状態になるのは目に見えている。
きびしい現実を生きているこどもたちの方が百倍したたかだ。その親たちもセンセーを自分より下に見ている。若い先生を手玉にとることなど赤子の手をひねるようなものだ。
寄席にいくと、いろんな芸人さんに出会う。
どう考えても、話の技術の未熟な方もいる。
どう好意的に聞いてても、おもしろくない方がいる。
それでも、噺家さん、色物さんとして生きていかれるわけで、どんな業種でも同じではないだろうか。
すごい人もいれば、おそろしく残念な方もいる。
学校の先生も同じで、残念な先生のせいで何か大きな問題が起こるとしたら、先生個人の問題というより、学校というシステムに依存している内容自体の問題を疑うべきではないのか。
今更あらためて気付くまでもなく、どう表現するかの積み重ねが芸術の歴史だ。
音楽でいえば、一つのメロディーをみんなで歌うだけの状態から、対位法がうまれ和声がうまれ、楽曲の形式が整い、そこから発展したり、逸脱したりしたり、手を換え品を換え、ひとつのことを表現しようとしてきた結果が今の状態だ。
クラシック音楽は最盛期を過ぎてしまった芸術と言われるが、こと吹奏楽に関していえば、遅れてスタートしている分、まだまだ「どう」の伸びしろはあるように思える。
楽器そのものが発展し続けている度合いの高さも一つの原因だろうか。
人間のやることだから、「中身」は古今東西、昔から今までたいして代わり映えしなくても、方法や手段が変われば、結果の質はいくらでも変わる。
新しい方法や手段を手に入れるということは、より自由に、より豊かに表現できる可能性がひろがるということだから。
先日、セリフのすべてが曲ののせられるタイプのミュージカルを観た。
その昔、お芝居と音楽が結びついたとき、人々は新しい表現方法が生まれたと喜んだことだろう。
感情の盛り上がりを、歌ったり踊ったりして、観客の五感のすべてにうったえることができることにできると感動したのではないか。
だからといって全て歌うのはどうだろう? とその日思ってしまった。
「ひめゆり」という作品で、神田沙也加さんも出演されてたのにも惹かれて出かけたのだが。
お芝居が始まる、音楽が流れ初める、たくさんの人が歌い始める。
歌が終わる、次の音楽が流れ、純粋に普通のセリフも曲にのせて語られる。
「兵隊さん~、具合はいかがですか~」「だいぶ、よくなりました~」的なかんじで。
なんで普通に話さないのかなと思ってしまった。
ミュージカルはお芝居、歌、踊りが結びついた総合芸術であることは言うまでもない。
照明つかいまくりで、生バンドの演奏もある。
ほんとに自由になんでもやれる形態のはずなのだが、全部歌方式はあまりに不自由に見えた。
セリフには微妙な感情とその変化がのせやすい。
哀しいのに笑っている、哀しいから笑っている、くやしいから泣いている、くやしいから無表情でいるとか、いろんな表現が可能だ。
すべてのセリフを歌にすると、この機能を完全に捨てることになる。
メロディーにのせる分、純粋に単位時間の情報量も減る。
それを補ってあまりあるほど心打つメロディであれば効果もあるだろうが、2時間分の全曲を名曲に仕上げるのはさすがに並大抵のことではない。
だから、全部歌だと純粋にあきてしまうのだ。それに曲想が変わっても、歌いっぱなしだと変化が小さくなる。
セリフで表現した方がいいパートはそのようにし、歌を聴かせるところ、踊りをメインにするところを効果的に用いてこそ、ミュージカルの存在価値はあるんじゃないかな。宝塚とかはどんな感じなんだろ。
音楽座さんのミュージカルのすぐれているのはそこなのだろうと、その日思った。
「兵隊さん、具合はどう」「だいぶ、よくなりました」は、数秒のセリフで表現すべきで、数十秒かけて歌い時間を消費してしまうのはもったいない。
もしくは、ちがう次元の歌を用いて、怪我の治療でわめき苦しんだ兵隊さんにも一時平穏な時間が流れていることを表現すべきだろう。
歌にはどういう効果があるのか。
音楽座の渡辺修也さんという俳優さんのブログで、なるほどそうとおり! と感心する記述を読んだ。
~ さて、ミュージカルということで、芝居の他に「歌」と「ダンス」が入ってきます。「なんで急に歌うねん?」という方も多いと思いますが、実はこれには重要な意味があります。
それは「『イメージ』を伝えるのに最も手っ取り早いから」です。
例えば
「不治の病の患者が、五体満足であったならば生きれたであろう『生』を、その魂たちが表す」
というシーンがあります。これは実際では5分のダンスナンバーとして作ります。しかし、これをもしテキスト表現でやるとなると、とても5分では書き切れません。
言葉ならぬ「イメージ」を短時間で直接叩き込むには、テキスト以外の表現がどうしても必要になってきます。一つの旋律が百万の言葉で表せぬ感情を表すのです。(渡辺修也「雨ニモマケズ」より) ~
この具体例は「泣かないで」の1場面のことかな。
先日部員たちとも観させてもらった「シャボン玉とんだ」には、作曲家の卵の若者が、仕事の依頼を受けて、次々と楽曲を仕上げていく様子を歌とダンスで表現するシーンがあった。
主人公の作曲の師匠や、音楽プロデューサーが歌い出す。
若者がつられて歌い出す、黒鍵と白鍵に扮する踊り子さんが入ってくる。
彼の才能が次々と形になっていくイメージが、一身にして観客の脳裡につくられていく。
「どうだい~、作曲はすすんでいるか~」「いいかんじで~、すすんでます~」とたんなるセリフの音楽のせにしてしまったらどれだけ貧弱になってしまうことだろう。
セリフのいいところ、歌の効果、踊りの役割を相当考え込んでつくらなければ、ミュージカルはかえって表現の総体を小さくしてしまうこともありうる。
アダムゴープ「アウェイデー」は、たしか西武文理さんがコンクールで演奏されたのを聴いてやってみたいなあと思った記憶がある。昨日のプレコンでも大宮光陵さんのなんとDメンバーがチャレンジされてて、どうしてもやりたくなったので、楽譜を注文した。
なぜかこの時期になると、次に演奏したい曲がたくさんわいてくる。来年のコンクールとか、定期演奏会とか。これは目の前の曲から逃避したい気持ちが微妙にはたらいているような気がする。
目の前の曲も、やっと部員も指揮者も理解してきたような感触はある。
音程やリズムをそろえるのと平行して、どこまで音楽的に仕上げることができるかが今後の課題だ。
昨日の反省会で、「保科先生の曲にしては、少しメロディーがわかりやすいというか、かるい感じですね」というお言葉があった。
たしかに、「復興」の中間部のメロディーは、うまく歌わないと、二時間サスペンスのBGMのような雰囲気になるところがある。
もちろん演奏する側の問題であり、メロディー自体に問題があるとか、サスペンスの音楽がだめというわけではない。
「震災からの復興」という重厚なテーマを表現するためには、そのための吹き方をしなけらばならない。
中身があって、表現がある。
中身のための、表現がある。
ただ … 中身自体はどの曲もそんなに変わらないのではないかとの思いもわく。
「あの曲は中身がない」なんていう究極の悪口もあるけど、そういうことってあるのかな。
たとえば曲を人におきかえたとき、成立するだろうか。
「中身のある人」と「中身のない人」。
おもいきり成立しそうだ。
中身がなくて見た目だけで人生をのりきってきた自分としては、「中身ないですよね」と言われたなら、すいませんとあやまるしかない。
では中身のある人とはどんな人?
たくさんの知識がある人? 難しい言葉を知っている人? 深淵なる思想をもっていそうな人?
そういう人は存在するが、ではそういう人はそのこと自体で評価されうるだろうか。
「あの人はほんとに物事をよく分かっている人だ」というだけで、エライのだろうか。
そのへんになると少しちがわないかな。
物事をよくわかっていて、そのおかげで何かいいことをした時に、エライなあと言われるのではないか。
いくら難しい本を読んでても、その知識が世のため人のために全く使われてないとしたら、知識はなくても他人の為に何か一生懸命やっている人より「中身がある」とはいえないのではないか。
中身のある・なしは、そのこと自体ではなく、それがどう具体化されたことで評価されるべきではないか。
えっと、なぜこんな話になってしまったのだろう。
あ、曲か。
曲の中身の話だ。曲の中身って何?
ひょっとして、誰も定義しえないことのような気もしてきた。
保科先生の『生きた音楽表現へのアプローチ』をいま開いてみたけど、そういうのは書いてないっぽい。
中身とかなくね?
商売道具の方で考えてみると、古来、文学はどんなテーマを扱ってきただろう。
「好きになりました、ふられました。」
「愛しました、死にました。」
「人生って、思うようにはいかないよね」
ほかに何かあるだろうか。
いろんな作品を思いうかべてみても、その核心部分については、名作も駄作も、古典も前衛も、そんな大きな差があるとは思えなくなる。
中身とかなくね?
いや、ないことはないか。
どれも同じじゃね?
この作品のテーマは「愛」です、という言い方をしたなら、相当数の作品がそれにあてはまる。
しかし、名作もあれば駄作もある。
何がちがうのか。
中身ではなく、どう表現してあるか。これにつきるのではないだろうか。
音楽も同じように考えればいいような気がしてきた。
一つの曲の核心部分については、どの曲にもそんな大きな違いは存在しない。
中身に「ある」とか「ない」とか「濃い」とか「薄い」とか「強い」とか「弱い」とかはない。
かりに核心部分がほんの小さなものであっても、どう表現するかによって、3分の珠玉の名品にもなれば、40分の壮大な交響曲にもなる。だから、「どう」の部分をどれだけ読み取れるかが大事なので、やはり指揮者の仕事が大変なのかな。
1年メンバーは一日練習して、夜はレッスン受けて、お泊まり。
Aメンバーは不動岡高校さんで行われたプレコンクールに参加させていただいた。
めったにいかない加須は、けっこう遠い。蓮田から122号線に乗ってえんえん走っていくと、民家もお店もなくなり、一面田んぼが広がっていく。人も車も牛もいない。すると巨大なショッピングモールが忽然と表れ、数珠繋ぎの車が吸い込まれていく。どこからわいてきたのだろう、この人達はと思いながら、デジャビュー感を抱く。なんだろ。わかった、郷里福井の光景と同じだ。いや福井に限らず、日本のほとんどの地方の郊外に風景なのだろう。
加須駅近辺にくると、昔ながらの町並みが残っていて、地域共同体が維持されている雰囲気がただよっていた。不動岡高校さんは、そういう地域に支えられて歴史を刻んできた学校さんなのだろう。だからこそあれだけの税金を注ぎ込んだ立派な校舎、ホールがある。
おかげで、今日のような演奏の機会に分担金なしで参加できたのはありがたかった。
部員達も、同じA部門できそう他校の演奏を聴けていい勉強になったはずだ。
かねこ先生ありがとうございました。Dメンバーもつれてくればよかったのにと言われたが、そう簡単に秘密兵器を見せるわけにはいかない。 夜のレッスンで、さらに完成に近づいている。泣きそうになった音が三個ぐらいあった。
「進路だより」に書いた原稿。
~ 結局のところ、日本の教育の現場では「勉強方法」について教えてこなかったと思うのです。例えばノートの取り方、記憶の仕方、本の読み方、メモの取り方、ものの考え方。あるいは、「考える」とはどういうことなのかを学校の先生から教わってきたか。ほとんどないでしょう。「君たち、自分の頭で考えろ」とは言います。けれども、考える方法を教わっていなかったり、「ちゃんと覚えておかないと駄目じゃないか」と叱られますが、覚える方法を教えてもらっていなかったり、「しっかり本を読むんだぞ」と言われるけれども本の読み方を教わってなかったりするわけです。(伊藤真『“司法試験流”勉強のセオリー』) ~
学校の勉強をすることで、勉強方法を身につけると、それは一生の宝になります。
学校の勉強「内容」が直接仕事に役立つことはないのですが、「方法」は役立ちます。
勉強のコツは仕事のコツにもなり、実は生き方のコツにも通じます。
コツとは、たんに要領よくやることではありません。
少ない努力で大きな効果を生むためのものでもありません。
コストパフォーマンスはかえってよくないものもなかにはあります。
しかし、一見遠回りなことが、実は物事の本質に近づいていることも多いのです。
とにかくやくさん勉強しよう。勉強方法も考えながらやろう。方法を身につけよう。
物事を身につけることについてのコツのようなものが自然とわかってきます。
そうなれば、将来にわたって、自分のやりたいことをやれるようになってくる可能性が高まります。
最近読んだ「コツ本」としては、篠田恵里香『ふつうのOLだった私が二年で弁護士になれた夢がかなう勉強法』(あさ出版)が、大変参考になりました。
少し前に出た本ですが、上に引用した、伊藤真『“司法試験流”勉強のセオリー』(NHK出版新書)、斎藤孝『結果を出す人の「やる気」の技術』(角川oneテーマ21)も、必ずやる気になれます。
勉強だけでなく、部活でもなんでもすべてにおいて通じる法則を知っておきたいなら、もう古典の部類に入りますが、岡本浩一『上達の法則』(PHP新書)を薦めます。