食べることと同じくらい、性行為は人間の生の縮図だ(おっと、だいじょうぶか、中学生の読者もいる可能性があるけど。だいじょうぶ、ここを読みに来るような子は聡明な子にきまってるから)。
何を食べるか、どんな食事経験を積んだかが人格形成に与える影響は大きい。
性に関する様々な経験も、同様と言えるだろう。
生きてさえいれば、なにかは必ず食べる。
性については、なにかしら具体的に「した」ことだけが、経験ではない。
「したい」と思ったり、それに関する様々なことを想像したり、または無意識の抑圧から生まれる何らかの感情や行動もすべて含めて性経験と考えられる。
そう考えれば、生き物である以上、すべてのヒトがなんらかの性経験をもつはずで、そんな生き物であることから誰も遁れることはできない。
窪美澄さんの新作『よるのふくらみ』は、生きている人間の、つまり性の営みから遁れることのできない人間の、その遁れなさぶりを、真正面から描いた作品だ。
ストーリーの骨格は、男2と女1の三角関係だ。男2が兄弟。
幼なじみの自分の好きな女1が、兄と結婚するという設定は、弟の身になった場合どれだけつらいことか。
~ みひろも俺も中学生で、俺はいつもみひろをからかっていた。笑わせたかったのは、みひろが暗い顔をしてるからだ。みひろの母さんが出て行って、うつむいて商店街を歩くみひろを笑わせたかった。みひろと同じ高校に行きたくて死ぬほど勉強した。高校に入ったあと、みひろに好きだと伝えたくて、そのタイミングを狙っていたのに、先に告白したのは兄貴だった。高校の渡り廊下で、みひろは発熱したみたいに顔を赤くしてつっ立っていた。みひろの気持ちも兄貴に向いていた。みひろに選ばれなかったのだから仕方がない。みひろが選んだのは兄貴だったのだからあきらめろ。何度もそう言い聞かせてきた。けれど、兄貴とつきあい、いっしょに住むようになったみひろを目で追いかける自分がいた。 ~
婚約して一緒に暮らし始めた兄の圭祐とみひろの生活は、うまくいかなかった。
兄の圭祐は、みひろにとってあこがれの存在であり、初体験の相手でもあったが、結婚後、兄がその行為ができなくなってしまう。
圭祐への不審感と、満たされない思いから、裕太のからだを求めてしまった後、みひろは家族を捨ててよその男と家を出た母親の過去を我が身に投影する。
そんな母を、残された家族を、周囲がどう見ていたかを思い出すと、一度結ばれたからといっても、かんたんに圭祐と別れ、裕太と一緒になるわけにはいかなかった。
周囲の友人達は、幼い頃からいつもつるんで笑いあっている裕太とみひろがくっつくものだと思っていた。
みひろ自身にとって、裕太との関係は家族のようなものだったのかもしれないが、大人の女になって、そうでないことに体が気づく。
みひろを諦められないまま、子供もいる年上の里沙とつきあっていた裕太だったが、兄との関係で精神的においつめられていたみひろのことを知ると、やはり、いても立ってもいられなくなる。
しかし、なかなか煮え切らない裕太を、「みひろはおまえといるとき、一番笑顔になれるんだよ。他に理由がいるか!」としかる友達の健司。
~ 今ならまだ間に合うんじゃないか。取り戻せるんじゃないか。
健司たちと別れたあと、児童公園にあるパンダのカタチをしたバネ式遊具にまたがって、俺はいつまでも揺れていた。酔いがまるで毒のように体中にまわって、頭がぐらぐらした。ふいに携帯が震える。里沙さんだった。
「今夜、これから会えないかな?」
「…………」向かってくる小さな虫を手で追い払いながら、俺は言葉を探していた。
「今日、社長と飲んでしまって……かかり酔っちゃって俺」とっさに嘘をついた。
「……そっか……」そう言ってしばらくの間、里沙さんは黙った。
「あぁ。……だけど、来週の旅行は大丈夫。社長にも頼んだから」
「……うん。そうだね。楽しみにしてるね」
じゃあね、おやすみね、と言って里沙さんは電話を切った。その声の優しさに胸が痛んだ。だって俺は、どうやって別れ話を切り出すか、健司の話を開いたときから考え始めていたんだから。
見上げると水銀灯に数え切れないほどの虫が群がっていた。青白い光にぶつかっては離れ、それでもまた吸い寄せられるように近づいていく。あの虫のことを馬鹿だなんて笑えない。俺は虫以下だ、そう思った瞬間、すっぱいものがこみ上げてきて、地面に少し吐いた。その上に靴でざっと砂をかぶせて見上げると、水銀灯がにじんで見えた。
ほんと人間て面倒くさいよね。
窪美澄さんの文章のすごさは、ディテールの描写力にもある。
一人取り残された後に、ふと部屋の隅に残る何かを見かけるとか、そういうの。
ベランダの隅に置き去られたハッカパイプ、みたいな。
「羅生門」の勉強のとき、これから起きる出来事の不気味さを予感させるように、羅生門の周りに誰もいない、夕暮れ、雨、とかの設定をしてるんだよ、なんて教える。
窪さんの作品を読んでると、日本の小説もずいぶん発展したものだと思わざるをえない。
アイドルの歌JPOPを聞いたとき、「え、こんなコード進行とか転調が、ふつうに使われるんだ」という感慨を抱くのと似ているかもしれない。
~ 顔は笑ってはいない。少しずつ近づき、二人の距離が縮まって、俺とみひろが向き合ったのは、シャッターを閉めた松沢呉服店の前だった。声をかけ、近づいてはみたものの、何と言っていいかわからず、俺たちはただ、見つめあっていた。ひろの腕が伸びて、俺のシャツの左胸のあたりを、くしゃりと握った。その手をとって引き寄せた。こんなに小さな女だっただろうか、と思いながら、商店街のど真ん中で、俺たちは抱き合った。自転車に乗った塾帰りの中学生男子の集団が、ひゅーひゅー、と言いながら通り過ぎる。また始めてもいいのだろうか、と迷いながら、腕のなかのみひろめ温かさを感じていた。
見上げると、頭の上には、ビニールでできた原色の薄っぺらい飾りが揺れている。その安っぽさと、だささが、俺にはとても近い存在に思え、そして同時に、俺には到底近づくことのできない、なんだかとても偉大なものに見えた。みひろも俺の腕の中で顔を上げた。夜の商店街の真ん中で、水草のような、その不規則な動きを、いつまでも俺たちは見ていた。 ~
一地方都市で、かぎられたコミュニティーのなかで生きていく若者の閉塞感を、商店街を覆ったアーケードが象徴する。
安っぽい飾りは、そこに暮らす人々の人生の安っぽさのようでもあり、しかしそこで生きていくしかないなら、逃げずに受け止めていこうとする一般庶民のプロみたいな人々のありよう。
二次試験で小説の象徴問題を必ず出題する、大阪大学文学部の先生が読んだら、出したくなるような描写が満載だ。
それにしても、血の通った生身の人間の面倒くささを、だからこそ愛おしい性と生の営みを、一点のてらいもなく描き出せる希有な作家だと思う。
40歳代なかばで遅咲きデビューを果たした窪さんだが、デビューしてくださって、ほんとありがとうと言いたい。『ふがいない僕は空を見た』をも越える傑作だ。