水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

月曜日

2010年05月31日 | 日々のあれこれ
 月曜は授業が2時間しかなく、しかも今日は部活も自主練だったので、さくさくいろんなことが進んだ。
 久しぶりにネタ帳の整理もできた。
 そこに貼ったネタのひとつ。
 本居宣長の歌論書にこういう問答が載っているという。

~ 問い 歌は天下の政道を助けるためのものであって、単なる趣味や慰みものではないと思うがどうでしょうか。 ~
~ 答え 非なり。歌は政治を助けるためのものでもなく、人生の修養のためのものでもない。ただ心に思うことを表現するほかはない。そうした歌の中には、政治の助けになるものもあれば、人生の修養になるものもある。逆に「国家の害ともなるべし、身の災いともなるべし」 ~ 
 
 「国家の害になるものもあり、人生の災いになるものもある、それが芸術であり、文化だ」と呉智英先生がまとめられていた。
 なるほど、歌を小説や音楽におきかえたとき、なるほど「害になる」ものもあると思う。
 われわれのように、校務分掌の一つとして音楽に携わる程度の人間に、音楽の害は少ないだろう。
 しかし音楽の魔にとりつかれて、生涯をそれに捧げ、自分以外の人を傷つけてしまうことさえ厭わない芸術家は、現実にいるのではないか。
 考えてみると、部活顧問レベルでも、そこまでやるんですか、そのレベルまで求めるんですかと聞きたくなるぐらいの、のめりこみ方をされる先生もいらっしゃるな。
 ご本人にとっては、それは幸せなことなのであろう。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お疲れさまです

2010年05月29日 | 日々のあれこれ
 鳩山首相の今回の決断を、「ふざけるな」とか「情けない」とか言う人ばかりだが、しょうがないんじゃない、と思ってる人もいるのではないだろうか。
 沖縄の負担をなんとか減らすことができないか、との思いで、いろいろ考えてくださったことについては、「嘘つき」と叫ぶだけの沖縄の方々の対応も少し大人げないのではないか。
 自民党政権のままだったら、本土の人間は何も知らないうちに、辺野古の海が埋められ、それで生まれた莫大な利権にたくさんの人が群がってくるとう状況になっただけなのだ。
 もちろん、鳩山首相の進め方に問題がなかったとは言わないが、首相一人をあしざまにののしる資格のある人間がどれだけいるだろうか。
 少なくとも本土には誰もいないと思う。
 基地を減らせと言い、おそらく日米安保条約は必要だと思い、でも自分の家の近くに基地が来るのは反対という、まあ幼稚園児のように日本中がなってしまっている中で、首相をやりつづけるとおっしゃるその気持ちだけで、すでに頭が下がる。
 周りの閣僚とか、民主党のブレーンとか、何やってんの?
 殿に頭を下げさせる前に、まず自らお腹を召されるべきではないのか。
 あまりにもみんなわがままだから、いいかげん福井県民は、どうせ原発だらけなのだから、基地も面倒みるわと言いそうになっていたぞ(なってないって)。
 人の上に立つ人間は、何かを決定することが一番の仕事だ。
 どんな決定にも、異を唱える人は必ずいる。
 そのことがらに関わる全員が納得できるような決定があるとしたら、それは決定する必要はなかったことだ。
 決定する立場にない人間も、上に立つ人の苦渋を想像するぐらいの心はもちたいものである、ぐらいのことをね、ホントはマスコミの人が言わないといけないんじゃないか。
 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手紙

2010年05月28日 | 日々のあれこれ
 「手紙」というタイトルの歌はいま四曲思い浮かび、どれもパーフェクトに歌える。

 ♪ 死んでもあなたと 暮らしていたいと 今日までつとめた この私だけど …  

は由紀さおり。

 一時カラオケでよく唄わせていただいたのは

 ♪ 君とはなれて 一人思う 今は元気 それとも …

と唄う米米CLUBのバラード。そして昨今は

 ♪ 拝啓 この手紙 読んでいる あなたは  …

「書道ガールズ」にも使われ、18回定演での合唱も懐かしい、アンジェラアキさんの作品。
 今までいちばん泣いた「手紙」は何? ときかれたら、まちがいなく岩崎宏美さんの歌をあげる。

 ♪ たとえばね あなたとわたし 出会ってなかったら 
   どんな日々を 送っていただろうね
   平凡でも ただ穏やかに 過ぎていく毎日を
   愛おしいと 思えるのは そばにいてくれるから …

 これは岡本真夜さんの楽曲で、出たばかりのベスト版で、セルフカバーを聴いた。
 上海万博の盗作問題で話題になってなかたら、今回のベスト版の発売を知らないままだったかもしれない。
 ありがとう、中国の人。
 
 ♪ 公園に 黄色い花が たくさん咲いていたよ
   教えてあげたいと思った どんな小さなことも

 なんでもない日常のひとこまが、わけもなく愛おしくなる瞬間がある。
 なんでもないようなことを、ちょっと伝えられる人がいる。
 それを感じられることが一番の幸せなのだろう。
 お金はあればそれにこしたことはないけど、お金が幸せの十分条件でないことは誰もが知っている。
 地位や名誉も手にはいるなら拒みはしないけど、それを一緒に喜んでくれる人がいてこそのものだ。
 だから、金賞なんてほしくない。うそです。ちょーほしい。
 金賞そのものがほしいんじゃない。
 一日でも長くこの子たちと練習してたいし、やったーーって言いたいだけなのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体育祭

2010年05月27日 | 日々のあれこれ
 昨年、一昨年と雨にたたられた体育祭も、今年は途中からこれぞ体育祭日和という空気の中で行うことができた。
 大怪我もトラブルもなかったので、ほとんど仕事はなく、2年生諸君の健闘を祈るだけだったが、見事2年10組が総合優勝した。すばらしい。
 学校にもどって採点。
 そのまま浦和のパルコに行き、「オーケストラ」を観る。
 パルコである2年生と出会う。
 「どうしたの?」
 「うえの図書館で勉強してるんです」
 えらいなあ。体育祭後すぐに勉強しにきてるなんて。
 それなのに俺は … 。
 いや映画の内容からいって、ほぼ仕事と言えるではないか、そうか仕事の一貫だ、えらいぞ、おれ。やらしい映画を見に来たのではなくてよかった。
 ロシア語メインの映画を観るのはたぶんはじめてで、新鮮だった。
 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

影法師(2)

2010年05月24日 | おすすめの本・CD
 冒頭の場面。

 雨上がりの夕暮れ時、釣りから帰る勘一(主人公)、妹、父の三人が武士とすれ違う。
その着物の色から、上士であることがわかる。
 勘一の父は下士であり、上士とすれ違う時は道の端に跪かなければならない。
 妹はこの日、母に作ってもらった晴れ着を身につけていた。
 父は土下座し、勘一もそれにならった。晴れ着が汚れることをためらった妹を見て、父は手ぬぐいを敷く。 武士にそれをとがめられ、敷物をとると、その武士はわざと泥水をはねあげて、その晴れ着を汚したのだった。
 勘一は「それでも侍か、恥を知れ」と叫んでしまう。
 逆上して勘一を斬ろうとする武士に父は刀を抜く。
 上士の腕を斬り落としたものの、ぬかるみに足をとられたところを、その上士の中間(奉公人)の槍に衝かれて命を落とすこととなった。
 父の遺体の前で泣き崩れる勘一に、「まことの武士なら、泣くな!」といさめるのが、彦四郎であった。

 この調子で紹介していくより、読んでいただいた方がはやいですね。
 講談社のサイトではこう紹介されています。

 ~ 生涯の契りを誓った二人の少年。一人は異例の出世を果たし、一人は貧困のなかで朽ち果てた。
 光があるから影ができるのか。影があるから光が生まれるのか。ここに、時代小説でなければ、書けない男たちがいる。
 父の遺骸を前にして泣く自分に「武士の子なら泣くなっ」と怒鳴った幼い少年の姿。
 作法も知らぬまま、ただ刀を合わせて刎頚の契りを交わした十四の秋。それから――竹馬の友・磯貝彦四郎の不遇の死を知った国家老・名倉彰蔵(注:成人後改名した)は、その死の真相を追う。
 おまえに何が起きた。おまえは何をした。おれに何ができたのか。 ~

 幼き日の事件で出会った彦三郎と勘一が、六年後、道場で再会する。
 お互い切磋琢磨していくなかで友情をふかめ、刎頸の契りを結ぶ。
 漢文で勉強する「刎頸の契り」。お互いのために頸(くび)を刎ねられることも辞さないという固い誓いだ。
 ある年、勘一は百姓一揆に遭遇する。多くの人が命を落とすのを見て、なんとか豊かな国をつくれないものかと青雲の志を抱きながら、一方で下士の身分には過ぎた思いだとわが身を顧みる。
 「いや、おまえならいつかはやれる」と励ます彦四郎。
 彼等をとりまく若者達の悩みと成長。
 美しい娘との出会い。
 否が応でも藤沢周平「蝉しぐれ」を思い出させるが、次から次へといろんな場面が描かれ、小気味よく物語が展開していく様は、さすが『ボックス』『モンスター』の百田さんだ。
 それにしても江戸の若者達に自我はない、なんて言ってしまってもうしわけなかった。
 で、いろいろあって(なんちゅうまとめや)、名倉彰蔵の人生には、そのポイントポイントに彦四郎がいてくれたことがわかる。まさに刎頸の交わりであった。
 しかし、最後まで読んで、やっとタイトルの「影法師」の意味がわかったおれは鈍すぎた。
 人はここまで誰かのために生きることができるものだろうかと茫然とする。
 友情と一言では片付けられないほどの思い。
 それは生き方だ。
 誰かのためにではなく、その生き方そのものが自分なのだから、ためらう必要はない。
 何度も泣かせられるのは、そんな生き方へのあこがれがあるからかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

影法師(1)

2010年05月23日 | おすすめの本・CD
 それなりに期待して読み始めた、百田尚樹『影法師』は、電車の中だったのに途中で眠くならなかったどころか、息があらくなったり泣きそうになったりで、高校生のチューなど全く気にならないほど、読み出したらやめられない作品だった。

 「自我」とか「自己同一性」という概念は、近代になって生まれたものです。
 「おれは他の誰でもないおれだ、という意識」のことです。
 じゃあ前近代に生きる人はそういう考えをもっていなかったのか、と思うかもしれないが、そうです。
 もってなかったのです、もつ必要がなかったから。
 「自分はだれなんだろ」と悩む必要はなかったのです。
 たとえば江戸時代に生まれた若者は、将来何になろう? などと悩む必要はなかったんだよ。武士の子は武士、農民は農民。
 寺子屋でやる気のないそぶりをしてた時に先生から、「おまえ、やる気あんのか! 自分の夢はなんだ。将来何になりたいんだ、それを見つけないからだめなんだ!」と叱られることはない。
 好きな人を見つけたいと願う必要もなかった。素敵な出会いが必ずあるとも思わなかった。
 結婚なんて自分の意志で決められるものではなかったから。
 まして自分の人生は素晴らしいとか、無限の可能性があるなんて思うこともなかった。
 楽だよね、考えてみると。
 今さかんに「夢にむかってがんばれ」とか「頑張ればすばらしい人生が誰にも訪れる」なって言葉がとびかっている。
 でも、それが本当のところはウソであることも多くの人がうすうす気づいている。
 勿論デーハーな人生をすごせる人もいる。
 有名になったり、お金持ちになったりする人もいる。
 でも、それはあくまでも一握りの人であり、みんながみんな華やかな人生を送るなんてことはない。
 ていうか、それでは娑婆は成り立たない。
 そういう意味で、人は平等でないことは、みんなわかっているのだ。
 それでも、他のだれでもない自分でありたい、自分独自の人生を過ごしたいなんて我々は思ってしまうから人は悩む、その悩む近代人を描写するために小説というシステムが必要になってくるのです。

 なんて話を、小説を扱うときには必ずする。
 先日も「山月記」の主人公は、自分という存在について悩んでるから、近代小説の主人公たり得るのだ、と話をしたばかりだ。

 では、前近代から近代にかけて自我の存在がゼロから100になったのかというと、もちろんそんなことはない。
 それは明治以降に産業が一気に近代化できたのは、江戸時代にマニュファクチュアまでしっかり準備ができていたからであるのと同じだ。
 鎖国に疑問をもち、幕藩体制に疑問をもつ若者たちが飽和状態に達してきたからこそ、「このままではいかんぜよ」ということになったのだ。

 しかし、人々の暮らしは前近代的な制度のうえに成り立っている。
 身分制度は厳然としてある。
 もしも、そういうものに疑問をもってしまった場合、現代に生きる我々とは比べもののにならないくらい、その不条理さにうちひしがれるはずだ。

 そうか、時代小説というのは、主人公に科すことのできる苦難が、きわめてわかりやすく設定できるものなのだ。
 百田さんに時代小説に書きたいと思わしめたのは、そういうものかもしれないと、勝手に想像する。
 百田さんは、時代小説という枠組みを用いて、人間の情を描きたかったのではないか。
 ていうか、とにかく面白い小説、人の心を打つ作品を描こうとしたとき、たまたまそこに時代小説という一つの手段があったのではないかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

接吻

2010年05月22日 | 日々のあれこれ
 1946年だから戦後すぐだが、「或る夜の接吻」は映画史上初のキスシーンを描いた作品とされる。
 その瞬間の映像は「映画の歴史」を紹介するテレビ番組で見た記憶がある。
 ヒロインが雨の中で口づけをするシーンで、二人がまさに口唇を接触させようとかという瞬間、傘が倒れてきて二人を隠してしまうという映像だった。
 川柳川柳師匠のCD「映画やぶにらみ」を聴くと、この映画を村中の若者が観に行って、最後の傘のシーンでは「ふざけんな」「金返せ」といった怒号がとびかったという。
 古き良き時代である。
 吹奏楽部父母会を終えて(役員のみなさま、ありがとうございました)、電車で大宮方面へ向かってたら、指扇から乗ってきた高校生のカップルが斜め正面に座る。
 ふつうに仲良く話してる感じで、声も不快なほど大きくはないので、道尾秀介『光媒の花』の世界に入り込もうとして、ふと気づいたら二人は接吻なさっていた。
 おれのとなりにはお父さんと小さな女の子も座ってる。
 思わず「こるぁ! 高校生がそんなことしていいのか!」と声をかけるようなことはなく、ただただ気まずかった。
 時代も変わったものである。
 若かりし川柳師匠がタイムスリップしてきたら、今の世をどう見るであろう。
 だいたい高校時代にそういう行為をすること自体が昔は禁じられていた。
 万が一そのような行為に及ぶ幸甚に恵まれたとして、それが人にばれたなら、最低でも一家村八分ではなかっただろうか。
 今ではこそこそするどころか、電車内で堂々とである。
 本校の生徒同士がそのような行為に及んでいたら、まちがいなく注意したであろう。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

口蹄疫

2010年05月21日 | 日々のあれこれ
 試験初日。
 監督をおえておもむろにパソコンをひらき、いつものように何人かの先生方のブログを拝見してたら、ユメタンのキムタツ先生が、宮崎県の方のブログを紹介されている。
 口蹄疫については、気づいたらとんでもない災害になっているようなことは漠然としりながら、「宮崎の人、たいへんだなあ」という他人事(ひとごと)の感覚でいた。
 そのブログでは、新聞やテレビからでは伝わりきれない現場の惨状が伝わってくる。
 せめて義捐金を送りたい。
 これから、中学校訪問の後半線にでかけるが、いきがけに郵便局で振り込みしてこようと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中学校訪問

2010年05月20日 | 日々のあれこれ
 今年も営業活動が始まった。
 本校には、東大10人入れてみせますとか、甲子園に行きますとかの売り物はない。
 勉強もやる、部活もやる。ふつうにやる。服装がおかしければただす。授業中はきちんと話を聞かせる。あいさつをする。そうじをする。普通の高校生活をする。いわば、特徴のないことが特徴といえるかもしれない学校づくりをしてきた。特別進学クラスも、スポーツクラスもない。
 最近は県立高校さんでも、進学重視を掲げる学校さんや、スポーツ実績をポイント化して入学できるようになった学校さんもある。
 だから、昨今の経済状況ともあいまって、黙ってても生徒は集まってくるだろうという楽観は許されない。
 そんな状況下で、本校が毎年定員以上の生徒さん方をお迎えできているのは、ひとえにこの私の努力の賜であろう(うそです)。
 正直、このご時世にこのままの体制でいいのだろうかと思うことがないではない。
 進学面でも、部活面でも、もっと世間に大きくアッピールする方向性を模索するのも一方法ではないかと思うこともあり、それとなく口にしてみたこともあるが、学校としてはこのままいこうということだった。
 単位未履修で問題になったときは、まず正直にあやまろうと言ってすぐに手をあげてしまったことも思い出されるが、とにかく正直に、普通に、まっすぐに、やるべきことをやれという使命を与えられているのだと思う。
 それにこたえるべく働きたい。幸い、中学校の先生方からも学校の姿勢については好意的に受け入れられていることを感じることができた、今日の中学校まわりだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書道ガールズ

2010年05月19日 | 演奏会・映画など
 そうですか、新宿・池袋どなたも行ってないですか … 。
 じゃあ、この「書道ガールズ」はいかがでしょう。
 北乃きいちゃんが桜庭ななみちゃんに代わり、剣道ではなく書道が題材になったもの。
 己を律する書道を目指し、きちんと練習しないなら来なくていいと部員に言ってしまう書道部部長の里子役を成海さん、みんなで楽しくやればいいじゃないという香奈役を桜庭さんが演じる。
 書道家であるきびしい父親に、幼いころから書を教え込まれていたという設定も含め「武士道~」と同じ結構だ。
 書道パフォーマンスなんか邪道だと言ってた彼女が、自分の書に疑問をもち、乗り越えていく過程、そうさせていく部員たちとのやりとり、彼女たちをとりまく地方都市の経済の問題など、いろんなことがらが実にていねいに書き込まれたすばらしい脚本だと感じた。成海さんの仕事の安定度は言うまでもない。
 カンヌ映画祭に行くというニュースを見たけど、賞とり部門に参加されるのだろうか?
 日本人にはどこが面白いのかわからない北野監督作品より、よほどこういうのを異国の人に観てほしいものだ。
 作品には、松山女子高校、川口高校といった、書道パフォーマンスの名門高が出演している。
 埼玉の高校って、どんな分野でも必ず全国クラスがいるなあ。
 アンジェラアキ「手紙」による、主人公たちのパフォーマンスは圧巻だった。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする