水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

2月28日

2009年02月28日 | 日々のあれこれ
 前生徒会長の読む「答辞」を添削していたら、そして「お世話になった先生~」のくだりではなく「私たちを支えてくれた家族には心から感謝し~」のところで突然感極まってしまい、急遽トイレの個室にこもって涙をふいていた私はバカでしょうか。
 午前は卒業式のもろもろの準備、午後は部員みんなに予餞会の機材搬入を手伝ってもらい、そのままリハーサル。先生方の歌の練習。昨日の練習では「なんか、みんな練習たりないよなあ、でも部活みたいにキレるわけにはいかないからなあ、学年主任て孤独だなあ」などと思いながら、ぐったりつかれて帰宅したが、さすがに今日のマイクを通しての練習ではいい感じになってきた。
 その後、歌の前に上映するビデオの試写。
 50分弱の作品になったが、たぶん3年生たちは、退屈することなく見続けてくれるものになったと思う。
 3年おきの仕事だが、そのたびごとにグレードはあがっている。
 もちろん編集をしてくれるOBよしだ君の力が一番大きいのだが、でも脚本も全体の構成も、だんだんよくなってきている。
 毎回少しは成長しているのだ。フィジカルが衰える一方なのはしょうがないが、人としてのトータルではまだまだ落ち目ではないような気がする。
 それは、昔ほど「よし、おれにまかせろ、おれがいちばんだ」的気負いが抜けてきたからでもあって、それは情熱の現象ではなく円熟とよびたいのだ(しかし好きなこと言ってますね)。
 さすがに「おくりびと」を撮る監督にはなれない。
 でも学年の先生方と、生徒に楽しんでもらえるレベルの作品なら作れる、というほどよい諦念と自負である。
 石田衣良の小説を読んでたら、こんな一節があり、そうだよなあと思った。

 ~ 喜一は取り立てて文章などうまくはなかった。書くための練習を積んだこともない。しかし、若いころよりもずっと自由に言葉を扱えるようになっている。それが、自分でも不思議だった。理由のすべてがわかったわけではないが、喜一には思いあたることがふたつほどあるのだった。
 ひとつはやはり年齢である。いつまでも若いと思っていた自分も年を取ったのである。四十歳という年齢は、言葉をつかうというむずかしい技術では、成人式に等しいのではないだろうか。ようやく下手は下手なりの文章を書けるようになる年なのだ。
 もうひとつは、自分自身を見る目である。若いころのように、もう自分の力を過信してはいない。世のなかには、できることよりも、ずっとたくさんのできないことがある。さしてくやしさもなく、素直にそう認められるようになったのだ。自分を突き放し客観的に見ることも、自分を笑うこともできるようになった。
 多くの人は、わかりきったことというかもしれないが、喜一にはそれはおおきなことだった。楽に生きられるようになったからである。身にあまる夢をもち続け、自分に過重な期待をかけるのは、つらいことだった。四十歳という年齢では、ほとんどの夢はかなうはずのない幻として、身体から自然に抜け落ちている。
 まだ青春のさなかにある人間はいうかもしれない。夢も希望もない人生なんて生きる意味がない。だが、それが違うのである。ほんとうは自分のものではない夢や希望によって傷つけられている人間がいかに多いことか。本心では望んでいないものが得られない、そんなバカげた理由で不幸になっている者も、この世界には無数にいるのだ。
 余計な荷物を全部捨ててしまっても、人生には残るものがある。それは気もちよく晴れた空や、吹き寄せる風や、大切な人のひと言といった、ごくあたりまえのかんたんなことばかりだ。そうした「かんたん」を頼りに生きていけば、幸せは誰にでも手の届くところにあるはずだ。 ~
 (石田衣良『40(フォーティー)翼ふたたび』講談社文庫)

 石田衣良といえば、毎日新聞の日曜版に載っている小説「チッチと子」をひそかに愛読している。だから明日は部活はないけど、学校にきて読まねばならぬ。


 
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2月26日

2009年02月26日 | 日々のあれこれ
 昨日、今日と国立の前期入試。
 小論文の添削も一段落した。
 予餞会での教員合唱の練習をしたり、卒業記念品やアルバムを搬入したり。
 じょじょに卒業式気分になってきている。
 わが部も、予餞会、卒業式で演奏するので、本来なら明日から試験休みだが練習が続く。
 そして定演まであと20日ちょっとなのだ。
 くう、時間がない。
 3月29日の市民会館を抽選負けしてとれなかったおれが悪いのだが、でも去年もなんとか乗り切ったのだから、やれるはずだ。
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とどく言葉

2009年02月25日 | 日々のあれこれ
 たとえば今日の朝日新聞社説に「暴力や脅しは許さない」と書いてあるのだが、いったい誰に向かって、どのような効果をねらって書かれたものなのだろう。
 たとえば以前、文科大臣が「いじめはいけません」とテレビで語っていたが、誰にむかって、どのような効果をねらって述べられたのだろう。
 ずいぶん前の話だが、文学者による「反核声明」というのがあって、なんかいろいろ議論があった(どんだけアバウトな話やねん)。
 それはつまるところ「言葉に力はあるのか」「暴力の前に言葉は無力なのか」という問いがあったのだと思う。
 (なんか、ちゃんと言えないレベルの話を無理やり書こうとしてる状態になってきたかも。)
 言葉でめし喰ってる人間としては書いておきたい。
 言葉が力をもつかどうかは、その言葉を用いる人の志によると言うしかないのではないかと思うのだ。
 今日の社説には(ていうかいつもだけど)、社説とはいったい何か、自分の書く言葉がどれだけ人にとどいているのか、という意識がまったく感じられなかった。
 あのときの文科大臣のことばには卑劣ささえ感じた。こんな顔で、ペーパーを読み上げられたのでは、いくらなんでも亡くなった子はうかばれないと思ったものだ。
 「9.11テロ」の直後に、たとえば○○市市議会が、テロ反対決議を行った。
 この決議なるものは、どんな効果があるのか。
 すくなくとも、テロリストが読んで、「やべえ、もうやめよう」と思わないことだけはたしかだ。
 ここまでは前置き。
 これも朝日新聞の文芸時評で、村上春樹がエルサレム文学賞を受賞したことについて、斉藤美奈子が「私は反対」と書いていてカチンときたのです。
 じゃあ、あんたは何をやったのか、と。
 日本にいて、ガザ侵略ってよくないよねえとか学生の前で語ってて、それで何か生み出すものはあるのか。
 すくなくとも村上春樹は、イスラエルの人たちの前で、「あんたら、ちょっとまずいんちゃうか」と語った。
 村上春樹の小説を実はあまり楽しめない派ではあるけれど、先日の受賞スピーチには心がふるえた(うー、なんでこんなつまんない表現しかできないのだ!)。
 教員というのは卵の側につくべきなのか、いやあえて壁になることも必要だろうなどとも考えた。
 村上氏の言葉に、何か感じるものはあったユダヤ人はいたはずだ。
 行動した人を、傍観している人があれこれ言うことだけはおかしいと思うのだ。
 
 
 
 
 
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2月22日

2009年02月22日 | 日々のあれこれ
 東邦音大での川越市技術講習会。
 開会式で加古先生から「みなさん、今日2月22日は、猫の日です。ではみんな言ってみましょう。さんはい、にゃんにゃんにゃん」のお言葉をいただく。
 この日の東邦音大の先生方のノリを象徴する出来事だったのではないか。
 楽器別の講習は充実したものであったようだし、さらに最後の講師演奏は圧巻だった。
 学生、大学院生の方から、Tpの加古先生はじめ派閥の領袖クラスみたいな先生方まで一堂に会しての演奏。
 「スターウォーズ」も「刑事ドラマメドレー」も「ポニョ」も、ちゃんと吹ける人たちの集合体だと(しかもその方々がリラックスして演奏すると)こんなサウンドになるのだという驚きと感動。
 楽器レッスンがあり、リーダー講習では埼玉栄高校の大滝先生にお越し頂き、最後のこのぜいたくなコンサートを聴けたのだから、参加費1000円はじゅうぶんもとがとれる。ていうか安い。
 17:00業務終了だったので、帰りに「少年メリケンサック」を観た。
 宮崎あおいちゃんにがんばりに感動する、充実した一日だった。
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裸の王様

2009年02月19日 | 日々のあれこれ
 中川大臣のベロベロ会見をみて、なんで周りがほおっておくの? と思った人は多いはずだ。
 いつもそばで見ているマスコミ関係者、大臣を支えるのが仕事のはずのお役人たち、そして同僚たち。
 友達いないのかなぁ。
 今日も財務省のなんとか局長がいろいろ言ってたけど、義理も情けもないのは霞ヶ関ということか。
 かわいそすぎる。でもわれわれも同じだ。
 気づいてないのは自分だけで、「なんだあいつ。あんなやつが先生だって、わらわせる」と思われてることも、きっとある。
 少し前に、相当呑んでしまった翌日の朝、何人かの同僚から「酒臭いぞ」とか「まだ顔赤いじゃねえか」とか言われたことは、たぶんうんと幸せなことなのだなあと思う。
 
 
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音楽と文学

2009年02月16日 | 日々のあれこれ
 音楽と文学とは言葉のひびきが似ていると言えなくもない。
 その根本的な性質はけっこう似ていると言える。
 横浜の野中先生のブログで次のエピソードを読んだ。

~ 小学生が参加する、ある音楽の会で、芥川也寸志さんが、小学生の女の子に質問をされたという。
「音楽は何のためにあるのですか?」
 彼は答えたと言う。
「あなたのこれからの人生の中で、どうしても必要になるからですよ」
 うまいことを言うなあと思った。 ~

 音楽も文学も、人が生きていくうえで、どうしても必要なものではない。
 この二つを必要とせずに生きている人はたくさんいる。
 おそらく幸せな人が多いと思う。
 自分の夢に向かって、なんのためらいもなく突き進んでいける人。
 目標実現のために、日々の課題を毎日着実に消化していける人。
 そんな人たちにとって、のんびり音楽を聴く時間などは必要ではない。
 まして、主人公が女々しく(やべ、差別語?)うじうじと思い悩む小説など、読む気にさえならないだろう。
 音楽も文学も、なければないですむものだ。
 たとえば政治や経済の中枢にいる人で、そんなものは意識のうちにさえないという人もいるだろう。
 その作り手も、もともとは日陰者だった。
 ほんの数十年前まで、高校生が「文学部に進みたい」と言うと、「このごくつぶし!」と親に怒られたものだ。
 今でこそ、ミュージシャンだ、作家だとちやほやされるけれど、本質は変わっていない。
 うちに来ていただいているレッスンの先生にも、不況のあおりで仕事が減ったとおっしゃる方がいた。
 最初にきられるのが、自分たちですよ、と。
 でも、と思う。
 人はパンのみに生くるにあらず。
 ほんとうにめしが食えなくて、どうしていいかわからない時に、たまたま目にした一編の詩で、たまたま耳に入ってきたメロディーで、どん底から立ち直ることもあるのではないか。
 ただ順風満帆な人生をおくるのではなく、人生のどこかで、音楽や文学を必要としてしまう経験をするくらいの方が、人間的と言えるのではないか。
 などと、ほぼ毎日両方を必要としてしまう心の弱いオレとしては思うのだ。

 

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ララピポ

2009年02月15日 | 演奏会・映画など
 映画「ララピポ」で、風俗スカウト業役の成宮くんが、自分がスカウトした女の子の手料理を食べる場面。
 成宮くんのフォークの持ち方がなんか不自然ですごくよかった。
 昔、なんかの映画について、ものすごい不良がきれいな箸使いで食事するシーンが嘘くさいと言う評論家(かな?)の話を聞いて、なるほどと思った。
 そういう不良がいて悪くはないけど、やはり恵まれない家庭環境を生きた結果としての今、という存在にした方が自然だ。
 そしてそういう細かいところまできちっと作ってほしいし、全体はまあまあでも、ちょっとした手抜きの場面を見つけて気持ちがひいてしまう作品というのはあるものだ。
 「ララピポ」は、デビュー以来無条件に買って読んでいる奥田秀朗の作品。
 たぶんそんなにお客さんの入る映画ではないと思うけど、原作の奥田秀朗さんも喜ぶ出来なのではないだろうか。
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2月14日

2009年02月14日 | 日々のあれこれ
 午前中に小論文の指導やビデオ撮影、借りた衣装の洗濯をし、ガソリンを入れようと車に乗ったら暑い。窓を開けると花粉がおしよせてくるので、クーラーをかけてしまった不思議な2月の一日。
 車の中はずっと課題曲を流している。
 今年から高校生もⅤを演奏することができるようになった。
 音源が来る前は、いっちょ挑戦してみるかとも思ったものだが、演奏を聴き、スコアを見るかぎり、これは無理かなと感じる。
 もし部員のみんながⅤをやりましょうと言ってきたら、「ごめん先生これできない」と言おうかななどと思う。
 難易度が高くても、すごく美しくてきれいで、艱難辛苦を乗り越えてでもやろうと思えるならもちろんいいのだが、とんでもなく苦労してその後何を得られるのかと考えると、二の足を踏む、ていうか一の足でもうだめだ。
 いやけっして曲が悪いわけでも作曲者が悪いわけでもない。
 第一回朝日作曲賞にかがやいたほどの作品なのだから、質の高い作品であるのはたしかなのだろう。
 あくまで自分にはわからないということだ。
 たとえば芥川賞を受賞した平野啓一郎「日蝕」は、まったく理解できなかった。
 残り少ない人生で、あえて彼の作品を読むことに時間を費やす必要はないと感じた。
 Ⅴも、きっといい作品なんだろうけど、高校に入ってから楽器を手にし、引退するまでの貴重な二年半のなかで、あえて数ヶ月練習すべき曲には思えない(あくまでも今の時点だが)。
 だいたい課題曲なんだから1曲でいいんじゃないかなとも思うのだが。
 Ⅰは芥川賞で言えば宮本輝の「螢川」みたいで、美しく完成された一つの世界をもつ短編という印象で、どのパートにも不安がないならぜひやってみたい。
 Ⅱは今回の「ポトスライムの舟」、Ⅲは「乳と卵」、Ⅳは「猛スピードで母は」という印象(どんなんやねん)。
 
 
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2月12日

2009年02月12日 | 日々のあれこれ
 昨日1・2年生がそれぞれスキー実習、修学旅行にでかけたので、今日は朝一番の出勤。
 お湯をわかして、コーヒーをおとし、7時を過ぎてもまだひとり。
 日曜の朝のような雰囲気だった。
 しかし、のんびりしてはいられない。
 三年生を送る会に上映するビデオ撮影がある。
 午前中にロケ地を確認し(といってもびん沼付近だけど)、衣装類のわりふりをつめる。
 午後、いろいろ着替えてもらって、いくつかのシーンを確認する。
 天気がよくてよかったが、さすがに何時間も外にいると、身体が冷える。
 それだけ撮っていても、実際のシーンとしては数分でしかない。
 3年に一度の作業だが、映画の撮影というのがどれだけ時間がかかるものか、その一端を想像することができる。

 今日の分を終えて職員室にもどると、課題曲セットが届いていた。
 きてしまった。また始まるなあという感じだ。
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真の …

2009年02月10日 | 日々のあれこれ
 白石一文『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』を読んでいて、ふと考えてしまったことば。

~ 「あなたの目の前に二つの道があったとします。一つは、やがて神と出会い、自分がなぜ生まれてきたかを悟ることが約束された稀有の道。もう一つは、神に出会うことも自分の誕生の意味を知ることもできないものの、莫大な金銭を与えられ、数々の欲望を満たしながら一生を安楽に暮らすことが約束された凡庸な道。さて、あなたは一体どちらを選択しますか? 仮にいま生まれ変わったとしたらどの道をあなたは進もうと望みますか?」
 要するに「あなたはもしなれるのだったら、ブッダやキリストのようになりたいですか? それともロックフェラーの子孫やビル・ゲイツの子供たちのようになってみたいですか?」ということだ。
 女性でいえば「あなたはマザー・テレサのような女性になりたいですか? それともアンジェリーナ・ジョリーのような女性になりたいですか?」 ~

 「音楽の真の喜びを知りたいですか、コンクールで金賞とりたいですか」というのも同じだろうか。
 「本当の読解力を身につけたいか、センター国語で満点とる力がほしいか」ならどうだろう。
 これは間違いなく後者をとる。
 「本当の読解力」とか、「真の国語力」なんてのは、言葉としては存在しても、これまで誰も定義できなかったものだから。
 たとえば「センター試験では本当の国語力は測れない」という言い方で、センター試験を批判する方はいる。
 批判はしても、代案を出された方はいない。
 たしかにセンター試験の型式よりは、国立二次のような記述問題の方がよりたしかな国語力を測れるような気がする。
 まあ、それもそんな気がするだけで、それを証明した人はいないのだ。
 センターで半分しかとれない人が、東大二次なら満点とることはありえないし、逆もまたしかり。
 小論文ならどうか。かなり「真の国語力」に近づくような気がするけれど、じゃあ誰がそれを客観的に評価できるだろう。
 大学の先生にそれができるだろうか。
 この程度の問題しか出せない大学なら、その大学の先生の書いた本もつまんないだろうなあなどと思うときはあって、予想はふつうはずれない。
 「本当の国語力をつけさせるべきだ」などと述べる国語教育研究者の本は、たいがい日本語そのものがおかしいものが多い(攻撃的すぎますか?)。
 「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と孔子はおっしゃられた。
 ここで言う「道」は「真理」と置き換えて理解するのが一般的だ。 
 「朝に真理を知ることができたなら、その日のうちに死んでもかまわない。」
 それほど手に入れにくいものであり、孔子でさえ知ることができたらいいなあ、と思いながら亡くなったのだ。
 われわれ一般人に、この世の真理なるものを手に入れられるはずがない。
 金も名誉もいらない、わたしは生きる意味がわかればいいなどと言うのは、畏れ多いことなのではないか。
 つまり、コンクールの賞よりも、もっと大事なものを手に入れたいという言葉は、まず賞とってからでいいでしょ、ということではないだろうか。
 昔(ほんとに昔)沢田研二が、「人気と実力とどっちがほしいですか」という問に、「そりゃあ、もう人気にきまってます」と答えたという話をなぜかずっとおぼえている。

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