表紙を見て一瞬「おれ?」と思って手にした雑誌(たんに福山特集だった)で、小泉今日子さんの頁をたぐる。
彼女が連載している「原宿風景」という頁には「アキと春子と私の青春」というタイトルが付けられている。
読書家で、エッセイも達者な彼女だが、今回のはまさに奇跡のような文章だった。
~ アキと雨の表参道を歩いた。私はオレンジ色の傘、アキは青い色の傘をさして。アキと同じ年くらいの頃、私は表参道のちょうど真ん中あたりにある横断歩道で信号待ちをしているふりをしながら芸能事務所にスカウトされるのを待っていた。持っている洋服の中で一番可愛い服を着て、お気に入りのタータンチェックの帽子をかぶって。アイドルに憧れて、夢は必ず叶うと信じていた。だからいつも胸がドキドキドキドキしていた。ドキドキしながらいつも何かを待っていた。でも、思い描く未来は明る過ぎて眩しくて真っ白く光っているだけで目つぶしを喰らったみたいに何も見えていなかったのかもしれない。「ママ、どうしたの?」振り返るとアキが心配そうに私を見つめている。あの頃の私にとっては思いもよらない未来に今私は立っている。アキが私くらいの年になった時、オレンジ色と青い色の傘をさして二人で歩いた表参道を思い出してくれるかな。未来のアキはこの表参道を誰と歩いているのだろう。 (小泉今日子「原宿百景 アキと春子と私の青春」雑誌「SWITCH」10月号より) ~
「私」とは春子なのか、キョンキョン(この言い方がすでにオヤジだな)なのか。
判然としなくなるこの感覚そのものが、「あまちゃん」を見ながら抱いていたざわざわした感覚につながっていたのだなと改めて思う。
芸能人やスポーツ選手を見て、ただただ「かっこいい!」と憧れるような小学生時代が過ぎて思春期を迎えると、人は現実のものとして自分の将来を思い描くようになる。
自分はいったい何になれるのだろう、いつの日か何者かになれるかもしれない、いや何の才能もない自分には平凡な人生しか待ってないにちがいない、それのどこが不幸せなのか、そもそも幸せっていったい何、そんなことを思いながら、ブラウン管のなかの華やかな世界で、きらきらした人生を歩んでいる存在に対し、たんなる憧れではなく羨望や嫉妬の思いを抱くようになる。
~ 約一年間、朝のドラマでヒロイン「アキ」の母親役「春子」を演じた。若い頃アイドルを目指し、故郷を捨て、親を捨て、家出までして上京した東京で夢に破れ、タクシー運転手と結婚をして娘を産み家庭に入った専業主婦。そして年頃になった娘はかつての自分と同じアイドルの道を目指し始める。私は子どもを持たなかったが役を通じて母親の気持ちを体現できるのは女優という仕事の面白いところである。ヒロインを演じた能年玲奈ちゃんの瑞々しさはアキそのもので、この子を全力で守りたいという気持ちにさせてくれる魅力的な女の子だった。ドラマの中でのアキの成長はそのまま能年ちゃんの成長だった。これはもうドラマを越えたドキュメンタリー。大人たちの中で懸命に頑張る彼女の姿を見ていると過去の自分をよく思い出す。 ~
もしかしたら自分もアイドルになれるかもしれない、いやなるんだ! と夢を追いはじめる者もいる。
アイドルでなくてもいい、役者でも、スポーツ選手でも。作家になる、ノーベル賞をとれる研究者になる、起業して大金持ちになるでもいい。
多くの人は、その夢の実現の不可能度が高くなっていくか、また最初から夢を追わずにいるので、自分の夢を託す存在としてアイドルを見るようになる。
もちろん、役者でもいいし、スポーツ選手でもいい(しつこいかな)が、自分の夢を託し、自分がやりたくてやれなかったことをやってくれる存在を見つけ、ファンになり、感情を移入する。そういう存在がある人は幸せだ。
いつしか親となって、自分の子どもに夢を託す場合もでてくる。
人はどんな可能性もあるが、自分が選んだ一つの人生しか生きられない。
資質、容姿、財力、人間力など、いろんなものを持っていても、一度の一種類の人生しかおくることしかできない。
自分が送る一種類の人生と平行して、憧れたり、支えたり、感情移入したりすることのできる別種の人生を思い描けることは、どんな形であれ幸せなはずだ。
~ 春子がなれなかったアイドル。私がならなかったお母さん。人生は何が起こるかわからない。どこで何を選んで今の人生に至ったかはもうわからないけれど、ほんの小さな選択によって、春子が私の人生を、私が春子の人生をおくっていたのかもしれない。私が選ばなかったもうひとつの人生。だから、春子とアキ、私と能年ちゃん、ふたつの関係が物語を通して同時に進行するという不思議な体験をしている。例えば、春子は過剰なほどに娘を守ろうとする。自分と同じ苦い思いを味わって欲しくないという思いが春子をそうさせる。娘を傷つけようとする敵に対して牙をむき暴言を吐き大暴れする。母親ならではの戦いっぶり。でも私の場合は、苦い思いも挫折も孤独も全て飛び越えて早くこっちへいらっしゃいという思いで能年ちゃんを見守る。まさに「その火を飛び越えて来い!」という心持ちで待っている。すぐに傷の手当ができるように万全な対策を用意して待っている。先輩ならではの立ち振る舞い。こんな風にフィクションとノンフィクションが同時に起こっている不思議な体験はなかなかできることではない。あまちゃんマジック。いやいや能年マジックなのだと思う。彼女が私の心を動かすのだ。 ~
こんな思いで演じられていたとしたら、観ている側の心を打つお芝居にならないはずがない。
もちろん、能年ちゃんも、小泉今日子さんの思いを存分に受け止め、思い切り演じていたにちがいない。
ここまでの作品に出てしまうと、その後の女優としての人生がいばらに道になることも予想できる。
でも、キョンキョンがついている。他にも支えてくれる人はいるだろう。
かわいい子はたくさんいる。才能をもつ子もたくさんいる。アイドルの道、女優の道を目指す子はたくさんいる。
実際にその道を歩み始める子もたくさんいる。しかし、十分に活躍の場を与えられる人生を送れるかどうかは、その子の人間性であり、運である。
「あまちゃん」という作品に巡り会い、キョンキョンと親子になれた能年ちゃんは、そういう意味でほんとに運がよかった。それは彼女自身の力でもあるし、その仕事をやりきれたのは周囲の人たちの力によるところも大きい。
~ 撮影中に二十歳になった能年ちゃんに三つの鍵がついたネックレスを贈った。大人になるために必要な鍵。ゆっくり慎重に楽しんで大人のドアを開いて欲しい。ドアの向こうにはいつでも未来が待っている。必要ならばいつでも私も待っている。「その火を飛び越えて来い!」 (小泉今日子「原宿百景 アキと春子と私の青春」雑誌「SWITCH」10月号より) ~
芸能界にかぎらず、大人のすべき仕事がこれなのかな。
こどもたちに「その火を飛び越えて来い!」ということ。
みんながみんな大きな火を飛び越えてきたわけではない。
でも今まで生きてきたというだけでも、一日の長はある。
たいした人生を歩んでない風に見えても、経験の絶対量は異なる。
たくさん泣いて、たくさん辛い思いもしてきた。
「大人になるための三つの鍵」がどんなドアをあけるのか(あ、縁語!)、人によってちがう。
まず、鍵を手にしてほしい。思い切って飛び越えてほしい。