水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

10月31日

2013年10月31日 | 学年だよりなど

  学年だより「キョドる(2)」


 ~  いまだから明かす話だが、僕は大人になってからもずっと、女の子にキョドっていた。たとえば、近鉄バッファローズの買収騒動でメディアに大きく採り上げられた2004年あたりも、まだキョドっていた。メディアの前では強がっていたけど、プライベートで会う女の子には相変わらず挙動不審で、うまく話せなかった。経営者となり、多少モテるようになってきても「オレのことが好きなんじゃなくて、オレの持ってるお金が好きなんでしょ?」という猜疑心が拭えなかった。僕自身は、全然モテなかった学生時代からなにも変わっていなかったからだ。 (堀江貴文『ゼロ』ダイヤモンド社) ~


 ホリエモンがモテなかった話を延々紹介しているのはなぜか。
 同じ男子校暮らしのみんなも将来モテないよ、と言いたいわけではもちろんない。
 モテないのは、キョドっていたからだ。
 逆にいうと、キョドることなく思い切って声をかけることができれば、モテる可能性は生まれる。
 女子の前では徹底的にキョドっていた堀江氏だが、もちろんビジネスではそんなことはなかった。
 東大在学中に起業し、時代の寵児と称されるまでになった堀江氏は、時に「強気すぎる」とたしなめられるほどの強引さで日々を過ごすことになる。
 堀江氏は、ビジネスにはキョドることなく、思い切ってチャレンジしていった。


 ~ 転職したいとか、社内で新規事業を起こしたり、起業したいといった希望を持ちながら、なかなか行動に移せない人がいる。
 そういう人は、僕が女の子にキョドっていたように、仕事にキョドっているのだ。あるいは人生にキョドっているのだ。
 キョドる、という言い回しが通俗的すぎるなら、仕事や人生に怖じ気づいているのだ。仕事と目を合わせることができず、大きなチャンスからは逃げ去り、人生に向き合うと頭が真っ白になる。けれど同時に、仕事や人生と仲良くなることを強く願っている。どう振る舞えばいいかわからず、あたふたしている。まさに、女の子を前にしてキョドっているオタク少年と同じだ。
  … それではどうして、キョドってしまうのだろう?
 モテなかった当時の僕を考えれば、話は早い。自分に自信がないのだ。そして自信を形成するための経験が、圧倒的に不足しているのだ。
  … 仕事も人生も同じだ。キョドってしまうのは、性格の問題ではない。ましてや、ルックスや足の速さなど関係ないし、学歴や収入、社会的な地位とも関係ない。これはひとえに「経験」の問題なのである。 ~


 モテたいならキョドらずに声をかけること。成功したいならチャレンジすること。合格したいなら勉強すること。勝ちたいなら練習すること。まずトライしてみないことには始まらない。
 自信は経験の積み重ねの中からしか生まれない。

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球技大会

2013年10月30日 | 日々のあれこれ

 昨日一日雨模様で、今日はさわやかな秋晴れ。
 中間試験明けに設定した球技大会を昨日に延期したのは、ぜったい晴れそうだからという理由だったのだが、昨日だけ曇りのち雨だったではないか。
 ま、ほぼすべての種目を最後までやれたからよかったけど。
 グランドの一番職員室に近いところでソフトボールをやってて、「おいおい、このクラス、野球部の3、4番いるのかい」と言われて見ると、夏に準優勝した主力がバットをふっている。「この間、ソフトの国体選抜に入った子もいるんですよ」と隣で3年の学年主任が答える。なんとハイレベルなチームだ。しかも、そのチームが1年生に負けてるし。
 部活動による出場制限がないので、種目によってはかなりハイレベルな戦いが繰り広げられていて、テニスなども先の新人戦で県チャンピオンになった子がふつうにやっている。容赦ないなあ。でもたとえば吹奏楽部員でも、そういう子と一戦交えることができるのはいい経験だろう。
 校内ロングトーン大会があれば、うちの部員も上位に食い込むだろう。まて、ロングトーンだとあやしいか、ハーモニー大会はなお不安だし、そうだ、演劇部門、ダンス部門の方が確実か。
 学校さんによって、うちの球技大会はサッカーがやたらハイレベルなんですよとか、うちはバスケットが、とかあるだろう。城北埼玉さんではない方のお隣の高校なんかは、全種目すごいレベルなんだろうな。
 逆に学校さんによっては、全般に低調という場合や、球技大会に選手がそろわない場合ということもある。
 一般的にいって、勉強面でもう一つふるわない高校さんが行事でもふるわない状態なのが、今の高校の問題点だ。
 自分のなかでは、センター試験のやり方なんかよりはるかに大きな問題だ。
 これは先日の教育再生会議が提示した、入試の小手先の変更のようなものではなんともならない。
 公のお金を費やして開く教育再生会議とかで、素人ぽい入試改革を提言するくらいなら、碩学とよばれる方々の知性を、もっと有効に活用してほしいと思う。
 そのためにまず現実を見て、つまり議論のための材料をもったうえで貴重な時間をつかってほしい。
 そうじゃなかったら、こどもはふりまわされるだけだ。

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その火を飛び越えて来い!

2013年10月29日 | 日々のあれこれ

 表紙を見て一瞬「おれ?」と思って手にした雑誌(たんに福山特集だった)で、小泉今日子さんの頁をたぐる。
 彼女が連載している「原宿風景」という頁には「アキと春子と私の青春」というタイトルが付けられている。
 読書家で、エッセイも達者な彼女だが、今回のはまさに奇跡のような文章だった。


 ~ アキと雨の表参道を歩いた。私はオレンジ色の傘、アキは青い色の傘をさして。アキと同じ年くらいの頃、私は表参道のちょうど真ん中あたりにある横断歩道で信号待ちをしているふりをしながら芸能事務所にスカウトされるのを待っていた。持っている洋服の中で一番可愛い服を着て、お気に入りのタータンチェックの帽子をかぶって。アイドルに憧れて、夢は必ず叶うと信じていた。だからいつも胸がドキドキドキドキしていた。ドキドキしながらいつも何かを待っていた。でも、思い描く未来は明る過ぎて眩しくて真っ白く光っているだけで目つぶしを喰らったみたいに何も見えていなかったのかもしれない。「ママ、どうしたの?」振り返るとアキが心配そうに私を見つめている。あの頃の私にとっては思いもよらない未来に今私は立っている。アキが私くらいの年になった時、オレンジ色と青い色の傘をさして二人で歩いた表参道を思い出してくれるかな。未来のアキはこの表参道を誰と歩いているのだろう。 (小泉今日子「原宿百景 アキと春子と私の青春」雑誌「SWITCH」10月号より) ~


 「私」とは春子なのか、キョンキョン(この言い方がすでにオヤジだな)なのか。 
 判然としなくなるこの感覚そのものが、「あまちゃん」を見ながら抱いていたざわざわした感覚につながっていたのだなと改めて思う。
 芸能人やスポーツ選手を見て、ただただ「かっこいい!」と憧れるような小学生時代が過ぎて思春期を迎えると、人は現実のものとして自分の将来を思い描くようになる。
 自分はいったい何になれるのだろう、いつの日か何者かになれるかもしれない、いや何の才能もない自分には平凡な人生しか待ってないにちがいない、それのどこが不幸せなのか、そもそも幸せっていったい何、そんなことを思いながら、ブラウン管のなかの華やかな世界で、きらきらした人生を歩んでいる存在に対し、たんなる憧れではなく羨望や嫉妬の思いを抱くようになる。


 ~ 約一年間、朝のドラマでヒロイン「アキ」の母親役「春子」を演じた。若い頃アイドルを目指し、故郷を捨て、親を捨て、家出までして上京した東京で夢に破れ、タクシー運転手と結婚をして娘を産み家庭に入った専業主婦。そして年頃になった娘はかつての自分と同じアイドルの道を目指し始める。私は子どもを持たなかったが役を通じて母親の気持ちを体現できるのは女優という仕事の面白いところである。ヒロインを演じた能年玲奈ちゃんの瑞々しさはアキそのもので、この子を全力で守りたいという気持ちにさせてくれる魅力的な女の子だった。ドラマの中でのアキの成長はそのまま能年ちゃんの成長だった。これはもうドラマを越えたドキュメンタリー。大人たちの中で懸命に頑張る彼女の姿を見ていると過去の自分をよく思い出す。 ~


 もしかしたら自分もアイドルになれるかもしれない、いやなるんだ! と夢を追いはじめる者もいる。
 アイドルでなくてもいい、役者でも、スポーツ選手でも。作家になる、ノーベル賞をとれる研究者になる、起業して大金持ちになるでもいい。
 多くの人は、その夢の実現の不可能度が高くなっていくか、また最初から夢を追わずにいるので、自分の夢を託す存在としてアイドルを見るようになる。
 もちろん、役者でもいいし、スポーツ選手でもいい(しつこいかな)が、自分の夢を託し、自分がやりたくてやれなかったことをやってくれる存在を見つけ、ファンになり、感情を移入する。そういう存在がある人は幸せだ。
 いつしか親となって、自分の子どもに夢を託す場合もでてくる。
 人はどんな可能性もあるが、自分が選んだ一つの人生しか生きられない。
 資質、容姿、財力、人間力など、いろんなものを持っていても、一度の一種類の人生しかおくることしかできない。
 自分が送る一種類の人生と平行して、憧れたり、支えたり、感情移入したりすることのできる別種の人生を思い描けることは、どんな形であれ幸せなはずだ。


 ~ 春子がなれなかったアイドル。私がならなかったお母さん。人生は何が起こるかわからない。どこで何を選んで今の人生に至ったかはもうわからないけれど、ほんの小さな選択によって、春子が私の人生を、私が春子の人生をおくっていたのかもしれない。私が選ばなかったもうひとつの人生。だから、春子とアキ、私と能年ちゃん、ふたつの関係が物語を通して同時に進行するという不思議な体験をしている。例えば、春子は過剰なほどに娘を守ろうとする。自分と同じ苦い思いを味わって欲しくないという思いが春子をそうさせる。娘を傷つけようとする敵に対して牙をむき暴言を吐き大暴れする。母親ならではの戦いっぶり。でも私の場合は、苦い思いも挫折も孤独も全て飛び越えて早くこっちへいらっしゃいという思いで能年ちゃんを見守る。まさに「その火を飛び越えて来い!」という心持ちで待っている。すぐに傷の手当ができるように万全な対策を用意して待っている。先輩ならではの立ち振る舞い。こんな風にフィクションとノンフィクションが同時に起こっている不思議な体験はなかなかできることではない。あまちゃんマジック。いやいや能年マジックなのだと思う。彼女が私の心を動かすのだ。 ~


 こんな思いで演じられていたとしたら、観ている側の心を打つお芝居にならないはずがない。
 もちろん、能年ちゃんも、小泉今日子さんの思いを存分に受け止め、思い切り演じていたにちがいない。
 ここまでの作品に出てしまうと、その後の女優としての人生がいばらに道になることも予想できる。
 でも、キョンキョンがついている。他にも支えてくれる人はいるだろう。
 かわいい子はたくさんいる。才能をもつ子もたくさんいる。アイドルの道、女優の道を目指す子はたくさんいる。
 実際にその道を歩み始める子もたくさんいる。しかし、十分に活躍の場を与えられる人生を送れるかどうかは、その子の人間性であり、運である。
 「あまちゃん」という作品に巡り会い、キョンキョンと親子になれた能年ちゃんは、そういう意味でほんとに運がよかった。それは彼女自身の力でもあるし、その仕事をやりきれたのは周囲の人たちの力によるところも大きい。


 ~ 撮影中に二十歳になった能年ちゃんに三つの鍵がついたネックレスを贈った。大人になるために必要な鍵。ゆっくり慎重に楽しんで大人のドアを開いて欲しい。ドアの向こうにはいつでも未来が待っている。必要ならばいつでも私も待っている。「その火を飛び越えて来い!」 (小泉今日子「原宿百景 アキと春子と私の青春」雑誌「SWITCH」10月号より) ~


 芸能界にかぎらず、大人のすべき仕事がこれなのかな。
 こどもたちに「その火を飛び越えて来い!」ということ。
 みんながみんな大きな火を飛び越えてきたわけではない。
 でも今まで生きてきたというだけでも、一日の長はある。
 たいした人生を歩んでない風に見えても、経験の絶対量は異なる。
 たくさん泣いて、たくさん辛い思いもしてきた。
 「大人になるための三つの鍵」がどんなドアをあけるのか(あ、縁語!)、人によってちがう。
 まず、鍵を手にしてほしい。思い切って飛び越えてほしい。

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10月28日

2013年10月28日 | 学年だよりなど

 学年だより「キョドる」

 見事、東京大学文科三類に合格した堀江貴文氏の大学生活が始まった。
 しっかり勉強して進振りで理転して、目標にしていた航空工学専門研究の道を目指すこと。
 彼女を作り、明るいキャンパスライフを楽しむこと。
 「ここから新しい人生がはじまる」と期待に胸をふくらませて入学した堀江氏は、経済的事情も考えキャンパス内の駒場寮で生活することにした。
 戦前の旧制高校時代からの伝統を受け継ぐ、当時すでに築後十年を超える寮は、自治の名のもとにすべてが学生たちで管理されている。
 外見は廃墟にも見えるその寮は、寮生以外はほとんど近づこうとしない独特の空間だった。
 当然相部屋である(現在は取り壊されているが、私の知っている範囲では、当時の駒場寮は原則三人部屋。学校の教室大の部屋の半分を最上級生が使い、残りの半分以上を次の先輩が使い、一年生はけっこう小さなスペースしか与えられてないのが一般的だったはずだ。)。
 堀江氏の入居した部屋の真ん中には雀卓が置かれていた。
 「麻雀部屋」とよばれたその部屋には、様々な人間がいりびたり、堀江氏もそのメンバーとなる。 塾講師をやることで、お金には困らなくなった。通学時間はゼロだ。うるさく文句をつける親もいない。毎日のように雀卓を囲み、週末には大勢が集まって焼き肉パーティーが始まる。
 「のびのび」した学生生活は、いつしか「堕落」に変わっていった(ちなみに金沢大学泉学寮は、食堂の横にマージャン部屋があり、自室マージャン禁止のルールが徹底されていた)。
 理転を目指してしっかり勉強するという目標はどこかにいってしまっていた。
 では、彼女をつくるというもう一つの目標はどうだったか。
 「失われた6年間」をとりもどそうと意気込んだ堀江氏は、語学も女子が多いといいう理由だけでスペイン語を選んだ。クラスの50人中30人が女子という、中高時代には考えられない環境だ。
 しかし、女子とあいさつをかわすことさえできない。


 ~ 話しかけようとした途端、全身が固まってしまう。声が出なくなる。自分のルックスにも自信がなかったし、田舎の出身だし、東大では勉強さえも自慢にならない。全身コンプレックスの固まりだ。共学の高校を出た友達は「そんなの、普通に話せばいいじゃん」と言うのだが、こっちには「普通に話す」という経験がないのだ。彼らの言う「普通」の感覚すら、わからないのだ。
  … 授業が終わって寮に向かって歩いていると、クラスの女の子が声をかけてきた。
「堀江くん、寮に戻るんだよね? 途中まで一緒に帰ろうよ」
 頭が真っ白になった僕は、心の中で「無理、無理、無理!」と首を振りながら、なにも言わず足早に立ち去ってしまった……。
  … 同窓会などで、当時クラスメイトだった女の子たちに会うと、決まって「堀江くんって、完全にキョドってたよね」と笑われる。キョドっていた、つまり挙動不審になっていた、ということだ。たしかに、自分で考えても明らかに挙動不審だったと思う。 ~

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懇親会

2013年10月26日 | 日々のあれこれ

 3回目の学校説明会は、台風があやぶまれたが、昼過ぎには雨も上がってよかった。
 午後勤務のご褒美に支給されるお弁当が、今日は魚幸さんのちらし寿司。富士見有料道路、木野目交差点を少し奥に入ったところにあるお魚屋さんだが、この学校に勤め始めたときに住んだのが、その近くの1K家賃3万円の部屋だった。月3万円は今思えば安い物件だけど、大学の寮は月300円だったから、就職して一気に100倍の家賃の家に住んだのだ。ホリエモンが六本木ヒルズに住みようになった出世と匹敵するのではないだろうか。
 それで、近くに魚幸さんを見つけて時折買い物するようになり、「先生、うち仕出しもやるから、よかったら学校に出前するよ」と言われて、レッスンの先生のお昼に時々頼んだりするようになった。
 そのうち、安くておいしい仕出し弁当ということで、学校としても折々利用させてもらうことになる。
 このおれさまがきっかけでお得意さんになったことは魚幸のおやじさんも忘れてるだろうな。むろん学校側も。いいのさ、陰徳を積む人生で。
 「このちらし寿司おいしいね」「これ、いくら?」「うそ、1000円でおつりくるの?」
 「だって、煮物の小鉢としじみ汁もついてるんだよ」「どっかのデパートのランチでも1500円はとるでしょ」「このネタなら銀座だと3000円だな」「スキー場だったら4800円」「富士山八合目は10000円だな」というようななごやかな会話が生まれる。
 天候のせいもあったか、前回よりは少なめの来校者だったが、ほぼ昨年と近い希望者はいるようだ。ありがたいことだ。

 個別相談で、「朝練はありますか?」「朝練は何時からですか?」という質問を受けることがある。
 本校はスクールバスで通学時間が決まっているので朝練はありません(できません)とお答えするが、高校でも朝練をやってる部活動は多いだろう。
 中学校ではどうだろう、ほとんどの運動部と吹奏楽部でやってるんじゃないだろうか。
 先日、「長野県は中学校の朝練は禁止にする」という報道を見て、自分的にはそれっていいことなんじゃないかなと思った。
 「睡眠不足になるうえ、朝食を取りづらくなって授業にも悪影響を与えるというのがその理由」ということらしい。
 早寝早起きすればいいだけじゃねえか、という意見も出てきそうだが、そんな簡単なことなら誰も苦労しない。
 多少生活が不規則でも生きていけるのが若者の特権でもあるし。
 ただ、たとえば運動部の子が朝食抜きでかりに朝7時過ぎから小一時間練習して、そのまま何も食べずに4時間目までいて、という生活では授業に影響がないはずがない。
 高校とちがって、中学生は休み時間にお弁当とかおやつとか食べれないよね。
 給食も、4時間目終わって配膳して、いただきますが13時近い学校もあるんじゃないだろうか。
 自分が中学生なら疲労と空腹で午前中はぐったり過ごすだけになるだろう。
 朝練やってもいいけど、そういう状況も想像しないといけないはずで、そういうことを考えず、ただ自分の部活の練習時間を確保したい、他の部の手前やらざるを得ない、という発想が先になってしまう先生がいたとしたら、お上の方から「朝練禁止」のお達しが下ってもしょうがないかなと思う。

 相談会を終えて、一時間だけ合奏し、レッスンで遅くなったサックスの子を川越まで送り、そこから吹奏楽部保護者懇親会会場へ。
 例年は、会の数日前から先生何か出し物をおねがいしますとのお話をいただいているのだが、今年はそれはなかった。行ってみて、わかった。お母様方の出し物が盛りだくさんなのだ。
 もちろん、自分も何曲か歌わせていただいたが、歌い踊るお母様方を見て、そうか、もっと部員を歌わせても踊らせても大丈夫だと確信した。
 保護者会役員のみなさま、ありがとうございました。楽しかったです。
 がんばります!

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ひらいて

2013年10月24日 | おすすめの本・CD

 自分の感情は、ある程度コントロールできるようになると、佐藤優氏は述べる。
 たとえば日々の暮らしの中で、時として大きな怒りがわいてくる瞬間は、人として当然ある。
 瞬間的にその感情を爆発させて解消する手もないではないが、なかなかそうもいかない局面も多い。
 よく言われる方法ではあるが、そんなときにはその気持ちや原因、そうなった状況を紙に書き出してみる。
 そうやって自己の感情を客観化することは、すなわち自分そのものを客観的に見ることであり、その作業によって自分を見る力がそなわってくる。
 これは、ほんとうに高校生達にも実践してほしいものだ。
 感情を抑えられないこと自体はしょうがないにしても、客観化するどころか、LINEやTwitterで拡散する者までいる時代になってしまった。
 本来、未成熟な人間が利用してはいけないツールが広く出回ってしまっている。

 あと、自分の感情に向き合うには、ある程度の知識や経験も必要だという。
 たしかに、それはその通りだろう。
 人生の修羅場を数限りなく経験してきた人は、たいがいのことに動じなくなっているように。
 あ、教員もまったく同じだな。
 若いころは、生徒さんのちょっとした言動にいちいち怒りを覚えるようなこともあったが、それは自分の想定を越えたものであったからだ。
 大概のことは起こりうると思える今は、やみくもにキレることは少なくなった。そんなことも、こんなこともあり得ると思って見られるようになったので。経験の力は大きい。
 でも人は、この世のあるとあらゆる経験を独りで積むことはできない。
 そういうとき、本を読んで疑似体験するのは重要だと佐藤氏は述べる。
 よい小説や映画に触れて、いろんなことを疑似体験するのはきわめて重要だと言う。
 そっか。そうだよね。もっと本読んで、もっと映画をみるようにしよう。
 
 その佐藤氏のおすすめの小説としてあがっていた、綿矢りさ『ひらいて』を読んでみたら、なるほど佐藤氏がすすめるだけのことはある、女子高生の心情をこのレベルまで作品化したのってなかなかないんじゃないかなと思えた。
 昔読んだ『蹴りたい背中』『インストール』は、それほど印象に残ってないが、まさかこんな作品を書ける作家さんになっているとは。


 ~ 予備校の帰り、マクドナルドに受講生の仲間たちと寄って、深夜十二時過ぎまでたむろするのが日課になっている。勉強の息抜きのためではなく、自分だけが置いて行かれるんじゃないかって不安を、くだらないおしゃべりでまぎらわせているだけ。安い連帯感、水面下の足のひっぱり合い、私たちの未熟さを、深夜にファーストフードは気軽に許してくれる。
 あー勉強しなきゃな、と言ってマクドナルドでポテトを食べている男子たちは、夜が深まれば深まるほどギャグが冴えわたるから、思わず大きな声を上げて笑ってしまう。私とミカが笑うと、男子たちはハチミツを与えられた熊のようにとろけた笑顔になり、ますますエンジンがかかる。だから、サービスも込めてのびのびと笑う。 (綿矢りさ『ひらいて』新潮社)


 学校帰りに木野目交差点のマックに寄ってやり残した仕事をしながら、中学生、高校生の会話を聞くともなく聞くと、まさに綿矢氏が活写する光景が繰り広げられている。
 言うまでもないが、同世代の男女では圧倒的に女子の方が大人だ。
 男子はそれに気づかないし。
 話を聞きながら、男子ってほんとにばかだよなと思う。
 そして彼らに言っておきたい。たとえば30年経っても、おまえらはばかのままだ。
 うそだと思ったら、おれをみればいい。
 そうやって女子の掌のうえで生きていくのが男だ。それは生物学的にもともとそういうものなのだからしょうがないのだ。

 そんな男子のなかにも、多少は考えている子もいて、そんな男子を好きになってしまった女子高生「私」が描かれる。


 ~ 彼の瞳。
 凝縮された悲しみが、目の奥で結晶化されて、微笑むときでさえ宿っている。本人は気づいていない。光の散る笑み、静かに降る雨、庇の薄暗い影。
 存在するだけで私の胸を苦しくさせる人間が、この教室にいる。さりげないしぐさで、まなざしだけで、彼は私を完全に支配する。 ~


 しかし、彼には他に好きな人がいた。「私」はその女の子に接触する。
 文字通り接触し、それは性的な接触にまで発展し、彼女の心を操ろうとする一方で、彼の心もをひらいていこうとする「私」の物語だ。
 高校生の恋愛という範疇をこえて、人に心のどろどろした部分がうかびあがり、しかもそれが読者それぞれの内面も照射する。
 すぐれた小説は、読む者の息があらくなってしまうほど、疑似体験させるものだとあらためて思った。

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10月23日

2013年10月23日 | 学年だよりなど

  学年だより「説得のツール」

 「単語帳の丸暗記」こそ受験勉強だと心に決めて取り組んでいくうち、堀江氏はその作業にゲームのようにハマっていく。
 センター模試の英語で9割をとり、普通の模試もF判定だったのがEになりDになり、最終的にC判定になった時点で堀江氏は合格を確信したという。


 ~ いま、福岡時代の自分を振り返って思うのは、僕にとっての勉強とは「説得のツール」だったことだ。子どもとは、大人の都合によっていくらでも振り回される、無力な存在だ。しかし、勉強という建前さえ掲げておけば、大抵のわがままは通る。八女(やめ)から久留米の街に出ることも、柔道の道場を休むことも、パソコンを購入することも、そして上京することも。あのどん詰まりの環境から抜け出すには、勉強するしかなかった。誰の目にも明らかな結果を残すしかなかった。
 だから僕は、勉強が無駄だとはまったく思わない。
 無駄に終わる知識はあるかもしれないが、周囲の大人を説得し、自分で自分の道を切りひらく最大のツールは、勉強なのだ。 (堀江貴文『ゼロ』ダイヤモンド社発売予定・「堀江貴文メルマガ」より) ~


 勉強にハマってしまった状態なので、決してそれを苦痛とは感じていなかった。
 また10時間近い睡眠も確保していた。起きている時間のすべてを勉強にあてたのだ。
 それは、中学校時代にパソコンにハマったとき、起業してから仕事にはまり、寝食以外のすべてに時間をコンピューターに向かっていた状態と同じだ。
 ゲームにハマったり、アイドルにハマったりして、勉強がおろそかになると、「おまえは何をやってるんだ」と非難される。
 しかし勉強ならいくらハマっても非難されるどころか、よく頑張っていると評価される。
 「大学に行く」ということにも、同じことが言える。
 やりたいことがないからと学校にも行かず、仕事にもつかずフラフラしていると、「いい加減しっかりしろ」と非難される。 
 しかし大学生という地位を手に入れたなら、社会に対して何も生み出さないレベルではニートと変わらないにもかかわらず、世間はそれを認めてくれるのだ。
 大学に進める、勉強することが許される人は、感謝しつつも、それを積極的に利用すべきだろう。
 林修先生もこう述べている。


 ~ うちは子どもを大学に通わせるのは無理だというご家庭はたくさんあるのですから、先ほども言ったように、大学に行けること自体がすでに特権的なことなんです。大学とは、その特権を生かして、無責任な状態で自由を享受しつつ可能性を探せるという貴重な場所なんです。 (林修『受験必要論』集英社) ~

 

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人に強くなる極意

2013年10月22日 | おすすめの本・CD

 かりに高校でも道徳の授業をしないといけないことになったなら、この一冊は教科書にしたい。

 ~ 佐藤優『人に強くなる極意』青春出版社 ~

 もともと社会に出たばかりの若者向きに書かれた文章で、きわめて具体的にいわゆる「処世術」が語られている。 道徳とは何か。
 「道」とは「人として守るべき道」であり、それが行為行動として具体的な形になったものを「徳」という、という定義が、自分のなかで一番しっくりくる。
 「考え方」と「実践」と言い換えてもいい。
 いくら高邁な理念を内面にもっていても、考えているだけで行動できない人は道徳的人間とはいえない。
 むしろいくら腹黒くても、電車で席を譲り、ゴミを分別し、約束を守り、機嫌良く生きている人は道徳的な人というべきだ。
 そういう意味で、具体的な局面における振る舞い方を具体的に教えてくれる本の方が、本当に役に立つわけで、これはまさにそんな本だと思えた。
 たとえば、どんな時にはがんばるべきか、逃げるべきか、あきらめるべきか、筋を通すべきか。
 ヤな上司にはどう振る舞うべきか、突然キレる人がいたらどうするか、上手に手を抜く方法とは。
 なぜそれを語れるか。背景にあるのは、筆者のおそろしいほどの教養と知識である。
 同志社大学の神学部でキリスト教を学び、一方で仏教についても造詣が深く、キリスト教社会が生んだ近代的価値観と、日本人の精神のベースにある仏教的無常観とが、どっちがいいかではなく、ほどよくブレンドされて、さらに1つ上のステージにあがった思想になっている。
 外交官として修羅場をくぐってきた経験、そして国策捜査で500日以上拘置所に入れられたときも、犯してない罪を認めなかった経験という精神のささえもある。


 ~ 罪を認めて言いなりの報告書をつくれば数日で解放され、弁護士費用は国選でせいぜい10万円ほど。起訴されて有罪判決を受けたとしても、素直に認めれば初犯ということで執行猶予がつく。そうすれば、2年くらいで社会復帰できたでしょう。普通に考えれば、認めてしまったほうがあらゆる意味で負担は軽くすみます。 (佐藤優『人に強くなる極意』青春出版社) ~


 しかし、自分は検察が誘導するような罪は犯していない。検察のシナリオに屈したならば、日本の外交官は正確が弱いと他国に思われ国益を損なう。そして、


 ~ 賄賂など受け取っていない鈴木宗男議員を裏切り、陥れることになる。これだけは絶対に受け入れられません。どんなに拘留されても、どんなに裁判費用がかかっても、あきらめるものかと思いました。 ~


 友を裏切らないという「道」と「徳」の例として、ぜひとも教材にしたいと思うのだ。

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道徳授業

2013年10月21日 | 日々のあれこれ

 道徳の教科化が検討されているそうだ。過去何度も話題にはなったが実現しなかったのはなぜか。
 教科になると、道徳の教科書を作らないといけないし、教えるためには道徳科の免許状が必要になる。通知表に評価を記入することにもなるだろう。
 そのような技術的問題と、戦前の修身科のように軍国主義につながるとか、国家による価値観の押しつけになるとか、そういう内面的批判とがあって、実現しなかった。
 現状はどうなっているかというと、学習指導要領で、道徳は教育活動全体を通じて行うべきと定められていて、さらに小中学校では週に一回は道徳の時間を設けるようにと決まっている(たしか)。
 でも実際には、週に一回の道徳がきちんと行われていない学校もあるのが実情だし、道徳的とは言えない子どもや若者の行動がずいぶん問題になっている。
 学校教育で、日本人としての振る舞い、生き方、人の道をしっかり教えるべきではないか、それはきちんと教科として道徳を位置づけなければならないのではないか、そうしないと日本はやばいのではないか、という声が各方面からあがっている … というところが現在の状況ということだろう。

 学校って大変だよね。
 日本をなんとかしないといけないんだよ。なんでもかんでもこっちにおしつけてさ。
 勉強はちゃんと教えるし、体も鍛えるからさ、しつけは家でやってくんないかな。
 とりあえず先生の言うことは聞く、という状態の子どもにして学校に送り込んでくれるのは、親の仕事であってほしいよな。

   … なんてことを思ったあなた。先生っ。
 だめですよ、そんなこと考えちゃ。
 学校の先生というのは、基本的にお国のためになる人材を育てるのが、歴史的にみて根本的使命なのですから。
 世のため人のために役立つ、有為の人材をつくりだして、娑婆に送り出すのが仕事なのですから。
 そういう意味では、「国家による価値観のおしつけ」こそが、教員の仕事だ。
 いくら読み書きそろばんが達者でも、他人に迷惑をかけて平気という人間を育成するのは正しくない、という考え方はきわめて真っ当だ。

 で、それと、道徳の教科化とは、また次元のちがう問題なんじゃないかなというのが、ニュースを聞いたときの正直な感想です。
 子どもに「押しつける」べき価値観が揺らいでいるのではないかという疑問。
 そして、道徳教育の方法論があまりに未成熟な段階ではないかと思えるからだ。
 そこが他教科と同列に論じにくいところだろう。
 仮に道徳が授業化されるとして、大事なのは教科書だと思う。
 それは今まであった道徳の副読本のようなものではなく、子ども達が自動的に「道徳的」頭脳をはたらかせてしまうような資料集のようなものであるべきだ。
 向山洋一先生のTOSSの資料集とか、『とっておきの道徳授業』シリーズとか。
 「こういう時、どう思いますか? みんなで話し合ってみましょう」的授業ではなく、ある資料を見せたり読んだりすれば、教員は何も言わずにすむような授業をイメージすれば、開発できるのではないだろうか(最近、学校の先生みたいことばっかり書いてるな … )。

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視点

2013年10月20日 | 国語のお勉強

 映画「謝罪の王様」は、「謝罪師」を名乗る阿部サダヲの関わった6つのエピソードがおもしろおかしく描かれ、一見別々だったそれらが最後に一つにまとまっていく構成は、さすがクドカンだと思う。
 細かいネタ、仕込まれたギャグを一気に回収していくのも、「あまちゃん」同様にあざといぐらいに上手い。
 別々のお話をつなげていくのに有効なのが「視点」の役割で、映画であればカメラの視点、登場人物Aの視点、Bの視点といった複数が意図的に使い分けられ、うまくブレンドされていくと、「なるほど!」となる。

 小説でも同じだ。
 Aさんの視点から見るとこう見えたことも、Bさんの視点ではこう見える、というように複数の視点があると、物語は重層的になり、立体感が生まれる。
 一見悲劇が喜劇にもなり得るし、救いのないストーリーに光がさしたりもする。
 AとBは、今の自分と昔の自分でもいい。
 独りの視点で語り続けることによってたどりつける境地もある。
 まじめ系・純文学系の作品はこっちが多いかな。
 ここ数年、センター試験の小説問題でもこれはしきりに問われるようになり、埼玉県の高校入試問題にも随分出題されているではないか。
 時代は変わった。その昔、「視点」という用語を知っている国語の先生の方が少なかった(もちろん、おれも知らなかった。あれ? ひょっとしたら昔習ったかな。イーザーやバルトの話をしてくださった深川明子先生の授業って、そういうのあったかな。おぼえてねえし。すいません)。
 
 高校入試レベル、つまり中学生だったら、「視点」という言葉を知っているかどうかだけで随分ちがうんじゃないだろうか。
 個別相談をしていると、「国語が苦手です」と訴える生徒さんに出会うこともけっこうある。
「必要なことをちゃんと習えば、上がるんだけどなあ、しかもその必要なことって意外と少ないんだけどなあ」と思いながら、「しっかり北辰テストの復習しよう、国語って唯一問題文の中に答えがすべて書いてある科目なんだよ」とアドバイスするようにしている。
 ただし、表現の問題に関しては、用語とその働きを知っているかどうかは大事だろう。

 たとえば、23年度の入試問題には、小説の最後で「本文の表現の仕方や文章の特徴について述べたものとして、適切でないもの」を選びなさい、という設問が設けられている。
 おそらくセンター試験をまねてつくった形式だろう。
 選択肢オはこうある。

 オ この文章は、「私」と立岡先生の二人の視点が交互に入れ替わりながら描かれているため、それぞれの人物の心情が読者に直接的に理解しやすくなっている。

 「視点」て何? という生徒さんがいたら、解けないはずだ。そして、おそらく現時点でもそうだと思うけど、中学校の国語の先生全員がこれを教えてらっしゃるとは思えない(ちがってたら、すいません)。
 ちなみに、公立入試に出る小説で、複数の視点が入り乱れるというのは考えにくいので、プロの目から見ると、本文を読まなくても、これは「適切でない」ものだろうという予想はついた。

 24年度の問題も同じだ。選択肢アはこんなの。

 ア 心、原口、亀井などの複数の登場人物の視点から、それぞれの人物の心情が表現されており、読者が登場人物の心情を客観的に理解できるようになっている。

 これは、プロでなくても、本文を読まずに正解できないといけない問題。
 それぞれの人物の視点で語られている心情は、その人がどう感じているだけを述べているということだ。
 だから、客観的ではなく、思い切り主観が表現されている。

 用語の意味と、その働きとの二つを理解するようにしておくと、県立入試も、センターも大丈夫だ。無理しなくても、県立さんではなくうちに来てくれたらがっつり教えるけど。

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