水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

アリ・ボンバイエ(3)

2016年06月30日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「アリ・ボンバイエ(3)」


 世界中の注目を集めたジョージ・フォアマンとの一騎打ちは、アフリカの新興国家ザイールの首都キンシャサで行われた。
 キンシャサ空港に到着したアリは、出迎えたファン達に尋ねた。「殺(や)っちまえ!」は、この国ではなんて言うんだ?」
 「ブマイエ!だ」「いいひびきだな、ブマイエ!」
 「そうだ。アリ、フォアマンなんか、ブマイエ(やっちまえ)!」
 「アリ、ブマイエ!(Ali Bomaye!)」「アリ、ブマイエ!」
 この声援は、試合開始前からスタジアムにもひびきわたった。開始のゴングがなる。いつも通りアリは足を使って動き回り、試合のペースをつかむ。
 しかし、第2ラウンドに入るとアリは突然ロープ際で動きを止め、フォアマンのパンチを受け続けた。ボディへのパンチは肘で堅くガードし、顔面へのパンチはスウェイでかわす。
 劣勢には見えるが、前進しながら打ち込めないフォアマンのパンチは威力が減じられている。
 相手に打たせて、体力を消耗させる――。1ラウンドを闘ってみて、今の自分のフットワークでは、そのうち捕まってしまうと判断したアリの作戦だった。
 第6ラウンド、7ラウンドと明らかに相手のペースが落ちていることを感じる。8ラウンド、これからは俺の番だと、アリが攻勢に転じた。全盛期を思わせるパンチの連打を、ガードの下がったフォアマンに打ち込む。「アリ、ブマイエ!」「アリ、ブマイエ!」
 ついに、若きチャンピオンはリングに沈んだ。ソニー・リストンを倒してから10年、徴兵拒否でタイトルを剥奪されて7年の月日が流れていた。
 「キンシャサの奇跡」と今も称えられている試合である。


 ~ He who is not courageous enough to take risks will accomplish nothing in life.
   リスクを取る勇気が無い者は、人生において何も達成することが出来ない。(モハメド・アリ) ~


 「奇跡」がおこった1974年の12月、アリはホワイトハウスに招待されている。
 ベトナム戦争で失われた政府への信頼回復や、公民権成立後も続く人種差別問題解決のために力を貸してほしいと、フォード大統領からじきじきに頼まれたのだ。
 ボクサーとして黒人として、いや一人の人間としての闘いの姿勢に人々は憧れ、アリは時代のアイコンとなった。それは私達一人一人が、生きるという一種の闘いを余儀なくされているからだ。
 人生というリングでは誰もがファイターだ。
 もちろん、リングに上がらない、パンチも打たない人生を選ぶという手はある。
 しかし、それでやりたいことができるだろうか。大切な人を守れるだろうか。
 男として生まれた以上、最低限自分のプライドを守るための闘いは避けられないのではないか。
 では、そのために身につけるべきものは何か。蝶のように舞うフットワークも、蜂のように刺すパンチも持たない私達が、闘うために身につけるべきものは何か。
 答えはわかっているはずだ。

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アリ・ボンバイエ(2)

2016年06月27日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「アリ・ボンバイエ(2)」


 「蝶のように舞い、蜂のように刺す (Float like a butterfly, sting like a bee)」。
 大男同士が、リングの真ん中で力ませに互いを殴り合うのがヘビー級のボクシングだった時代に、アリは華麗なフットワークを駆使する戦い方を持ち込んだ。
 1960年にプロに転向した後も快進撃は続く。圧倒的に不利と予想された、WBA・WBC統一世界ヘビー級王者のソニー・リストンにも、6ラウンドTKO勝ちをおさめた。
 試合後アりは、自分はすでにイスラム教徒に改宗していること、今後はモハメド・アリと名乗って闘うことを表明する。
 白人のおもちゃとしてのボクサーになるつもりはないと言い放ち、改名したアリに、多くのアメリカ人は嫌悪感をもった。
 当時のアメリカには徴兵制がある。18才以上の男子は検査を受けて登録され、2年の兵役が課される。アリはペーパーテストの成績が悪くて基準を下回り、兵役不適格となった。
 しかし、これは意図的な懲役のがれにちがいないと、世論が断罪しはじめる。すると合衆国は、試験後に基準を変え、遡ってアリを合格にしたのだ。
 アリは「良心的兵役拒否者」の資格申請を行った。けっして彼が、たんに戦争に行きたくないという自分かわいさで徴兵を忌避したのでないことは次の言葉でもわかる。


 ~ 「俺の故郷では黒人は犬なみに扱われているのに、なぜやつらは俺に軍服を着て、一万マイルも離れたところに行って、ベトナムの茶色い人々に爆弾を浴びせろっていうんだ? もし戦争に行くことが二千二百万の俺の仲間に自由と平和をもたらすなら、俺は明日にでも入隊するぜ」 (田原八郎『モハメド・アリ 合衆国と闘った輝ける魂』燃焼社) ~


 アリの申請は却下され、純粋な徴兵拒否者、つまり国家に対する反逆者となった。
 禁固五年、罰金1万ドルの判決がくだされ、ヘビー級のタイトルは剥奪された。1967年のことである。こうして、ボクサーとして最も脂ののった時期に、アリはリングにあがれなくなった。
 もちろん、支援者もいた。黒人差別を撤廃させ公民権を勝ち取ろうとする運動は盛り上がりを見せ、ベトナム戦争に対する反戦デモも広がっていたのだ。
 そういう人々の声に支えられ、1970年、再びアリはリングに復帰する。ただし、三年半のブランクは大きかった。復帰後、ジョー・フレージャー、ケン・ノートンといったチャンピオンと対戦して敗れた後は、引退やむなしと周囲は考えた。何より「蝶のように舞う」スピード感が失われていたからだ。しかしアリ本人はそんなことはみじんも考えていない。
 次の試合のために練習を重ねながら、同時に先の裁判の判決を不服として申し立てを行った。
 ボクサーとしての闘いを継続し、同時にアメリカ社会との闘いも続けていたのだ。
 その後チャンピオンとなったジョージ・ファアマンと、ついに闘うチャンスを得たのは1974年だった。史上最高のハードパンチャーと言われるフォアマンはこのとき25歳。
 32歳になっていたアリに勝ち目はないとする意見が圧倒的だった。

 

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アリ・ボンバイエ

2016年06月23日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「アリ・ボンバイエ」

 

 カシアス・マーセラス・クレイ、後のモハメド・アリは、1942年1月17日、ケンタッキー州のルイヴィルという町に生まれた。
 小学生の頃、誕生日プレゼントにもらった自転車を誰かに盗まれてしまう。警察にいくと、犯人を見つけて鉄拳制裁を加えるために、ボクシングを習うよう勧められる。
 カシアス少年はその言に従い、その警官も通うボクシングジムに入った。
 貧しい家に生まれた不良少年が、喧嘩で腕を磨いてボクシング界に飛び込み一攫千金を狙うというタイプのボクサーが、当時のアメリカには多かった。
 しかし、母の愛情を受け、中流家庭に育ったカシアス・クレイは、食事をしっかり摂って、毎日数時間の練習をきちっとこなしていく勤勉さがあった。
 もちろん天性の素質もあった。トレーニングに打ち込む環境に恵まれ、ボクシングに打ち込む真面目な姿勢もあって、彼はデビュー以来快進撃を続ける。
 ケンタッキー州のゴールデン・グローブ(アマチュアのボクシング大会)大会で6度優勝し、1959年には全米ゴールデングローブのミドル級で2年連続優勝を果たす。
 そして1960年9月に開催されたローマオリンピックに出場すると、前年度ヨーロッパチャンピオン、ポーランドのズビグニェフ・ピトロシュコスキを判定で破って優勝した。
 金メダルを得て得意満面で帰国した18歳のカシアス青年を待っていたのは、賞賛の嵐ではなく人種差別の壁だった。
 故郷の英雄として迎えられるにちがいないと、地元ルイヴィルにもどる。アメリカを代表して金メダルを持ち帰った自分なら、白人専用レストランでも問題なく入店できると店に向かった。しかし予想は覆された。「うちはニガーはお断りだ!」
 カシアス・クレイと知っての入店拒否に、「おれの金メダルはレストランで食事する価値すらないのか」と、思わず金メダルを川から投げ捨ててしまったという。
 有名なエピソードだが、これはアリ自身の作り話で、実は家で無くしただけだと本人が語っていたという話もある。しかし、その後のアリの人生を思えば、ただの作り話とも思えない。そしてわずか数十年前、アメリカという国は、徹底した人種差別社会だったのだ。
 この後アリは、すぐプロに転向する。


~ Champions aren't made in gyms.Champions are made from something they have deep inside them.
 A desire, a dream, a vision.They have to have last-minute stamina,they have to be a little faster, they have to have the skill and the will.But the will must be stronger than the skill.

 チャンピオンはジムで作られるものじゃない。彼らの奥深くにある「何か」で作られるんだ。
 例えば願望、夢、ビジョン。そのためにはどんな土壇場でも耐えるスタミナと、少しばかりのすばしっこさ、そして技術と意志が必要だろう。だが意志の力はどんな技術よりもさらに強くなくてはならない。 (byモハメド・アリ) ~


 白人社会に対する怒りが、彼のボクシング人生を支えることになる。

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ドミノ倒し(3)

2016年06月20日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「ドミノ倒し(3)」


 ~ Q4 最近週に2回程毎回違うお店で外食をして、食べた料理とお店の情報をブログに上げています。内容としては1000円前後の料理を食べて、料理の感想(料理の具体的な味、どんな素材か、見た目、食べた感想、他のお店との違い等)、お店の雰囲気(内装外装、店員の感じ)をブログで綴っています。 … この様なブログでお金を稼ぐには、上手く内容を書いてアフェリエイトで稼ぐ、広告料で稼ぐ他に何か方法はあるでしょうか? ~


 ホリエモンこと堀江貴文氏のメルマガには読者との「Q&Aコーナー」がある。上記の質問を最近読み、堀江氏が答える前に「いやいや、週2じゃ無理でしょ」と思ってしまった。


 ~ たったの週に二回でマネタイズするの絶対無理ですよ。あなたが人気タレントでもない限り。全食外食でほとんど違う店に行って、時には数軒はハシゴするくらい食べて、やっと本一冊だせるレベルです。私のやってる『TERIYAKI』というアプリのキュレーターさんは皆、年間500食は最低でも食べてます。 (メルマガ「堀江貴文のブログでは言えない話 Vol.334」)


 ~ Q20 よく寝食を忘れて一つの事に没頭する事が良い事のような話をされていますが、僕の場合めちゃめちゃ飽きっぽいので。複数同時にならないとそもそも継続ができません。遊びでやっている運動ではマラソン、トレイルラン、総合格闘技、キックボクシング、ボクシング、フットサル、ウエイトトレーニングを日常的に常に継続しています。 … 一つに絞って極めた方がいいのでしょうか? それとも寝食を忘れて没頭するというのはプログラミングや執筆作業などの創作作業や事務作業の事を指しているのでしょうか? ~


 ~  「寝食を忘れて一つの事に没頭する事が良い事のような話」はしてません。「寝食を忘れて一つの事に没頭する」ことができれば、その一つの分野で成功できるという話をしています。別に今が楽しかったら、それでいいんじゃないでしょうか。あなたが成功したいんだったら、没頭できることを見つけたほうがいいと思いますけど、別に成功したくないんだったら今のママでいいと思います。 (メルマガ「堀江貴文のブログでは言えない話 Vol.334」) ~


 「ものすごく」がんばらないと勉強出来ない人は、たぶん勉強が向いていない人だ。
 最難関大学に合格した人たちは、本校のOBたちにもあてはまるが、そこまで必死にやったわけではないが受かったという感覚をもっている人は多い。
 もちろん、彼らはやってなかったわけではない。勉強するのが「普通」だったから、受験の間際にはその延長で「少し多め」にがんばったという感覚なのだろう。
 木村達哉先生の話だが、灘の生徒は「全然やってませんよ」とよく言うそうだ。
 部活のある日は3時間もやらずに寝ちゃいますから、という感覚だ。普通のレベルがちがう。
 では「勉強が向いていない人」はどうすればいいか。大学に行きたい、将来の目標につなげたいという希望が少しでもあるなら、まず体質改善を図るしかない。今なら間に合う。

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ドミノ倒し(2)

2016年06月17日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「ドミノ倒し(2)」


 せっかく正規の社員として就職できても、「自分が思い描いていたような仕事じゃなかった」「毎日雑用ばかりでやりがいがない」「自分がいかせる仕事とは思えない」 … というような理由で、早々と転職する若者がいる。
 仕事を短絡的な自己実現の場と思わせる言葉があふれている時代のせいかもしれない。
 「自分のやりたいことを見つけよう」「自分にしかできない仕事がある」「あなたには天職がある」「自分の可能性をのばして輝かしい人生をつくろう」というような。
 「やりたいこと」をやっていいのが人生だ。
 ただ、その「やりたいこと」は、待っていると降ってくるように与えられるものではない。
 探しにいって見つかるものでもない。わざわざ探しにいかないと見つからないようなら、むしろ「やりたいこと」とは言えない可能性のほうが高い。
 この仕事は自分が「やりたいこと」ではないと判断する人の場合、判断するほどちゃんとやらずにそう言っている例もある。ていうか、その方が多い。
 コピー取りやファックス配りをただの雑用としか考えられない人の場合だ。
 無意識のうちにでも、雑務の中に仕事の本質を感じ取れるようになってはじめて、その意味がわかり、それをやる自分の存在価値を意識できるようになる。
 日々みなさんが取り組んでいる勉強にも部活にも同じことが言えるだろう。
 用具の片付けができない子は上手になれないし、そうじの下手な子が想像力のあるプレーをできるようにはならないのだ。
 体質そのものをアスリートにしてはじめて、一瞬のプレーの質はあがる。
 授業中に配られたプリントをすぐノートに貼れない人の成績があがる例はほとんどない。
 体質そのものを勉強的アスリートにしてはじめて、学ぶ力の質は上がる。
 大逆転を狙って、学校の宿題をやらないまま塾や予備校に行き始めた子が成功した例は、本校に関して言えば過去一例もない。目の前の一枚のドミノを倒すところからしか始まらないのだ。


 ~ 多くの人はなるべくたくさんのドミノを倒そうと躍起になります。でも、倒したドミノのすぐ後ろにドミノがなければ、手数を打っても、大きな変化は起こせません。もしくは、到底倒れそうもない、大きなドミノを一生懸命倒そうとする人もいます。でも、手前の小さなドミノも倒していないのに、いきなり大きなドミノを倒すことなど不可能です。
 連鎖の起きるドミノをきちんと倒せば、確実に変化を起こすことができる。ぼくはそう考えています。では「そのキーとなる1枚」とはどういうものでしょうか? ぼくはそれこそが「基本」だと思っています。基本を徹底することで、自然にドミノが倒れていき、気付けばものすごく大きなことが実現できているのです。 (佐渡島庸平『ぼくらの仮説が世界をつくる』ダイヤモンド社) ~


 様々な分野で大きな成功を収めている人たち、華々しく活躍している人たちも、一枚のドミノを倒すところからスタートしている。
 イチロー選手をみて分かるように、大成功した現在においても一枚ずつ倒し続けている。

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西部地区研究発表会

2016年06月15日 | 演奏会・映画など

 

西部地区研究発表会
 

 会場 所沢市民文化センターミューズ

 曲目 「マーチ・スカイブルー・ドリーム」「シャボン玉とんだ宇宙までとんだメドレー」

 

 大きな拍手をありがとうございました!!

 

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戦友感

2016年06月14日 | 日々のあれこれ

 

  試合を終えた猪木とアリが、心を通じるようになった話は有名だ。
 お互いに挑発を繰り返し、アリにいたっては試合が始まってからもしばらくは猪木を罵倒し続けていた。
 中盤からはその声も出なくなる。アリの表情の変化をみればいかに緊迫した試合であったかが伝わってくる。
 15ラウンド闘っての引き分け。
 まさかアリが負けるわけにはいかないし、猪木の背負っていたものはアリほど大きいとは言えないのが事実だが、背負っていた借金はとんでもないものだった。
 この後アリは、自分の試合や結婚式に猪木夫妻を招くようになる。猪木自身のセレモニーにもメッセージを寄せる。自分のテーマソング「アリ・ボンバイエ」をプレゼントし「猪木ボンバイエ」が生まれたが、若い人たちには、むしろ野球応援の曲として知られているかもしれない。
 真剣勝負(実際生きるか死ぬかレベルに近い)を経験した二人にしかわからない感情が芽生えたことは想像に難くない。文字通り戦友だ。

 友だちになれる人、心から仲良くなれる人というのは、「闘っている」人同士なのではないかとふと考える。レベルは全然ちがうけれど、
 「闘い」の方向性ややり方に共通点を感じる人と言っていいのかな。
 闘いの相手はそれぞれだ。自分の属する組織、たとえば会社とか地域とか親族とかであったり、対個人であったり、もっと大きく世間や社会であるかもしれない。
 といっても、別に喧嘩したりデモをするわけではない。攻撃的というより、むしろ自分を守るための自衛戦だ。 最初から闘う気がなさげな人とは、上辺のつきあいしか出来なかった。
 闘うなどという言葉とは無縁のような雰囲気の人であっても、話しているときにふと同じにおいを感じ、気持ちが急激に惹かれていくこともあった。
 結局この歳になって仲良くしていただいている人とはそういう方なのかなと勝手に思う。

 アリの人生が闘いの連続であったことは言うまでもない。ただ、その敵はあまりにも大きかった。
 猪木にしても、表面上はプロレスを色物視する人々との闘いだったかもしれないが、その後の人生まで見てみると、日本社会のシステムそのものに喧嘩をうっていたのだと思える。
 
 「マネー・モンスター」の最後の場面、事件を乗り切ったジョージ・クルーニーとジュリア・ロバーツとの間に漂う戦友感にほっとした。
 自分みたいな一般人だって、同世代の君と同じように、いろいろ闘ってきたんだぜとクルーニーくんに語りかけたいし、いっこ下のジョディ・フォスター監督にも心からグッジョブと声をかけたい。

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猪木vsアリ

2016年06月13日 | 日々のあれこれ

 

 この歳になって猪木vsアリ戦を見直すと、アントニオ猪木というレスラーがいかにクレイジーであったかを思い知らされる。
 1976年6月26日のことはよくおぼえている。
 その夜おれは東京にいた。(おっ?)
 そう、中学生のミズモチ少年は東京の(たぶん)青山にいた。
 家出して猪木vsアリ戦を観にはるばる夜汽車に乗ってやってきた … わけではない。だいたいチケット手に入らないしね。
 当時、郷里の太鼓保存会子ども部に所属していて、芦原温泉の宣伝チームの一員として、はるばるお江戸にやってきたのだ。そして福井県の施設である青山荘に宿泊し、食堂のテレビでその試合を観ていた。
 なんやし、もっと攻めぇま、そこでいかな、という大人の人たちの声を聞きながら。
 試合のあった武道館のそんな近くにいても、テレビの試合は遠い世界のものだった。
 しかし、子どものころから馬場よりも猪木にひかれ、タイガージェットシンや、大木金太郎、ビルロビンソン戦をわくわくしながら見てきた自分が、それらのプロレスの試合とは何か違うと感じてはいたと思う。
 昨夜の放映を見ると、猪木がアリと同じリングに立っているというだけで、ドキドキしてしまう。
 あの距離感でアリがいたら、一般人であればピストルを持ってる人より怖いのではないか。
 なのに、本気で闘おうとしているばかりか、余裕の笑みまでうかべている。
 プロレスがどういう仕組みで行われているものか、その詳細を知るのはずっと大人になってからだ。
 プロレス的なだんどりのないリングで、アリと対峙している猪木というのは、ヒクソンを前にした高田とは全然ちがうレベルですごい。後にも先にもこんなレスラーはいない。
 当時、凡戦とか茶番とか評する人もたくさんいたが、いったいどこを見ていたのだろう。
 青山に泊まった翌日は、銀座のソニービルの前で太鼓をたたいたことを思い出した。
 まさか自分が将来、表参道やら晴海通りやらをさっそうと歩くようになるとは、その時は思っていない。あ、なってないのか。

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ドミノ倒し

2016年06月13日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「ドミノ倒し」

 インターネット時代に対応した新しいエンターテインメント事業を模索する会社「コルク」を立ち上 げた佐渡島庸平氏。講談社時代、編集者として、『バガボンド』『ドラゴン桜』『宇宙兄弟』などを大ヒットに導いた人だ。そんな佐渡島氏が、新入社員時代にどんなふうに仕事に臨んでいたか。


 ~ ぼくが新入社員時代に重要だと思ったのは、「電話取り」と「ファックス配り」でした。この二つをしっかりやることが、その次のドミノをどんどん倒すことになる。その1枚目のドミノを徹底的に攻めよう、と考えたのです。
 電話を取ったり、ファックスを配ったりすることは、雑務でしかないと捉えて、早く後輩に引き継ぎたいと思いがちです。しかし、ぼくは、その二つを時間があるかぎり、数年たってもやっていました。
 新人がファックス配りをやると、フロアのみんなの顔を覚えられますし、相手にも顔を覚えてもらえます。そのときに、あいさつや雑談をすることで、自然な形で仕事の情報をもらうことができます。さらに、ファックスの宛名と中味がちらっと見えるので「誰がどれくらい、外部のどんな人と付き合っているか」が推測できます。直接仕事を教えてもらわずとも、そのような情報から先輩たちの仕事を想像することで、自分のやることもだんだんとわかるようになります。
 最近は、ファックスも電話も、ほとんど個人のメールや携帯になってしまいましたが、雑務は観察の仕方によって予想もしない情報に触れることができるのです。 (佐渡島庸平『ぼくらの仮説が世界をつくる』ダイヤモンド社) ~


 早く仕事を覚えて、大きな仕事をまかせてもらえるようになりたい、今与えられている雑用からは早く卒業したい … 。
 やる気に満ちた新入社員は、半ば無意識にそんな思いを抱きながら働き始めるのではないか。
 しかし、大事なのは、「雑務」と片付けがちな「小さな」仕事に、いかにしっかり取り組みかだ。
 去年の今頃紹介した「コピー取りにも三種類ある」という文章ともつながる。


 ~ 「コピー初級」は、機械の操作をただ単に知っているだけ。他人に聞かなくてもとりあえずコピーを取れる段階。「コピー中級」は、たとえば、10枚のコピーをするとき、最初の一枚目を刷って、紙の傾き、文字や写真の濃度を確かめてそれから残りの9枚を取れる人。最初から「10」枚の数字を入力して刷る人はまだ初級です。「コピー上級」は、ちょっとした上司の依頼の紙にも(時間をかけずに)目を通し、「この人はこんな文章を書くんだ」とか「こんなことがいま会社で話題になっているんだ」というように、内容についての関心を持ちながら印刷できる人。場合によっては、書類の不備(誤字や脱字も含めて)を指摘することもできる人。 (芦田宏直『努力する人間になってはいけない』ロゼッタストーン)
 ~


 「雑務のなかに仕事の本質がある」の原則は、勉強や部活にももちろんあてはまる。

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「山月記」の授業(6)最後の場面

2016年06月12日 | 国語のお勉強(小説)

 最後の場面(李徴の人間世界との別れ)の授業

 ようやくあたりの暗さが薄らいできた。木の間を伝って、いずこからか、暁角が哀しげに響き始めた。
 もはや、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬときが、(虎に還らねばならぬときが)近づいたから、と、李徴の声が言った。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼らはいまだ
虢略にいる。もとより、おれの運命については知るはずがない。君が南から帰ったら、おれはすでに死んだと彼らに告げてもらえないだろうか。決して今日のことだけは明かさないでほしい。厚かましいお願いだが、彼らの孤弱を哀れんで、今後とも道塗に飢凍することのないように計らっていただけるならば、自分にとって、恩幸、これに過ぎたるはない。
 言い終わって、叢中から慟哭の声が聞こえた。袁もまた涙を浮かべ、喜んで李徴の意に添いたい旨を答えた。李徴の声はしかしたちまちまた先刻の自嘲的な調子に戻って、言った。
 本当は、まず、このことのほうを先にお願いすべきだったのだ、おれが人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕すのだ。
 そうして、つけ加えて言うことに、袁さんが嶺南からの帰途には決してこの道を通らないでほしい、そのときには自分が酔っていて故人を認めずに襲いかかるかもしれないから。また、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、こちらを振り返って見てもらいたい。自分は今の姿をもう一度お目にかけよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、もって、再びここを過ぎて自分に会おうとの気持ちを君に起こさせないためであると。
 袁(さん)は草むらに向かって、懇ろに別れの言葉を述べ、馬に上った。草むらの中からは、また、堪え得ざるがごとき悲泣の声が漏れた。袁(さん)も幾度か草むらを振り返りながら、涙のうちに出発した。
 一行が丘の上に着いたとき、彼らは、言われたとおりに振り返って、先ほどの林間の草地を眺めた。たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼らは見た。虎は、すでに白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、また、もとの草むらに躍り入って、再びその姿を見なかった。


 弧弱 … 身寄りがなく、弱々しいこと。
 飢凍 … 飢え凍えること。
 慟哭 … 激しく嘆き悲しみ、大声を上げて泣くこと。
 懇ろに … 心を込めてていねいに。
 勇に誇る … 強さを自慢する。
 咆哮 … 獣などがほえるの意。確認問題

Q「ようやくあたりの暗さが薄らいできた」の表現効果は何か。
A この異常なできごと、物語も終わりに近づいていることを暗示している。

Q「酔わねばならぬ」の「酔う」とはどういうことか。
A 人間の理性を失うこと。

Q「このこと」とは何か。
A 自分の妻子の面倒をみてほしいという願い。

Q「堪え得ざるがごとき悲泣の声が漏れた」とあるが、この時の心情を説明せよ。
A 自分が虎である事実を冷静に受け止めようとしながら、人間としての生が完全に終わりに近づいていることを予感するとともに、自分のいかんともしがたい運命に対する哀しみが抑えられない心情。

Q「すでに白く光を失った月」とは、何の象徴か。
A 失われゆく李徴の人間としての理性。


問題 「また先刻の自嘲的な調子に戻って」とあるが、この時どのような心理が働いていると考えられるか。

説明 何カ所かでみてきたように、李徴はあまりに自尊心が強い、よって批判をおそれ、自分がきずつくことをおそれる。そのため「どうせおれなんか」と自嘲することで批判を回避しようとする、という心情を確認しました。
 いわば、自嘲は李徴の自己防衛システムであり、予想される批判の先回りを行うわけです。
 ここでは、批判されそうな内容を李徴が自ら語っていてますね。もちろん、袁(さん)はそんなことを言いはしないでしょう。しかし、袁(さん)の顔にそんな思いがかけらでも見えたなら、李徴は耐えられないのです。

答え 本来ならば自分の詩の伝禄よりも家族の生活を依頼するのが人として筋ではないかとの批判を回避したいという心理。


 傷つくことをここまで恐れるのは、それほど肥大化した「自己」「自我」があると言えます。
 自分の詩が認められないままでは「死んでも死にきれない」というほどの自分かわいさ。
 素材は古代中国の不思議な話であっても、そこに描かれているのは、近代的自我をもつわれわれ現代人なのです。

 みなさんもわかるはずですよ。
「自分の好きなことをみつけよう」「やりたいことをやろう」「かけがえのない人生をすごそう」「あなたは他の誰でもないあなた自身だ」「あなたにはあなただけの価値がある」「もともと特別なオンリーワン」って言われて育ってきてますよね。
 そして、「無限の可能性がある」「きっと成功する」とかまで言われ続けたら、勘違いしてしまうよね。
 でも、みんな内心ではわかってるでしょ。たしかに理屈はそうかもしれないが、でもおれは福山雅治にはなれないし、香川真司にもなれないし、億万長者にも、スターにもたぶんなれそうにないかなって。
 それが現実の人生だよね。
 すっごいきれいで気だてもよくて明らかにみんなに人気があって、ちょっと手がとどかないかなという女の子に果敢に告白できないのはなぜ?
 傷つくのがこわいんでしょ。「何言ってんの? あんた自分のことわかってんの?」って言われるのがヤなんだろ。それじゃ、李徴とおんなじじゃん。ちなみに先生はそういうこわさは今まったくなくなりました。アタックしまくりです。ウソだよ。
 先生も李徴なことはありました。その昔、山月記を授業で教えてて、ふと気付くと教室の半分ぐらい寝てて、あとの半分は無駄口たたいてて、「くそ、おれは、こんなとこで教科書読んでる人間じゃない。はやく作家でも役者でもミュージシャンでもなんでもいいからデビューして世の中に認められなきゃ。こんなことやってる場合ではない」って思うと、気がつくと教室を飛び出しいて、いつのまにか手で地面をつかみながら走っていることが何度かあったよ。かろうじて生還して、今はだいぶ大人になりました。
 「自分は他人とは異なる存在だ」という意識がうまれれば必然的に、何者でもない自分の現状とのギャップに人は苦悩するものです。
 考えてみると、東大の文学部を出て、女学校の先生になった後、南洋諸島で教育的な仕事につき、日本にもどって小説を発表するものの、芥川賞の候補になった直後には短い一生を終えてしまった中島敦という作家も、何者かでありたい、あるはずだと思いながら、そうならない自分とのギャップに悩んでいたのかもしれません。

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