最後の場面(李徴の人間世界との別れ)の授業
ようやくあたりの暗さが薄らいできた。木の間を伝って、いずこからか、暁角が哀しげに響き始めた。
もはや、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬときが、(虎に還らねばならぬときが)近づいたから、と、李徴の声が言った。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼らはいまだ
虢略にいる。もとより、おれの運命については知るはずがない。君が南から帰ったら、おれはすでに死んだと彼らに告げてもらえないだろうか。決して今日のことだけは明かさないでほしい。厚かましいお願いだが、彼らの孤弱を哀れんで、今後とも道塗に飢凍することのないように計らっていただけるならば、自分にとって、恩幸、これに過ぎたるはない。
言い終わって、叢中から慟哭の声が聞こえた。袁もまた涙を浮かべ、喜んで李徴の意に添いたい旨を答えた。李徴の声はしかしたちまちまた先刻の自嘲的な調子に戻って、言った。
本当は、まず、このことのほうを先にお願いすべきだったのだ、おれが人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕すのだ。
そうして、つけ加えて言うことに、袁さんが嶺南からの帰途には決してこの道を通らないでほしい、そのときには自分が酔っていて故人を認めずに襲いかかるかもしれないから。また、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、こちらを振り返って見てもらいたい。自分は今の姿をもう一度お目にかけよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、もって、再びここを過ぎて自分に会おうとの気持ちを君に起こさせないためであると。
袁(さん)は草むらに向かって、懇ろに別れの言葉を述べ、馬に上った。草むらの中からは、また、堪え得ざるがごとき悲泣の声が漏れた。袁(さん)も幾度か草むらを振り返りながら、涙のうちに出発した。
一行が丘の上に着いたとき、彼らは、言われたとおりに振り返って、先ほどの林間の草地を眺めた。たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼らは見た。虎は、すでに白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、また、もとの草むらに躍り入って、再びその姿を見なかった。
弧弱 … 身寄りがなく、弱々しいこと。
飢凍 … 飢え凍えること。
慟哭 … 激しく嘆き悲しみ、大声を上げて泣くこと。
懇ろに … 心を込めてていねいに。
勇に誇る … 強さを自慢する。
咆哮 … 獣などがほえるの意。確認問題
Q「ようやくあたりの暗さが薄らいできた」の表現効果は何か。
A この異常なできごと、物語も終わりに近づいていることを暗示している。
Q「酔わねばならぬ」の「酔う」とはどういうことか。
A 人間の理性を失うこと。
Q「このこと」とは何か。
A 自分の妻子の面倒をみてほしいという願い。
Q「堪え得ざるがごとき悲泣の声が漏れた」とあるが、この時の心情を説明せよ。
A 自分が虎である事実を冷静に受け止めようとしながら、人間としての生が完全に終わりに近づいていることを予感するとともに、自分のいかんともしがたい運命に対する哀しみが抑えられない心情。
Q「すでに白く光を失った月」とは、何の象徴か。
A 失われゆく李徴の人間としての理性。
問題 「また先刻の自嘲的な調子に戻って」とあるが、この時どのような心理が働いていると考えられるか。
説明 何カ所かでみてきたように、李徴はあまりに自尊心が強い、よって批判をおそれ、自分がきずつくことをおそれる。そのため「どうせおれなんか」と自嘲することで批判を回避しようとする、という心情を確認しました。
いわば、自嘲は李徴の自己防衛システムであり、予想される批判の先回りを行うわけです。
ここでは、批判されそうな内容を李徴が自ら語っていてますね。もちろん、袁(さん)はそんなことを言いはしないでしょう。しかし、袁(さん)の顔にそんな思いがかけらでも見えたなら、李徴は耐えられないのです。
答え 本来ならば自分の詩の伝禄よりも家族の生活を依頼するのが人として筋ではないかとの批判を回避したいという心理。
傷つくことをここまで恐れるのは、それほど肥大化した「自己」「自我」があると言えます。
自分の詩が認められないままでは「死んでも死にきれない」というほどの自分かわいさ。
素材は古代中国の不思議な話であっても、そこに描かれているのは、近代的自我をもつわれわれ現代人なのです。
みなさんもわかるはずですよ。
「自分の好きなことをみつけよう」「やりたいことをやろう」「かけがえのない人生をすごそう」「あなたは他の誰でもないあなた自身だ」「あなたにはあなただけの価値がある」「もともと特別なオンリーワン」って言われて育ってきてますよね。
そして、「無限の可能性がある」「きっと成功する」とかまで言われ続けたら、勘違いしてしまうよね。
でも、みんな内心ではわかってるでしょ。たしかに理屈はそうかもしれないが、でもおれは福山雅治にはなれないし、香川真司にもなれないし、億万長者にも、スターにもたぶんなれそうにないかなって。
それが現実の人生だよね。
すっごいきれいで気だてもよくて明らかにみんなに人気があって、ちょっと手がとどかないかなという女の子に果敢に告白できないのはなぜ?
傷つくのがこわいんでしょ。「何言ってんの? あんた自分のことわかってんの?」って言われるのがヤなんだろ。それじゃ、李徴とおんなじじゃん。ちなみに先生はそういうこわさは今まったくなくなりました。アタックしまくりです。ウソだよ。
先生も李徴なことはありました。その昔、山月記を授業で教えてて、ふと気付くと教室の半分ぐらい寝てて、あとの半分は無駄口たたいてて、「くそ、おれは、こんなとこで教科書読んでる人間じゃない。はやく作家でも役者でもミュージシャンでもなんでもいいからデビューして世の中に認められなきゃ。こんなことやってる場合ではない」って思うと、気がつくと教室を飛び出しいて、いつのまにか手で地面をつかみながら走っていることが何度かあったよ。かろうじて生還して、今はだいぶ大人になりました。
「自分は他人とは異なる存在だ」という意識がうまれれば必然的に、何者でもない自分の現状とのギャップに人は苦悩するものです。
考えてみると、東大の文学部を出て、女学校の先生になった後、南洋諸島で教育的な仕事につき、日本にもどって小説を発表するものの、芥川賞の候補になった直後には短い一生を終えてしまった中島敦という作家も、何者かでありたい、あるはずだと思いながら、そうならない自分とのギャップに悩んでいたのかもしれません。