水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

教材としての「舞姫」(1)

2017年05月31日 | 国語のお勉強(小説)

 

1 「文学作品」の描く世界

 一般に私たちが「文学作品」として思い浮かべる作品、いわゆる名作の描く世界は、狭い。そこで起きる事件も、主人公をとりまく状況も、エンターテインメントに分類される小説に比べると、相当狭い。
 第一に物理的空間が狭い。作品の舞台が、羅生門の楼の階下と階上だけ(「羅生門」)、下宿を中心とした本郷界隈だけ(「こころ」)、といったように。
 その物理的な狭さにも規定されていると思われるが、精神的にも狭い。主人公の世界感覚が半径数メートルでしかないような感覚をもつ。主人公の目が、広く社会一般には開かれていない。結果として、主人公の社会認識は浅いものとなり、その認識の範囲の中で主人公はあれこれ悩むことになる。
 これは、伝統的な日本の文学の特徴と言ってもいい。それは、文学作品の担い手が、限られた階層に生きる人たちであることが原因であり、作者の社会認識の浅さが、作品にも投影されているのである。
 高橋源一郎氏は、斉藤美奈子氏との対談の中で、名作とよばれる明治の文学作品は、全部同じだ、「帝大生の主人公が身分違いの恋をするが結婚できずに挫折する」話だと述べ、次のように続ける。


 ~ 「近代文学はず~っとそれなの。理由は明治維新になって身分がなくなり、全部横一列になったでしょ。そこで、国家は帝大作って、そこに行きなさいっていう目標を男の子に与えたのね。だからみんな帝大に行く。行けないやつは頑張ってどっかからお金を調達して金貸しになる。女の子はどうするかっていうと結婚する。だから男は帝大に入るか金貸しになり、女は結婚する。選択肢がそれしかない。(中略)で、男は男で帝大に行って、官僚か学者になる。帝大に行かないやつはもう全員落ちこぼれ(笑)。なんで帝大かって言うと作家が全員帝大出だからなんですよ、自分たちのこと書くでしょ? だから川端の『伊豆の踊り子』までいっても全部同じ話。寂しくなるぐらい。日本の小説って全部、国家で決められた執行猶予期間で恋愛して、必ず破綻する(笑)、結婚できなかったからっていう話なの」 (高橋源一郎先生・特別講義「なぜ近代文学は『東大に行って心を病む話』ばかりなのか」『日本一怖い!ブック・オブ・ザ・イヤー2005」』・ロッキングオン社)  ~


 「帝大出」という限られたエリートが、自分の置かれている世界の中だけの物語を設定し苦悩する。そういう作品が、「文学作品」の代表として扱われてきたのである。

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適性とは

2017年05月30日 | 学年だよりなど

 

    学年だより「適性とは」


 体育祭お疲れ様でした! 3年9組のみなさん、総合優勝おめでとうございます!! 
 さくっと切り替えて、今日からは授業で盛り上がっていこう!!
 私たちがイメージする「持って生まれた」才能というものは、実は存在しないことがあきらかになってきた。あくまでも、なんらかの技能について極端に練習を積み重ねた「結果」として、「たぐいまれ」に「見える」能力が形成されていく。
 たぐいまれな存在になるために必要な練習時間は、一般に1万時間と言われている。
 一日5時間の練習を5年間毎日続けると、ほぼ達成できる時間だ。
 ただ、イチロー選手や浅田真央選手の人生を思い浮かべたなら、こんな程度では全くないことは容易に予想できる。
 そう考えたなら、「才能」「天才」などという言葉は、たいした努力をしたことのない一般人の言葉でしかないのだろう。
 「持って生まれた」と考えられる要素があるとしたら、幼いころから、毎日数時間から十数時間の練習を続けていて平気だったというその体質だ。
 控えめに見積もって数万時間の練習を積んだと思われる浅田真央選手は、それがスケートだから可能だったはずで、バッティングではそこまで出来なかったのではないか。イチロー選手しかり。


 ~ 才能は「結果」ですから、最初から存在するものではありません。でも人には、生まれつき、何かに向いている性質というものがあるはずです。私はそれを「適性」と呼びます。「才能」はありませんが、「適性」は間違いなくあります。
  … 「適性」のある人が、膨大な努力をすると、それが「結果」につながるのです。数式で表すならば、「適性」×「努力量」=「結果」です。
 何かの専門家になるには、1万時間以上の努力量が必要だといいます。「適性」がある人は、1万時間の血のにじむような努力を楽しみながらこなすことができる。一方、「適性」のない人は、苦しくて途中で脱落する。「適性」が花開く前に、ドロップアウトするのです。
 ここで「努力」という言葉を便いましたが、スポーツや音楽であれば「練習」であり、知的作業であれば「勉強」ということになります。
 全ての人には、何らかの「適性」があるはずです。それを発見し、磨きをかけていく。
 いろいろなことにチャレンジすることで、適性は発見できます。学校の教科でも、「数学」なのか「国語」なのか「英語」なのか、人によって得意教科が違っていますが、そこにも「適性」が隠れています。それは、いろいろなことをやってみない限りわからないのです。
 勉強することで適性は発見され、勉強することで適性は磨かれていきます。
 「才能」なんてものは、誰も持っていないので心配することはありません。でも、あなたは何らかの「適性」を持っているはずです。その適性を発見し、勉強によって磨いていけば、必ずその適性を開花させ、目覚ましい結果を出すことができるのです。 (樺島紫苑『ムダにならない勉強法』サンマーク出版) ~

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才能とは(3)

2017年05月26日 | 学年だよりなど

 

    学年だより「才能とは(3)」


 漠然と「人生」と言うときに私たちがイメージするのは、目に見えない何ものかが与えてくれた、「生命維持可能期間」といったものだろう。
 それを人は「運命」「宿命」「さだめ」「天寿」という類いの言葉でよんできた。
 自分の人生は自分で切り拓くしかないと口ではいいながらも、あくまでも人生は「与えられたもの」であり、切り拓くと言っても人それぞれ限界があると内心では思っている。
 誰もがひとしく可能性をもっているわけではない、と。
 実際、そう考えないと、あらゆることが説明できない気がするからだ。
 どんな家に生まれるか、どんな親のもとに育つか、どの国の、どこの村の、いつの時代に生を得るかを自分で選ぶことはできない。身長何センチくらいの身体になるのかも、顔の造作も、どんな声質かも、何も自分で決めることはできない。そして、お金持ちの家に生まれた子をうらやんでみたり、「生まれつき」足の速い子にあこがれたりもする。
 だから、少しでも前向きに生きようとするなら、自分に与えられたものを大事にしよう、生まれ持った能力を少しでも開花させられるようにがんばろうと発想する。
 ところが、才能は「与えられたもの」ではなく、「自分で作るもの」と考えることができるなら、勉強や練習の方法論も変わってくる。
 「持てる能力」を開花させるのが目標である場合、目標には上限が設定される。
 能力そのものを変えることができるなら、無限の可能性という言葉が絵空事でなくなる。
 音楽家は、持って生まれた才能を開花させて音楽家になったのではなく、能力を練習によって高めることで普通の人ができない演奏ができるようになった、と前号で書いた。
 音楽に限らない。どんな分野においても、ある能力を開発するために長期間にわたって訓練を続けると、それに関係する脳の領域に変化が生じる、脳そのものが変わる。
 勉強は、持てる脳をいかすことではなく、脳そのものを変えることになる。
 意志の力で、今住んでいる場所をかえることはできない。親を替えることも、身体そのものを作り替えることはできない。
 でも勉強で脳を変えることはできるのなら、勉強こそが人生を変える手段ということになる。


 ~ 勉強すると自己成長します。自己成長することで、能力が高まり、できることの質と量が大きく変化し、現実が変わります。「勉強する」とは、現実を変えるということです。
 自分の人生を変えるほとんど唯一の手段が「勉強」です。昨日と同じことを繰り返していては、昨日と同じ毎日が続くだけです。
 人生は、「行動」を変えない限りは変わりません。「行動」を変えるためには、情報や知識のインプットが必要です。新しい「知識」を入れることで、新しい「行動」が生まれ、それが「習慣」になるのです。現実を変えたければ勉強すればいいし、現実を変えたくなければ、毎日、気がすむまでゲームをやればいいのです。   (樺島紫苑『ムダにならない勉強法』サンマーク出版) ~


 現実を変える「赤のカプセル」を飲んでみようではないか。

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「舞姫」への道

2017年05月25日 | 国語のお勉強(小説)

 

 来月、「舞姫」で研究授業を行う。
 過去の自分が何を考えていたかをふまえて、さらなる高みをめざさねば。

 

 「舞姫」を「妊娠小説」として読む


 二学期、高校3年生のクラスで森鷗外の「舞姫」を読む。
 星の数ほどもある日本の文学作品の中で、「羅生門」、「山月記」、そしてこの「舞姫」は、ほぼ全ての教科書に全文が掲載され続けるという厚遇を得ている作品である。
 なぜか。簡単なことで、高校の国語教師が載せてほしいと考えているからだ。教科書会社は当然ユーザーの意見にしたがって教材を決めている。たまにこの教材をはずした教科書を作ってみるけど売れない、という話を営業の方から聞いたことがある。
 では、なぜ、これらの作品が高校教師の心をつかんでいるのか。
 三作品に共通するのは、主人公がエリートであるということだ。
 「羅生門」の主人公(下人)も、一見エリートではないが、その発想はエリートである。ふつうに生活力のある人間だったら、飢え死にしそうなときに、盗人になるかどうかをあんなに悩むはずがない。
 「山月記」は典型的な文学エリートの挫折だし、「舞姫」は名をとるか恋をとるかに悩むエリートの話。ちょっと屈折したエリートの話というのは、高校の国語の先生の自意識を微妙にくすぐるのだ。
 小学校や中学校の先生より国語に対しての専門性をもっていると自分で考えている人たち(たいしたことないのに)。ほんとは文学的会話したいけど、生徒は寝るだけあばれてるだけという現実の中で、苦悩する人たち。そこそこの偏差値の大学はでているけど、研究者や文学関係者になるほどの能力までは持ちあわせなかった人たち。政治や経済の場で活躍できるほどのたくましさは持っていないけれど自意識だけはかなり高い人たち。
 わたし自身がそうだ。
 とくに、生徒指導につかれているとき、おれはこんなところでこんなことをすべき人間ではない、なんて思いがわき起こってきちゃう時が危険だ。
 授業中の喧噪の中で、おれの高い文学的才能がこんなヤツらにわかってたまるか、などと思い始めると、思わず教室を叫びながら飛び出し、いつのまにか両手で地面をつかんで走っていることが年に二回はある。
 そういう似非エリートたちがそのままの心性で読解すると、この「舞姫」からは「近代的自我の覚醒と挫折」なんて主題がうかびあがってくる。
 たとえば「読み研」の『「舞姫」の読み方指導』(明治図書)では「舞姫」の主題をこう述べる。
「近代社会において、自らの主体性を確立しえないことによって引き起こされる愛の悲劇」。
 ちがうでしょ。
 冷静に事実関係を考えてみよう。
「主体性を確立しえない」からおこった「愛の悲劇」ではない。
 避妊もせずいきおいでヤっちゃったからおこった「愛の悲劇」なのだ。
 飾り気なしで中身を要約すれば「エリートが留学先で若い女の子をはらませて捨てる」話である。
 2学期は、似非文学エリートの虚飾をとりさって、この「舞姫」に向き合ってみたい。
 有名作品を名作としてあがめたてまつるのではなく、野口先生のおっしゃる「本音、実感、マイハート」で読む姿勢を持つのである。
 そんなとき、「舞姫」読解の一つの鍵となるのが「妊娠小説」という概念だ。
 斉藤美奈子氏は言う。


 ~ エリスが心を病んだのは、通常「太田」の裏切りのせい、ということになっている。だが、〈襁褓〉をまとう、というテキストの指示からいって、要素として大きいのはむしろ「妊娠」だと考えた方がすっきりと筋が通る。
 だいたい、男に捨てられただけで正気をうしなったりするだろうか? 妊娠して、さらに捨てられるから、ショックなのであろう。妊娠さえしなかったら、エリスは心を病む必要もなかったかもしれないし、太田も手記を書くほどの悔恨にはさいなまれず、「甘酸っぱい青春の思い出」の範囲で双方終わったかもしれない。で、そうなったら、まさに「西洋の女をモノにしたエリート商社マンの武勇伝(俺もむこうで……)」でおしまいなのだ。
 『舞姫』にとって、「妊娠」というプロットはそのくらい重要な意味を持っている。妊娠させた男の苦悩と、妊娠して捨てられた女の悲劇。それが『舞姫』の真実というべきであり、「妊娠小説の父」として、後生、太田豊太郎の末裔をごっそり輩出することになる。 (斉藤美奈子『妊娠小説』ちくま文庫) ~


 「男に捨てられただけで正気をうしな」わない、という斉藤氏の指摘はそのとおりだと思う。
 あの結末は不自然だ。ほんとうに発狂するほどの状態だったのなら、周囲の誰かが気づかないはずはない。エリスにしたって、ほんとに豊太郎がドイツに居続けるのだろうか、という疑問はあったはずだ。
 豊太郎の翻意を聞いたとき、「やっぱり」と思う心もどこかにあるべきなのが、あの設定におかれた普通の女性だ。そうしたら、発狂してるひまなんかなくて、生まれてくる子供のためになんとかしなくちゃと強くなるべきなのだ。
 もっと言えば、豊太郎にも、しょせん相手は踊子、自分はいつか日本に帰ってお国のために働くエリートだ、というおごりがまったくなかったとは言えまい。たとえば、豊太郎が日本国内で、相手は華族のお嬢さんだったりしたら、こんないきおいでヤっちゃうだろうか。「舞姫」に対する差別的な意識は潜在的にあったはずだ。
 避妊の方法さえ知らないお坊ちゃんエリートが、遠い異国の空の下、貧しくて精神の弱い少女にひかれてヤっちゃう。
 悲劇にならないはずがない。そんな二人に育てた親が悪い。
 その程度の話なのだから、豊太郎のとった行動をどう思うか、なんて課題を出して話し合わせるのは無意味というか、国語の授業ではない。
 この話が、なぜかくも優雅に文学作品たりえているか、表現を検討するのが国語だ。
 となると、必要なのは自己弁護の文体としての「舞姫」の分析である。
 香西先生が、「山月記」の李徴の弁明を、否定詞の多い文体という観点で分析していらっしゃった(『修辞的思考』明治図書)。
 「舞姫」にも同じような表現が見られる。本当は「フザけんなよ」というレベルの自己弁護なのに、そう感じさせない修辞である。
「妊娠」という素材、自己弁護の修辞、この二つが今回の「舞姫」の目玉である。

 

    ちょっと力入りすぎだな。まず普通に「近代的自我の目覚めと挫折」を読み取らないと。

 

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才能とは(2)

2017年05月23日 | 学年だよりなど

 

    学年だより「才能とは(2)」


 有名なピアニストになれるのは特別な才能をもっている人だけ、ノーベル賞に輝くような科学者になれるのは生まれつき頭のいい人だけ、プロスポーツのトッププレーヤーになれるのは類い希な運動センスと能力を生まれ持った人だけ … 。
 もちろん、学問も芸術もスポーツも、努力によって一定のレベルには達することができる、しかしプロレベルに達するにはさすがに天分が必要だ … 。
 才能についての私たちの一般的な感覚はこんなところだろう。
 科学研究の世界でも、しばらく前までの同様に考えられていた。
 人間の脳は、生まれたときから回路はほぼ決まっていて、そのあり方によって能力は決まっている。その回路に適した練習を積むことによって発揮されるのが才能であると。
 ところが、最近の研究は、それまでの常識を覆すようになっている。


 ~ 脳の研究者は1990年代以降、脳には(たとえ成人のものであっても)それまでの想定をはるかに超える適応性があり、それゆえにわれわれは脳の能力を自らの意思でかなり変えられる、ということを明らかにしてきた。とりわけ重要なのは、脳は適切なトリガー(きっかけ)に反応し、さまざまなかたちで自らの回路を書き換えていくことだ。ニューロン(神経単位)の間に新たな結びつきが生じる一方、既存の結びつきは強まったり弱まったりするはか、脳の一部では新たなニューロンが育つことさえある。 (アンダース・エリクソン『超一流になるのは才能か努力か?』文藝春秋) ~


 「絶対音感」という能力がある。世の中のありとあらゆる音を聞き分け、これはド、これはソ、これはミとファが混じった音と聞き分け、演奏という形で再現することもできる能力だ。有名な音楽家の中でも、持っている人と持ってない人がいる。
 数十年前までは、天賦の才能の一つとされていたものだが、現在では「適切な経験と訓練」によってたいていの人が習得できる能力と考え始められている。
 バイオリニストやチェリストの技能を身につけるには、左手の動きに徹底的な訓練を必要とする。
 プロの弦楽器奏者の脳を調べてみると、左手をコントロールする脳の領域が、一般人と比較して圧倒的に大きくなっていることがわかってきた。


 ~ 音楽のトレーニングはさまざまなかたちで脳の構造や機能を変え、その結果として音楽を演奏する能力が向上する。言葉を変えれば、効果的な練習をすると、単に楽器の弾き方が身につくだけではない。演奏する能力そのものが高まるのだ。効果的な練習は、音楽を演奏するときに使う脳の領域を作り替え、ある意味では自らの音楽の「才能」を高める作業にほかならない。 ~


 音楽家は、演奏技能を習得するためだけに練習しているのではない。
 持って生まれた脳では不可能な演奏をするために、自分で自分の脳を作り変えているのだ。

 

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笑う招き猫

2017年05月21日 | 演奏会・映画など

 

 SS高校さんは今年の自由曲なにかな? え、「バンドのための民話」? みたいな感覚だろうか。
 TpもFlもEuphも超高校級のプレーヤーがいるのになぜ、というような。
 もちろんあの学校さんやあの学校さんなら、「民話」でも「インヴィクタ」でも西関東に進めるに違いない。
 それほどのサウンドをもってして、あえて毎年新しいレパートリーを開発し、日本の吹奏楽を発展させてきた。
 影響力を考えたなら、大人のバンドやプロの楽団より、よほど貢献してるのではないだろうか。
 映画「追憶」をつくられた方々も、邦画の歴史を支えてこられたことは知識として知っているし、つまらなかったわけではない。
 小栗旬や木村文乃や安藤サクラをキャスティングできて、予算もそれなりにあって、宣伝も充分にできてという恵まれた状態なのに(ひょっとして恵まれている「から」なのか?)、ごくごく普通の脚本をふつうにとりました、どうですか絵はきれいでしょという作品に、高い志は感じない。
 富山ネイティブ設定の登場人物たちに美しい標準語で会話させてなぜ平気ななんだろ。
 広瀬すずちゃんや真剣祐くんの福井弁はよかったなあ。
 そんな「大作」に比べると、「笑う招き猫」なんて、都内でも二箇所くらいしか上映してないけど、与えられた条件のなかでやれるだけやってやろうという意気をひしひと感じる。
 何より清水富美加、松井玲奈という二人にコメディエンヌが、その才を存分に発揮していた。
 芸歴五年を経て、なかなかブレイクできない女性漫才師を二人が演じる。
 生活との両立、親との関係に悩み、芽が出るかどうかわからないことに怯えながら、セクハラにたえながら、そして時にケンカをしながら、時にもう解散だと罵しりあいながらも、二人で乗り越えていこうとする健気さ。
 二人とも、女優さんとして生きていく過程でいろいろあるんだろうなあと感じさせるような深みのあるお芝居。だから、清水富美加ちゃん、もったいないよ。脇役の若い俳優さんもみんな上手で、きっちりキャラが立っているし、岩松了、菅原大吉、戸田恵子さんといったベテラン陣が貫禄のお芝居でささえている。今年一番泣いた作品だ。

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オーダーが通らない

2017年05月20日 | 日々のあれこれ

 

 すき家さんでは、外国から来てそんなには経ってない雰囲気の、カタカナなまえの店員さんにあたることがある。
 しばらく前、半熟卵にしてねと言ったら生卵が出てきて、ごめんこれちがう、生じゃなくて半熟と言っても通じず、そっかメニューには「おんたま」と書いてあるのかと気づいた。
 彼にとって温たまは「ONTAMA」であり温泉卵の略といっても通じないだろうし、半熟卵と同義であることを求める方がおかしいのだ。
 グローバル化社会は、かくもコミュニケーションが難しくなる。
 ていうか、日本人だけの村社会でしか生きてこなかったから甘えがあるのだ。
 「鮭定食+おんたま」という注文さえ通せなかった自分への反省が、きっと心のどこかにあったにちがいない。
 先日、すき家さんポークカレー(450円)を注文して、黒毛和牛のビーフカレー(890円)が届けられたのだ。
 すぐに、ちがうよとは言えなかった。
 一度くらい食べてみてもいいかなとの思いも心のどこかにあった。ただ値段がね。
 ファーストフード店で食べるカレーに890円を出す勇気がずっと自分にはなかった。
 もしかすると、出てきたのは和牛カレーだが、レシートはポークと印字されているのではないかと、期待と不安の入り交じった思いで広げてみたら890円て書いてある。
 ひょっとしたら、宗教上の理由でポークはだめだったのか? 牛丼店で働くのは可だけど、メニューにあるからといって、ポークを提供することは自分にはムリというような事情が。
 食べてやろうじゃないか。こんな偶然でもなかったら、結局食べないままに終わる。
 きっと神様の思し召しにちがいない。
 おまえは値段で躊躇しているようだが、そんなことで新しい経験をしなくていいのか。食べてみればその価値に気づける男にはなっているんじゃないか、さあ、味わってみよ。
 神様にそう言われた気がした。
 おいしかった。でも一回経験したからそれでいい。ていうか、わかめスープとかいらないし。
 すき家はふつうのカレーがおいしい。450円で、お肉もじゃがいももにんじんもたっぷり入っている。ココイチの達した境地とはまたちがった頂にいる。そういうのが食べたいのだ。
 だから、吉野家さんの黒カレーも方向性を間違っている。350円のカレーに求めるのは「本格」ではない。
 和牛カレー事件以来(もしかしたら和牛一族の陰謀か?)、ちょいちょいオーダーが通らない。
 学食で冷やし中華(360円)を注文したら、冷やしうどん(260円)が出された。
 幸楽苑で冷やし中華(620円)を注文したら、冷やし中華大盛り(720円)が提供された。
 神は私に何をさせようというのか。

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地毛証明書

2017年05月19日 | 日々のあれこれ

 

  試験監督にいって、都内なら地毛証明書いるかなという生徒さんに気づく。入学時に保護者の方から「地毛ですので」とたしかご連絡のあった子で、「ほんとに地毛なのか」とか「あいつだけずるい」とかの声は周囲の生徒からも保護者の方からも聞いたことはない。ここ数年、髪の色を注意したことはないし、実際そういうことをしてるヒマがないというのが、本校の実態だろう。
 ありがたいことだ。
 都立高校の相当数が「地毛証明書」を提出させているというニュースをみたとき、先生方大変だ、苦労されているんだなと感じた。同業者ならみなそうだろう。
 一般の方が言うなら仕方ないが、評論家、文化人といった方々まで、「それは人権にかかわる、プライバシーの侵害だ、学校の先生は何をやってるんだ」的な批判を、案の定目にする。
 想像力の欠如としかいいようがない。
 やらずにすむなら、それが一番いいに決まっているではないか。
 
 茂木健一郎はこうつぶやいてらした。


 ~ ああ、「地毛証明書」。遺伝的な多様性、さまざまな髪の毛の色の可能性は、都立高校の生活指導の人たちの想定外らしい。ああ、「地毛証明書」。その愚かさよ、狭さよ、そのような愚行を押し付けられる子どもたちの哀れさよ。ああ、「地毛証明書」。日本の首都、国際都市東京において、この惨状。 ~


 遺伝的にさまざまな毛の色が存在することを、教員が知らないとは考えられない。もしそうだとしたら、そのレベルの人を教員として採用している側の問題だ。
 メディアでものを言う人は、教員は知的レベルが高くないという前提で(まあ、ぶっちゃけ否定はできないけどね)しかものを考えられないという現状がある。
 そして「東京でこんなことがおこるなんて」に感じられる、地方差別。
 ご本人は無自覚だろうが、差別意識満載のご意見だ。
 「地毛証明書」なるものが存在する現状を少しも想像もせず、感情のおもむくままに述べる。
 知的レベルが高いはずの大先生が、こんな無節操な意見を全世界に発表されて、それで何の批判もされないというのは、言論の自由度の高さという意味では喜ぶべきなのかもしれない。

 
 ~ ぼくも髪色が明るめでくせ毛なので地毛証明書を出したんだけど
   証明書があっても他の生徒や保護者から「ズルい」と苦情が来るらしく、
   先生が困っていたので
   黒く染めてストレートパーマをかけました。 ~


 ううっ。はるかぜちゃん、いいこすぎるぜ。

 「地毛証明書」など提出させずにすむなら、それにこしたことはない。
 でも、それじゃ面倒くさいのだ。生徒や親が。
 うちの子だけ染めてるって言うんですか! って電話かかってくるから。
 でももし、うちの娘が金髪にしたら、どうしていただろう。
 地毛証明書を求められたなら「これが今の地毛です。親として証明します。いつも親身のご指導ありがとうございます」と書いて提出するような気がする。

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才能とは

2017年05月18日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「才能とは」


 全国レベルで自分の位置を認識したとき、トップと自分との差のあまりの大きさに愕然とする。
 勉強しかり、部活動しかり。習い事をしている人はなおさらだろう。
 埼玉で優勝する、日本のトップレベルになる、といったレベルに達したところで、さらに大きな視界が目の前に広がっていることに気づく(そんなレベルに達したことがないので想像)。
 自分のはるか高みに達した人を見て、私たちは「才能がすごいね」と評する。
 「あのレベルに達するのは、努力だけでは無理だね、天賦の才能がないと」とふつうに言う。
 本当だろうか。本当かもしれない。では「才能」とはどういうものだろう。
 精神科医の樺島紫苑氏は、われわれがイメージするような「先天的才能」というものは、実は存在しないという。


 ~ 例えば、ピアニストの辻井伸行さん。「辻井さんには、ピアノの才能がある」と思う人は多いと思います。では辻井さんには、ヴァイオリンの才能はあったのでしょうか? もし、辻井さんが、ピアノではなくヴァイオリンを志していたとしたら、今のように世界的に活躍できる音楽家になっていたでしょうか? それは、誰にもわかりません。
 では、なぜ「辻井さんには、ピアノの才能がある」とわかるのでしょうか? 演奏が素晴らしいから。ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールにおいて日本人として初優勝したから。そして、世界的に活躍して多くのフアンの心をつかんでいるから……。
 これらは、単なる「結果」です。素晴らしい「結果」を出しているので、「ピアノの才能を持っていたに違いない」と思い込んでいるだけです。逆にお尋ねします。類い稀なピアノの才能を持っていながら、成功できなかったという人はいるのでしょうか?
 「才能」というのは、大きな成功を成し得た人に対して与えられる「称号」のようなものです。生まれつき持っている素質とは無関係であり、「この人は世界的ピアニストになる」と予測することも不可能なのです。
 「才能」というものは存在しない。「才能」というものは、単なる結果であり、結果を出せなかった人間が自己を正当化し、自分を慰めるために使う言い訳が「才能」です。 (樺島紫苑『ムダにならない勉強法』サンマーク出版) ~


 才能とはいかなるものか。もちろん、科学の分野でも研究が進んでいる。
 明らかになってきているのは、「○○の才能」というものはないが、「○○する能力を自分で作る才能」は皆持っているということだ。
 サッカーが異常に上手な人は、もともとサッカーの才能があったわけではない。
 幼いころから練習を積むことによって、サッカーをするのに必要な脳内の領域がどんどん拡大していった。脳の構造と機能を自らが変えたということを表す。
 生まれ持った能力ではなく、いつ、どんな練習を積んだかによって、すべては決まるという。

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真実の選択

2017年05月15日 | 学年だよりなど

 

    学年だより「真実の選択」


 電車に乗っていてふと見回してみると、スマホを手にしている人の比率が非常に高い。
 みなさんが小さい頃と比べてさえ、全く違う光景と感じられるのではないだろうか。
 映画「マトリックス」で、自分の生きる世界に疑問を感じて生きている主人公のネオ(キアヌ・リーブス)が、選択を迫られるシーンがある。「青の錠剤を飲めば今までどおりの生活、赤の錠剤を飲めば真実の世界を体験できる」と。


 ~ 赤のカプセルと青のカプセル。あなたは、どちらを選びますか?
 赤のカプセルを選べば、自分の能力を思うように発揮した、今とは全く違う自己実現の世界で生きることができます。
 青のカプセルを選べば、今日と大きく変わらない生活が、死ぬまで続きます。
 一生、今のままでいいですか? 今日と同じような生活が、10年後も、20年後も続くとしたならば、あなたは幸せですか? その人生で、後悔しませんか?
 ここまで説明すると、多くの人は「現実変革」の「赤のカプセル」と答えるかもしれませんが、実際には90%以上の人は「現状維持」の「青のカプセル」を選んでいます。
 それは電車に乗れば、一瞬でわかります。
 手にスマホを持っている人は、「青のカプセル」を選んだ人です。
 手に本を持って読書している人は、「赤のカプセル」を選んだ人です。
 毎日電車の中で読書をすると、3日で1冊、月に10冊は本を読めます。10年後にどのくらいの差になっているでしょう。ザックリと本の冊数でいうと、10年で1200冊、退職までの40年で約5000冊。ちょっとした図書館レベルの差が開きます。
 しかしながら、電車の車内を見ると、スマホでゲームやSNSをしている人がほとんどです。ゲームは楽しいけれども、ゲームを100時間やっても、1000時間やっても、あなたの知識は増えないし、行動も変わりません。仕事力も磨かれないし、給料も増えない。増えるのはゲーム内のキャラの経験値と通信料の支払いだけでしょう。 (樺島紫苑『ムダにならない勉強法』サンマーク出版) ~


 「流れ星を見たときに願い事を唱えると叶う」というのは、本当だ。
 人生の中で、流れ星を見た経験がある人はどれくらいいるだろうか。「たまたま」見るチャンスなどは、実際にはめったにない。
 たまたま巡り合わせたその瞬間に、自分の願い事を唱えられるということは、どういうことか。
 朝から晩まで、もしかすると寝ている間でさえそのことを願い、それを叶えようと考え続け、なんらかの行動をしていることを表す。
 「流れ星」にまで願かけできる人が、自分を信じていないはずがない。
 流れ星はきっとたくさん降っている。でもわたしたちはスマホに目を落としている。
 みんなが川東に入学したのは、「赤のカプセル」を選んだということだったはずだ。
 勉強の合間にちょっとだけとスマホを手にするのは、いいかげん「卒業」しよう。
 現実を変えたかったら、逃避せずに行動するしかないのだから。

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