1 「文学作品」の描く世界
一般に私たちが「文学作品」として思い浮かべる作品、いわゆる名作の描く世界は、狭い。そこで起きる事件も、主人公をとりまく状況も、エンターテインメントに分類される小説に比べると、相当狭い。
第一に物理的空間が狭い。作品の舞台が、羅生門の楼の階下と階上だけ(「羅生門」)、下宿を中心とした本郷界隈だけ(「こころ」)、といったように。
その物理的な狭さにも規定されていると思われるが、精神的にも狭い。主人公の世界感覚が半径数メートルでしかないような感覚をもつ。主人公の目が、広く社会一般には開かれていない。結果として、主人公の社会認識は浅いものとなり、その認識の範囲の中で主人公はあれこれ悩むことになる。
これは、伝統的な日本の文学の特徴と言ってもいい。それは、文学作品の担い手が、限られた階層に生きる人たちであることが原因であり、作者の社会認識の浅さが、作品にも投影されているのである。
高橋源一郎氏は、斉藤美奈子氏との対談の中で、名作とよばれる明治の文学作品は、全部同じだ、「帝大生の主人公が身分違いの恋をするが結婚できずに挫折する」話だと述べ、次のように続ける。
~ 「近代文学はず~っとそれなの。理由は明治維新になって身分がなくなり、全部横一列になったでしょ。そこで、国家は帝大作って、そこに行きなさいっていう目標を男の子に与えたのね。だからみんな帝大に行く。行けないやつは頑張ってどっかからお金を調達して金貸しになる。女の子はどうするかっていうと結婚する。だから男は帝大に入るか金貸しになり、女は結婚する。選択肢がそれしかない。(中略)で、男は男で帝大に行って、官僚か学者になる。帝大に行かないやつはもう全員落ちこぼれ(笑)。なんで帝大かって言うと作家が全員帝大出だからなんですよ、自分たちのこと書くでしょ? だから川端の『伊豆の踊り子』までいっても全部同じ話。寂しくなるぐらい。日本の小説って全部、国家で決められた執行猶予期間で恋愛して、必ず破綻する(笑)、結婚できなかったからっていう話なの」 (高橋源一郎先生・特別講義「なぜ近代文学は『東大に行って心を病む話』ばかりなのか」『日本一怖い!ブック・オブ・ザ・イヤー2005」』・ロッキングオン社) ~
「帝大出」という限られたエリートが、自分の置かれている世界の中だけの物語を設定し苦悩する。そういう作品が、「文学作品」の代表として扱われてきたのである。