水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

JBA

2012年12月30日 | 日々のあれこれ

 27日に最後の練習をし、28日から吹奏楽の指導者講習会に出かけた。
 初日はポップス演奏法の講座。今年は小編成でできるポップスの演奏がメインだったが、基本的な奏法や指揮の仕方についてのお話も聞けた。数年前にはじめてこの講習に参加したときに、ポップスの譜面は、書いてある音符の長さを忠実に再現したらカッコ悪いという話をきいて目からうろこが落ちたものだ。その後、吹連の研修にでかけたる、親しい先生に実際に習ったりして、なるほどこう演奏するのかというのは大分理解でき、そういう吹き方をしているバンドとそうでないバンドとの違いも聞き分けられるようになった。知っているかどうかは大きい。
 29日の指揮法講座では、曲を歌えることの大切さを学び、そのときに身にしみたお言葉。
 「先生方、生徒さん一人一人も、こうやってちゃんと歌えるようになってないと吹けないですよ。一人一人がそうなるまで、先生がちゃんと面倒みているかどうか、全国大会に行けるバンドとそうでないバンドの差ってそういうところだと思います」
 深く頭を垂れるしかない。「あとは自分でやっておいて」という言葉を来年は封印しよう。徹底的にやろうと(現段階では)深く心に決めた。あと、コードネームの付け方のお勉強も今年はがっつりできたので、これから部員用に配布するスコアには、事前にコードを全部ふってあげることにしよう。
 というように、年末もかくも前向きに学び続ける自分には、きっと来年もいいことがあるにちがいない。

 今年もご愛読ありがとうございました。
 みなさま、よいお年をお迎えください。
 
 冬休みに何か面白い本がないかなと思っている方は、ここを読んだらその足で書店に向かい、もしくはamazonで、平田オリザ『幕が上がる』を購入してください。鉄板です(全年齢対象)。
 いいCDないかなと思った方には、LUVandSOUL『Harmony』をお薦めします(大人向け)。
 落語ファンの方がいらしたら、快楽亭ブラックのCD『名人宣言』の「柳田格之進」がすごいかったです。

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小池栄子さん

2012年12月27日 | 演奏会・映画など

 「グッモーエビアン!」のハツキちゃんの担任役を小池栄子さんが演じているが、典型的な「善良な」教師像を好演している。
 進路希望調査に、ハツキちゃんが「就職」と書いて提出したのを見て、きっと家庭の問題が彼女をそう決心させたにちがいないと思い(それは一面ではそうなのだが)、家庭訪問にでかける。
 「彼女は成績もいいし、普通に進学させてあげてください。できればお母さんにもハツキさんの進路を考えてあげてほしい」と訴える。
 書いてしまえばそれだけのセリフなのだが、世間の常識にまったく疑問を持たず、自分のもっている感覚がひょっとしたら学校以外では通用しないこともあるのではという疑問を全く持っていない教師像(現実でも8割はそうだけど)を感じさせるところが流石だ。同時に、その言葉にカチンときて、キレ顔になる麻生さまがまた素敵で、ほんとにこんなお母さまがいたなら、あえて教師教師したことを言って、「先生、それはおかしんじゃないですか、キッ!」てにらまれてみたい。
 「学校的善なるもの」に疑いをもたない小池栄子先生、そんな先生であることをわかっていて、内心の不満とはうらはらにほどよく良い子を演じるハツキちゃんのお芝居もよかった。
 卒業式後、泣き崩れる小池先生と、それをなぐさめながら一緒に写真をとるハツキちゃんとの1カットも心にしみる。
 バラエティの司会から舞台や映画まで、関わったすべてのジャンルで、ここまでハイレベルな仕事を量産する女優さんは小池さんの他にいない。

 洋物映画では、「ドラゴンタトゥーの女」の女優さんが圧倒的存在感だった。名前はわすれたけど。
 ベストいくつとかいうほど見てないが、今年は「ドラゴンタトゥーの女」「アルゴ」「マリリン七日間の恋」「最強のふたり」「おとなのけんか」がすごくよかった。

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グッモーエビアン!

2012年12月26日 | 演奏会・映画など

 昨年、福山雅治さんの「家族になろうよ」という楽曲が多くの人々の心をとらえたのは、何よりも「家族になろう」という意志を表すメッセージだったのではないかと今さらながら思う。
 震災後にまたたく間に広がった「絆」という言葉は、もともとは馬や牛をつないでおく綱の意味で、人と人とのきってもきれないつながりを表す。血縁はその最たるものであろう。
 想像もしなかった困難に直面したとき、人に生きる力をわきおこさせるのは、たしかに絆というべき人の存在だ。
 ただ、そこに押しつけや強制の要素が感じられる場合もないことはないから、「絆、絆」と連呼されると、少し気持ちがひいてしまう人もいた気がする。
 だいたい「大切にしよう」なんて言われなくても、そうしてしまう存在、離れられない存在こそを「絆」というべきだと思う。
 血のつながった親子だから家族なのではなく、家族であろうとしているから家族なのだ。

 「グッモーエビアン」は、中3女子のハツキが主人公。ふつうではない家族構成に何かわりきれないものを感じてながら暮らしている。
 もちろん実の母親とは仲良しだ。母アキを演じるのが麻生久美子さん。主人公のハツキちゃんを17歳で身ごもり、しかし父親には「その子は不要」と言われて関係を解消し、シングルマザーになることを決意する。
 そのとき、アキさんを守りたいと言ってそばで泣いていた二歳年下の大泉洋(役名ヤグ)さんが、いま一緒に暮らしている。
 アキの恋人ヤグは自由人だ。ふらっとオーストラリアに行ってしまったかと思うと、連絡もなしにもどってきて、すっとまた一緒に暮らし続ける。
 まともに働くことはないが、人なつこくて誰とでも友達になってしまう。
 ハツキのことを自分の子供だと思い、ハッピちゃん、ハッピちゃんといってからんでくるのだが、ハツキ自身は実の父親ではないヤグのことをうざったく思う年齢になっていた。
 それにしても、この設定は映画のポスターを観れば一瞬でわかる。
 麻生久美子、大泉洋の実力は、言うまでもないが、それにまさるとも劣らない三吉彩花さんという若い女優さんの存在感はただものではなく、この三人が並んで写っているポスターを観た瞬間、ぜったいいい作品だと思え、予想ははずれなかった。いや予想以上だった。

 映画があまりによかったので、帰りに原作の小説を買って読んでみたが、こちらももちろん面白かったけど、もう少し「起承転結」とか「序破急」とか「初め中終わり」とか「ABA」とか「努力友情勝利」とかの構成感があるといいのになあとも感じた。
 映画は、それをうまく構成し直している。監督さんは、吹奏楽でいえば鈴木英史先生のようなお仕事ぶりだ。
 世間の常識から見たらまともでない父親代わりの存在、そんな父のことを認めている母に対しても反発心がわいてくる。自分は中学を卒業したら就職する。勉強のできるハツキだったが、担任にもアキにもそう宣言し、あたしは家を出て働くつもりだから、あとはお母さんたち二人で仲良く暮らせばいいと告げる。
 自分の人生は自分で決めればいいと言ってたアキだったが、ハツキのその決心に首を縦にふらなかった。
 自分たち夫婦(籍は入ってないが)との関係を理由に、目の前の面倒くさいことから逃げようとしてないかと見抜いてしまったのだ。
 ハツキを生んだときの話、ヤグがどんな人間なのか、アキがハツキに寄り添って語りかける土手沿いのシーンはしみじみした。
 ヤグとアキが昔の仲間とバンドを再結成して演奏するライブを行う場面が最後にある。
 ステージ上から、アキと結婚すると宣言するヤグ、そしてハツキに家族になろうとよびかけるところは涙がとまらなかった。
 年末にこんないい作品に出会えてよかった。

 今年をふりかえって思い出してみると、心に残っているのは、なんといっても「桐島、部活やめるってよ」が衝撃だった。それから「鍵泥棒のメソッド」「かぞくのくに」「篤姫ナンバー1」とこの「グッモーエビアン」がベスト5かな。

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2012年12月25日 | 日々のあれこれ

 24日、クリスマスイブの日は、校内アンサンブル発表会。
 たくさんの保護者の方にご臨席をたまわって、各チームの発表を聞いていただいたあとは、父母会の方に用意していただいたケーキやお菓子をいただき、プチ打ち上げ的時間もできた。そんなとき自分にできるのは歌うことぐらいなので、「白い恋人たち」などを弾き語らせていただいた。
 保護者のみなさまありがとうございました。
 

 ~ この世の中で一人の若者を自分の命を捧げても守ってくれるのは親だけである。その親なら正月、自分の前に座る子供に、憂いや心配事があれば一目でわかる。
 「仕事が、暮らしが辛いのではないか。しばらく実家に帰って来てはどうか」
 それで事件、事故のすべて防げるとは言わないが、私はその事情を知った時、正月に親に挨拶に帰ることが、哀しみをやわらげることはあり得ると思った。(伊集院静「それがどうした」週刊現代) ~


 元日の朝は子供達が必ずそろって父に挨拶をしなければならないことになっている伊集院家。お父様が亡くなった後も、静氏は必ずお正月には実家にもどるという。
 そのお父様が亡くなられた年、若者の犯行による二つの大きな事件が起こった。
 犯人には、故郷の家を出てから何年も実家に戻っていないという共通点があったことを知り、伊集院氏は上記のように述べる。
 この二人の犯人の履歴と事件との関係を論理的につなげることはできないが、毎年実家に帰ったり、お墓参りをしている若者と、凶悪犯罪を結びつけることは難しい。
 お盆やお正月といった行事が、宗教を強くはもたない一般的日本人の心のよりどころになっている面はある。
 

 ~ 大晦日に家の玄関に立つと九十一歳の母は私を頭の先から足下まで何度も見つめる。
 それだけのことだが、それが十分に子供のすべきことではないだろうかと思う。
 ありがたいことである。 ~


 安心して勉強や部活をさせてくださる部員の親御さんに、ありがたい思いがこみ上げる年の瀬である。

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前置詞のポイント

2012年12月24日 | 国語のお勉強(漢文)

 漢文の前置詞句は原則として副詞句なので、後ろに必ずVがある。
 だから前置詞句を見かけたらいったん〈 〉でくくって、その文のSVをまずつかむと読みやすい。

 我 〈 為 由 里 子 〉 作 炒 飯。
は、「我」がS、「為由里子」が前置詞句、「作」がV、「炒飯」がO。
 我 為(二)由里子(一) 作(二)炒飯(一)。(私は由里子の為に炒飯を作る。)

 我 〈 与 彩 〉 登 山。
は、「我」がS、「与彩」が前置詞句、「登」がV、「山」がO。
 我 与レ彩 登レ山。(私は彩と山に登る。)

 前置詞を覚えることで、その文のVが明確になる。
 上記の文を否定文にするには、助動詞「不」を用いればよいが、まず結論ありきの漢文は、Sの直後に「不」がおかれ、その後に前置詞句、そしてVという語順になる。

 我 不 〈 為 由 里 子 〉 作 炒 飯。
 我 不 〈 与 彩 〉 登 山。

の語順なので返り点は、

 我 不(下) 為(二)由 里 子(一) 作(中) 炒 飯(上)。
 我 不(二) 与レ 彩 登(一)レ 山。

となる。とにかくまず初めに、前置詞句にレ点、一二点をつけてしまうのがポイント。

 「於」、及び「於」の代役になる「于」「乎」だけは、英語の前置詞句のようにVの後ろに置かれることが多い。

 我 学 漢 文 於 学 校。

のとき、「於」に返り点をつけて「に」と読んだ学者も昔いたが、名詞の送り仮名でそのニュアンスを読んでしまい、「於」自体は置き字にするのが通例になった。

 我 学(二) 漢 文 於 学 校(一)。(我漢文を学校に学ぶ)。

「於」のつくる前置詞句は、例は少ないが副詞句ではなく形容詞句として名詞を修飾することがある。これも「於」が他の前置詞と異なる点だ。
 センター試験98年追試にこんな文があった。

 道之於孔老猶稲黍之於南北也。

「道之於孔老」がS。「孔子や老子における道というものは」の意味。
「猶」がV。「同じだ」。
「稲黍之於南北」がC。「南方の人にとっての稲、北方の人にとっての黍」
「也」は終助詞で断定。

 「於」は通常Vの後ろに位置し、英語の前置詞と同じ働きをする。
 「於」がVの前にある場合は「~に於(お)いて」と読む。

原則
 助動詞と前置詞には返り点がつく。
 助動詞の後ろ、前置詞句の後ろにはVがある。
 返り点がいろいろ複雑についてても、最後に読んだ漢字(語)は、その文のVか、Vの助動詞である。

 もっともよく使われる前置詞は「以」だ。
 名詞が省略されて返り点がなくなり、接続詞に見えることもあるが、「以」の後ろには必ずVがある。

ちょっとしたコツ
 「以(もって)」の後ろにVあり。
 「而(ジ)」の前後にVあり。

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漢文の前置詞

2012年12月24日 | 国語のお勉強(漢文)

 日本語は、名詞の後ろに助詞がくっついて、その名詞を主語にしたり、目的語にしたり、修飾語にしたりする。
 英語や中国語には、名詞の前に置かれて同様の働きをする語があり、それを前置詞という。
 前置詞+名詞のひとかたまりを前置詞句という。
 基本的に古代中国語の前置詞句はVの前におかれて、Vを修飾する副詞句としてはたらく。副詞がVの前におかれるのと同じだ。
 日本語の助詞と同じ働きをし、日本語とは異なり名詞の前に置かれているから、前置詞には返り点が付く。以下の数個が漢文の前置詞にあたる。


  自レ~・従レ~「~よリ」… ~より・~から
  以レ~「~ヲもつテ」… ~によって・~で・~を
  与レ~「~と」… ~と
  為レ~「~ノためニ」… ~のために
   対レ~「~ニたいシ」 … ~に
  於レ~「~ニおいテ」 … ~で

 

 

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漢文の助動詞

2012年12月23日 | 国語のお勉強(漢文)

 漢文には返り点がある。
 なぜ返して読むのか。古代中国語は、日本語とは語順が異なる言語だからだ。
 日本語と異なる語順の言語を、原文をそのままの形にしておいて、日本語読みしてしまおうと生み出されたのが返り点だ。あたりまえのことだが、返り点は、日本語と語順の異なる場合だけつけられる。
 適当につけられているのではない。
 「花咲かず」を漢文では「花不咲」と書く。
 古代中国の人は「花が咲かない」と言うとき「花不咲」と書く。
 「咲」という動詞内容より「不」という否定がより大事だという意識が働いているのだろう。
 日本語は、現代語で考えてもそうだが、ものごとの結論は最後の最後にあきらかになる。
 動詞の後ろに助動詞がつき、その動作をしたのかしなかったのか、未来のことか過去のことかを表明するのは後回しになる。
 漢文の助動詞は、とりあえず主語のあとにすぐ置かれる。
 助動詞だから、その後ろには必ず動詞がある。
 「漢文には返って読む文字がある」というおおざっぱに理解するのをやめて、この字(語)は助動詞だから、下の動詞から返って読む、という意識をもつとよい。
 これらの語にもどっている語がVであることがわかる。
 以下の数個が漢文の助動詞にあたる。

〈助動詞〉
  不レV・弗レV「~ず」 … ~ない
  見レV・被レV「~る・らル」 … ~される
  可レV「~べし」 … ~できる・~するとよい
  得V「~う」・能 V「よク~」 … ~できる 
  勿レV・毋レV・莫レV・無レV「~なカレ」 … ~するな
  欲レV「~ントほつス」 … ~しようとする・~しそうだ

 「能」は読み方は副詞ぽいが、可能の助動詞だ。
 否定とセットになると、「不レ能レV(Vするあたはず)」となり、ビジュアル的にも助動詞になる。
 他にもあるけど、覚えるのはこれだけでいい。

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一日

2012年12月22日 | 日々のあれこれ

 今日は個別相談会があった … ってふつうに言うけど、こういうシステムをとっている県は日本中でどれくらいあるのだろう。
 私立高校の数自体が少ない地方の県は、ないんだろうな。考えてみれば不思議なシステムのような気がする一方で、自分で行きたい学校に説明を聞いて合格の目安について相談するのは、就活と似たシステムで、自分の行きたい学校を自分で調べるという自己責任の存在するシステムと言えるかもしれない。
 むしろ、中学校の先生が女衒のように間に入っていた十数年前までのやり方の方が、いま思えば不適切だったとも思えてくる。自分の進路は自分で決めろと言う一方で、実力に応じた受験校をかなりの強制力をもって勧めるのは矛盾するから。
 相談会は、保護者の方と受験生本人という組み合わせで来られるのが普通だが、受験生一人で来る子もたまにいて、ちょっとしっかりしてそうで頼もしく感じた。お兄さんとの組み合わせがあって、いくらなんでも見た目が若いので「あの、お父様ではないですよね」と訊ねたら兄ですと答えた。でもまれに本当に若いお父さんもいる。
 夏休み前から続いてきた一連の営業活動も、これでいったん終わった。
 あとはたくさんの受験生が、そして多くの入学生が来てくれることを祈るばかりだ。
 来年もおまんまがいただけるように、そしてたくさんの部員に恵まれますように。
 予想よりも多くの来校者があり、一連のお仕事をおえたあと、電車を乗り継いで町田へ。
 ちなみに今読んでいる高村薫『冷血』は、町田、狭山、川越、という16号線沿いが(おお、山田うどんが郊外化した地域だ)舞台になっていて、けっこう入り込める。
 音楽座さん『とってもゴースト』の大千秋楽を観劇することができた。
 交通事故で亡くなった入江ユキさんの霊が、人を愛する経験をするためにもう一度生身のからだをくださいと、冥界のガイドに懇願するシーンがある。
 「おねがい、一ヶ月」「無理に決まってるでしょ」「三日でいいわ」「だめです」「じゃ、一日。一日だけ … 」
 ここは泣けるというよりも、一日ってほんとに大事だよなあとしみじみ思った場面だった。
 稽古場のある町田ホームタウン公演は、客席の雰囲気も実にあたたかく、役者さんも最後のちからをふりしぼって演じているように見えた。
 芝居がはねた後、先日お世話になった藤田さんや北村さんにごあいさつし、来年も踊ってくださいと言われ少しはずかしくなり、でもほっこりした心で町田駅まで歩いていくと、ほどよいロマンスカーがあったので特急券と缶ビールを買う大名旅行で帰途についたのだった。
 しっかり働いて、いいお芝居を観て、おいしいビールを呑める一日があると、「だって、生きてるじゃない、すごいことなのよ」というセリフが心にしみる。

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漢文の構造

2012年12月21日 | 国語のお勉強(漢文)

 冬期講習は古文三日、漢文三日で実施し、漢文を担当した。
 初めて教えるクラスが2クラスあって、「SVで文構造をとる説明が新鮮だった」って言ってましたよと、担任が教えてくれた。
 たしかに今年は、これがS、これがV、じゃOはどれ? とか口うるさくやっている。
 少しでも効率よく漢文が読めるようになってもらうための一番いいやり方だと(現時点では)思っているからだ。
 昔ながらの漢文指導でも、漢文の構造は最初に教えるのが普通だろう。
 「主語・述語・目的語」「主語・述語・補語」のように、古代中国語は日本語と語順が異なりますと指導する。
 ところが、ここに問題点があって、中学校までで習う日本語文法のなかには、「目的語」「補語」という概念はない。
 漢文の時間に「目的語」「補語」という言葉を耳にした生徒が思い浮かべるのは、英文法で習ったそれだ。
 だから英語の時間に習った「SVO」「SVC」の知識でOやCをイメージする。
 漢文の時間に、「我書読(我書を読む)」は「主語・述語・目的語」で、「我行学校(我学校に行く)」は「主語・述語・補語」と教えられる。
 すると「英語の時間に習ったCと漢文の時間に習う補語って、なんか違う … 」と、まじめな子は思うんじゃないかな(もちろん全然気にしない、というかあんまり漢文が眼中にない子(泣)も多いけど)。
 ちなみに従来の漢文指導では、「~に」「~と」「~より」と送り仮名をつけて理解する語が「補語」ということになっている。
 英文法風に理解するなら、「我行学校」はS・V+M(修飾語)だ。
 従来の漢文なら「我行学校」は「主語・述語・補語」。
 そして実際の中国語は「我行学校」はSVOで扱う(はず)。
 さて、どうしようと思い悩んだすえ、最近とっている方法は、原則英文法のSVOCを利用する。
 「~に・と・より」をつけて読む語を補語とは教えない。
 大体、日本語で読み下した結果に基づいて漢文の構造を決めることに矛盾がある。文そのものの段階では中国語なのだから。
 英文法を利用し、しかももっと簡略化する。
 「我書読」「我行学校」もともにSVOで理解させてしまう。
 「我為学級委員(我学級委員と為る)」は、英語でも従来の漢文でも同じでSVCだからそう教える。
 「我与彼女鉛筆(我彼女に鉛筆を与ふ)」は、従来の漢文では「主語・述語・補語・目的語」とするが、これは英語的にSVOOの第四文型だと教える。
 使役の文はSVOCの第五文型であつかう。
 こうして漢文でしか用いない文法用語は排除してしまう。
 なんといっても英語は必要にせまられてみんな勉強するし、せっかく学んだSVOの概念をうまく利用したい。
 昔ながらの先生は、そんなのはだめというかもしれないが、大事なのは日本語と異なる論理がそこにあることを感じさせることだ。
 この観点に立つと、「返読文字」というくくりかたの粗さが気になってくる。
 Vも前置詞も助動詞も、全部「返読文字」とおおざっぱにまとめて、覚えましょうと指導するのが一般的な教え方だが、これにはもうたえられないので、「不」や「欲」は助動詞、「以」「為」は前置詞であることを繰り返し教えている。
 予備校の先生方の教え方は、自分の知る限りにおいては従来型が多いが、宮下典男先生はSV型だ。中野先生の「ガッツ漢文」もそうだったかな。書店の漢文コーナーで圧倒的なシェアを占める三羽先生は徹底的に昔型だから、ひょっとしたら、その方が受け入れられやすいのかもしれない。
 でも本校の知性あふれる生徒諸君には、やみくもな句形暗記ではなく、言語構造を理解する観点を漢文をつかって身につけてほしいと思う。

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12月20日

2012年12月20日 | 学年だよりなど

 進路だより   「力」をつけよう


 やりたいことを見つけ、なりたい職業をみつけ、そのために学部・学科を選び受験大学を決める、という作業ができそうな人は幸せだ。
 たとえば、弁護士になりたい、薬剤師になりたい、学校の先生になりたい、スポーツ選手になりたいというような希望が明確に存在している人は、文系か理系かの選択で悩むこともないだろう。
 文系・理系の選択も、受験学部・受験大学の選択も、よく考えて決めるべきものではあるが、実はそれほど神経質になる必要はない。
 明確に決まっていなければ、とりあえず、入るのが難しい大学に入っておけばいい。
 そんなのはだめだ、と書いてある本もあるけど、ウソだから信じなくていい。
 「自分のやりたいこと」というのは、そう簡単に見つかるものではないからだ。
 聖人の孔子でさえ、それを知った時には五十歳になっていたくらいだ。
 みなさんには、「やりたいこと」を見つけるだけの確固たる「自分」ができていない。はっきり言って「力」が足りない。それが悪いというのではなく、いまの大人もほとんどはそうだった。
 「やりたいこと」を考える前に、まず実力を身につけることが優先だ。
 力とは、学ぶ力であり、世の中を見る力だ。
 みなさんはあまりに世の中を知らない。視界が狭いし、生活経験も足りない。実は、教えている我々も世の中を知らない。親も親戚も身近な大人も、そんなには世の中を知らない。
 特定の個人が知っている「世間」というのはきわめて狭いのだ。
 まして今の世の中は、たとえば100年前に生きた最高の知性の人間が予想し得た世界よりもはるかに複雑化している。
 そんな社会の中で、人が何を生業(なりわい)にして生きていくかもまた実に多種多様だ。
 だから今もっている情報量で、将来はこういう職業につきたいなどと考えるのは、実はほとんど時間のムダといっていい。
 世の中には多種多様な職業があるが、みなさんが大学を卒業する頃、つまり最短で7年後には、それらの職業のうちの何割かは存在さえしないだろう。
 今の私たちが想像できない職業がいくつも存在しているはずだし、「就職」の概念自体も大きく変わっている可能性がある。
 だとしたら、今の段階で自分の未来を限定してしまうことは、あまり意味がない。
 だから考えなくていいということではもちろんないが、考える前にやることはいくらでもある。
 まずは「読み・書き・そろばん」だ。ものを考えるための基礎力だ。
 受験勉強では本当の思考力はつかないと書いてある本もあるけど、それもウソだから気にしなくていい。
 とにかくまずは勉強。知識を増やし、「学ぶ力」をつけていくこと。
 そして世の中を知ろうとすること。せめて新聞を読み、本を読もう。世の中に関心がない人は、何学部にいったらいいのかも決められない。
 「やりたいこと探し」「自分探し」に時間を浪費せず、目の前のことをひたすらやって力をつけていけばいい。その先に自然と、やるべきことや、向いていることも見えてくる。その時にはじめて、自分は何をして生こうかと考えるので十分だ。

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