水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

ケンミン

2008年01月31日 | 日々のあれこれ
 「福井県人は油揚げを異常にたくさん食べる習慣があって、カレーにも入れるんだって?」と先日ある先生に尋ねられた。たしかに油揚げはけっこう食べてたし、竹田の油揚げというブランドものも売っている。スーパーにおける大豆製品コーナーはこっちよりたしかに大きい。でも、カレーには入れないんじゃないかな。はじめて聞いた。うちの実家が特殊だったのかと思っていたら、たしか先週か今週のポスト(現代だったかも)に、日テレの「ケンミンショー」がいい加減な情報を流しているという記事がでていた。さもありなん。テレビの情報というのは、何が正しくて何がヤラセかガセネタかの区別がきわめてあやしくなっている。テレビ局の製作の人なんて頭のいい人ばかりだと思うんだけどなあ。
 昨日帰りにヨーカドーに寄ったら冷食が4割引きだったので、これ幸いと、いくつか購入して帰宅したところ、例のギョーザのニュースをやっていた。「中国製」という言葉に対するいまの日本人の反応がすごい。そんなに中国製をわるもの扱いしたいなら、こういうことが起こらない程度のつきあいにとどめておけばよかったのではないか。今さら、中国製品がどうのこうの言ってもしょうがないくらい、私たちはどっぷりつきあっているし、中国との貿易がなくなったら、石油値上がりどこの騒ぎではなくなるだろう。いま冷食を定価で買うことの方が少なくなっていると思うけど、ということは4割引き、5割引きでも利益がでるように製造されているわけで、そこに完璧な品質を求めるのがわがままかもしれない。冷凍のケンミン焼きビーフンを食べながらそんなことを考えていた。
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モットー

2008年01月29日 | 日々のあれこれ
 久しぶりに居残りの部員を駅までおくる。入試が終わりまた日常がもどってきた感覚だ。しかし、すぐに修学旅行、そして予餞会、学年末試験。放課後はこれからに講習や補習で人がそろわないだろし、じっくり曲に取り組める気がしないが、とにかくその時々にやれることをやっていくしかないであろう。伊奈学園さんは「音楽しよう!」をモットーに日々の練習に励んでいる。今のうちはまずこれだな。「楽譜を読もう!」がんばっていきたい。
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ガソリン

2008年01月28日 | 日々のあれこれ
 町村官房長官が「日本のガソリンは外国より安い、安すぎると環境によくない」と先日のたまわったが、福田総理も同趣旨の内容をおっしゃられているようだ。なるほど、ガソリン自体が他国より安いという現実はあるのだろうし、その理由が環境に配慮したものである面もあるのだろう。しかし、わが国の場合はどうか。その税金で何か環境対策をおこなうのか。あくまでも道路を建設するお金になるというのである。新たに道路を造ることがどのような環境対策なのか、きわめて理解の難しい話だ。たとえば、「地球環境を大切にしなければならない。そのためには道路を建設しなければならない」と書いてある小論文を受け取ったなら、おそらく、意味不明、論理矛盾、知性欠如、というように添削せざるを得ないだろう。いや、それとももう道路は造らず、国土交通省のお役人さまの福利厚生(レクリエーション費用など)をもっと充実させたいということだろうか。
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行き先

2008年01月27日 | 日々のあれこれ
 朝の集合の後、学年だよりを書いていたら、道を尋ねる電話がかかる。日曜はこういう電話がたまにある。練習試合でそちらに行くのだが、途中で道がわからなくなったとか、学校見学に伺いたいがどうやっていけばいいのかといったもの。今日は、「おたくのそばにあるというシニアリーグの野球場に行きたいので、そちらの住所を教えよ」との電話だった。「川越市久下戸6060です」と答える。住所をきくのだからナビを見るのかと思ったが、それなら電話番号を入力してしまえばいいのにとも思った。いったん切って5分後くらいに、再度電話。「いま飯能を出るのだが、久下戸という看板はあるのか」ときく。別に変な人っぽくはないし、話し方に横柄なところもないのだが、なぜか質問がずれているような気もした。「では川越にむかってきてもらって、あらためて電話ください」と答える。しばらくして「いま秀明学園をすぎた」と電話がかかる。「もうしばらくまっすぐ進んで、喜多院という信号を右折してください」といい、「あの、ナビも地図もないのですか」と尋ねると「そうだ」という。その後、もういっかい電話で学校が見えるあたりまでをお教えした。はじめて向かう場所に地図もなく出発する人がいるということに、まことに意表をつかれた出来事だった。
 と書くと、いかにも電話の相手が非常識で、電話を受けた自分が普通のように見えてしまうが、逆に地図もなく、ときには行く先もわからずに出発していることが、自分にも多々あるのではないかとも思う。
 たとえば、今の練習は行き先が見えているのか。ちゃんと地図にしたがって正しい道のりを進んでいるのか。考えてみるとかなり手探りだ。行き先を決めかねている面もある。どこまで進みたいのかを。だから部員一人一人の歩き方にも差があるのだろうか。
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入試

2008年01月22日 | 日々のあれこれ
 入試一日目は、試験監督は入らず、単願受験生の面接を担当する。「川越東高校を選んだ理由はなんですか?」「文武両道の教育方針に魅力を感じたからです」。ほとんどの子がこう答える。併願受験生も同じだ。おそらく現部員たちも、こう答えて入学してきたはずだ。両立してるかな、みんな。たまたま勉強中にここを読んでしまい、少しやばいと思ったら、もうひとふんばりだけ勉強すること。
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小説

2008年01月21日 | 日々のあれこれ
 高校の時、模擬試験に幸田露伴「五重塔」が出題され、問題を解くよりもその一節の文章そのものに心惹かれ、さっそく帰りに古本屋で購入して読んだ記憶がある。
 自分が入試問題を選ぶときにまず頭にあるのは、受験生に読ませたい文章かどうかだ。定期考査や校内実力テストでも、それは考える。なかなかこれという文章をえらびきれないままになってしまうことも多いけど。
 しかし、入試は学校の顔でもあるし、せめて自分の担当する問題くらいは、いい文章を選びたい。受験生に読んでもらいたい、できれば、その作品や作家にふれるきっかけになるならなおいい、とも思う。ま、現実には、そんなことはおこらないだろうとは思ってはいても、志としてはそういうものがある。
 今回のセンターの小説をみて感じたのは、出題者は、漱石のこの文章を50万人の高校生に読ませたいとほんとうに思ったのだろうかという疑問だ。いや別に漱石にも「彼岸過迄」にも文句があるわけではない。でも、別にこれでなくてもいいのではないか、あえて漱石でなくても、つまりもっと今を感じさせる作品で、しかも今回の問題程度の読解力を試す問題はいくらでもつくれる。おれでさえそう思うのだから、予備校なんかのプロだったら、なんだかなあという思いを抱いた先生もいらっしゃるんじゃないだろうか。大学の先生方が何ヶ月もかけて作成したのがこれか … というがっかり感をぬぐいさることができない。去年は、評論にも小説にも志を感じた。はい、科学的根拠をもたない感想にすぎないことは重々わかってます。

 
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1月19日

2008年01月19日 | 日々のあれこれ
 練習の開始時に、全国大会のDVDをみんなで観た。栄さんの演奏をみながら、当日の感動をまた思い出した。ひとりで観てたらまた泣いただろう。
 そのあと、ミーティング、パート練習、課題曲の合奏。
 さて今日はセンター試験初日。国語の問題が見たい。小説は漱石の「彼岸過迄」というしぶい問題だったようだ。いま18:30。上から音がしなくなったから、チャリーズももう片付けているはずだ。どうしよう。もうしばらくしたら予備校のホームページに掲載されると思うのだが。待ってようかな。エンタも観たいが … 。
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場面

2008年01月19日 | 日々のあれこれ
 更級日記の「門出」の段は、ふつう旅立ったところまでしか読まないが、いまの教科書はそのあとの場面まで載っている。
 旅立って仮の宿へ移動する。そこは数日すごすだけのおんぼろの家なのだが、作者はその家をとりまく景色に心うたれ、去るのがさびしいと書く。
「野中に丘だちたる所に、ただ木ぞ三つ立てる」などは、それがどうした、とつっこみたいくらいの何でもない描写だ(たぶん)。
 でも、そういうものなのだろう。旅立ちの気分、二度とここには来ないだろうという感傷、将来に対する漠然とした希望をもっているからこそ、別れゆくものにたいして愛しさがつのる、というような思春期の心情。
 それらの総体が、なんでもない景色をしみじみと見させる。そしてその印象が何十年経っても残っている。人生のなかの思い出の一場面。
 そんな場面をいくつかもっていると、そのあと辛いことがあっても乗り切れたりするのではないかな。
 そういう場面を一つでもつくらせてあげるのが、われわれの仕事ではないかとふと思った。
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入試

2008年01月16日 | 日々のあれこれ
 入試の季節になってきた。本校も、昨年を上回る数の受験生が手続きをされたようだ。ありがたいことだ。来週は入試。
 先日、といっても年末だっただろうかか、埼玉新聞で入試の配点基準の例をみた。県立高校の入試で、内申点と学力検査の比率の例である。新聞に掲載されていたのが標準的なものだとすると、内申の割合は半分くらいを占めるようだ。中学生やその保護者の方には自明のことかもしれないが(あっ、娘がいるのに知らなかった…)、私立高校に勤めていると、こんなことも知らないままにすぎていく。
 入試問題で何点とれたかではなくて、ふだんの学習や生活ぶりがで大きな比重を占めるのはというのは、こわくないだろうか。選抜する県立の先生方はどうなのだろう。評価する中学の先生はどうなのだろう。
 本校の入試相談に訪れた方と話していると、「うちの子はテストの点はいいのだけれど、先生との折り合いが悪くて高い評価をもらえないのです」的な話をうかがうことがある。そういうこともあるだろうなあと思う。
 勉強ができても、内向的だったり、自己アピールがへただったりすると、通知表の点があがりづらいということもあるだろう。
 学校の先生も人の子だから、どんなに公平につけようとしていても、無意識の主観が入り込むことはしかたないであろう。だから、やはり入試の半分を(学校によってはもっと)内申が占めるのはどうかと思ってしまったのだ。まして、絶対評価になってからというもの、内申のつけかたが学校によって大きく差があることをわれわれはよく知っている。
 力はあるのにシャイな性格で損をして、惜しくも県立はだめだったという生徒さんにも、ぜひ本校に入学しわが吹奏楽部に入ってきてほしいものだ。
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がばいばあちゃん

2008年01月15日 | 日々のあれこれ
 おくればせながら、島田洋七の『佐賀のがばいばあちゃん』を、昨日電車の中で読んでて、懸命に涙をこらえる状態になってしまった。
 島田洋七少年が、広島の母親のもとを離れ、佐賀のおばあちゃんのもとで少年時代をすごすのだが、その時の、貧乏でありながらも、それをものともせず力強く生きていく祖母と少年のお話だ。
 いま「格差社会」という言葉が巷にあふれているが、金持ちと貧乏の格差というのは、昔の方が大きかったのではないか。というか、今の時代の貧乏というのは、どういう暮らしぶりを言うのだろう。ネット難民、ホームレスとよばれる人々と、この洋七少年の体験した貧乏は、質的にまったく異なるものであるように思える。 とにかく、ふたりの暮らしぶりは貧乏なのだが、「それがどうした!」という力に満ちている。
「頭がいい人も、頭が悪い人も、金持ちも、貧乏も、五十年たてば、みーんな五十歳になる。」
「貧乏には二通りある。暗い貧乏と明るい貧乏。うちは明るい貧乏だからよか。」
「嫌われているということは、目立っているということや。」
「通知表は、0じゃなければええ。1とか2を足していけば5になる!」
という、ばあちゃんの言葉を読んでいると、「ま、細かいことなんか気にしなくていいか」「別にくよくよすることは何もないな」という気分になっていくのだ。
 
 
 
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