水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

10月31日

2011年10月31日 | 日々のあれこれ

3学年だより №13(武器)

 ~ 翌日、バイトの休憩時間にぼくが渡したプリントを瞬く間に丸つけした田岡さんが、いつになくまじめな顔で
「おまえさ、進学のこと本気で考えな」とぼくを見て言った。
「金ないですよ」
「そんな一言ですますなって。無返済の奨学金とか、推薦とか、極力金のかからない大学とか、 いろいろあんだよ抜け道が。教えてやるから。この成績で、金がないからって理由で、おまえ もったいないよ」
「 … 大学行ったって就職できない人いっぱいいるじゃないですか」
「おまえさ、今のままだったら、まるっきし丸腰じゃん。親が金持ちとか、特別な才能があると か、そういうの、今のおまえには何にもないでしょ。おまえのステータス上げる大卒っていう アイテムくらい装備しておいてもいいんじゃないの。確かに万能ではないけどさ、中村みたい にただのアホでも、名前の通った大学生って事実は世間じゃまだ使える武器なのよ。 … よっ ぽどのことがない限り」(窪 美澄『ふがいない僕は空を見た』新潮社) ~ 


   みんなは何のために大学に行くのだろう。
 何が目的で大学に行こうとしているのだろう。
 あらためてこう聞かれたら、「今さらそんなこと言い出さないでください」「今そんなこと考えているひまはありませんよ」と感じる人が多いだろう。
 「勉強は誰かのためにやるものではない、自分のためにやるんだ、しっかりやれ」と言われ、みんなは頑張ってきた。
 「つべこべ言わずやれ、自分のやりたいことなど探さなくていい、難しい大学に受かれ」と私自身も言ってきた。
 世間で言う「いい大学」を出たからといって、望ましい就職先が保証される時代ではない。
 世間で言う「いい会社」に就職できたからといって、いい人生が約束されるわけではない。
 そんなことはみんなも分かっているはずだ。
 しかし、いや、「だからこそ」さしあたって大学に行こう、行って損はない、そして行くならなるべく入るのが難しい大学を目指した方がいい、と言ってきた。
 学歴が邪魔になる人生というのは、そうそうあるものではない。
 丸腰で世の中をわたっていけるほど恵まれた才能をもつ人は、そんなにいない。
 学歴が世渡りの一つの大きな武器であることはまぎれのない事実だ。
 では、大学とは、純粋に自分の人生のためだけに行くところだろうか。
 今の時点ではそうであってもいい。
 それで最後まで頑張りきれるなら、それで十分だと思う。
 ただし、最後の最後に自分の力をふりしぼろうとしたときに後押ししてくれるのは、「誰かのため」という気持ちなのだ。
 「他人のためになんか頑張れない」と言うかもしれないが、実はそうではないのだ。

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ウィンターズボーン

2011年10月30日 | 演奏会・映画など

 舞台はアメリカ中西部ミズーリ州の山間地帯。
 登場人物が作品中一回も携帯電話を使わないのだが、これって現代のアメリカなのかという疑問がまずあった。
 そして、あの大アメリカにここまで貧しい地域があるのかという驚きと。
 精神は幼くても、津々浦々まで物だけはあふれてる国だと思っていた。
 貧困ゆえか、麻薬も地域に蔓延している。
 そこで精神を病んだ母、幼い弟と妹との一家をささえているのが、主人公の17歳の少女だ。
 少女と言っていいのかな。
 実際、かすかにあどけなさが残る美少女だが、その貧しい土地で家族を支えていくために、狩りもすれば、薪も割る。
 ライフルの撃ち方やリスの捌き方を弟妹に教える。
 隣家で捌くシカをもらいに行こうよとささやく弟を、向こうからくれるっていうならもらえばいいけど、物欲しそうにしていけないと諭す。
 母親の面倒をみる。
 そして、逮捕された後に失踪した父親の居場所をさがす。
 父親は、共同体の掟にふれたのだった。
 大人たちはそれを知っているから、父親が消されたであろうことは理解している。
 そして真実が明らかになることを嫌い、少女によけいなことにクビをつっこむなと言う。
 しかし、父親を見つけなければ、家や森が没収されてしまう。
 そうなったら家族は守れない。
 つてをもとめひたすら山間部を歩き続け、大人につかまってリンチにあっても、ひるむことなくほんとのことを教えてほしいと迫る。
 
 同じシチュエーションを、邦画だったらどんな風に描くだろう。
 すべてを知る長老が最後に出てきて、上手い具合に全部解決してくれて、父は死んでるけど家族はそのあと平和に暮らしました的にまとまるパターン。
 もしくは、主人公を助けるヒーローがあらわれて悪そうな人々をばったばったと倒してくれて、最後はその少女とラブになるなんてのが想像できる。
 普通のアメリカ映画だったら、父親はエイリアンに殺されてたとか、ヴァンパイヤだったとかなるところだろうか。
 いや、主人公は父捜しをはじめて10分くらいでレイプされて殺されるだろう。

 この映画はどれでもない(あたりまえかな)。
 つまり、映画的に解決しない。
 貧しい山間の共同体を生きる人々の閉塞感と、筋を通し続けるヒロインの姿を描写し続ける。
 父親の骨を(腕)を発見させられ、事態が解決したところで、爽快感はまったく得られない。
 少女は文字通り命がけで家族を守りをしたが、それはたんに家を出なくてすんだというだけで、なんらかのプラスがうまれたわけではない。
 それでも、そこまでして家族を守った少女の思いは幼い弟妹には伝わるし、そうやって生きることが彼女の矜持なのだ。
 全編ずっと息をつめて見続けないといけないこの作品はまったく娯楽作品的楽しさはないが、観て良かったと心から思う。ていうか、かっこよすぎるのよ、ジェニファーローレンスさん。
 一度あの子にガンつけられたいと思うくらい。真木よう子さんの比ではないくらいシビれそうだ。
 アメリカ映画にもちゃんとしたのあるんだなあと思った。

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模試

2011年10月28日 | 日々のあれこれ

今日はマーク模試。
 小説の問題が、ちょっと幻想的でSFちっくな文章で、ほんとのセンターでは出しにくい感じなのだろうなあと思ってたら、今度のセンター試験の予想問題を思いついた。
 

「そうか、だめだったか … 」
「どうせ、あいつのことだから、逃げなかったんじゃないか。おれだけは大丈夫だとか言ってね」
「ほんとバカだよ」(バカに傍線)    (絲矢ひと美『バカモノ』より)

問 傍線部の説明として最も適当なものを選べ。(センター試験2012年)

 ① 古くからの友人の命を奪っていった津波へのやりきれない怒りと無念さが、二度と自分たちの前に姿を現すことのなくなった友人を非難するような形となって思わず口をついた言葉である。
 ② 逃げ遅れた友人の、災害に対する備えのなさと考えの浅さを非難しながら、そういうところこそ友人の持ち味でもあったとも思うと余計いとおしさがこみあげて発してしまった言葉である。
 ③ 若くして世を去った友人の浅はかさを嘆きながら、同じように命を失った多くの人々のことに思いを馳せ、人間の愚かさというものをつくづくと感じながらつぶやいた言葉である。
 ④ 亡くなった友人を心から悼む気持ちに嘘はないものの、他人に対して素直に感情を出すことが生まれつき苦手であるために、つい屈折した形で口にしてしまった言葉である。
 ⑤ 最初から曲解してとらえようとしている記者たちを目の当たりにすると、自分の本当の気持ちなどは伝わらないといういうなげやりな気持ちから、なかば挑発するように発してしまった言葉である。


問 傍線部の説明として最も適当なものを選べ。(早稲田・法学部)

 イ 苦渋の罵倒  ロ 没我の惜別  ハ 哀悼と怨恨  ニ 畏怖の措定  ホ 忘却と変容

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10月27日

2011年10月27日 | 日々のあれこれ

3学年だより№12「才能」

 さらに次の言葉も、小説家の話であるという前提さえ置き換えれば、何にでもあてはまる話だと思えるのだ。


 ~ 才能にそれほど恵まれていない  というか水準ぎりぎりのところでやっていかざるを得ない  作家たちは、若いうちから自前でなんとか筋力をつけていかなくてはならない。彼らは訓練によって集中力を養い、持続力を増進させていく。そしてそれらの資質を(ある程度まで)才能の「代用品」として余儀なくされる。しかしそのようになんとか「しのいで」いるうちに、自らの中に隠されていた本物の才能に巡り会うこともある。スコップを使って、汗水を流しながらせっせと足元に穴を掘っているうちに、ずっと奥深くに眠っていた秘密の水脈にたまたまぶちあたったわけだ。まさに幸運と呼ぶべきだろう。しかしそのような「幸運」が可能になったのも、もとはといえば、深い穴を掘り進めるだけのたしかな筋力を、訓練によって身につけてきたからなのだ。(村上春樹『走ることについて語るときに僕が語ること』文春文庫) ~


 作家であってさえ、集中力と持続力は才能の「代用品」になる。
 なんとか「しのいで」いくこと。
 若いうちから、とりあえず訓練していくこと。穴を掘っていくこと。
 それは、隠されているかもしれない自分の才能にたどりつくための「筋力」づくりだ。
 ただね、みなさんに才能はあると思う。
 勉強の才能が。
 うそぉ? と思ったでしょうか。だったら苦労しないよ、と。
 いや、実はあるのだ。
 勉強の才能とは、理解の早さや、計算の確かさや、問題を見た瞬間に解法を思いつける洞察力とかではない。
 勉強の才能とは、机に向かってかりかりと字を書き、電車の中で単語をおぼえ、プリントをファイルしていく能力のことだ。
 それが才能? と思うかもしれないが、万人に与えられた能力ではないという意味で、まちがいなく才能の一種だ。
 そういう才能をもつ人が、結果としてたとえば「学力」のようなものを手に入れることができる。
 勉強というとりあえずの訓練に堪えていけるのは、生まれ持った能力の一つだ。
 この能力をもたない人も当然いるし、そういう人は別種の訓練で自分の鉱脈をみつけていく。
 たとえばイチロー選手は、まだ幼いうちに、自分が最も堪えうる訓練に出会え、そのまま開花させたという意味で幸せだったのだ。
 同レベルの別種の才能をもっていても、それが何かに気づくことなく人生を終える人もいるにちがいない。
 みんなは、進学を目指す学校に通うことができるという能力を生まれ持っているのだから、とりあえずがっつり筋力を鍛え続けていこうではないか。

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10月26日

2011年10月26日 | 日々のあれこれ

3学年だより№11「淡々(2)」

 作家の村上春樹氏は、「小説家にとって最も重要な資質は何ですか」という質問に、「言うまでもなく才能」だと述べる。「文学的才能がまったくなければ、どれだけ熱心に努力しても小説家にはなれない」と。
 小説家という限られた(選ばれたと言うべきかな)生き方ができるのは、おそらく神から命じられた限られた方々だけであろうことは、想像に難くない。
 才能の次に大事なのは、何か。
 村上氏は「集中力」そして「持続力」だと言う。


 ~  自分の持っている限られた才能を、必要な一点に集約して注ぎ込める能力。これがなければ、大事なことは何も達成できない。そしてこの力を有効に用いれば、才能の不足や偏在をある程度補うことができる。
  … 集中力の次に必要なものは持続力だ。一日に三時間か四時間、意識を集中して執筆できたとしても、一週間続けたら疲れ果ててしまいましたというのでは、長い作品は書けない。(村上春樹『走ることについて語るときに僕が語ること』文春文庫) ~


 文学的才能の「まったく」ない人が、集中力や持続力をもって努力しても小説家にはなれない。
 しかし、小説でなければ、何か別の対象におきかえて「集中力」と「持続力」をもって努力すれば、その別の対象で何らかの結果は出ると考えられるのではないだろうか。
 実は、村上氏自身、自分の才能は「それほど恵まれていない」と言っている。
 ノーベル文学賞に最も近いと言われる作家、『1Q84』という数百万部を越えるベストセラーを生んだ村上氏は、自分の才能の不足を「集中力」「持続力」とで補ってきたと言う。

 

 ~ このような能力(集中力と持続力)はありがたいことに才能の場合とは違って、トレーニングによって後天的に獲得し、その資質を向上させていくことができる。毎日机の前に座り、意識を一点に注ぎ込む訓練を続けていれば、集中力と持続力は自然に身についてくる。これは前に書いた筋肉の調教作業に似ている。日々休まずに書き続け、意識を集中して仕事をすることが、自分という人間にとって必要なことなのだという情報を身体システムに継続して送り込み、しっかりと覚え込ませるわけだ。そして少しずつその限界値を押し上げていく。気づかれない程度にわずかずつ、その目盛りをこっそりと移動させていく。これは日々ジョギングを続けることによって、筋肉を強化し、ランナーとしての体型を作り上げていくのと同じ種類の作業である。刺激し、持続する。刺激し、持続する。この作業にはもちろん我慢が必要である。しかし、それだけの見返りはある。 ~


 東大に入学できる高校生は約3200人。しかも毎年だ。
 何百年に一人の作家かもしれない村上氏の才能が恵まれてないのだとしたら、受験勉強に必要な才能など、ないに等しいのではないか。
 大事なのは、集中を持続すること。つまり淡々とやり続けることだけなのではないだろうか。

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10月24日

2011年10月24日 | 日々のあれこれ

 夏休み以来さぼっていた学年だよりを復活させてみた。

3学年だより№9「淡々」

 受験をレースに喩えるなら、今みんなは第三コーナーにさしかかったところだろうか。
 うそっ? って思いましたか?
 もうすぐ11月だし、最後の模試も近づいているし、もう最終コーナーを回ったぐらいと思っていただろうか。
 みんなにとっては未知の経験である大学受験を、それを迎える高校生を毎年目にしているわれわれ教員からすると、さあここからが本当の勝負なんだろうなあと思えるのだ。
 もちろん今までいいペースで走ってきた人は、無理にムチを入れたりすることなく淡々とやるべきことをやっていけばいい。
 出遅れた状態を脱し切れていない人は、決してあせることなく、前を向いて進んでいこう。
 大きな目標に向かっている人ほど、きつく感じることが多くなるのも確かだろう。
 先日お越しいただいた駿台の中村先生も、「この先が辛いんだよ」とおっしゃっていた。
 しかし、こう続けられたのを覚えている人も多いと思う。
 「辛いということは、人間的に成長できるということだ。
  それは、大人になるチャンスを神様からいただいていることなんです」と。
 本当にそのとおりだと思う。しかも、みんなには快適に寝起きする場所も、十分な食事も用意されている。学費を稼ぐために時間を費やすこともなければ、戦火におびえる心配もない。
 自分の将来の目標にむけて、勉強し放題の生活を認められている。
 こんな幸せな18歳は、世界中の若者の何%だろう。
 いや、大人として恩に着せるつもりで言っているのではない。
 われわれもそうやって大人にならせてもらった。
 そういう国に生まれたことを共に感謝しよう。
 せっかく与えられた環境を、十分に活用させてもらおう。
 そして少しでも成長して、いつか何らかの形で世の中に恩返しできればいい。
 これから最後のふんばりどころではあるが、長年見ている経験からすると、歯を食いしばって悲壮感ただよわせてがんばる人より、淡々と取り組む人の方が、よりよい結果が出ていることは間違いない。
 起きて、ごはん食べて、学校へ来て、授業を受けて、放課後勉強して、帰って勉強して、寝る。
 起きて、食べて、勉強して、寝る。それを淡々と繰り返している人。
 一番悲惨な結果に終わるのは、あせりはじめて深夜までがっつり勉強をして、学校で寝てしまう人とか、夜更かしの積み重ねで体調が悪くなり学校を休んでしまう人だ。
 そういう子は、こちらから見てると、ダメになっていくことが絵に描いたようにわかるのだけど、言ってもなかなか聞いてもらえない場合もある。
 ごはんを食べるように、歯を磨くように勉強するのが一番だ。
 淡々とやっているのだが、気がつくと周りの音が何も聞こえてないくらいに集中できて、一見ぼおっとしてるようにも見えるけど、実は今シナプスが火ふいてるんじゃないかと思えるほど脳がスパークする瞬間、そんな感覚を時々もてる人はとんでもなく伸びる。 
 いいなあ。勉強し放題のみなさんが本気でうらやましくなってきた。

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10月23日

2011年10月23日 | 日々のあれこれ

 全国大会は前半のチケットが当たったので出かけてきた。
 夏にさいたま市文化センターで聴いたとき、埼玉栄高校さんは全国でもぶっちぎりの金賞ではないかと予想した。
 予想外の結果をご存じの方も多いだろうが、だからといって栄高校さんが積み上げてきたものになんらケチはつかない。
 やれ審査員がどうのとか、音楽づくりがどうのとか言う人はいるだろう。
 何より演奏した部員のみなさんのなかに残念な気持ちがあろうことは予想できるが、埼玉県で吹奏楽をやっている人間なら、栄高校さんに対するリスペクトを減じる人間などいない。
 ただ、他校の演奏も驚くほど上手だったのはたしかだ。
 印象に残ったのは、城東高校さんの美しい自由曲、小松明峰さんの豊かなひびき、防府西高校さんのはつらつとした課題曲。金賞だった常総さんの課題曲はなんか解釈ちがくね?って少し思っ … 、うそです、そんなこと思うはずないじゃないですか。
 それぞれの支部を代表する学校さんの演奏には、埼玉県とはちがったアプローチもあるかのようにも思え、新たな感動を呼び起こされたものだ。
 でも2012.10.23として埼玉県の吹奏楽関係者というほんのちっちゃな世界のなかだけでは、今後しばらく話題にはなり続けるだろうな。でもこういうこともあるよ。人間のやっていることだから。
 埼玉の大会でも、今日みたくサウンド以外の点が高めになるといいのにな、って少し思った。
 栄高校さん、伊奈学園さんには、これからもわれわれの神であってほしい。

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抽選会

2011年10月19日 | 日々のあれこれ

 毎年、雨が降らないことを体育祭以上に願っている球技大会は無事実施された。
 係の先生に感謝しながら採点をさくさくとすすめ、午後、車で久喜に向かう。
 年が明けると次々とおとずれる本番の曲がまだけっこう決まっていないので、候補曲を聞きながら。
 吹奏楽の重い曲が続くと眠くなるので、途中から覚えたい歌を何曲か本気で歌っていたら、目が覚めるどころか自分の歌に感動して泣いてしまった。
 アンコンは抽選の結果、初日の12日に出演することになった。
 閉会式で、坂戸西の田中先生が、勝ち負けも大事だが、これだけやれたという経験や思い出をつくることの方が大事だとおっしゃっていて、深く頷く。
 部活をやるのはそういうことなのだろうとあらためて思う。
 日常の積み重ねが非日常に変わる。
 平凡の積み重ねが非凡に変わる。
 そんな経験をしたという記憶が、そのあとの人生の糧になる。

 仙台市がパンダの貸し出しを要請したというニュースを聞いたときの違和感の中身もわかった。
 被災地の子ども達を勇気づけたいという願いで要請したそうだが、やめた方がいいと思う。
 子どもは「パンダがきた! やった! かわいい! 元気でた!」と素直によろこべるかもしれない。
 たぶん、自分が仙台市民だったら、いくらかかってんの? とまず思うだろう。
 レンタル料だけで数千万円、飼育費に億のお金が毎年でていくことは間違いない。
 毎年それだけのお金を費やすなら、その分をなんらかの形で小学校や中学校へ援助して、上野まで行かせてあげればいいではないか。
 いつも近くにいて日常的に見られるより、そういう非日常の体験がさせてあげる方が、よほどその後の糧になる。
 まともな大人ならすぐ気付くと思うんだけどなあ。

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10月18日

2011年10月18日 | 日々のあれこれ

 試験終了。
 試験終了後、問題集販売。ある業者さんのセンター対策の問題集をまとめて販売する。昨年、お金の受け渡しに大変時間がかかったという反省をふまえ、お金は封筒に入れて担任が集め、現物だけをてきぱき進めていこうという流れになっていたのに、試験終了間際に販売場所に行ってみたら、やっと段ボールを移動している。
 おいおいちょっと待ってと思うけど、口を出すわけにもいかないので担当の先生に確認すると「15分後開始でおねがいしますとのことらしいです」と言う。
 時間になり生徒が並ぶと、一生懸命箱をあけながら該当生徒の物が入った袋を探すのだが、クラスごとにはなっているものの順番が大雑把で、探すのに時間がかかっている。この調子ではみんななかなか帰れないと思い、そばにいた何人かの先生と箱をあけ順番に並べ、小論文の講習を30分遅らせる連絡をして、業者さんには並べるのはこっちでやるので、受け渡しに集中してくださいといい、久しぶりに大汗をかく仕事をした。キレなかったよ。
 終わってすぐ講習。添削したものを返却しながらあれこれイチャモンをつけて、書き直しにチャレンジしてもらう。言いたいことがありすぎて「指示語と接続語はぜったい使わない」という裏技を教えるのを忘れてしまった。
 その後久しぶりの合奏は、基礎を少しと「夢への冒険」の数小節。怒らなかったし、あきらめなかったよ。
 一息つくと、先生方から、生徒さんからの添削依頼が増えているのに気付く。
 のんびり芝居見てる場合ではなかったし、「アジョシ」(せつなかった)まで観てる場合ではなかったかもしれないことに気付いたが、まあいいのさ。
 明日は球技大会で授業ないから。アンコンの抽選会に車で行けばCDが聴けるし、電車なら添削ができる。なやましいところだ。

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DISASTER~愛しきあなたへ

2011年10月17日 | 演奏会・映画など

 初めて観る、劇団だっしゅ公演「DISASTER~愛しきあなたへ」は、チラシから予想してたお芝居とは全く違ってた。
 「東日本震災を題材にし、命を考える作品」とチラシにあって、何もない試験中の日曜だしという気持ちで出かけた。
 場所は大塚駅から徒歩5分の萬劇場、地下3階、客席130席弱のちょっとあやしい小屋だ。
 メール受付に「お早めにお越し下さい」と書いてあったので、開場時間の少し前に会場につく。
 受付でお金を払い、番号順の入場ですともらった整理券番号が10番だったので、なんだ全然混んでないじゃんとほっとし、まあそうだろなあとも思った。
 でも、10分前のタヌキの着ぐるみ姿の二人が前説で現れるころには客席もほぼ埋まっていた。
 災害時の避難誘導の方法はまじめに説明してたが、携帯の電源は切ってといいながら盗撮してブログにアップしてもいいと言い始めたり、ちょっと下ネタの交じる劇団員の暴露コーナーがあったり、こんなに「充実した」前説は初めて聴いた。
 この段階ですでに予想外の展開で、でもけっこう好きな感じ。
 本編に入ってからも、シリアスなシーンと笑いをとりにいくシーンとがほどよく混じっていて、だからこそ重い題材がストレートに伝わってきたのかもしれない。
 主人公の幸(ゆき)さんは、市役所の「何でもやる課」に勤務する職員。
 明るく元気で天真爛漫な役で、しかも役にぴったりの顔立ちでアニメ声、でもけっこうグラマラスで、すごい魅力的だ。 
 彼女は赤ん坊のころ、施設の前に捨てられ、同じような境遇の数人の仲間とそこで育ってきた。
 その仲間たちや彼女の暮らす町の人々との、あれやこれやが描かれていって、これ震災とどうつながるのかなと思いながら見ていた。
 途中で、幸がラジオのDJを担当することになった時、もしかしたらあの話につながるのかと思い、だったらつらいなと思ったけど、予想通りだった。
 幸が交際している浩一くんの妹が妊娠し、父親はそれを知らずにドイツに留学してしまい、子どもをおろすという妹を説得する話が前半のメイン。
 それが解決し、浩一とも結婚の約束をし指輪を贈られた翌日、地震はおこった。
 海の近くにある放送塔で、彼女は避難を呼びかけ続ける。
 津波がきます、みんな高台に逃げて! と叫び続ける。
 避難放送をし続け多くの人の命を救い、自らは津波にのまれていった津波南三陸町の職員の方の話をもとにしていた。
 彼女の遺体がみつかったあと、浩一が「彼女をかえしてほしい」と叫ぶ。
 何もいらない、他の誰かはどうでもいい、彼女さえ助かってればいいと考えるおれはまちがってますか? と叫ぶ。
 がんばろう? これ以上どうがんばれって言うんだ、おれら何もかも失ってるんだよ、と叫ぶ。
 被災地の方の声を、しかもなかなか伝わってこない本音を代弁していると思った。
 「地震のシーンなしで、二人が結ばれたところで終わった方がよかった」というアンケートの声があったそうだ。
 たしかに、それだとお客さんは楽しく帰れる。
 それじゃだめなんだろうなあ。
 かといって、最初から最後までシリアス一辺倒にもしたくない劇団なんだろう。
 役者さんはみな達者だ。
 もっとメジャーな劇団の役者さんにまさるともおとらない。
 こんなにスキル持ってて、下ネタやらギャグやら入れなくてもいいじゃんと思えるくらいだ。
 でも、これが彼らのスタイルであろうことは間違いない。
 前説の方が、今日は下ネタ80%カットですと言ってたから、ふだんはもっとすごいのかもしれないけど。
 いい意味で裏切られたし、出会ってよかったと思う。行ってよかった。

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