カノン(2)
コーディネーターから提案された相手は、32歳の女性、氷坂歌音だった。
その身体に、自分の記憶が入る。4歳の男の子の母親として生きていく … 。
58歳の自分にそんなことが可能なのか。しかし自分の脳が生きながらさせる選択肢はこれしかなかった。
つい、自分のこととして考えてしまった。
今の記憶をもって、たとえば学生時代の自分の身体にもどれたら、などと夢想することはある。
今の脳をもって例えば学生時代にもどれたら、どうだろう。学生寮に住み、塾のアルバイトをしなくてもいいぐらいのお金を、必要最小限の努力で手に入れることは可能になるだろう。
でもお金があっても、あの暮らしは捨てがたいな。当時の子供たちにもっといい授業をしてあげられるのは間違いないし、寮生大会で圧倒的に力強い意見を言って皆をうならせることができる。
どうせ田舎の教員採用試験には受からないのだから、自治会の仕事ももっとばりばりやってもよかった。
今の音楽的知識があれば、サークルでもヒーローになれるだろう。
じゃあ、高校生にもどれたらどうだろう。なんか、やな高校生になりそうだな。
32歳の女性の身体に入り母親となったなら … 。
けっこういい仕事できそうな気がする。
むしろ、自分の人生を高校生からやり直すより、よかったりして。
寒河江北斗の道のりはやはりけわしかった。
移植された海馬と、歌音のもともとの脳の部分との間にシナプスが形成されるまでのつらさ。
理屈ではわかっているものの、思った通りに制御できない身体。
そして何より、夫や子供との人間関係。
いろいろあって(おおざっぱにまとめたが、このプロセスこそが、この小説の骨格だ)、それなりに新しい人生を歩んでいるとき、北斗時代の親友に出会う。
疑心暗鬼から興味本位になっていろいろ聞いてくる親友に、つい声をあらげてしまう場面があった。
そんな簡単に「うらやましい」なんて言わないでくれと。
~ 「人って、自分にないものはすべて輝いていて、自分だけが光っていないように思える。それを失って、初めて輝きに気づくんです。北斗のときの自分と、歌音になった自分と、どちらが幸せなのか、私にはわからない。いまでも時々、あのまま逝ったほうが幸せだったんじゃないか、つて思うことがある。考えても御覧なさい。いまから高校生に戻って、同じことを繰り返すとしたら、あなた、平気?」
篠山は北斗と一緒に、バスケットに汗を流した日々を思い起こした。振り返れば懐かしくもあるが、渦中にいるときは、悦びよりも苦しさや痛みが食い入って、生皮が剥がれた肌にひりひりと塩を擦り込まれるような日々だった。
「それはそうだ。振り返れば滑稽で微笑ましいことも、そのときは死に物狂いで世界を背負って立つみたいな気でいたからな。安らぎなんか、どこにもなかった。振り返るのはいいが、いまからもう一度あんなことを繰り返すなんて、ごめんだな」
「そうでしょ、そうよ。一度乗り越えた山を下りるのはいいけれど、平地に帰って疲れ果てたときに、もう一度、同じ山を登れ、といわれるようなものよ。若い体は登ろうと挑戦するけれど、心はもうぼろぼろに擦り切れて、休息を求めている。体と心のバランスをとろうとして、いつも気が張り詰めるのって、ほんとうに疲れるのよね」 ~
冷静に考えれば、かりに今の海馬をもって昔に自分にもどれたとしても、登るべき山の高さが変わるわけではない。むしろ、どんな高さか、どんな道があるのかわからないからこそ頑張れたのかもしれない。
ひたむきに生きる気持ちがもし生まれないとしたら、生きることにあきてしまうのではないか、そんな気もする。
寒河江北斗が歌音として生きていくために、歌音としてもとの職場に復帰することも重要な段階だった。
生命倫理委員会では慎重論もあったが、やはり海馬移植の最終形として、そのレベルまで行わなければ意味がない。北斗の記憶と歌音の身体が結びついた新しい人格が生まれてはじめて成功例と言える。
~ 「でも、北斗は他人には自分で名乗りをあげられないし、他人から見たら、歌音は歌音にしか見えないでしょ」
「そう、だから本人は違和を覚える。でも、そんな違和感を抱える自分を受け入れてくれる人がいれば、きっとそれが、新しい歌音の同一性を支えてくれると思うんです」そこで田代ケイが口をはさんだ。
「つまり、アイデンティティって、他人とのかかわりのなかでしか成り立たない、っていうことね。そうね、こう考えたら、どうかな。医療の進歩で、人間は八十歳、九十歳まで生きられるようになった。年を取るって、当たり前に考えたら高齢化するっていうことですね。でも現代では、肉体はアンチ・エイジングで自然に逆らって、脳だけが老化していく。いまは認知症がこれだけ増えてそれが普通になったけれど、以前は肉体が先に滅びたから、問題にならなかった。でも認知症の入って、他人が治すことはできないけれど、受け入れることはできる。人に受け入れられたら、その人は自分のことも受け入れられる。いまの歌音だって、同じかもしれない」
その田代の言葉を開いて、田所もようやく自分が聞きたかったことの在りかに気づいたようだった。 ~
近代科学の物心二元論は、人間の心とからだを別物とする。
しかし、それはちがうと言うのがポストモダンだ。
人間には絶対的な個我が存在するという近代的人間観に対し、アイデンティティは個そのものには備わっていないとするのがストモダンの考え方だ … 。
なんていう話を現代文の時間にしている。三年にもなれば、そんな文章ばっかり読む。
なんとなくわかったようなわからないような気分にさせられるものだが、偉い学者、思想家があれこれ考えてたどりついた内容を、この小説が見事に物語化している。
国語の教科書とは、ほんとはこういう作品を載せるべきなんじゃないだろうか。