食堂のチーフが今日をもって退職された。
20数年にわたって学食を作り続けていただいたのだから、同じくらい勤めているわれわれの身体の一部は、チーフ加島さんにつくっていただいたようなものだ。
ここでしか食べられない鶏マヨ丼が好きでした。
本メニューにはないカレースパつくってくれてありがとうございました。
合宿時のおかずがオモいとか言ってしまってごめんなさい。
急に一人前増やしてとか言ってすいません。
部員の粗相でおかずをひっくり返してしまってすいません。
お疲れ様でした。とりあえずゆっくりしてください。
70歳まで働かれたことが今は一番うらやましい。
自分はこれからどうなるのだろう。
今日でクールビズも終わる。
ユニクロがいかに自分にフィットするかわかった夏でもあった。
一年の秋と人生の秋とが重なる。
… って感じかな。
先生。
はい?
「そのまま詠んじゃだめ」って言ってるのは、俊恵じゃないんですか?
へっ? …… ほんとだ、ごめん。失敗、失敗、おっぱいバレー。
… 。
どうした、リアクションがないぞ。リ、リ、リアックション大魔王、なんちゃって。
… 。
… 。すまない。やり直します。
自分の代表作は「夕されば~」だなと、俊成卿ご自身では言ってましたな。と俊恵が言う。
なるほど、そうですか。と俊恵を歌の師と仰ぐ鴨長明が答える。
ただね。
なんですか、師匠。
内緒だよ。
なんですか、言ってくださいよ。
あの歌さ、ちょっと残念なところがあるんだよね。
ええっ? 俊成さまのお歌ですよ。なにが問題なんですか。
「身にしみて」って言ってんじゃん。
はい。
言ってしまったら、だめなんだよ。一番いいたいことは。説明文じゃないんだから。風景とか雰囲気を具体的に詠んで、それを聞いた人が自然に「身にしみるなあ」って感じるのがいいんだよ。
なるほど、そういうことですか。さすが、わが師匠。師匠がそう言ってたと、俊成さまにお伝えし … 。
わーー、やめて、消されちゃう。
って、感じかな。
先生。
はい?
予習ちゃんとおねがいします。
はい(深くこうべをたれる)。
古文の時間に「無名抄」の一節を読む。
五条三位入道(藤原俊成)と俊恵との会話。
俊成は、藤原定家のお父上であり、当代一の歌詠みである。
俊恵が問う。
「三位殿、ご自身では一番よく出来た歌はなんだと思われてますか?」
俊成はこたえる。
「 夕されば 野辺の秋風 身にしみて うづら鳴くなり 深草の里 」かな。
ただし、と続ける。
よくできた歌なんだけど、一つ残念な点があるのだ。
どこですか? すばらしい歌じゃないですか、と俊恵が言う。
だってさ、「身にしみて」って言っちゃってんじゃん。
だめなんですか?
だめなんだよ。だって「身にしみる」ていう歌なんだもの。
はい?
だから、「身にしみて」って言わずに、「身にしみる」歌だなあって感じさせないといけないってことさ。
なるほど、そういうことですか。直接言ったらだめなんですね。
そう。歌の詮とすべきふしを、さはと言ひ表したれば、むげにこと浅くなりぬる。
急に古文にならないでくださいよ。でも、わかりました。哀しいのを哀しいって詠んじゃだめなんだ。
そう。そこがプロとアマの差なんだよ。鈴木京香さんが「シミできる」とか言っちゃだめだし、櫻井くんが「どうしていいか、わかんないよ」って口に出したらいけないんだよ。
俊成さま、今日はありがとうございました。勉強になりました。
先週のこと。事務から電話がまわってくる。
「みずもち先生、音楽座の方から吹奏楽の先生にってお電話です。出られますか?」
「はい(音楽座ってあの? なぜに… )」
「お電話変わりました。顧問です」
「お忙しいところすいません。私たち音楽座というミュージカルの劇団なんですが、ご存じですか?」
「はい」
「 … 」
「知ってますよ」
「え? あ、ご存じなんですか。」
「はい、『泣かないで』とか観に行きましたけど」
「ありがとうございます! 私もそれに出てました」
「ほんとうですか(まじ? すげえじゃん)」
「実は今回お電話したのは … 」
音楽座さんでは、各公演の中で、高校生を対象としたワークショップと観劇、観劇後の吹奏楽コンサートという企画をすすめていて、いろんな高校に連絡をとっていることがわかった。
その後メールでのやりとりなどがあり、本校にお越し頂いて説明してくださるという運びになったのだ。
いらっしゃったのは、音楽座の冨永波奈さんと北村祥子さん。
おふたりとも、というか音楽座のメンバーの方はみな、役者さんとしてステージに立つ一方で、それぞれに企画を受け持ち、ミュージカルの裾野を広げようと活動されてることを知った。
要するに営業活動なのだが、たんに知り合いを通じてチケットを売る、ノルマをこなすというのではなく、表現する人を増やしたい、つながりたい、喜びをわかちあいたいという思いが形になったものだと感じる。
吹奏楽のコンサートに参加すること以上に、音楽座さんの催すワークショップに、部員たちをぜひ参加させてもらいたいと思った。
非礼を承知でおふたりの女優さんを描写させていただけば、北村祥子さんは天真爛漫、いや天然素材というべきか、役者さんとしての天分が服を着て歩いている感じ。話しているだけで、ステージを飛び回る様子が目にうかぶ。
数年前「泣かないで」という舞台を初めて観劇した直後にファンクラブに入ったのだが、みずもち担当で会報を送ってくださっていたのが北村さんだという。
冨永波奈さんは、企画の中心になっている方。自分の信じる道をひた走りあついお芝居をする、でも冷静に自分を見る目も持ち合わせていて、無意識の計算でお客さんを泣かせてくれそうな女優さんかなと思った。
最初の電話で会話が一瞬とだえたのは、「音楽座知ってますか」のあと「はい」という返事がくることは想定外だったからだと聞いて笑った。
知ってますがな。ええ仕事してますやないか。
「泣かないで」を観て、どんだけ泣いたことか。
これをご縁にぜひおつきあいを、と言ってお別れした。
他の学校の顧問に先生にも教えてあげたいな。
「あー、日射しあたりたくない、シミできる!」という鈴木京香さんのセリフがある。
回想シーンで、二人で海辺にドライブに来て、砂浜に向かって歩きながらのセリフ。
最初から、ちょっとゆるい映画だな~と思いながら観てたけど、このセリフなんか、ほんとに素人さんが書いた脚本なのかなと思ってしまった。
意図はわかるけど、そのまますぎる。ていうかリアルさを感じない。
逆に京香さんの年齢設定だったら、あらためて言わないんじゃないかな。
紫外線ヤバくね? というのはJKレベルだと思うのだが。
あえて口に出して手を顔をおおうくらいではなんともならないし、ふつうドライブするとわかった時点でぬりたくって、とんでもない大きい帽子かぶって、ハチの巣とりに行くの! って聞きたくなるくらいになってるのが、その年齢のきれいな女性のイメージだ。
セリフではそういうこと言わずに、もしセリフ化するんなら、若い男のほうが「そこまで武装しないといけないの?」て言って、京香さんが「うるさい!」って言うくらいがいいなあ。
そういう細かい部分がものすごく気になる作品だった。
テレビドラマでは官能的なシーンが満載で話題になってたようなので、そっち系に期待してた部分も大きいのだが、消化不良だった(ちけっとだいかえちてけんじゃ)。
ちょっと待って、これR15になってないじゃん。気付くのがおそかった。
この素材なら、R18ぐらいでドロドロにしてもらわないと。
そこまでの覚悟で女優さんにも仕事してもらいたかったな(ちけっとだいかえちてけんじゃ)。
鈴木京香さんも、深田恭子さんも、たいへんに美しい女優さんではあるけれど、それにあまえて台本やら演出やらへのこだわりが足りないと、非情に表面的なお芝居になってしまう方だ。
セリフに勝手に血肉をあたえてくれるタイプの方ではない。
「行さん」とよばれる若い男優さんも同じかな。
「東京セレソンデラックス」あたりで鍛えてもらったらどうだろう(Ora Orade Sereson Matamita)。
指揮のレッスンで、メンデルスゾーン「無言歌集」をレッスンされている先生が何人かいらっしゃる。
これがすばらしい曲ばかりで、早くたどりつきたいものだといつも思う。
今日は「信頼」という曲を聴いてて泣きそうになってしまった。
男と男の「信頼」という思いがわきあがるが、別名「ないしょの話」だそうだ。
何か人に言えない秘密を共有してしまったのだろうな。
男同士とはかぎらない。信頼できる人にはつい、ぽろっとやばいことを言ってしまうものだ。
そのメロディーは、譜面をみると「ミ・ラシド」だった。
ただの「ラシド」がなぜこんなにいいのだろう。
前に演奏したバーンズの交響曲3番・3楽章は「レミファ」で泣きそうになるし。
考えてみると、今の課題「美しく青きドナウ」は、ハ長調になおすと「ドミソソ」にすぎない。
音の階段が人の心をうつのはなぜなのだろう。
お昼のお弁当(600円)は、カニクリームコロッケ、いかの天ぷら、ポテトサラダ、銀ダラ煮付け、筍の煮物、ねぎぬた、きゅうり味噌漬け。納得の内容だった。
4時間目の学年集会は、駿台の先生をお招きしての進路講演会。
これから入試期までに何をどうやればいいかをお話しいただいた。
「計算は一日サボるだけでサビが出ます」というお話があった。
うちの数学の先生でも、夏休みで数日講義があいて計算しなかった日があると、計算力がにぶる、「サビがでた!」と言うんですよ。プロでも、そうなんです。みなさんは毎日計算しないといけないのはあたりまえです。ごはん食べるの同じ感覚で問題を解いてないとだめです。
というお話に、深く納得する。
受験を通して「ごはん食べるように」勉強できるようになったら、けっこう人生レベルで成功ではないだろうか。
でも、それがなかなかできない。
毎日一題は問題解くぞ! 文章を書くぞ! 譜面読むぞ! 腹筋するぞ! といつも決心はするのだが。
4限が終わり次第、すぐマイクロバスにのりこむ。
久喜高校さんに2年生をつれていって、基礎合奏に参加させてもらうのだ。
道が混んでて予定時間に着かなかったりしたが、われわれのための練習メニューを組んでくださってて、ブレストレーニングやらストレッチやら、パートでのロングトーンやら、一通り体験させていただいた。
帰りのバスのなかでコラールaを合唱してたり、「次の幹部会でルーティンの見直しをするよ」と部長がみんなに言ってたりしたので、いろいろ感じるところがあったのだろう。
かねこ先生、部員のみなさんに感謝するばかりである。
最後の集合でお礼を述べたとき、なんであんなにカミカミになってしまったのか、それだけがくやまれる。
かねこ先生がおっしゃっていた。
「けっきょく、やるべきことはみんなわかっているんですよ。それをどれだけ徹底して毎日できるかで決まるんじゃないでしょうか。」
研修会でいろんな練習方法を習ったり、指導法のDVDを買って観てみたりして、これまでの練習に取り入れてきたものは無数にある。
たんにそれを毎日やっているだけだと何のためにやっているのか忘れてしまい、「これ、もうやめようか」「そうですね」的な扱いになってしまったものも多い。
呼吸トレーニング一つとっても、練習方法は無数にある。
どれかが絶対に正しく、その他は間違いというものではない。
選択したトレーニングを、何のためにそうするのかを忘れないようにしながら継続する、その継続が大事なのだ。
毎日やることが。
毎日数分の動作でも、本気で一年やったら何か形は残る。
最低でも一年ちゃんとやるというスパンで続けていかないと。
たぶんテンション高めの久喜高さんに見送っていただいて学校にもどり、片付け後、駅まで送る。
南古谷でみんな降りたのかなと思ったら、Kたき君ひとり上福岡へ。
バスに二人きりになってしまった。
後ろの方にいたのに、なんで近寄ってくるの。
ちょっとドキドキする。
なんで、耳元で口笛吹き始めるの? しかもシューベルツの風(♪人は誰もただひとり~)だし。
どう考えてもおれを誘っている。
一緒に口笛を吹き始めたら、歌い始めた。
お父さんの影響で、昔のフォークをやたら知っている彼は、おれと二人きりになるのを待っていたのだろうか。
「心の旅」「22才の別れ」などをくちずさみながら、来月お招きいただいている父母会懇親会では、こういうのを歌わせていただこうかな、ちっちゃなマイアンプ買っちゃおうかなと思っていると、上福岡に着いた。
昨日は21:00過ぎまで学校にいた。
学校自体は、授業が3時間で打ち切りになり、部活もなしで臨時休校となった。
教員も帰っていいというお達しが出たのだが、帰宅しても明るいうちからビアを呑みながら台風ニュースを見てるだけになってしまう。
ここはがっつり仕事だろ、と残ることにした。
職員室のテレビでは台風のニュースが流れ続けている。
震災後に新調されたテレビがはじめて活用された。
そうやってニュースを見続けるのは、震災以来だが、あの時とはまるっきり気分がちがう。
数時間経てば通り過ぎていく台風と、どうなるか全くわからなかった原発の報道とではちがってあたりまえなのだが、あのときはほんとに不安だった。
はやくヘリがとんでほしい、でもヘリからのバケツで水をかけたところで根本的解決にならないことは日本人みんながわかっていて、それでも祈るような気持ちだった。いや、祈ってたか。
陛下のおことばを拝聴しながら、まさか自分が生きているうちに玉音放送に接するなんて、とも思った。
天皇制と自衛隊。戦後の歴史のなかで、その存在に疑問をなげかけられることの最も多かったこの二大制度がなかったら、日本は終わっていた。
夕方近くになると、電車が次々と運休し始める。
職員室からどんどん人が減っていく。
今のうちに帰ろうという人、どうせなら通り過ぎるまでいるかという人。
テレビでは、その判断ができないうちに電車が止まってしまった状況だろうか、人があふれはじめたターミナル駅の様子が撮される。
でも、なんかせっぱつまった雰囲気ではないように見えた。
たいがいのことは、震災の時に比べたらなんでもないという感覚で、これからの日本人は生きていけるのかもしれない。
「放射能が怖いから花火はうつな」などとほざくのは、ほんの一部の理解不能な人たちだけなのだろう。
甲府付近を通過した台風が埼玉県入りする。
テレビの地図でみると、中心は飯能と秩父の間らへんにあるように見えた。
そんなふうにわかるなんて、ほんとに埼玉人だと自覚する。
たぶん、地方の人は全国ニュースで見てて、埼玉、栃木、群馬の区別はつきづらいだろう。
体育館横のゴミ箱が倒れ、空き缶がちらばる音がする。
そんなに入ってなかったと思うのだが、全部きれいにしておくべきだった。
20:00過ぎ、急に風がおさまり、雨がやんだ。
こんなに通り過ぎた感があるとは。
けっきょく机まわりを整理したぐらいで終わってしまったなと思いながら外に出ると、空は明るく、風はあたたかいが湿気が減った。
南古谷ヤオコーに寄る。最近高くて買えなかった国産ブロッコリが198円だったので奮発し、お弁当用に4割引の冷食、半額になったお総菜を一品だけと、ふなぐち菊水一番しぼりの缶などを買って、よく顔をあわせるおねえさんのレジに並ぶ。
「もうやんでますぅ?」と尋ねるので、「うん、だいじょうぶ、やっぱりお客さん少なかった?」などと話し、こういう会話をきっかけにラブがめばえたなら「幸せの黄色いハンカチ」的だなと思ったが、それはない。
ほんとに可能性ゼロだろうか。予想もしてなかったことが起こりうることを学んだ私たちは、可能性自体を否定する必要はないのではないか。
しかし、受身では何もはじまらない。
自ら一歩踏み出すところに希望は生まれる。
A部門に出場しなければ、普門館のステージに立つ可能性はない。
A部門に出場さえしてれば、その可能性がゼロではなくなる。
スーパーの袋を下げて駐車場に向かうわたしの目に、普門館の黒いステージが浮かんでくる。
黒光りするその上に金管楽器がかがやいてみえる。
思うに希望とは、もともとあるものも言えぬし、ないものとも言えない。
それは地上の道のようなものである。
もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ(ねえ、はやく仕事にもどれば?)。
連休明けなので、車のなかでしっかり滑舌をやろうと思ってたけど忘れてて、案の定「舞姫」の音読はかみかみだった。
放課後、ちょっと長い会議があったので部活には最後だけ顔を出す。
夜、震災以来休止状態だったが再開した生活指導の研究会に参加する。
会の座長的先生の報告があった。
とある定時制高校の先生でいらっしゃるが、学校の事情で、この春から授業を1コマも持たない3年生クラスの担任をやらざるを得なくなった。
毎日のショートHRもないので、人数が少ないとはいえ、なかなか生徒のなまえと顔は一致しなかったそうだ。
1学期の終わりに、どうせ誰もノってこないだろうと思いつつ、夏休みにクラスできもだめし大会でもやるかと言ってしまったところ、ちょっと微妙にくいつきはじめたという話から始まる。
「やべ、本気にしてる子がいる」と思った先生は、「クラス行事だから半分以上は参加しないとだめだ」「きもだめしだから一泊はしないとな」とハードルをあげて、ないことにしようとするのだが、何人から参加希望のメールがとどきはじめる。
「キャンプするからお金もかかるぞ」「実行委員が出なかったらやめるよ」もクリアしてしまい、8月の終わりに12名の参加で、一泊の林間学校を行ったという。
小学校、中学校とほとんど学校にいってない子もいれば、留年している子もいれば、水商売の子もいれば、彫り物が入っちゃっている子もいる。
「先生、よくこのメンバーで泊まりにいけますね」と思わず言ってしまったくらいだ。
メイン企画のきもだめしは、男子7の女子5だったので、1チームだけ男子組になった以外は、くじ引きで決まった男女ペアで行われ、しかしそれは本当に怖いコース設定だったせいもあって、それまで一度も口をきいてないはずのペアが手をつないでゴールする光景もあったという。
「この学校でこんなおもしろいことがあるとは思わなかった」とか「先生、ありがとね」と送ってきたメールの文面を見せてもらいながら、ちょっとうるっとしてしまうくらいだった。
単位修得がうまくいくと、3年で卒業できるシステムもあるそうだ。
その該当者2名が、こういうのがあるなら来年もいようかなと言っているという。
「もう、やらねえよ。面倒くせえ」とその先生は生徒に言っているようだが、何かやるだろうな。
でも、年に一度あるかないかわからないイベントだけを心の支えにして、もう一年学校にいるなんてことができるのだろうか、とふと思った。
来年のイベントが目標なのではなく、今年のイベントでうまれた何かが、彼らをそういう気持ちにさせてるのだろう。
その「何か」が生まれるだんどりをするのが、われわれの仕事なのだろうとしみじみ思う。
「映画は虚と実のバランスが大事」とはわたくしの言葉だ。
虚を徹底的にちりばめていくことで、たった一つの実が表現できることもあれば、壮大な虚を描くために実を緻密にかつ地道に積み重ねていくこともある。どこまでも実を描いた結果、それが虚に見えてしまうこともある。
「アンフェア」でいうと、美人敏腕刑事「雪平夏美」という設定自体が相当大きな虚なので、彼女以外の部分は、けっこう気を遣ってつくりこまないといけないと思うのだが、ちょっと雑なつくりに思えた。
篠原涼子さんを観れればいいという方にとっては、たぶんこれぐらいでいいのかなと思う。
たとえば「ロックわんこの島」は、やや冗漫な作品だったけど、麻生久美子を観てるだけで満足できる自分にとってはいい作品であったように。
「探偵はBARにいる」は、大泉洋さんを楽しむには実にいい作品だ。
篠原涼子さんのシャワーシーンはサービス度が低かったが、大泉洋さんが着替えるシーンに見せた、驚くほどぜい肉のない身体には、キャーと言いそうになったから(うそです)。
情にあつく、けんかが強く、きれいなおねーちゃんに弱く、いつもBARでお酒呑んでいる探偵さんという、これも相当の虚を設定している。
起こる事件もけっこうウソくさいわりには、「アンフェア」より破綻なく出来ていたと思えるのはなぜだろう。
役者さんは、どちらも贅沢すぎるくらいのキャストなのだが。
たぶん大泉さんのビジュアルだな。
この設定で、チョーイケメンの男優さんが探偵役になったなら、いくらコミカルな場面をつくっても、まるっきりウソにしかみえないのではないか。
すべてをリアル側で設定すると、描かれる事件の中身が凄惨すぎて、楽しめなくなる。
原作は読んでないけど、ひょっとしたら原作者も喜ぶほどのハマリ役だったのではないだろうか。
怖いのか楽しいのか、ダークなのかあっけらかんとしてるのか、都会といっていいのか違うのかよくわからない札幌という町の雰囲気ともあいまって、けっこう楽しめる映画だった。
東京の歌舞伎町を舞台にしてたら、やはりこんなにほのぼのとは観てられないものになるはずだ。
場所の設定は大きいと思う。