今年の川越市技術講習会は大変な盛況で、中学生の申し込みだけで定員を上回り、当初高校生はなしにしようかという話もあったが、川越高校の先生のはからいで、高校生はバンドレッスンをしていただく形になった。
ただ、台風の直撃だけはいかんともしがたく、午前基礎合奏、午後に曲のレッスンというメニューは変更になり、午前中の二時間をつかって、呼吸法のレクチャーと、その理論を用いた合奏指導をしていただいた。
藤井完先生のお話が始まる。
「吹奏楽に指導には勘違いがいっぱいある。いっぱい吸えとか、息のスピードあげてとか言われたことある人? いるよね。息をそういう物理的なものと考えているところに問題がある」
やべ、たぶん昨日の合奏で言ってかもしれない。部員がおれの様子をうかがっているようなので、とりあえず「ごめん」と頭を下げておいた。
お話がすすむにつれて、自分の言ってきたことが全部否定されているわけではないことは気づいた。
とくに「歌うように吹く」というポイントは常日頃大事にしているつもりでもあるし。
ただ「歌うように」は比喩でもなく、観念的なものでもなく、純粋にフィジカルの問題にしないとだめだとおっしゃる。
となると、今日うかがって、すぐにできるようになるものでもない。
「息のささえとは、呼気時における吸気的現象のことだ」とか、「唇をふるわせるのではなく空気の波をつくる」とか、示唆に富むお言葉をいくつもいただいた。
もちろん藤井先生にとっては「示唆」じゃないんだろうけど。
これらを、ああ、そうかと思える、そして演奏に表せる子が増えれば、間違いなくバンドのサウンドは変わると思えた。貴重な機会だった。
午後、今日の講師の先生方の模範演奏を聞き、全員合唱をして閉会。
学校から、「最終バスを4時にして、その時点で生徒全員帰宅させる」指令が届いていたが、十分余裕をもって対応できてよかった。
昼を食べてなかったので山田うどんで、ピリ辛野菜汁そばを初めて頼んだら実においしい。山田うどんさんの奥深さに感じ入り、学校にもどって誰もいなくなった職員室でプリント手直しなどをしている。雨風はまだそれほどでもない。藤井先生の『朝練 管楽器の呼吸法』をアマゾンで注文してから帰宅しよう。
今年初めての学校説明会。例年より一ヶ月はやく設定した説明会で、初回はそんなに多くはご来校いただけないのではないかとの予想もあったが、ありがたいことに大講堂がほぼいっぱいになった。
全体説明のあとは個別相談会となる。今日からは具体的に数字を確認しながらの、いわば「生臭い」相談となる。成績的には現時点では厳しいと言わざるを得ない方もいたが、まだ九月、こんな風に勉強してみたらどうだろう的な話をし、ぜひがんばって受験してくださいと語る。
現時点で大変優秀な生徒さん、ぶっちゃけ本校は余裕の生徒さんも何組か話せたので、部活も勉強も両方やれますよ、塾行かなくても大学大丈夫ですよ、と例年以上に自信をもって語る。
いまや県立高校さんも進学体制の充実を宣言し、かなり本格的にそのとおりの体制を整えている学校さんもあるようだ。いわんや私立高校をや。ゼロ時間授業、七時間目はあたりまえ、進学クラスに入ったらまともに部活ができる空気ではない学校さんがあるとの話も聞く。
でも、どうなのかな。それって、学校の仕事なのだろうか。いやいや、よそさまのことにはあれこれ言うまい。
自分は自分のところに経営方針にしたがって、粛々と業務を遂行するばかりだ。準備は大変だが、喜びも大きい。
終了時刻は予想を大きく超え、合奏は15分くらいしかできなかった。こればかりはしょうがないよね。
保積さんという方のマンガ『式の前日』は、二回目がいい。一回読んで、そうかそういう関係だったのかと気づき、もう一度最初から読み直すと、一つ一つのセリフがよりしみてくる。
六つの短編を収めているが、たとえば表題作の「式の前日」。
古い大きな家の縁側にごろごろしている青年と、明日のドレスを着てみるから手伝えという女性。
席の配置はこれでよかったかな、料理のコースはBコースの方がよかったのかなとか会話する二人。
この二人が明日式を迎えるのかなと思わせるものの、何かテンションがちがくないかなと予感させる。
食事の場面になると、これからずっと食事をともにすることになる二人のやりとりではなくなり、実はこの二人は姉と弟であり、幼いころ事故で両親を失って二人で長年暮らしてきたことがあきらかにされる。
そうしてあらためて読み返してみると、「明日はちゃんと愛想よくしてよ」という姉のセリフや、「ごはん何にする?」と聞かれて「何でもいいよ、何でもおいしかったじゃん」という弟のセリフが …
ああ、やばい。職員室でパソコンうちながら、泣きそ。どうしよう。
きっと、ここをお読みの方は何なの? と思うでしょうが、だまされたと思って手にとってみてほしい(ただ、アマゾンもhontoも今在庫がないみたい)。週刊誌の広告を見てすぐ注文した自分の嗅覚のただしさに驚いた。
宅間孝行率いる「東京セレソンデラックス」さんをはじめて観たとき、あまりにも感動して、観た日の帰りに数日後のチケットを買い、二回目を観て一回目よりさらに泣いた。お芝居は二回みると、一回目では気づかなかったことがわかりより楽しいことも知ったけど、その感覚を思い出す。セレソンさんの「夕」も、音楽座さんの「シャボン玉とんだ、宇宙(そら)までとんだ」もそうだった。定演も二回公演とかいつかやれたらいいな。
1学年だより(インナーマッスル2)
スポーツトレーニングでインナーマッスルを鍛えると、どういういいことがあるだろう。
アウターのマッスル、たとえば上腕二頭筋(力こぶ)や大胸筋(胸板)を鍛えると、パワーがうまれ見た目もムキムキになる。
インナーマッスルが鍛えられたとしても、そのように見た目が大きく変化することはない。
しかし、プレーの質はあがる。
関節が安定することで、怪我もしにくくなるし、アウターマッスルの力をより強く、より効率的に発揮できるようになる。
身体のバランスがよくなり、瞬間的なキレのある動きができるようになる。
外見的な変化があるとしたら、なんとなく姿勢がよくなることだ。
そういう選手は、歩いているだけで美しく見える。
みなさんの年代であれば、骨自体のサイズの成長がかりにとまっていたとしても、身長を数㎝伸ばすことは可能だろう。
では勉強のインナーマッスルを鍛えると、どういう良いことがあるのか。
物理的な見た目は変わらない。
でも、よく見ると、なんとなく少し余裕があるように見える、顔がいきいきとして見える、というような変化になって現れる。
1時間目から6時間目まで集中して授業が受けられ、放課後の部活でもいい練習ができる。
わからないこと、できないことがあった時に、どうすれば解決できるかの手段を自分で発見し、その手段を実行にうつせる。
それが多少困難であっても、粘り強く取り組むことができるようになる。
勉強で鍛えられたインナーマッスルは、そのまま将来仕事をするときの力になっていく。
大人になると、少なくとも9時から5時まで働かないといけない。
先生の話を聞きながらうとうとするのは許されないし、宿題を出さないままではいられない。
ただ、就職したばかりの新入社員は一日しゃきっとしていること自体が大変であるのも現実だそうだ。仕事がこなせるかどうか以前に、きちんと目をさまして、しゃきっとしていられるかどうかのレベルだ。
それでも就活をのりこえて働き始めることができた若者はまだましかもしれない。
就職活動の段階で、それまでのインナーマッスルの鍛えられ方が現れてしまうものでもある。
エントリーシートをたくさん書いて、身だしなみをととのえて、面接を受けにいってという一連の活動が、面倒になって続かない若者がいる。
自分という容れ物が小さいままだと、内面的にも人は打たれ弱くなる。
面接がうまくいかなかったといって落ち込み、内定がとれないといってやる気をなくす。
自分にあった仕事が見つからないと嘆き、結果が出ないことを世の中のせいにする。
そういう気分が顔に表れた人を、会社側は積極的に採用しようとは思わないだろう。
容れ物を大きくするということは、自分に向いている仕事が増えるということにもつながるのだ。
急に涼しくなった。午後は中学校さんをまわる予定だったので、あつくるしくなくネクタイができてありがたい。
午前中に、漢文2こ、古文1こやってから、荷物を積み込み、いつものルートで回り始める。
旅のおともにしたCDは、まずマキタスポーツ『10年目のプロポーズ』。先日、ものまね番組で「ものまね大好きさん」というコーナーに出演してた。完全にプロになりきってない芸人さんが出るようなコーナーだったので、まわりの芸人さんから「こんなとこに出たらあきまへんがな」と言われてた。たしかに。
実力は折り紙付きだが、メジャーにならないのはなぜだろう。実力は清水みっちゃんクラスといっても過言ではないと思うのだが。そのマキタ氏が、「売れるJpop四つの理論」というのを考察してて、そのとおりに作ってみましたという曲。カノンのコード進行、「つばさ」「扉」「キセキ」「さくら」のキーワードをちりばめ、ごく私的な事情を盛り込むことでオリジナリティーを生み出す、みたいな理論。
聞いているとやはり笑ってしまう、きわめて上質のパロディだ。そこここにピリッとくる毒ももられている。そのものまね番組でやっていたのは、長渕剛がモーニング娘を歌ったらというネタだったが、ご本人さんが見てたなら、いい気分にはならないだろうし、まあお茶の間でほんわかした笑いを求める一般庶民には受け入れられにくいかもしれない。
マキタスポーツさんも含む東京ポッド許可局というユニット(と言っていいのかな)の『東京ポッド許可曲』。基本は語りのCD。
土気シビックウインドオーケストラ『華麗なる舞曲』。表題作ほか、「マゼラン」や「サザンメドレー」を楽しむ。
槇原敬之作品をいろんな歌手が歌ったアルバム『We Love Mackey 』。この手のアルバムはほんとたくさんあるが、これはクオリティが高い。juju「もう恋なんてしない」やmiwa「北風」、中村中「PENGUIN」がとくによかった。その日の体調や天気でいいなあと思える曲は変わるので、こういうカヴァーものは時に重宝する。
などを聞きながら、無事に担当中学校をまわり終えたので、明日はがっつり合奏させてもらおう。
学年だより「インナーマッスル」
~ 「仕事ができる人」というのは「たっぷりと手持ちの知識や技能がある人」のことではなく、「自分が知らないことを学び、自分に出来ないことが出来るようになる能力がある人」のことなのである。(Web「内田樹の研究室」より) ~
「仕事ができる力」を「学力」におきかえても同じことが言える。
学ぶことができる力を「学力」という。
自分に何が足りないかを把握し、貪欲にそれを補っていこうとする力。
先日の「合格体験談」の際に伏木先輩が話してくれた、「自分を客観的に見る力、深く論理的に考える力」はまさしくそれだろう。
自分には何かが足りない、それを埋めていかねばならない、という強い思いだ。
今の手持ちの能力や容量に基づいて、将来やりたいことを考えるのではなく、自分という容れ物を先に大きくすべきなのだ。
容れ物自体が大きくなっていれば、新しいことに取り組もうとしたときに、そのために必要な知識や技術を短時間で身につけることができる。
何かをやろうとするとき、それを最後までやりきる力を生むのも、その人の容れ物の大きさだ。
~ 全然畑違いの仕事だとしても、元の仕事で築いた下地があれば、そのノウハウとか考え方とかって何かしら使えると思うんですよね。私がよく行くホルモン屋「わ」の大将なんか見てると、ホントに野球部で死ぬほどキッい訓練したことが下地になってるなと思うもの。「最初の10秒でお客様の心をつかまなアカンねや!」とか言って、まさに体育会系の営業。あの人たちの基礎体力、インナーマッスルってすごいなって思うよね。やってきたことが一個もムダになってない。やっぱり甲子園まで行った人はパンパじゃない。「向いてない」とか「できない」とか絶対言わないもん。
それは別に単純な体力だけの話じゃなくて、たとえば勉強には勉強のインナーマッスルがある、と。それは〝リアル『ドラゴン桜』″みたいな学校再建を請け負う先生が言ってたんだけど、「できない子には勉強のインナーマッスルをつけなきゃいけない」って。たとえば板谷くん(ゲッツ板谷氏)みたいな元ヤンがライターやってられるのも、中2までのガリ勉だった時代に机に向かうのが一応身についてたからだって。仕事だって同じですよね。インナーマッスルがついていれば何とかなるはず。(西原理恵子『生きる悪知恵』文春新書) ~
容れ物の大きな人とは、インナーマッスルが鍛えられた人のことを言う。
勉強のインナーマッスルはどう鍛えればいいのか。
簡単だ。まず、授業時間中にきちんと姿勢を保つこと、寝ないこと、ノートをとること。
6時間すべての授業でこれができている人がいかに少ないか、みんなもわかっているはずだ。
けっこうな雨で交通手段に迷ったが、『ソロモンの偽証Ⅱ』を読み進めるという今日の第一目標に従って、JRで久喜に向かい、駅ナカのクイックガストで朝定食を食べて久喜高校へ。
指揮レッスンは『教程』を終えて新しい本に入った。たんなる腕の動きではなく、曲の解釈という新しいフェイズに入ったことに気づかないままだったので、こんこんと意味を教えていただくレッスンになった。
二十数年前、吹奏楽部顧問ではなく、たとえばサッカー部顧問を任命されていたなら、練習のない休日は審判の資格をとる講習会にでかけるような過ごし方をしてたかもしれないなんて考えながら駅までの道を歩き、大宮にもどりソニックシティでの塾説明会へ。学校ごとのブースで個別相談を担当した。
塾さんからいただいたプリントに「将来の職業観に基づく進路指導を行っています、成績面だけでなく将来の進路という観点でのアドバイスを、先生方も言葉で語っていただけるとありがたいです」とあった。
今は塾がそういうことまで考えて指導してるのかと感慨深く、そういうことならがんがん語っちゃいますよ思う。
高校入試は、なんといっても人生の大きな分かれ道になるイベントだ。
もちろん失敗したら取り返しがつかないとか、人としての価値が決まるとか、そんな意味ではまったくない。
ただ、勉強するタイプの人生を選ぶか、そうじゃないかの方向性については、けっこうな違いが生まれる。
同じ学力でも、どの高校に進むかによって、結果的に少しは勉強しましたという高校時代になるか、まったくしませんでしたになるかの違いは生まれる。
ある程度は勉強しないと入れない大学に進むか、勉強しなくても入れる大学に進むかの違いにもなる。
どの時点でも修正はきくのはたしかだが、今をいいきっかけにして少し本気で勉強しはじめてみたらどう? という話を何人かにした。
今のままではちょっと成績的に思わしくないという生徒さんが何人か見えたので。
話を聞くと、今までそんなに勉強してないという。夏休みになって塾にいきはじめ、少しやり始めたと。
でもよくよく話をきいていると、与えられた課題を解いて答え合わせだけしているようだった。
うちの生徒にもいるからはっきり言うけど、今のままじゃ成績あがらないよ、それでいい? 的な話をさせてもらい、がんばってみよう、よかったらうちにおいでとアドバイスした。
目先のことだけ考えれば、相談した生徒さんが本校に入学してくれるのが一番の営業活動なのだが、結果的にそうならなくても、ちゃんと勉強する若者が増えることは、今後の日本のためにならないはずがないから、そういう意味では自分も世の中に役に立っているかもしれない。
たんにお給料をもらうためだけでなく、何らかの形で他の人の役に立っていることは、働くモチベーションとしてきわめて大切なものだ。
学校にもどり学年だよりを印刷して、帰りがけマックによって『ソロモンの偽証Ⅱ』を読む。
ときどきアイスコーヒーを口にして呼吸を整えなければならないほどだった。
藤野涼子さん、萌えぇ。
今年の下半期ノーベル文学賞は宮部みゆきに決定だ。
この2学期、部を去って行った子がいて悲しい思いをしていたが、昨日新入部員が来た。
そうだよ、そういうことだってあるのだ。かたく握手をして、早速クラリネットでがんばってもらうことにした。
辞めていった子のひとりが、「時間の使い方として、部活をやり続ける分を勉強に使う方が、得られるものが大きいと思える」と話していた。部活や音楽が楽しくないわけではないけど、コストパフォーマンスがよくないという主旨だった。
なるほどね。楽器を練習してうまくなったとしても、そのうまさの度合いが数値化されるわけではないし、人間的に成長するとかいっても、目に見えて何かが変わるというわけではない。
それなら、同じ時間を勉強に費やし、点数や偏差値で成果を手に入れられるほうが、「やった感」「お得感」があるのはまちがいない。
いや、でも部活で「目に見えるもの」が手に入りそうだったら、その子は続けるだろうか。
たとえば、全国大会で金賞をとれそうなバンドだったり、部活でのがんばりが評価されて推薦で大学に行けたり。
その子の論理にのっとれば、その可能性が相当高いなら続けていくということになるのかもしれないから、そういう形での結果をつくってあげれない自分の責任が大きいと言わざるを得ないのだが。
ただ、目に見える結果や数値的な評価の獲得が、そして効率よくそうできることが一番だという考え方で生きることは、ほんとに幸せなのかなという疑問はもってしまう。
そういう発想だと、たとえば人を好きになれるか。
この人を好きになって、結婚にまで持ち込めれば、人としての幸せを手に入れられそうだ、よし好きになってみよう! と考えたりするだろうか。
一ヶ月交際して、プロポーズして、三ヶ月後に結婚してというスケジュールでいくのが一番効率がよい、よしこの路線で恋をしてみようと思うだろうか。
広末涼子はそうだった。「鍵泥棒のメソッド」で、そういうスケジューリングをして人を好きになろうとする涼子ちゃんを描いてた。
そして最後に、そんなのを超えた「きゅん」を設定した内田監督の手腕は見事だった。
あの映画を観た人がみな、帰りがけにいろんな人相手にきゅんきゅんしてしまうのではないかと思ったくらいだ。
計算とか効率で人を好きになれるものではないよ、部活も同じ面があるんじゃない、という意見に賛同してくださる方はいらっしゃるのではないだろうか。
じゃ、これはどうだろう。
この人とつきあってみようかな、かりにうまくいかなくても、そういう経験をすることによって、人として成長する気がする。よし、この人を好きになってみよう、恋してみよう!
これは「ありじゃん」と言う人もいると思う。
「自分を成長させる恋をしよう」とか、女性誌に書いてあるっぽくね?
でも、それは「恋」に失礼じゃないか。
自分の成長の手段にするなんて。
すいません、恋愛論を語るキャラでもないかと思うのですが、たとえなので。
部活も、それを通して成長する面は相当あると思うし、そういう部員たちの姿をたくさん目撃してきた。
でも、そうでない子だって、もちろんいる。だいたい自分自身が何か成長しているかといえば、特にない。
ひとつ言えるのは忍耐強くはなったとは思う。
人間的成長をするために部活をやる、そういう手段のためにやるという発想も、そんなに絶対的なものとうけとめなくていいような気がする。
そこに部活があったから、理由なく好きだから、やっている自分が自然だから、そんなんで十分だ。
効率などと言い出すと、けっこう真逆の位置にあるものだから、どんなに理屈を費やしてもうまく説明しきれない。
これは、「人はなぜ働くか」にもつながる重要な思考である気もしてきた。
前作「アフタースクール」から4年。ついにというか、やっとというか、待ってたことさえ忘れていた内田けんじ監督の新作を観た。純粋な疑問だが、映画監督さんて、ふだん何してるのだろう。4年間、この作品だけを作り続ける毎日だった? もしそうだとしたら、自転車操業の自分からはうらやましいかぎりだ。
でも、これだけの作品つくってもらえるなら、4年の生活費を税金から出したって何の問題もない。独立行政法人なんたらかんたらの役員さん一人分でおつりがくる。
パズルを精妙に組み立てていくような脚本、それを見事に血肉化していく、堺雅人、香川照之、広末涼子。
もちろん、脇の役者さんたちもいい仕事いている。おもしろくならないはずがない。
原作を映画化するのに秀でている監督さんは、オケ作品を吹奏楽アレンジするのが上手な方に、脚本を自分で書かれるタイプの監督さんは、オリジナルを作曲する方にあてはめることができるだろうか。
オリジナルの方がエラいという人もいるかもしれないけど、たぶんそうではない。
アレンジかオリジナルかに貴賤はないが、結果としてできた作品に優劣はある。
今年観た映画で、アレンジ系の最高が「桐島、部活やめるってよ」で、オリジナルの最高がまちがいなくこの「鍵泥棒のメソッド」だ。このレベルになってしまうと嫉妬心さえわかない。
先の連休に、「劇団だっしゅ」さん本公演に出かけた。星華祭演奏をおえて学校にもどり、その後新河岸に車をおいて大塚の萬劇場へ。18:30の開場直後に到着し、自由席だったので前から3列目に陣取りチラシを見ていると、たぬきの着ぐるみを着た星さん、平川さんという中心の役者さんが前説で登場する。開演10分前だ。避難誘導について、劇団からのお知らせ、団員さんの暴露話を聞いていると、2回目なのに結構何度も来てるような気分になってきた。そのまま本編がはじまり、終わって携帯を見たら21時55分。長かった。小劇場の休憩なしお芝居で3時間を超えることは普通考えられない長さだ。開演前にビールのんだりしなくてよかった。
でも、その物理的長さほどには長く感じなかった。お笑いパート、シリアスシーン、一息ついて体操するコーナーなど、あまりにもりだくさんだったから。
今年のお芝居は沖縄がテーマだった。東日本大震災を舞台化した昨年の舞台をたまたま見てファンになった劇団さんだが、今年も重い話題でありながら、ひとつのエンタメ作品として見事に成立させていた。
どういう方が本を書いてらっしゃるのかはわからないが、相当な力業だ。
もちろん、もっとすっきり書くこともできないことはないだろう。
ちりばめられた下ネタも、そこまで必要なくない? と受け取る人もいるだろう。
でも、この過剰さは、これでひとつのスタイルだと受け止めるしかない。
おしゃれな芝居を指向する劇団はいくらでもある。
少ない言葉で、思わせぶりな台詞で、何か深遠な哲学を表現しているかのように見せようとする劇団さんもある。
翌日に鑑賞した「柿喰う客」さんの「無差別」というお芝居は、そういうふうに見えた。
きわめて高いスキルとフィジカルをもつ役者さんたちが、計算され尽くしたセリフを発し、鍛えられた身体表現をみせてくれる。開演前のアナウンスの通りの77分間のお芝居。
途中で誰かがしくじったら、どう挽回するのだろうと思うけど、役者さんたちはそんなことを想定もしてないように見えた。
だっしゅさんは、たぶん「しくじり」いっぱいあったと思うな。
むしろそれを楽しんでアドリブ返しをしているように見えた。
そういう意味で、対照的な2つのお芝居を見れてよかった。
そしておれ的には、「柿食う客」さんの洗練とはほど遠い「だっしゅ」さんの過剰な具体に、ぐっと心を奪われた。
「沖縄がテーマだった」と書いたけど、国語の先生的にはそう言ってはいけないかもしれない。
アメリカから日本に返還されて40年。たしかに本土に行くのにパスポートはいらなくなった。車も右側通行から左側通行になった。40年前に。
でも、ほかに何か変わっただろうか。島の何割かを占める米軍基地。基地に依存する経済。
島民が米兵に乱暴されたり、米軍機が落ちて死傷者が出たりしても、泣き寝入りするしかにない沖縄の現実は何一つ変わっていない。
本土の人間は、ほんとにそういう現実をわかっているのか、報道されているのか、と劇中のウチナンチューが語りかけてくる。
もちろん、島民全員の意見が同じ方向を向いているわけではない。たとえば普天間基地をどうしたいかについても、遠く他人事のようにしか思えないわれわれ本土の人間には想像もできないほど、いろんな考え方があるだろう。
この作品で訴えられた内容イコール沖縄の人すべての気持ちと受け取るのも危険だ。
でも、あまりに何も知らなすぎではないのかという問いかけには、頭を垂れるしかない。
その歴史と現実を考えれば、県民のなかに反米意識が根付いているのはある意味当然ともいえる。
だからアメラジアンとよばれる米軍兵と現地女性との間に生まれたハーフの子は、差別の対象になることもある。
まして、米軍兵に暴行されて、その結果妊娠し生まれた子がいたなら、厳しい人生を過ごすことになるのは想像に難くない。
じょーじとよばれる登場人物が、そういう設定だった。
このじょーじを演じたのは北本哲也さんという方だが、存在感がはんぱなかった。
佐藤健くんを少しきつめにした感じのイケメンさんで、なにかのきっかけでメジャーなシーンに出れたならブレイクしちゃうんじゃないだろうか。男優さんにときめくのは、堤真一さん(きゃっ)以外では何十年ぶりだろう。
沖縄のかかえる問題がそのまま「人」化したようなじょーじ。彼が厳しい現実を生きていきていけるのは、支えてくれる仲間がいるからだった。
アメリカ軍に一泡吹かせてやろうぜと言って、米軍基地内に忍び込んで花火をあげる計画を立てる地元の青年たち。こうやっていっしょにバカやって笑ってられる仲間がいるから生きていけるんだと叫び会うシーンは、ちょっとこらえられなかった。
こっちの方をテーマと言うべきなのだろう。
ある事情のせいで、好き同士でありながら結ばれることができないとわかり、心中を決意して沖縄にやってきたカップルがいる。じょーじたちグループと接し、いっしょにその作戦を遂行する過程で心がつながっていく。
つらい現実も、死で精算するのではなく、生きてさえいれば希望の光が見える日がくるはずだと思えるようになる。
お芝居の根底にあるのはやはり、友情や希望や愛といった、人間の心の中心をなすものだ。
言葉にすればほんとにありきたりなものだけど、その感情があるがゆえに人は人たりうる。
でも、そのまま言葉にすると、ときに陳腐に見えてしまう危険性もある。
最近の若者が聞いている、ちょっとラップ風の歌謡曲って、友情とか愛情とか直接言い過ぎると思いません?
だから、根源的な感情を表現しようとするなら、直接そう言うのではなく、説得力のある具体を積み重ねていく必要がある。やり過ぎという人もたぶんいるだろうけど、「だっしゅ」さんのアツさは十分に伝わった。