学年だより「現実(2)」
1978年、隈研吾氏は事務所を構える。32歳だった。
ときはバブルの真っ盛りである。若き隈氏にとっては分不相応と思われる依頼が、次から次へと舞い込んできたという。
しかし、みなさんも知っているように、90年代に入ってバブルがはじける。
オイルショックの後、「これからは建築の時代じゃない」と言われたのと同じ空気が、日本中に広がった。90年代の十年間、東京での仕事はゼロになってしまった。
~ … 皆からよく「嘘でしょう」と言われるんですが、本当の話です。それで「こんなに時間があるのなら、とりあえず心配事はすべて置いて全国のいろいろなところを旅してみよう」と思って。地方の町や村を回り始め、その中でポツポツと小さな仕事をいただくようになったんです。
94年に手掛けた高知県檮(ゆす)原(はら)町の地域交流施設は「公衆便所でもやってもらえますか」と町長に声を掛けていただいて始まったものです。予算は僅かでしたが、職人さんと酒を酌み交わしながら構想を練り、地場の素材や土壁を最大限に活用することで誰も試みたことのない方法があることが分かってくるんです。どんな小さな仕事でも楽しんでやれる自信がついたのはこの頃ですね。
それに、地方の木造建築の保存運動などいろいろなことに取り組む中で、「あっ、俺がやりたかったのは、田舎の木を生かした建築だったんだ」ということに気づく機会ともなりました。
… この十年間の体験があったおかげで、僕は仕事が来ないことが怖くありません。身の丈に合ったサイズの仕事さえやっていけば満足できる。仕事がないのは、むしろ一つのチャンスだと前向きに受け止められるようになりました。
だから、いま講演などを通して学生に言うんですよ。「仕事がないことが君たちにとって一番のチャンスかもしれないぞ」って。忙しい時は期限に追われてあまり考える時間が持てない。仕事がない時こそ、じっくり試したり考えたりできるチャンスだ。それが建築家にとって一番のことなんだと話すと、「そういう話はいままで誰からも教えてもらったことがありません」という答えが返ってきます。僕の話の中で学生が一番頷(うなず)いてくれるのは、実はその部分なんです(笑)。 (隈研吾・栗山英樹対談「磨(ま)すれど磷(うすろ)がず」「致知」4月号) ~
自分も人生が最初から最後までうまくいったという人は、おそらく誰もいない。
物事が思うようにならないとき、苦しいとき、つらいとき、不平不満を言うだけなのか、何かのチャンスかもしれないと少しでも思えるのとでは、同じ経験が全く違う意味をもつことになる。
東京での仕事がなくなったことはかえってチャンスだと、隈氏は地方を旅してまわり、新たな自分を見出すことができた。そのおかげで今の隈研吾氏がある。
「現実」とは、客観的にそこに存在するものではなく、自分がどう捉えるかによって、その姿が異なる、きわめて主観的なものだといえる。その現実を積み上げたものが、未来の形になる。