「ブラバン!甲子園」の10周年記念盤
http://www.universal-music.co.jp/braban-koshien/news/2017/07/20_news/
“歌がうますぎる女子高生”鈴木瑛美子が「栄冠は君に輝く」を歌唱!(必聴! リハーサルで聴いた瞬間、生まれてはじめてかなわないと思いました)
かけ声の監修は高校野球応援研究家としても知られる梅津有希子氏、
そしてその指導を受けたかけ声は、本校吹奏楽部員が担当しました!
「ブラバン!甲子園」の10周年記念盤
http://www.universal-music.co.jp/braban-koshien/news/2017/07/20_news/
“歌がうますぎる女子高生”鈴木瑛美子が「栄冠は君に輝く」を歌唱!(必聴! リハーサルで聴いた瞬間、生まれてはじめてかなわないと思いました)
かけ声の監修は高校野球応援研究家としても知られる梅津有希子氏、
そしてその指導を受けたかけ声は、本校吹奏楽部員が担当しました!
川越東高等学校vs川越工業高等学校
7月21日(金) 10:00開始予定
場所:上尾市民球場
3対7で惜敗いたしました。
応援ありがとうございました!!
学年だより「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3(3)」
「駅伝」なるレースが、この大会をきっかけに日本中に広まる。マラソンよりも駅伝の方が多くのランナーを生み出すという金栗の目論見はあたった。
その後企てた「アメリカ大陸横断駅伝」は、さすがに実現しなかったものの、その予選会として開催した「箱根駅伝」は今も形を変えて受け継がれている。
こうして、さまざまな形で日本の長距離走の歴史を作り「マラソンの父」と称えられた彼の、唯一心残りはストックホルムオリンピックだった。
1967年(昭和42年)、思いがけない知らせがストックホルムから届く。オリンピック開催55周年行事に金栗を招待したいというのだ。
金栗は、完走できなかったオリンピックの後も、自分を介抱してくれた「ペトレ家」の人々に感謝の手紙を書き、交流を続けていた。また陸上競技への尽力も国際的に知られていたのだ。
「あなたはマラソン競技で行方不明になったままなので、ゴールしに来てください。」とも手紙には書かれていた。金栗は喜んでこの要請を受け現地に向かう。
~ オリンピック委員会では、スタジアムに正式のゴール・テープを用意していたようだ。そのときの写真がある。彼はレースからほぼ55年経って、やっとそのテープを切ったのだ。
そして会場にアナウンスが流された。
「日本の金栗四三選手、ただいまゴールインしました。タイム54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3」そして、さらにもう一言。
「これをもちまして、第5回ストックホルム・オリンピック大会の全日程を終了いたします」
拍手に包まれ「ゴール」したあとの金栗四三選手のコメントも残されている。彼はこういっているのであった。
「――長い道のりでした。その間に、孫が五人できました」
会場からは大きな笑声とさらに大きな拍手が沸いた。 (佐山和夫『箱根駅伝に賭けた夢 消えたオリンピック走者金栗四三がおこした奇跡』講談社) ~
金栗四三氏は、自らは走れなくなった後も、大会のスタート地点でピストルをうち続けた。
金栗選手の名を冠したレースは今も多数残り、箱根駅伝の最優秀選手には金栗賞が贈られている。
すべては、ストックホルムでの失敗から始まったのだ。
92歳でこの世を去った金栗氏は、人生のマラソンは見事に完走した。
人生全体をマラソンに喩えるなら、大学受験の一年間は、そのうちのほんの一部だ。
一日一日が小さなマラソンで、その積み重ねが人生のマラソンになる。
心が折れそうになったときは、金栗氏をモデルにした「グリコ」のゴールインマークを見て、また走り出そうではないか。
学年だより「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3(2)」
帰国後、陸上競技の裾野を広げることが第一と考えた金栗は、全国の学校関係者に手紙を書く。
マラソンを通じて体力と気力を養うことが、若者の成長につながる、必要ならばいつでも出向いて指導する旨を切々と綴り、師範学校の先輩たちや、各地の校長に送った。
実際に訪れた学校は全国60校に及び、全国各地でマラソン大会が催されるようになった。
郷里の熊本県玉名市には、当時金栗の記した「マラソン十訓」が残されている。
~ 一、規則正しき生活をなせ。
一、全身の強健を計り忍耐力を養え。
一、速度は緩より急に、距離は短より長へ。
一、感情の昂奮を抑へ、精神の平静を保て。
一、過労を避け早く寝て熟睡せよ。勢力を浪費するな。
一、滋養物を摂取せよ。暴飲暴食を慎め。
一、酒、煙草の類は必ず厳禁せよ。
一、練習は細心に、競走は大胆に。
一、競走年齢は十七、八歳より三十五、六歳迄が最も適当。
一、競走は最後迄堂々、力を尽くせ。 ~
「競走」を他の競技におきかえても、いや「試験」や「仕事」におきかえても通用する本質的な教えと言えるだろう。もちろん自らも走り続けた。
1913年(大正2年)、日本初の全国大会である第1回陸上競技選手権大会では、2時間31分28秒で優勝する。まだシューズなどなく足袋で走っている時代である。
翌1914年の第2回大会では、2時間19分30秒にまで縮めた。当時の世界記録に匹敵する記録だった。金栗自身も、周囲も、次のベルリンオリンピックへの期待を高めた。
25歳で迎えるオリンピック。彼の競技人生で最も充実した時期であろう。金栗自身の精進の度合いも鬼気迫るものがあったという。
1914年、ベルリン郊外には、二年後のオリンピックに向けての新しい競技場が完成していた。
新設の競技場でまさに全ドイツ大会が行われようとしているとき、サラエボ巡幸中のオーストリア皇太子が、セルビアの青年に暗殺されるという事件が起きた。
このサラエボ事件がきっかけとなり第一次世界大戦がおこり、ヨーロッパ全土に戦乱が広まっていくことはみなさんもよく知っているとおりである。第6回ベルリン・オリンピックは開催されず、リベンジを期す金栗の夢はさらに四年後へと先延ばしされることになる。
しかし、金栗はくさることなく、精力的に活動し続ける。
「東海道五十三次駅伝」を企画したのもこの頃である。
京都三条大橋から上野の不忍池までを23区間にわけ、宿場駅の間を伝馬のように人間がリレーし、昼夜兼行で走り抜こうという企画だ。ぶっちぎりで優勝した「関東チーム」のアンカーは金栗本人だった。東京に入ると、金栗の走りを一目見ようとする人々で沿道はあふれたという。
学年だより「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3」
現在、マラソンの世界最高記録は、デニス・キメット選手(ケニア)がベルリンマラソンでマークした2時間2分57秒だ。
日本が初めてオリンピックに参加したのは、今から105年前、1912年に開催された第5回オリンピックのストックホルム大会である。当時は、2時間50分ぐらいがマラソンの優勝タイムだった。
マラソン初代表は、高等師範学校(現筑波大学)二年生の金栗四三(かなぐりしぞう)選手。
明治24年(1891年)熊本県の農村に生まれ、幼いころから成績優秀で、特待生として上級学校に進学し、田舎の山道で足を培い、長距離走が大好きだった。
明治45年5月、多くの人に見送られ、金栗選手は旅立つ。
敦賀港からソ連のウラジオストクにわたり、シベリア鉄道で十日間かけてモスクワに向かう。
バルト海を船で渡ってストックホルムに着いたのは、日本を出てから16日後である。
スウェーデンときくと、北欧の極寒のイメージがあるが、夏は白夜が続き、気温は高くなる。
長旅の間ろくに練習はできないし、食糧も充分ではない。マラソンのレースが行われた7月6日は、異常気象とも言えるほど気温は上がっていた。
68人の選手が出場し、完走できたのは34人だったことでも、それがわかる。
日本の予選会で出していた記録から考えて、金栗選手も十分に結果が残せるのではないかと考えていた。周囲の期待もあった。
スタートのピストルがなる。すると、予想をはるかに超えた猛スピードで飛び出す外国選手たちの集団から、あっという間に離されていく。
中盤に達するまでに何人かは追い抜いたものの、折り返し地点を過ぎたあたりで力尽きた。コースをはずれ、「ペトレ家」の庭にふらふらと入り込むと、そこで意識を失った。
ペトレ家の人に介抱されて翌日まで過ごすこととなり、レース棄権が本部には伝わらず、「日本人選手は行方不明」という記録が残ることになったのである。
意識をとりもどした金栗選手は、「大敗後の朝を迎う。終生の遺憾のことで心うづく」と日記に記している。しかし、直後に「しかれども失敗は成功の基」「恥をすすぐために粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」とも決意する。
帰国後は、その言の通りに粉骨砕身した。
自分が負けた原因はどこにあったのか。体調管理と実力そのものにあったことは言うまでもないが、根本的には国としてマラソンにどう取り組んでいたのかが一つの形に現れたと考える。
いや、どう取り組んでいたかというより、取り組みは無きに等しかった。
長距離の練習方法を学び、広め、競技人口を増やしていくしかなかった。
海岸での耐熱練習、心肺機能の充実をはかる高地トレーニングなど、現在のマラソン界につながる様々な試みを行っていく。練習が孤独にならないように、また同時に多くのランナーを育てるために、チームでに練習を奨励した。そしてチームによるリレー形式の大会も企画し、「第一回箱根駅伝」として結実した。
後に、日本の「マラソンの父」とよばれるようになった金栗氏の人生は、オリンピックでの惨敗、「行方不明」から大きく変わった。
三回戦 川越東高校vs本庄第一高校
7月16日(日) 9:00開始予定
場所:熊谷公園球場
二回戦 本庄高校さんに8対6でかつことができました
ありがとうございました
新アレンジ応援曲けっこう用意してます
学年だより「35㎞地点(2)」
試験おつかれさまでした。マラソンに喩えれば、最初の給水地点ぐらいに達したところだろうか。
この先、長い「上り」に入っていく。一見ゆるやかに見えるが、相当手強い。
ふと気がつくと、思うように進んでいないと感じるようになる。勉強量は圧倒的に増やしているのに、結果がついてこないという時期が必ずおとずれる。
ここを乗り切ることでメンタルの力が蓄えられる。
35㎞地点から一歩前に出て行けるかどうかは、練習と生活の積み重ねにかかっている。
~ ふだんの生活には、二つあります。
一つは、健康管理。もうひとつは、メンタル管理です。
Jリーグ最年長ゴールを決めた横浜FCの三浦知良選手は、「点を取ることより、ベストコンディションで試合に臨めるように健康管理をすることの方が、遥かに難しく、大切だ」とおっしゃっています。
試合での結果は、試合での努力だけでは、出ないのです。
試合での結果は、試合のない日の生活で決まるのです。
「努力は裏切らない」という鉄則は「生活は、裏切らない」ということでもあるのです。
ふだんのメンタル管理とは、たとえば、ふだんから、ちょっとしたことでムッとしないということです。
ふだん、すぐムっとしている人が、試合だけムッとしないようにすることはできないのです。
ふだんでも、ムッとするような出来事は起こります。そのとき、ムッとした気持ちを切り替える自分なりのルーティンを研究することが大切です。すべての人が同じやり方でありません。
せっかくムッとすることが起こったのだから、『こんな風にしたら、気持ちを切り替えることができるかな』と、試行錯誤してみるのが、ふだんのメンタル管理です。 (中谷彰宏「メンタルで勝つ方法」ボウリングマガジン5月号) ~
受験はメンタルも鍛える。いや、鍛えられる勉強をしなければならない。
~ 音楽家ってしあわせな職業だ。人生にひとつも無駄なところがない。つらかったことも、悲しかったりさびしかったりしたことも、人を恨んだことさえも、みんな血肉になる。いいところも、悪いところも、私は私で、私から生まれる音楽はどう転んでも私の音楽だ。立派なところだけじゃなく、駄目なところも含めて、どう生きてきたか、どう生きていくか。 (宮下奈都『よろこびの歌』実業之日本社文庫) ~
「音楽」は、何にでも置き換えることが可能だ。音楽をつくるのも、絵を描くのも、文章を書くのも、その人自身だ。スポーツの試合における一瞬のすばらしいプレーの背後には何千時間、何万時間の蓄積がある。その人の生き方が自然に現れる。もちろん勉強も同じだ。
ハイレベルな実力をつけたい生徒さん向けに、駿台さんのある問題集を先日紹介した。
書店では扱ってなくて、学校採択のものなのだが、学年全員で購入するには難しすぎるかなというレベルの問題集。個人的にはこれくらいの無理なら、してもいいとは思うのだが。
「君たち、この740円の投資は、数万円の価値を生むよ」と授業をもってるクラスであおってみたら、そこそこ購入希望があった。
でも、一冊をきちっとやりきることで力をつけたなら、結果として得られるものは数万円どこではないのかもしれない。
今日の進学説明会では、一般入試ではセンター利用入試含めて15校出願するつもりで準備してほしい、お金の用意をおねがいしますと話した。
たしかに受験するだけで30万円近くの費用がかかってしまうが、その結果希望する大学に行ける場合と、そうでない場合を考え合わせたとき、大学生活だけでなく、その先までを視野に入れるならば、ある程度の投資はむしろ積極的に行った方がいいとも思う。
ビリギャルのさやかちゃんが慶應に受かった要因はいろいろある。金髪の不良JKでも、地頭のよさはあったはずだし、それだから坪田先生の教えを吸収していくことができたのだろう。
ただし、坪田塾に通う百万円超の費用を、お母さまが出すと決断しなかったら、たぶん金髪ギャルのままだった。そしたら有村架純ちゃんの映画も、第22回定期演奏会二部「学年ビリのギャルが慶應に!?JーPOP最新ヒット曲メドレー」もうまれていなかった。
本校の生徒さんは恵まれてるなと思うのは、実質受験料と交通費でいくらでも受けに行けるという点だ。
故郷の友人たちが、わが子を都会の大学に通わすのに、どれだけお金をかけていることか。
でも勉強と経験への投資は、金銀財宝土地に対するそれより、変化量は実は大きい。唯一のローリスク・ハイリターン商品ではないだろうか。
物語は「意味」と言い換えられる。
朝起きて、顔を洗って、ごはんを食べて、学校に行って … という日常の行いには、実は必然的な意味がないと、内田樹先生の本に書いてあった。
たしかに、起きたからといって必ず顔を洗う必要ではないし、毎日学校や職場に向かうのは、そうするものだと漠然と思っているだけであって、ヒトという一個体が生命を維持するための必然でもなんでもない。
だから、われわれは解釈し、物語をつくり、意味を見いだそうとする。
何もなく生きるのがつらいと思うような大脳をもってしまったがゆえだ。
こんな脳をもつことが、ヒトにとって幸せだったかどうかはわからない。
あまりにもいい耳をもってしまったがゆえに音楽を楽しめないとか、あまりにも嗅覚がすぐれているがゆえに夏の電車には乗れないとか、他人の心を感受する力が強すぎて集団に入っていけないとかの「不幸せ」感と似てて。
あまりにも自意識が強くなりすぎたゆえに生きづらくなったヒトを描くのが小説だと言えるかもしれない。
~「生きてきた意味なんて、ないよ。俺はそう思ってる」
思いがけない言葉だった。
「それじゃあ生きるのもむなしいね」
そう返すのが精いっぱいだ。
「そうかな、俺たちは、意味もなく生まれてくるんだと思うよ。意味もなくもがいて、意味もなく死んでいくんだ」
私は何度か瞬きをして、目の前の人をよくよく見た。奥野さんの顔をして、奥野さんの声をした人が、何かよくわからないことを話している。意味もなく生まれて死んでいく私たち。それは、もしかしたら事実かもしれない。でも、事実じゃないかもしれない。だって、私と奥野さんがこうして出会って、時間を見つけてはときどきふたりで過ごすことに何の意味もないなんて、考えるのはさびしい。さびしすぎる。
「だから、いいんだ」
冷たい地酒をひとくち飲んで、奥野さんはやっぱり笑顔だった。
「何がいいの?」
「好きなように生きればいいってこと。誰かのために、何かのために、って考えなくても、どうせもともと意味なんてないんだ。自分がいいと思うとおりに生きればいいと俺は思うよ」
意外だった。そんなふうにも考えることができるんだ。
「えっと、つまり」
私は頭の中で奥野さんの言葉を反芻する。
「生まれてきた意味は、自分で好きなようにつくればいいってこと?」
「そうだよ。意味なんて、後からつければいいんだ」 (宮下奈都『終わらない歌』実業之日本社文庫) ~