水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

週末

2015年10月31日 | 日々のあれこれ

 

 LHRの時間は、1、2年生合同集会で、「認知症について学ぶ」という企画だった。
 介護支援に従事されている新所沢清和病院の有井先生に来校していただき、認知症とはどういうものか、どう対応すべきかというお話をしていただいた。
 細かい内容は資料を読んでもらって、根本的なことだけ話しますね、というスタンスで大変わかりやすかった。
 とくに心に残ったのは「認知症であっても感情は同じ」ということばだ。
 認知症であっても、感情は動く。喜びも悲しみも。腹が立つこともあればむかつくこともある。
 出来るはずのことができないとき、自分に対して腹が立つこともあるだろう。
 そんなとき、教えてやる、助けてやるという姿勢で接しられたらどう思うかということだ。
 「自分が認知症になったとき、もしくは自分の大切な人が認知症だったとき、他人からどう接してほしいか、それを考えることがすべての始まりではないか」というお言葉に深く納得した。

 1 驚かせない  2 急がせない  3 自尊心を傷つけない

 認知症の人への対応の三つの心得と紹介されたこの言葉は、他人と接するにあたっての心得と一般化しても何の問題もない、というか大事な三つではないか。
 とくに私達が生徒さんと接する際に気をつけないといけない。
 教師と生徒は制度上の上下関係はあるけれど、それを人としての上下と勘違いしてしまいがちだから。
 「こんなこともわかんないのか」「できないのか」というニュアンスで声を荒げたりしてはいけない。
 もちろん気をつけてはいるつもりだけど。
 授業中ほとんど出さない大声を部活では発してしまうけど、それは「ちゃんと練習してきたらもっとできるはずだ」「こんなことを乗り切れない君ではないはずだ」という気持ちで言っているつもりだが、ちゃんと伝わっているかどうかは自信がない。

 午後は、「にじの家」ふれあい祭りに向けての合奏、楽器のレッスンなど。
 レッスンの先生をお送りし、少し遅れて「吹奏楽部保護者会懇親会」へ。
 駆けつけ三杯で歌わせていただいたのは「365日の紙飛行機」で、好評だった(と思う)。
 座席を示す紙が似顔絵入りで置いてあったのだが、なんかいい人っぽく書いてくださっててうれしくて、大事にとっておこうと思った。
 みなさま、ありがとうございました。

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高校生の政治活動

2015年10月30日 | 日々のあれこれ

 

 中国が一人っ子政策を転換し、二人目をつくってもいいことになったという。きっと歴史上の大きな転換点を迎えているのだろうと思うと同時に、どちらにせよ、あらためてすごい政策だと感じる。
 少子化が問題になっている日本で、逆に二人以上必ず子どもをつくることという法律が制定されようとするなら、どれだけの反発があるだろう。何歳までには必ず結婚すること、とか。
 同じレベルのことあの大国で実施しているということ自体、ある意味エラい。よくみんなついていっている。

 文科省の「高校生の政治的活動を部分的に認める」という通達も、同じように感じてしまった。
 ていうか、高校生が政治的なことをしてはいけなかったと今知った。
 1969年、つまり大学生の学生運動が盛んだった時期、高校にも広がりを見せようとして、「望ましくない」という通達が出されたという。
 そんな生まれてもいない頃の話は知らないが(うそぴょん)、高校生も大学生みたくアツかったのだろうか。
 もちろん、都会の、かぎられたいくつかの進学校だけに見られた状況だったというのが現実だったとは思うけど。
 仮に、大学生のようにバリケード封鎖を高校生がしてたなら、文部省が通達をだしたところで言うことを聞かなかっただろう。むしろ不法占拠とかの普通の法律にのっとって対応すればいい。
 暴力的な授業妨害など、政治的活動ではないのだから。
 逆に法に触れない行いなら、それが政治的な活動であっても、勝手なのではないか。
 子ども何人つくろうがほんとうは当人の勝手であるのと同じで。
 むしろ、積極的に政治について考え、行動までする生徒がいるくらいの方が学校に活気が生まれる。
 勉強ばかりする子もいれば、部活命の子もいればいい。
 だめって言われたら、「日本の社会を考える会」とかつくって部活動にしてしまえば活動しやすい。
 考えてみると部活動の方が、よほど本来的な学校生活に支障をもたらしている部分がある。

 高校生の政治活動について我々ができることがあるとしたら、やはり論理的に考える力をつけることを第一に考えるべきだろう。だから、直接それに役立つ国語の勉強こそ大事だ。
 そうすれば新聞やテレビの報道を見て、「何が正しいのだろう?」と疑問をもてるようにもなる。
 評論文を読むと、名詞の意味は実に多用であることを学べる。
 「だから」「しかし」といった接続詞は、記号的にかぎられた意味でしか使われないが、たとえば「民主主義」という言葉は、筆者によって様々な意味に変わる。「正義」「真実」のような言葉の意味も人それぞれだ。
 自分の頭で考えた結果の行動は、極力あたたかく見守ってあげるのが大人の仕事で、しかしそれがあまりに浅はかなものであったら、そう指摘するのも大人の仕事だ。

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ギャラクシー街道

2015年10月29日 | 演奏会・映画など

 

 放課後、仮予約状態だったウエスタ川越に出かけ、正式で使用申請をしてきた。
 来春3月25日(金)に、第24回定期演奏会を開催する。
 震災で開催されなかったまぼろしの定演が一回あるので、やりはじめてから25年、四半世紀になるのだ。
 上福岡勤労福祉センターで第一回を開いたときには、25年後も同じことをやっているなどと想像さえしなかった。 ただ、会場が極端に立派になった。平日利用で、かつ一階席だけ使用の形で申請したけど、費用は例年にくらべ相当にかさみそうだ。来年の男祭り以前に、まず自分達の演奏会をきっちり運営する方法を考えないといけいない。
 学校にもどって練習の最後に顔だけ出して、帰りがけに南古谷ウニクスで「ギャラクシー街道」を観る。
 いい評判を聞いていなかったので、不安な気持ちで出かけたけど、いやいや、ちょー楽しかった。

 宇宙への航行が日常になっている未来、地球と木星、土星を結ぶ幹線航路であるギャラクシー街道沿いにあるハンバーガーショップが舞台。
 長年の夢をかなえてハンバーガーショップを開いた香取慎吾くんが店長で、奥さんが綾瀬はるか。
 香取君は以前小さな劇団を主宰し、そこの看板女優の優香さんとつきあっていた。
 しかし、彼女のハンバーガーの食べ方が気に入らなくて別れを決意し、逆に劇場でアルバイトしていた綾瀬はるかさんが、ハンバーバーをあまりに幸せそうに食べている姿を見て惹かれてつきあいはじめる。
 ハンバーガーは、地に足のついた生活をするための生活のたつきの象徴なのだろう。だから二人の髪型も絵に描いたように対照的にしてある。小説における「象徴」の基本を教えるのにいい素材かもしれない。

 ちなみにこの回想シーンは、下北沢のスズナリで撮影されていたが、みなさん、スズナリのような箱でお芝居をしたことないような方ばかりだな。
 芝居から足を洗って自分の店を持ってはみたものの、モータリゼーションの変化に対応出来ずに、店には閑古鳥が鳴いている。
  店を出したころは希望にあふれ、明るい未来を信じていた夫婦の仲も、経営の悪化とともにすきま風が吹き始め、お互いの行動や気持ちに疑心暗鬼になる。
 そこへ昔つきあっていた優香がお金持ちの旦那と二人でやってくる、といった実に今風な展開が用意されている。

 郊外型の大きな店、たとえばファミレスとか、スーパーマーケットとか、パチンコ店が、男女間のビジネスの現場として使われる現実が、おもしろおかしくではあるが盛り込まれているのは、ただのファンタジーにはしたくない思いだろう。
 舞台設定は突飛でも、描かれる場面、人物はそのまま現代人であり、等身大のわれわれに与えられている試練や、葛藤だった。登場人物の全てに与えられた様々な「勘違い」も。
 「昔つきあっていたあの女は、まだオレに惚れているに違いない」という、ほぼ全ての男性がする勘違いとか。
 仕事で失敗ばかりしていて、「この仕事は自分にあってない、あたしにはもっと知的な仕事があっている」という勘違いな自己評価とか。
 「仕事上のつきあいだけでなく、この奥さんは絶対自分に気がある」という思い込みとか。
 後のなって冷静に振り返ってみれば顔を赤らめるようなことも、その時点ではみんなものすごく本気だ。

 そうそう、あるある、我々一般人はね、って思うけど、芸能人の方も同じではなかろうか。
 芸能界で華やかに生きているように見える人も日常は日常だ。
 何でもないことを気に病んだり、落ち込んだり。ぎゃくにちょっとしたことで良い気持ちになったり、前向きになってみたり。
 思い通りにならないこと(むしろ人生はこの比率の方が高い)も、ほんのすこし考え方を変えたり、小さな喜びを積み重ねることで、見え方はかわる。つらい人生に光が差すこともある。
 わたしたちも。
 この作品に出演されているそうそうたる俳優のみなさんも。
 そして宇宙人も。
 一見突飛な設定で描くことによって、かえって全ての人々のささやかな幸せに光があたっていく。

 店をたたんで地球にもどろうと考える香取君を諭したのは誰だったっけ?
「宇宙で成功できない人がアースにもどっても同じだよ」と言ったのは。
 このセリフは逆も成り立つ。地球で成功できないヤツが宇宙に出ても同じだ、とか。
 日本でうまくいかないからといって留学しても同じだ、今の会社じゃなく新天地なら自分をいかせられる、川東をうまくできないやつが他のバンドをもっても同じだとかね。
 まず足下をみつめよう。支えてくれる人はそばにいる。
 たしかに大爆笑や大どんでん返しやスリルもサスペンスもないけれど、見た後に「もう少し人生がんばってみようかな」という思いを抱かせてくれる、愛おしい作品だった。

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城の崎にて

2015年10月28日 | 日々のあれこれ

 

 現代文の時間、「城の崎にて」に入った。
 文学史上、名作と扱われ、教科書にもずっと掲載され続けている小説だ。
 谷崎潤一郎が「文章読本」の中で、これぞ名文と「城の崎にて」の一節を取り上げていることも有名だ。
 見つからないので、記憶でだけど、たしかこの部分。


 ~ ある朝のこと、自分は一匹のはちが玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へ垂れ下がっていた。ほかのはちはいっこうに冷淡だった。巣の出入りに忙しくそのわきをはい回るが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立ち働いているはちはいかにも生きているものという感じを与えた。そのわきに一匹、朝も昼も夕も、見るたびに一つ所に全く動かずにうつ向きに転がっているのを見ると、それがまたいかにも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどそのままになっていた。それは見ていて、いかにも静かな感じを与えた。寂しかった。ほかのはちがみんな巣へ入ってしまった日暮れ、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見ることは寂しかった。しかし、それはいかにも静かだった。 ~


 さすが「小説の神様」と称される方の名文中の名文 … と、今は思わないなぁ。
 ふつうかな、と。

 たとえば三島由紀夫とかね、洋食のフルコースみたいな豪華絢爛な文章があります。
 志賀直哉は、今読んでみて思ったかもしれませんが、真逆なタイプですね。
 簡にして要を得ながら、人生の神髄に迫っていく文体。一見質素な料理だけど、ものすごい素材ととんでもない手間暇をかけた一品みたいな。
 お皿に大根の煮たのがひときれのっている。え、これ? と思いながら一切れ口に含んでみると、出汁に用いられた様々な素材の味が渾然一体となって口に広がり、海や山の風景が眼前に開けていき「忘却のサチコ」状態になるような … 、え、しらないの? ま、そんな感じの文章とされているのです。

 て、いちおう説明したけど、そこまですごいのでしょうか。
 おれが書いてる文章だって、今日なんか、ある担任から「今日の文章よかったよ、ごほうびあげる」と言われお煎餅もらったくらいなんだけど。

 高校のとき、志賀直哉の短編は相当数読んだ。


 ~ 自分は死ぬはずだったのを助かった、何かが自分を殺さなかった、自分にはしなければならぬ仕事があるのだ、――中学で習った『ロード・クライブ』という本に、クライブがそう思うことによって激励されることが書いてあった。実は自分もそういうふうに危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした。しかし妙に自分の心は静まってしまった。自分の心には、何かしら死に対する親しみが起こっていた。 ~


 今日、「城の崎にて」を音読しながら、志賀直哉先生て、ほとんど中二病なのではないだろうかと思った。

「 僕が死のうと思ったのは~ ウミネコが桟橋で泣いたから~ 」

 とか、カラオケ行って歌ってたんじゃないかな。
 ていうか、こっちの歌詞の方がよほど文学的に見える。

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自分を変える

2015年10月28日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「自分を変える」


 今やっている理系科目で苦労している状態で理系に進んでも、理系としての人生にはたどりつけないと述べてきた。
 では、文系ならどうか。興味のある学部・学科に進学し、そこで学んだことをいかした職業につくことができるのだろうか。
 残念ながら、そういう現実はない。限られたいくつかの職業だけは、対応する文系学部で学ぶ必要はあるが、ほとんどの職業は大学での学問との関連性はない。
 具体的に言えば、金融関係に進みたいから何学部がいいとか、マスコミ関係に強いのは何学部だろうかとかを、考える必要はまったくないということだ。
 今言えることがあるとしたら、いっぱい勉強して、少しでも難しいとされる大学に入ろうということにつきる。
 ただし、高校程度の、しかも本校で学んでいる程度の勉強さえいい加減にしかできない状態では、みなさんが漠然と考える「夢」的なものには届きにくい。
 受験勉強は大変ではあるが、大人になってから与えられる課題に比べたなら、やはり基礎中の基礎の作業だ。
 夢、志、目標、やりたいこと … 。
 それらをもつことはもちろん大事だ。
 しかし、願っているだけでは叶わない。
 目標を紙に書いて壁に貼って毎日見ていたとしても、裏付ける努力なしには何も生まれない。


 ~ 成績はなぜ上がりにくいのか? 同じことをやっても、成績に差ができるのはなぜだろうか。成績を上げようとしている君たちも、このことは一度は考えた方がよい。成績を上げるには、どうすればよいか、と。
 成績を上げることを「賢く」なることと同義だと考えてみる。「賢く」なるには、では、どうすればよいか。今までの自分とは違う何かに変容させればよい。経験、智恵、知識、コツなどを受け入れて、新しい自分に変われば、「賢く」なる。今までの自分にはなかった《他なるもの》を受け入れ、自らを変成させる。「賢い」とは、《他なるもの》の受け入れが上手であることを意味している。
 とすると、成績が上がらない人は《他なるもの》を受け入れず、自己を変えようとしない者となる。自己を変えたくない、自分は自分なりにマイペースでやりたい、自分を大切にしたい。そんな人は《他なるもの》を受け入れられず、成績を上げられない。とはいえ、誰もがどこかで自分を大切にしたいと思っている。自分は自分だ、と。 (柴田敬司『現代文 解法の新演習Ⅱ』桐原書店) ~


 人は変わらず生きる方が楽だ。人にかぎらず、慣性に従っていれば抵抗はすくない。
 逆に考えると、いやだな、つらいなと少しでも思えることは、成長の源なのだ。

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人生は紙飛行機

2015年10月27日 | 日々のあれこれ

 

  一日一回はAKBさんの「365日の紙飛行機」を聴いている。
 「あさが来た」のテーマ曲いいよねと言われてYouTubeで検索して、いいと思ったので。
 山本彩さんの歌声がまた神だ。
 これならすぐ覚えられると思ったけれど、いざ口ずさもうとすると、気づいたら「あの素晴らしい愛をもう一度」とまざってしまい、あわててもう一回聴く。
 テーマソング版は、テレビのサイズにあわせてサビが少しカットされていることもわかった(コンクールか!)。


 人生は紙飛行機  願い乗せて 飛んでいくよ
 風の中を力の限り 大切なんだ さあ 心のままに 365日 


は、もともとはこうだった。


 人生は紙飛行機 願い乗せて 飛んでいくよ
 風の中を力の限り ただ進むだけ
 その距離を競うより どう飛んだか どこを飛んだのか
 それが一番 大切なんだ さあ 心のままに 365日


カットなっている部分の歌詞が心にしみる。


 人生は … ていうと、


 ねえ君、ぼくは今日思うのさ 人生なんて紙芝居だと
 涙も笑顔も続きは明日 時っていう名の自転車漕いで


とか、


 忍ぶ忍ばず 無縁坂 かみしめるような 
 ささやかな 僕の 母の人生


とか、これまでも数々の名曲がいろいろたとえて来たけど、「人生は紙飛行機」のさわやか感がいい。
 とんでいきたいな、今さらだけど。
 二番の歌詞もわかった。フルバージョンでほぼ弾き語れるようになった。

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文理選択

2015年10月26日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「文理選択」


 「理系にいった方が就職がいい」という時にイメージされている「理系」は、そんなに簡単なレベルではない。私大でいうなら本当に限られた上位数校に限られるだろう。
 むしろ地方の国立大学の方が、都会の有名私大と比べても研究の環境に恵まれている。
 近年のノーベル賞受賞者が地方国立大学出身であることも、たまたまではなく裾野がしっかりしていることを表している。難関私大か国立大学に進み、さらに大学院で学んではじめて理系としての就職が考えられるというぐらいに思うべきだろう。
 ただし、それほど難しくない私大に進んだ後にしっかり勉強して、大学院に進むことができれば違ってくる。中堅私大から、東大や東工大に院に進学する学生もかなり存在する。
 以上のような条件でないならば、就職状況は文系と変わらない。
 なんとなく就職がよさそうだからという情報に惑わされて「無理に」理系に進むくらいなら、文系で同じ努力を積んで難関私大に進んだ方が、就職状況はよくなる場合が多いだろう。
 もちろん、数年後どうなっているかはわからない。国立大学における文系学部の教育内容を見直すことを文科省が指示したのは、ごく最近の話だ。卒業後に、就職した現場ですぐに役立つような教育活動を大学で行うようにという主旨だった。
 大学で何を身につけたかが大きな比重を占める時代がくるのかもしれない。
 しかし現時点では、何学部で学んだか、専門分野は何かであるより、何大学に入学したかが第一に問われるのが、就職の重要条件であることは皆さんも知っているのではないだろうか。
 とすれば、文系理系を選択する際に考えなければならないことは何か。
 少しでも偏差値的に難しいとされる大学に入るために、自分にあっているのはどちらかということだ。つまり、教科との相性が最優先ということになる。
 理系に興味があり、そういう方面の仕事につきたい、しかし数学や物理は苦手だ――、というような、今やっている程度の理系科目で苦労している状態では、理系に進むのは間違いと言わざるを得ない。文系学部から、自分の興味ある分野にアプローチした方が得策だ。
 実際、仕事の現場では、特殊な分野を除いて、文系・理系の垣根はどんどん低くなっている。
 それにしても、高校に入ったらすぐ大学の話になり、大学に入ったら今度は就職を考えないといけないなんて、人生はなかなか大変だと思うだろうか。
 でも、そんなことを悩んでいられることがどれだけ幸せかと発想してみることも必要だと思う。
 恵まれた環境にいるのだから、それをどう生かそうかと考えられるようになるのが成長だ。


 ~ 『21世紀の資本』の著者、トマ・ピケティが来日して、東京大学で講演したとき、「質の高い教育を受けられる僕たちのような者は、何をすべきでしょうか」という学生の質問に、こう答えていました。「親は選べないから、金持ちの家に生まれたことを卑下する必要はない」と会場の苦笑を誘ってから、「君たちは高いレベルの教育を受けることができたのだから、それを社会のために役立てることを考えてください」と。
 質の高い教育を自分のためでなく社会のために役立てるのが、本当のエリートの姿勢だと訴えたのです。 (池上彰・佐藤優『大世界史』文春新書) ~

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スクールカーストの正体(2)

2015年10月25日 | おすすめの本・CD

 

  土曜の学年集会は、文系理系の決定に向けてのオリエンテーションだった。
 進路指導部長の檄に続いて、教科の先生が順番に話していく。同僚が全員の前で話す姿を見るのは、年に一回あるかないかだ。ない年の方が多いかな。
 長年(ほんとに長い)一緒にすごしていても、職員室で感じている各先生のイメージと、生徒の前で見せる姿とはちがいがある。
 普段は一風かわっているとしか思えないが、生徒の中では大変信頼されてる同僚がいる。
 その方が全員の前に立って話す姿からは、なるほど独特の押しの強さと説得力があふれでてくるのだ。

 堀裕嗣氏は、教室におけるカーストに担任教師も含まれると説明する。
 スクールカーストが形成されるとき、おのおのを値踏みしていきポイントは、コミュニケーション能力だ。
 a自己主張力、b共感力、c同調力の三つの要素でそれは構成されている。
 a・b・cすべてをもっているタイプは「①スーパーリーダータイプ」として最上位に位置し、aしかない「⑦自己チュータイプ」やどれもない「⑧何を考えているかわからないタイプ」は下位におかれる。


 ~ しかし、こうした眼差しは、実は担任教師にも向けられているのである。生徒たちから見れば、学級担任も学級集団を構成する一員である。「仲間」という意味ではなく、学校で過ごす時間を共有し、教室という同じ場所を共有する一員である。要するに、時間と場所とを共有するという意味では、生徒たちが牽制し合うなかで形成されていく〈スクールカースト〉の対象となるわけだ。 ~


 そして、ほとんどの教師の位置は最上位ではない。
 abcをかねそなえたタイプは教師には少ない、そんなエリートは教師にはならないと堀氏は言う。わかる。
 クラスにもいない場合が多く、するとa・cをもつ「残虐リーダータイプ」がクラスの中心になる。
 「残虐」という言葉が強すぎる気はするが、なんの悪気もなく「○○は、なんとかだよなあ!」と人が傷つくことを平気でいうタイプは、そういうノリについていけない子にとってはまさに「残虐」だろう。
 運動部の中心選手や、勉強もそれなりにできる生徒にも多いタイプだ。
 そのまわりをc「同調力」ばかり強い「お調子者タイプ」がとりかこむ。
 スーパーリーダーではない担任教師は、この勢力をうまく扱うことが重要なポイントだ。


 ~ 担任教師が〈自己主張力〉と〈共感力〉とをもっているが、〈同調力〉をもっていない場合、生徒たちでいえば「③孤高派タイプ」と同じ系列にあたる場合である。このタイプは割と多い。大人同士では〈自己主張〉をあまりしないというタイプであっても、教師という仕事上、生徒の前ではかなり〈自己主張〉が強いという教師が多いのだ。しかし、生徒たちの現代的なノリの在り方には理解を示さない。 ~


 こういう教師の場合、自分たちとは違う「教師然」とした教師に映り、「残虐リーダー型」生徒も一目おくようになるという。
 結果クラスは比較的安定するのだが、諏訪先生、河上先生が主張されていた「プロ教師」像とも重なるはずだ。
 さきほど書いた一風かわった同僚は、一担任として隣あわせのクラスだったときも、なかなかやるなと思い、今もクラス経営になんの心配もない方だが、堀さんの分析に符合するものだなと感じたのだ。
 そして彼は、「孤高派タイプ」教師を、かなり計算してというか、意図的にというか、演じている。
 そういうところが教師の力量だと思う。

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「 「間」の感覚 」の授業 6  全文を要約する

2015年10月24日 | 国語のお勉強(評論)

 

Q32 全文を200字以内で要約しなさい。


 手順1、意味段落ごとの内容をまとめる。
   2、意味段落の論理的な関係をつかむ。
    対比の関係? 並立? 因果関係? 発展させたもの?
   3、2が見えるようにまとめる。
    a 骨格を決める
    b 与えられた字数にあわせ、必要な要素を足す


 【骨 格】 S(何)は、Aである。
 【基本形】 SはBではなくAだ、なぜなら~(理由)からだ。
 【字数にあわせて】
       Sは、Bではなく(対比)Aである。
       Sは、a1、a2、a3のように(相似)Aである。
       Sは、~のときに(条件)Aである。
       Sは、A1でありA2である(並列)。


一 自然感情の違い A ←→ B
二 中間領域の存在 A
三 内と外の区別  A
四  「間」の感覚  X   … ここがメイン

 

【骨格】 日本人の行動様式を決定するのは、「間」の感覚という特有の行動原理である。

A32
一段落 自然と距離を置いて生きる西欧人とは異なり自然と一体化して生きる日本人は、36字

二段落 中間領域に媒介されて内部と外部との境界が曖昧な日本建築に暮らしているが、36字

三段落 同時に内面的には内部と外部との境界は明確に意識されている。29字

四段落 
 空間だけでなく、時間、人間関係のあらゆる面で、自己との関係性に基づく心理的境界が時と場合によって設定され、54
 この日本人独特の「間」の感覚が日本人の行動様式を決定する原理となっている。37字


 ☆ 200字は一橋大学の第三問と同じ形式だが、東大の第一問設問五も、ほぼ同じように考えればよい。

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「 「間」の感覚 」の授業 5  第4段落の読解

2015年10月22日 | 国語のお勉強(評論)

 

第四段落〈 15~17段落 〉 「間」の感覚

15 このように、〈 目に見えない形で内外の区別が成立する 〉ためには、鳥居や関守石の意味についての〈 共通の理解 〉を前提とする。その共通の理解を持った集団、ないしは共同体が日本人にとっては「身内」であり「仲間」であって、その外にいる者は「よそ者」ということになる。日本の家がしばしば「うち」と呼ばれるように、家族は「身内」の代表的なものであるが、時と場合によっては、それは地域社会であったり職場の組織であったりする。サラリーマンが「うちの会社」と言うときは、会社全体が「身内」である。つまり「身内」は、ある関係性の中で成立するもので、〈 そのこと 〉が、〈 日本人の行動様式を外国人にわかりにくいものにしている 〉と言ってよいであろう。関係性は時によって変わるものだからである。


Q25 「目に見えない形で内外の区別が成立する」とあるが、そのために必要なものは何か。
A25 心理的な境界についての共通理解

Q26 「共通の理解」とあるが、「鳥居」についてはどのような「共通の理解」が存在するのか。20字以内で記せ。
A26 鳥居の内側は聖なる空間であるという理解。

Q27「そのこと」とは何か。50字以内で述べよ。
A27 日本人にとっての「身内」とは、時と場合によって変化するある関係性に基づいて成立するものであること。

Q28 「日本人の行動様式を外国人にわかりにくいものにしている」とあるが、なぜ「わかりにく」くなるのか。20字以内で記せ。
A28 「身内」の指す範囲が一定でないから。


 心理的境界への共通の理解を持った集団・共同体
         ∥
 (日本人にとっての)「身内」・「仲間」 ←→  「よそ者」
         ∥
 具  家族  地域社会  職場の組織
         ∥ つまり
 「身内」 … ある関係性の中で成立する   
       関係性(x)は時によって変わる
    (ある人が身内になったりよそ者になったりする)
                ↓
  外国人にわかりにくい行動様式


16 空間的な内部を意味する「うち」という言葉が「身内」のように人間どうしの〈 関係性 〉を意味したり、あるいは「朝のうちに仕事をする」という具合に、時間的広がりにも用いられたりすることから明らかなように、日本人にとっては人間社会も空間も時間も関係性という共通した編み目の中に組み入れられている。同じ一つの部屋が、外から人が来れば客間になり、夜になれば寝室となるというのは、住居の空間もまた、人間や時間との関係で意味を変えることを物語っているであろう。


 「うち」 … 空間的な内部を意味する
    ↓
 「身内」 … 人間どうしの関係性
 「朝のうち」 … 時間的広がり
    ∥
  人間社会
   空間  → 組み入れる → 関係性という共通した編み目
   時間

 具 一つの部屋 → 客間 or 寝室
        ∥
     住居の空間 … 人間や時間との関係で意味を変える


Q29 「関係性」とはどのようなものか。25字以内で記せ。
A29 時と場合に応じて変化する心理的な内と外との区別。
   時と場合に応じて判断される対象との心理的な距離感。


 人間社会、空間、時間の様々な対象(b)
   … 心理的にどの程度自分に近いのか、どの程度つながりがあるのか
     ∥
 自分(a)との関係性


Q30 「関係性という共通した編み目の中に組み入れられている」とはどういうことか。
A30 日本人はあらゆるものを自己との心理的な距離感によって意味を規定し、
   行動のよりどころにしようとするということ。


17 日本人は、そのような関係性の広がりを「間」という言葉で呼んだ。「間」とは「広間」「客間」のように空間の広がりでもあり、「昼間」「晴れ間」のように時間的広がりでもあり、また「仲間」のように人間関係の広がりでもある。読み方はさまざまだが、「空間」も「人間」も、そして「世間」も、いずれも「間」という文字を含んでいるのは、決して偶然ではない。そのような関係、つまり「間合い」を正しく見定めることが、日本人の行動様式の大きな原理である。その計測を誤ると「間が悪い」ことになり、「間違い」を犯すことになる。現在、我々の生活様式は大きく変わりつつあるとはいえ、この〈 「間」の感覚 〉はなお日本人の間に生き続けており、住居の構造や住まい方をも規定している。それはおそらく、日本人の美意識や倫理とも深く結びついているもので、その本質と構造を解明することが日本の文化を理解する大きな鍵となるであろう。


(あらゆるものを自分との関係性という観点でとらえる感覚)
     ∥
 そのような関係性の広がり
     ∥
        「間」
     ∥
  「広間」「客間」   …  空「間」
  「昼間」「晴れ間」 …  時「間」
  「仲間」         …  人「間」
     ↓
「間合い」を正しく見定めること … 日本人の行動様式の原理
          ∥
  「間」の感覚
     ↓
 日本人の間に生き続けて、住居の構造や住まい方をも規定する
 日本人の美意識や倫理とも深く結びついている
     ↓
 その本質と構造の解明 → 日本の文化を理解する大きな鍵となる

                      物理的 近い
                               ↑
             D   ↑   A
                   遠い  ←←   →→ 近い 心理的
                           C  ↓   B
                               ↓
                              遠い

   一緒に暮らしている親 … A(Dかもね)
   中学校時代の友人 … B
   電車で隣に座った人 … C
   全然知らない人 … D
   Dだった人も、ワールドカップの応援席に隣になり一緒に応援していると一気に身内になる

 


Q31 「「間」の感覚」とはどのような感覚か。50字以内で説明せよ。
A31 その時々の状況に応じて対象と自己との距離感を見定め、
   自分の行動を決定する基準にしようとする感覚。

  y=f(x)
       y … 行動  x … 「間」 x=a(自分)-b(対象)

コメント
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