何人か登校し、勉強や自主練をしている。
アンサンブルの譜面をさがしにいく前に、二学期の授業の準備をすこし。
現代文は「舞姫」をつかって、小説の読解法を学びながら、日本人の自我意識の形成はいかなるものなりしやという、評論頻出ネタを話、かつ何か思うところを書いてもらうことで小論文の勉強もしちゃおうという、総合的な企画を思いついた。文語文でもあるから、なんでもやれそうだ。夢はひろがるけど、どこまで具体化できるだろうか。
新学期配布の「進路プリント」に学年主任としてのありがたいことばを載せよという指令が下ったので、島田紳助氏ネタをつかうことにした。
~ 漫才には教科書がない。だからこそ、僕は十八歳でこの世界に入った時、自分で教科書をつくろうと思ったんです。
「これで勉強したら、絶対売れる」という「教科書を」。
僕は自分が「オモロイ!」と思った漫才師の漫才を、片っ端からカセット・テープに録音していきました。その頃は、録音機材といったら大きなラジカセしかなかったから、それをテレビの前に置いてね。劇場まで持っていたもありました。普通に持っていったら怒られるから、鞄に忍ばせて。
そうやって録音した漫才を、今度は繰り返し再生して紙に書き出していく。書き出すことで、なぜ「オモロイ!」のかが段々とわかってきたんです。(島田紳助『自己プロデュース力』ヨシモトブックス) ~
先日引退した島田紳助氏は、まだ紳助・竜介という漫才コンビでデビューする前に、こんなことをしていた。
想像できるだろうか。たぶん、これはかなり大変な作業だ。
これは、島田氏が吉本の若手芸人の前でした講義をテープおこししたものだ。
その講義の様子が「紳竜の研究」という数年前に発売されたDVDに収められている。
先日あらためて観てみて、島田紳助氏がどれだけ努力してあれだけの地位を築いたのをあらためて認識することができた。
島田氏は言う。「この世はすべて才能だ」と。
どんな仕事、どんな分野でも、5の才能を持つ人間と、1の才能しか持たない人間とがいる。
5の才能を持つ人間が5の努力をしたとき、25という超一流の結果が生まれる。
5の才能を持つ人間が1の努力しかしない場合には、5の努力をした2の才能の人間に簡単に負けてしまう。
DVDの画面には、紳助氏の話に聞き入る若手芸人たちの姿がうつっている。
おそらく、彼らのほとんどは島田紳助氏ほどの才能は持ち合わせていない。
この話を聞きながら、よおしオレはやるぞと思ってはいるだろうが、たとえば紳助氏が若いころにしただけの作業を実際にするかどうかといえば、たぶん実際にやってみるのは一握りだけだろう。
もちろん、彼らにいろんな言い分があるだろう。
紙に書かなくても今は映像で繰り返し見られる時代なったとか、バイトが忙しくてそこまでの時間はないとか。
紳助氏に教わったことを、実際に愚直にやってみた芸人さんは、何らかの結果はついてくるのではないだろうか。
もし漫才では目が出なかったとしても、そこでした途方もない努力は、別の仕事にうつったときに必ず役に立つ。
努力は、努力した内容以上に、努力したかどうか、どれほどやれたかどうかが重要なのではないかと思う。
受験も同じで、「こんな勉強は将来役に立たない」とか「効率が悪い」とかすぐ口にするのは、勉強の意味がわかっていないのだ。
講義の後半で島田氏はこう言う。
~ 君たちの才能は「1」かもしれないし、「5」かもしれない。
でも、それは自分たちで得たんじゃない。親から与えてもらったもの、神様に与えてもらったもの。
だけど、努力は自分で覚えるものです。
誰でも頑張って「5の努力」をすれば、「5の筋力」を得ることができます。
それを得ることができたら、この世界が駄目でも、他の世界で絶対成功できます。
なぜか。この世界が駄目だったら、次に見つけた新しい世界に「5」をかける。
そうやっていったら、そのうちにちゃんと自分に合う世界が見つかって、成功するんです。
「5の筋力」を持っているやつは時間がかかっても絶対成功する。 ~
何事も、結果がどうなるかはわからない。
自分の才能が5なのか、1なのか、それも実際にやってみないとわからない。
ただし努力は、5をした場合に5の筋力としてからだに残っていく。
多くの人が「努力は裏切らない」というのは、こういうことではないだろうか。