水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

リテイク・シックスティーン

2009年11月30日 | おすすめの本・CD
 豊島ミホ『リテイク・シックスティーン』にラブ注入された。
 どれくらいかというと、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』と同じくらい。
 年いってる人なら、そんなにおもしろかったの? と驚くレベルだと思うのだが、いかがでしょう。
 主人公は、田舎の進学校に入学した高1の沙織。「あたし未来からやってきたんだ」という孝子、最初は沙織に惹かれけっきょく孝子とつきあうことになる大海くん、大海くんの幼なじみで吹奏楽部の村山くん。
 この4人を中心にした、高校1年の一年間の出来事が描写される。
 電車通学、調理実習、球技大会、試験、文化祭、授業風景 … (生徒がこんな風に書いて持ってきたら、言葉の次元をそろえなさいと指導するな)。 4人で行った海水浴、吹奏楽部に見学にいったけど入らなかった話、進路の悩み、スキー旅行の夜の事件。
 当然、4人の人間関係にも紆余曲折があり、少女漫画の王道のような展開をみせる。
 自分なんか人付き合いが下手で、とりえがなくて、と思っている沙織だが、相当かわいくてグラマラスであることが読み取れてくると彼女への萌え度もアップするばかりで、ひさしぶりの一気読みだった。
 突然、体育の授業で走り高跳びをやったとき、けっこう跳べて最後の3人ぐらいに残って、自分の番になったとき、反対側でバレーボール(だったかな?)やってた女子の視線を感じてすごい緊張したなあ、なんてことを思い出す。
 文化祭の後のなんかせつない気分とか、西福井の立ち食いそば屋に寄ってから古本屋に行くじみ~な楽しみのこととか、みんな仲良くしてくれるのだけど、ほんとの気持ちはわかってもらえてないのではないかという焦りのような気持ちをもっていた時期があったなあとか。
 他人からみたらどうでもいい、ていうか眼中にないような日常の一こまなんだけど、自分にとってはかけがいのない何かだったし、一方で当時はそのかけがえのなさには気づかないでいた。
 でも、そういう気づかなさこそがそういう時代に特徴であり、あれが青春時代ともいうべきものなのかなと言えるようになった人ほど、愛おしく読める小説だ。
 

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コミュニケーション

2009年11月29日 | 日々のあれこれ
 学校説明会の四回目が昨日おわり、今年度の個別相談も終わりがみえてきた。
 あとは12月に2回。塾の相談会はこのあとは入っていないので、残り数十組というところだろう。
 話しやすい方とそうでない方がいるのは当然で、相性もあると思うけど、こちらが話していることに適度に反応してもらえるかどうかで、ずいぶん変わる。
 それだけのことといえば、それだけのことなのだが。
 そして、その反応のしぐあいは、見せていただいている成績との相関関係が高いと感じる(書き方に気をつけないといけない内容ですね)。
 
 ~ じつはコミュニケーション能力とはいたって単純な者です。人と話す上の基本的な力のことなのです。
 たとえば、もし面接会場の扉がしまっていれば、明ける前にそれをノックする。そして、部屋に入る際に会釈をして、自分の名前を言う。すすめられてから席に座る。こんな当たり前な一連の動作を、多くの学生はできないのです。  (田中秀臣『偏差値40から良い会社に入る方法』東洋経済) ~

 就職活動をする大学生向けに書かれた本にさえこんな記述に出会う。
 子ども達は、コミュニケーションの基本を身につけないまま、大きくなっていくんだろうなあと思う。
 もちろん、自分の若いころを思い出すと恥ずかしいのはたしかだけど、勉強と同時に、こういうことこそ意図的に教えてあげないといけないのではないかと、最近とくに思う。
 
 
 
 

 
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自己ベスト

2009年11月28日 | 日々のあれこれ
 昨夜、報道ステーションで岡崎朋美さんの特集を見て泣いた。
 昨年、37歳で自己ベストを更新し、「昔より今の方がいろんなことができるようになった」と語っていた。
 スピードスケートという競技で20年もトップアスリートでいられた選手は、世界中見渡してもいない。
 「からだのすみの神経の一本一本まで使えればまだまだ、更新、更新、更新っていけると思うんですよね」とも笑顔で語る。
 かっこよすぎる。
 人生も後半に入ってあとはそんなに変化ないかな、なんて漠然と思っている自分が恥ずかしくなった。
 でも、こちらは授業が本業だから、その意味では毎年自己ベストは更新している。
 最近では「隗より始めよ」の授業をやってて、「郭隗のセリフを二つに分けなさい」と質問したとき、今年のベスト授業になるかなという感覚があった。
 部活なら、無限に伸びしろはあるはずだ。
 
 
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仕分け

2009年11月26日 | 日々のあれこれ
 「事業仕分け会議」の場で、教員の増員を主張する文科省に対して、事務仕事の簡略化をはかるべきだととの返答があったというニュースを見た。
 民主党さん、わかってらっしゃる。
 教員を忙しくさせているものに、大量の事務仕事がある。
 さいわい私立学校勤務なので、公立の先生ほどペーパーにふりまされてないが、いろんな人の話を聞いたり、本の読んだりしてると、けっこう大変なものであるという想像はできる。
 さらに言ってしまえば、教員の事務処理能力は、中央のお役人さんよりは低い。
 ていうか、能力を使おうとする方向性がちがうのだ。
 かりかりまとめてるより、一緒にドッヂボールしてる方が好きだから、教員になるのだ。
 教育関係者なら皆賛成すると思うのだが、文科省が一年活動を停止してみたらどうだろう。
 もちろん給料は支払う。
 お金はあげるので、たのむからよけいなことしないで、じっとしてて。
 そしたら俺ら自分であれこれやりたいことやるからという感覚だ。
 本当に実現したとして、現場の教育活動にはまったく支障がないことが予想される。
 万が一、そのために支障があったなら、その分野についてだけお役人さんに調整してもらう。
 だいたい、文科省が今までやってきた施策で、何か日本の教育をよくしたと言えるものがあるだろうか。
 自分たちのやったことについては何らかの反省をまとめて発表したという話は聞かないのだが、現場の教員には、やれあれを書け、提出しろと言うのは、どうなのだろう。
 ここは思い切って文科省自体を、蓮舫さんにがっつりきっていただきたい。
 できることなら、返す刀で、あなたはここはだめ、そんな仕事しなくていい、こそんなプリントはむだです、全部いりません、ときつく叱ってほしい。
 あと叱ってほしい人としては、柔道の山口香さんかな。
 
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時間術

2009年11月25日 | 日々のあれこれ
 『教師のための時間術』という本に、「イレギュラーへの対応」の重要性が述べられていて、なるほどと思った。
 教員にかぎらず、仕事にはイレギュラーがつきもので、なかなか予定通りにいかないことが多い。
 多いというか、ほとんど毎日がその連続だ。
 今日はこんな練習をしようと思ってわくわくして行くと、想定していたメンバーがそろわなかったりする。
 授業などその最たるもので、ここでこの質問に答えてもらって、その先流れるようにここまで進もうなどという思いは、まず質問をした瞬間にくずれるといってよい。
 この言葉はどういうことですか?
 はい?
 いや、はいじゃなくて、どういうこと?
 (となりの子に)どこどこ?
みたいなやりとりをしてるうちに、こめかみのあたりからプチプチっと小さな音が聞こえ始めるのが普通だ。
 この空き時間にこの仕事をしようという計算は、誰かがけがをしたとか、なんかトイレでもめてるらしいとか、保護者からのクレーム的電話だとかで、簡単に失われていく。
 やっとのことでお弁当をひろげると、「お食事中すいません」といろんな人が話しかけてくるけど、話しかけるのだからすいませんと思ってないのはたしかだ。
 『教師のための時間術』では、そういうイレギュラーがおきないようにする方法が述べられていた。
 それでも、イレギュラーはおこる。
 長年の経験から得られた結論を述べてみたい。
 時間術の基本は、「計画しない」である。
 もちろん、生徒さんがたには「目標の実現のために計画的にとりくんでいこう」と語っているが、大人になってしまえば、もういいんじゃないかな。

 仕事術関係の本をこれまでに段ボール箱で何箱分も読んできて、いろいろ試しもしたが、われら凡人には大きな変化は起きない。
 かぎられた何%の人だけが大きな変化を起こせるから、本も書けるのだ。
 そういう意味で、「勝間和代を目指さない」という香山リカさんの教えは正しいと思う。
 これこれこういうことをしよう、こういうことをしたい、こんな目標を達成したい、こういう人生を送りたいと願っていることは、手帳に書いて毎日見なくても実現していく。
 実現してないものは、やり方や時間の使い方が稚拙だったのではなく、本気で思ってなかっただけのことだったというのが、真相ではないだろうか。
 本当にやりたいことはいつのまにかやっている。
 やれなかったことは、実はそんなにはやりたくなかったことなのだ。
 計画を立てて、いつまでにこれをやらなきゃと思うから、できないとストレスがたまる。
 Aということができたにせよ、できなかったにせよ、本人以外にとってはたぶんどうでもいいことだ。
 本人にとっても、何年かすればなんでもないことになる。
 ある人間のものすごい大きな取り組みにしても、地球単位でみたら、ほんの小さな、というかあるかどうかさえわからないようなものだ。
 だから「すべては成り行き」だと思うこと。
 
 あ、もちろんここを読んでる若い方、部員、OB諸君は、もうしばらくはあがいてみた方がいいと思うよ。
 願いがかなうかなわないは別として、あれこれあがいて、喜んだりくやしがったりするその経験は大事というか、絶対必要だと思う。
 ただし、どうしてもうまくいかない時は、見方をかえてみるのも必要だ。
 これって別にうまくいかなくても、実はそんなに問題ないかも、というように。
 「なりたい自分」とは絶対的なものではない。
 それはその人自身がつくりだしたものであって、絶対的に存在するものではない。
 その人が、それまでの人生での経験をもとに何となく作りあげているもの、程度のものなのだ。
 親の願いではあるかもしれないけど、神の啓示ほどのものではない。
 「なりたい自分」「実現したいこと」自体を、絶対的なものとする根拠は自分の中にしかないのだから、自分そのものをフレキシブルにしておいた方が、かえってほんとにやりたいことにも近づけるような気がする。
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昭和32年

2009年11月24日 | 演奏会・映画など
 映画「ゼロの焦点」は、昭和32年が舞台だ。
 「オールウェイズ3丁目の夕陽」が昭和33年を舞台にして、見事にその時代を感じさせたのに対し、「ゼロの焦点」が昔に見えないのはなぜだろう。
 役者さんの問題?
 いや、芸達者はそろっているし、広末涼子、中谷美紀、木村多江は贅沢すぎるキャストのはずだ。
 「おくりびと」「嫌われ松子」「ぐるりのこと」のいろんなシーンを思い出せば、三人が力のある女優さんであることは間違いないと思うけど、それが活かせてないのは、監督さんの問題なのだろうか。
 いくら良い素材があっても、伯楽がいなければだめということか。
 良い選手がいても勝てるチームになるかどうかは別なのと同じかもしれない。

 広末涼子が、金沢出張から帰る夫を待ちながら、夕飯の支度をする場面がある。
 そのとき、カメラは昔の炊飯器やトースターの並んだ棚をまず写す。
 あの白くて銀のとってがあって、ポンて飛び出すトースターがあったじゃないですか。
 今、ああ、あれねって思った人は、けっこう歳いってますから。
 で、これをあえて写すところが問題なのかなと思う。
 ふつうに撮って、よくみると部屋の中の調度は全部昔のものだよね、こんなこまかい物にもこだわってたんだあ、と気づく人は気づくというレベルでとるべきなんじゃないかな(評論家か!)。
 でも、そうでないと、映っているもの以外は、昔のものでないように見えてしまうのだ。
 ただでさえ、広末涼子を昭和32年の20歳代の女性に見よというところが少し苦しい。
 「3丁目の夕陽」は、画面に映ってない部分も、ちゃんと昔になっている空気感があった。
 吉岡くんが小雪に見とれてるとき、映ってはいないけど、銭湯から帰る親子や、ちゃぶだいで銚子をかたむけてるおじさんや、子どもを寝かしつけるお母さんや、田舎に手紙を書いてる女の子やらの息づかいが感じられたのだ。
 音符がない部分でも、ほかのみんなと一緒に演奏しているメンバーが集まったバンドみたく。
 定演のDVDでも、なんかおもしろいなと感じる場面は、セリフのない役者もちゃんと芝居している。
 
 あと、ものすごく根本的な話になってしまうが、「ゼロの焦点」という小説そのものが、それほどありがたがるものではないんじゃないかな。
 原作を読んだのはずいぶん前なので確信はないけど、描かれた時代の風俗をとりのぞいてしまうと(もちろんそれが重要なのだろうが)、あんまり中身はないような気がする。
 この曲、昔はなんであんなに流行ったんだろと思われる曲があるが、そういう感じ。

 
 
  
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川越市音楽祭

2009年11月22日 | 日々のあれこれ
 川越市音楽祭という呼び名があっているかどうかさえ自信がないのだが、昨日はじめて参加させていただいた。
 学校におうかがいを立てた際、出てもいいけど君は個別相談担当だからねと言われていた。
 昨日は、例年最も来校者が多いと予想される個別相談会だったのだ。
 しかし、かえってよかったかもしれない。
 ピアノとあわせる、みんなとあわせるといういい経験ができたし、たぶん渡辺先生もそれがやりやすかったと思う。
 本番は聴けなかったが、前日のリハで気合いの入ったピアノを聴きながら、なるほど名曲と言われるだけのことはあると感じた。
 学校で4時間しゃべりたおしたあと、中型バスで会館に向かう途中、トラックが来ないと中島先生から連絡をもらう。
 そのあと会社の方からの連絡で、どうも相当にひどい渋滞に巻き込まれているようだった。
 急遽キャラバンとバスで運んでみることにする。
 こんなトラブルもある。
 とりあえず管楽器をつめるだけ積んで、2往復でなんとかなりそうだと思いながら学校へもどっていく途中、会館にトラックがついたとの連絡が入った。
 誰の携帯からの連絡だったのだろう。
 話していたのはうつぎ君だったが。
 けっこう遅くなることを覚悟したが、打楽器パートに残りのブツを積んでもらい、まあそこそこには片付けが終わった。

 明けて今日は、また新たな気持ちで練習開始。
 新しい譜面をくばり、ちょっとだけ合奏した。

 昨日、川越市音楽祭におこしいただいた皆様、ありがとうございました。
 寒くなかったですか。
 みなさま、お風邪をめされぬよう、お気をつけください。
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2009年11月21日 | 日々のあれこれ
 陛下にオバマ大統領が深々とお辞儀したことをアメリカ国民が批判しているというニュースは、うまいぐあいに現代文のネタになった。
 「日本は欧米社会においつこうと努力してきた。しかし欧米とひとまとめにしたが、ヨーロッパとアメリカはずいぶん異なる。とくに20世紀以降は。ヨーロッパがアメリカのような能率優先社会になったら大変なことになる」という評論を読んでいたから。
 何よりも効率を優先し、時間の浪費を認めないアメリカ型の社会は、豊かな文化や精神を生み出すことはできないという主旨の文である。
 チェコの作家チャペックの言葉が引用されている。 

 ~人間の精神の最大の活動も、時間の気づかれぬ浪費の後でのみ発展してきたのです。ヨーロッパは何千年も時間を無駄にしました。そこにヨーロッパの無限の豊かさと生産性があります。わたしはヨーロッパでたくさん仕事をしたアメリカのある大物のことを聞きました。その人は列車の中で自分の秘書に手紙の口述筆記をさせました。自動車の中で大きな会議を準備したり、昼食をとりながら小さな会議をしました。われわれ原始的なヨーロッパ人は、昼食の時には普通に食事をし、音楽の時には普通に耳を傾けます。どちらもおそらく時間の浪費になるでしょうが、実際に自分の人生を浪費してはいません。大いなる精神の怠慢について、それがヨーロッパにその最高の価値のいくつかを達成させたということができるでしょう。~

「われわれ原始的なヨーロッパ人」という表現は、アメリカ人への皮肉なんだよと教えた。
 効率化が近代化の重要な側面であることは間違いがない。
 でも、効率という観点では測れないものがたくさんあることは、ヨーロッパ人はわかっている。
 何千年もの歴史をすごしてきたから。
 でも建国何百年の国に、それを理解せよというのは無理なのかもしれない。
 まして宇宙に行ってさえ英語が通じると信じて疑わない国民たちなのだ。
 異国の礼を理解せよと望む方が無理なのかもしれない。
 誰に対してもフレンドリーに「ハーイ」と手を差し出す風習が、世界中で、おそらく宇宙中で通用すると思っているはずだ。
 以前、新宿の紀伊国屋書店で、店員に英語で話しかけ、店員さんは一生懸命きいて理解しようとしているのだが、通じてなくて、しまいに外人さんの方が怒ってでていくという光景を見た。
 日本人が外国で、なんで日本語通じないんだ! と怒る場面はまず想像できない。

 皇室におかれては、異国からの客人に対しては、そちらの文化風習を意識しながら柔軟に対応されているのであろう。  
 陛下は、握手という異国の礼にあえてしたがってくださったのである。
 手の中に武器はないということを表すことから生まれたいわば蛮国の礼である。
 もし万が一自分が拝謁の栄誉に与ることができたとし、陛下から手をさしのべられなどしようものなら、畏まって、その場にひれ伏して、失禁してしまい、無礼な奴めと退出させられてしまうこと必定である。
 そこはさすが一国の長である。
 オバマ氏は、深々とお辞儀しながら握手をすることができた。りっぱなものだ。
 頭をさげるという我が国の礼を知っていたこともえらい。
 まあ、今回の件は、原始的な日本人としてあたたかく見守ってあげたい。
 万が一オバマ氏への迫害がおこり本国に居づらくなったなら、亡命して福井県小浜市に住んでもらえればいいではないか。
 若狭かれい、おいしいよ。もちろん鯖も。 
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ラプソディー・イン・ブルー

2009年11月19日 | 日々のあれこれ
 土曜の川越市音楽祭で演奏する曲の練習。
 昨日の合奏はとんでもないことになっていたという情報を耳にしていたので、覚悟して大講堂に向かった。
 たしかにとんでもない部分が多々あるのだが、練習がすすむにつれてよくなっていく。
 今回わたなべ先生のピアノ独奏と指揮で全曲やっちゃおうという試みで、ちょっと無謀かなとも思ったが、いい練習にもなる。
 各パートのトップ奏者がよく注意を払い、入るべきところで入り、かつみんなに伝えようとしているのがひしひしと感じられる。
 おれが指揮するより、よほど集中しているではないか(泣)。
 最後の通しを聴いたとき、生でこの曲を全曲聴けてよかったという気持ちになれた。
 曲そのもののもつ力もたいしたものだ(あたりまえか)。
 なんとかなるかな。

 これで今週をクリアしたら、本格的な基礎練習、音色作りちょー特訓に入らねばならぬ。
 同じ男子高の松山高校さんに水をあけられてしまっていることに、バッハザールでうすうす気づき、昨日は確信した。
 誰も読んでないと思いますが、松高さん昨日はおめでとうございます。
 くやしいです。
 まず追いつくぞ。 
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いろいろ

2009年11月18日 | 日々のあれこれ
 16日(月)は武蔵野音大バッハザールで演奏してまいりました。
 おこしいただいたみなさま、応援いただいたみなさまありがとうございました。

 本日(18日)、本庄市民文化会館でのアンサンブルコンテストに、金管8重奏、サックス4重奏が出場しました。 
 サックス4重奏が銅賞をいただきました。
 合宿、居残り練習など、いろいろとご支援いただきありがとうございました。

 今週の土曜日(21日)、川越市ミュージックフェスタに川越東吹奏楽with渡辺舞で、ラプソディーインブルーを演奏いたします。
 やまぶき会館の方で、18:00演奏予定です。
 よろしくおねがいします。
 
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