水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

ラーメン

2016年07月31日 | 日々のあれこれ

 

 模試でメンバーがそろわないので、練習は午前で切り上げて、午後は、さいたま市文化センターにいってみた。
 新河岸に車を駐めて、北朝霞経由で南浦和へ。乗り継ぎがうまくいって早くついた。駅を出てから文化センターまでが、たいした距離ではないのだが、夏はつらい。毎年、会場に向かうまでに汗だくになってしまい、髪がべっちゃりになってしまう。今年もコンクールが来てしまったなあとあらためて思う。
 ほんとはさい文を借りてのホール練習をしたかった。してた年もあった。でも、会場の予約がさいたま市内の学校さん優先のため、なかなか借りられない。早い時期なら空いていても、自由曲の譜読みも演奏メンバーも確定できてない状態でのホール練はさすがにお金がもったいない。
 どれくらい吹けばどの程度に聞こえるかは、だいぶ蓄積はできているつもりだし、バンドレッスンの先生もプロ中のプロだ。ホール練への移動時間も惜しんで曲をさらう方がうちにとってはベターにちがいないと今年は考えることにした。
 実際、今日の響きを聞いてみて、イメージもだいぶ固まった。 
 演奏は、とくに課題曲のマーチは、一杯のラーメンではないだろうか。
 注文したラーメンが「おまちどおさま!」とテーブルに置かれた瞬間のわくわく感が前奏。
 まずレンゲで一口すすってみるスープは伴奏。
 メロディーは麺。メンマも野菜もチャーシューも、すべてがきっちり仕事のしてある品もあれば、スープをすすった瞬間に微妙だと感じるときがないこともない。
 多めに盛られたさらしネギの上にほんの少し柚がのっているときなど、うれしくなる。グロッケんがピタっとはまったときみたいに。
 スープはまずいが他はおいしいということはまずない。
 ラーメン屋さんの店構えも大事だ。店に入ったときの清潔感、余計なものがごてごて置いてなくて、店員の方のたたずまいがキリっとしてると、食べる前においしく感じるモードが醸成される。
 逆だとつらい。大人のバンドは、高校生に比べると各団体の移動がスムーズに見えなくて、若干進行がおしていた。ステージ係の方はひやひやだったのではないだろうか。
 そんななかで、伊奈学園OB吹奏楽団さんのきびきびしたふるまいは美しく、予想通り、スープから麺、具、どんぶりの片付けにいたるまで、一分の隙も無い演奏だ。さすがとした言いようがない。
 正直、うちはあそこまで緻密な音は出ない。その分は、やけくそではない、ほどよく元気な「いらっしゃいませ!」で演奏しようと思った。

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敬遠策

2016年07月30日 | 日々のあれこれ

 

 「キリトリ」という番組で、松井秀喜選手の「5連続敬遠」の検証を観た。
 検証はおおげさかな、そのとき当事者たちがどんなことをつぶやいていたかという内容だった。
 高校生の大会で五打席連続敬遠という、例をみない作戦だったが、試合の状況を鑑みたならば、そして彼我の戦力を考えて本気で勝ちに行こうとしたなら、なんの不思議もない、というかむしろ当然とも思える策だったではないか。
 当時、全打席敬遠はおかしいとか、高校生らしくないとか、卑怯とか、いろんな批判はあったが、今思うとそれらがいかに非論理的なものであったか、まざまざとわかる。
 無責任か、おばかか、どちらかなのだろう、そういう人々は。
 そして驚いたのは、敬遠した側、つまり明徳高校の投手の心の強さだ。
 監督の指示にいやいや従っていたのではない。勝つために何をすべきか、あの怒号がとびかう満員の甲子園で、確信をもって自分のやるべきことをきっちりこなしている。
 「うちで働かないか」と声をかけたくなるような凜としたたたずまい。いいものを観た。

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自立語は無限、付属語は有限。

2016年07月25日 | 国語のお勉強

 

 「付属語」というネーミングは、改めて考えてみると、本質の半分しか言ってないから微妙だなと思う。
 たしかにその存在のありかたは、自立語に「付属」していると言えるが、言いたいことを決定するのは自立語ではなく付属語の方だ。
 意味伝達語とか、意志確定語とか、なんかカッコイイなまえをつけてあげてたら、みんなもっと本気で覚えようとするのではないかな。しないか。しないな。
 漢文の講習をしてて、「将」は助動詞だよね? わかりません。じゃ「不」が助動詞ってわかる? わかりません。そもそも助動詞がわかりません。えー? そこからか。 … という会話があって、そんなことを思った。
 その昔、助詞や助動詞とはどういうものかという授業を塾のアルバイトでしてたことを思い出しながら、超基本的な説明をその子にためにしたが、平静に聞いていた周囲の子たちも、内心聞けてよかったと思っているはずだ。
 漢文でも英語でも、意味を伝えるためには、助動詞や、日本語の助詞にあたる言葉は重要だ。
 そして、名詞や動詞や形容詞は無限に存在する(あらたに創り出されもする)。
 助詞、助動詞は有限だ。
 漢文なら、ほんの数個ずつをしっかり覚えておくだけで、読解力は格段にあがる。
 助動詞なら「不・未」「得・可・能」「将・欲」「当・須・宜」「足」ぐらいかな。英語より少ないだろう。
 それと日本語の助詞にあたる前置詞。「以」「与」「為」「自・従」「対」。
 前置詞を知っていれば、すぐ後ろにあるのが名詞、前置詞句の後ろにあるのが必ず「V」だ。
 たんなる漢字の羅列が立体化してくる(おー、うちの演奏にいつも足りないと言われる立体感!)。
 自立語は無限、付属語は有限。
 だから付属語はmustで、自立語はas possible で覚えないといけない。

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道徳の教科化

2016年07月24日 | 日々のあれこれ

 

  2018年度から、「道徳」が特別教育活動ではなく一つの教科として扱われるようになる。
 教科とする以上、評価はどうするのか、道徳に五段階の数字とかはさすがに点けられないにではないかという議論が行われた。児童、生徒一人一人の成長ぶりを記述式で評価するという方向性になったそうだ。
 大変だなぁ。ただでさえ小中学校の先生は多忙だ。忙しすぎるから子どもと向き合う時間がない、なんとかしなければという意見は多くあるのと同時に、また忙しくさせる動きだ。
 結果的には、評価のための文章例が示され、それにあてはめながら記述していくという形になるだろう。
 文章例つくってみようかしら。

 朝日新聞の社説に、「道徳は教科化すべきではない」とあった。

 ~ 子どもの内面が評価できるのか。多様な価値観を認める教科書が生まれるのか。いずれも疑問をぬぐえない。「道徳」はやはり教科にすべきではない。 ~

 内面を評価するのは難しい。ていうか、本来はしちゃいけないと思う。
 評価できるとすれば、内面ではなく「外面」だ。
 心のなかに「思いやり」の気持ちがすっごくあっても、それが行動に移されなければ意味がない。
 道徳の時間に、教材を読んだある生徒が感極まってさめざめと泣いたからといって、その子を道徳性豊かだと評価することはできない。
 内面は「くそばばあ、うざい」と思っていても、階段で荷物を持ってあげる子は、道徳的には評価すべきだ。
 授業への取り組み方では、その子の道徳性は評価できない。だからといって、その子をの行動をすべて観察することなど教員にはできない。
 授業化には賛成だが、他の教科と同じ枠組みで評価を考えるのは反対だ。などとここに書いたところで、なんともできないのだが。
 ていうか、文科省も、朝日新聞の人も、ちゃんと考えてるのかなあ。
 だって、ついこの間、大学入試は点数だけではだめだ、人間性まで含めて総合的に見なければならないって言ってたではないか。
 現状の教科についても、興味や関心という、きわめて主観的な評価がある。
 道徳の評価が数値化できないなら、他の教科も数値化できないものまで点数にいれて、ちゃんとやらないと内申書悪くなるよと脅すのはやめてあげてほしい。

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帰ってきたヒトラー

2016年07月21日 | 演奏会・映画など

 

 アドルフ・ヒトラーが、2014年にタイムスリップしてくるという設定の作品。
 主人公が、信長や芳山和子なら定演二部のお芝居にできるが、ヒトラーではちょっと尻込みする。
 日本なら誰に該当するだろう。あえて言えば東条英機か。まさか昭和天皇に登場していただく作品はつくれまい。
 ていうか、ドイツではどう受け止められたのか。
 ヒトラー役を演じた役者さんは、大丈夫だったのか。
 主人公が、ネオナチにおそわれるシーンがあったが、実際にそんな目にあわなかったのかと心配になる。

 途中で、たぶん本当に一般人にインタビューしたり、反応をうかがったりするシーンがある。
 顔にぼかしがかかっている人は、たぶんエキストラじゃなくて、純粋な一般人なのだろう。
 実在の政治家も、そのまま登場する。無断で使われている映像ではないのなら、メルケル首相も許可を出したということだが、けっこうブラックな扱いで驚く。
 たとえばメルケル首相をさして、「今、我が国は、迫力あるデブ女の指揮下にあるようだ」と評する場面があるのだが、我が日本では、このレベルでさえ、作り手が自己規制してしまうのではないか。
 そうでなければ自民党にチェックにあうか。
 また、なんでもかんでも「差別」とか「不謹慎」とか騒ぐ、微弱な頭脳しかもたない人々が増えてきた今の日本においては … 。
 
 タイムスリップしたらしきことを自覚すると、とまどいながらも現状を分析し、自分に何ができるかを考えるヒトラー。すぐにネットやテレビの影響力にきづくところは、さすがプロパガンダの天才だ。
 もちろん、周囲の人々はモノマネ芸人さんだと理解している。
 しかし、「素」にもどることのないヒトラーの「ネタ」つまり演説を聞きながら、本気で共感していく人が増え、彼が出演するテレビ番組は驚異的な視聴率をあげる。
 何せ本物だから、発言にブレがない。
 それほど人々は簡単に熱狂する。情報のあふれた現代においてさえ。
 この時点で、東京都知事選など圧勝するだろう。
 数十年前、人々がわたしをリーダーとして選んだのだという彼の言葉は、まさのそのとおりだったのではないか。

 根本的にはコメディだ。
 今の時代に本当のヒトラーがきてしまったら、こんな騒動がおこるだろうというリアル感があり、ヒトラー本人が真面目であればあるほど、笑ってしまう。
 テレビをみながら、こんな低俗な番組をなぜ放映しているのだ! ゲッペルスをよべと怒りまくる姿に笑ってしまうものの、怒るのも当然だよねと納得する。
 ユダヤ人の血をたやさねばならないという彼の思想と、「移民は出ていけ!」と排斥する現代人の姿とが重なってくるし、アメリカの新しい指導者の言葉も、日本のある集団の姿も投影されてくる。 
 ほんとにおもしろいのだけど、おそろしい映画だ。
  こういう映画こそ、たとえば学年全員で観て、話し合ったりするのが一番の政治教育になる。

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やはり

2016年07月20日 | 日々のあれこれ

 

 ~ バレンタインデーに仲間を集めて集団暴走したとして、埼玉県内の少年8人が道路交通法違反(共同危険行為の禁止)の疑いで逮捕された。警視庁が7月13日に発表したと、NHKニュースなどが報じた。
  … 産経ニュースによると、逮捕容疑は2月15日午前2時半ごろ、東京都板橋区坂下から埼玉県戸田市川岸までの約1.6キロで、蛇行運転や信号無視を繰り返したというもの。同ニュースでは、警視庁交通執行課の話として、リーダー格の少年がバレンタインまでに彼女ができず「むしゃくしゃしていた」と供述したと報じている。 ~

 

 先日目にしたニュース。
 気持ちはわからないでもないけど、そのエネルギーを勉強に使ったなら … 。
 べつに受験勉強的な勉強でなくていい。それこそ「女の子をナンパする方法」的な本はたくさん出ているから、本を読んで勉強すればいい。地元のモテモテの先輩に弟子入りするとか。
 ちなみに「女の子をナンパする方法」的な本も(必要ないけど)読んだことはあるが、受験勉強の成績をあげるのも、仕事の成果をあげるのも、ナンパに成功するのも、その原理は驚くほど似ていることを、この頃しみじみ感じるようになった。
 うまれもった能力、資質も大事だけど、努力して身につけたものの大きさはその努力自体が自信となって作用する。
 「モテたかったら努力せよ!」の教えを徹底して伝えて行くのが自分の使命とあらためて自覚しよう。
 努力の中身としては、本校の生徒さんについていえば、受験勉強的勉強にリソースを投入するのが、一番コスパがいいはずだ。部活でがんばって負ける経験も、ものすごく効果がある。

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日常

2016年07月19日 | 日々のあれこれ

 

 今日から午前中は講習、午後は部活というメニューになる。日常に戻った感覚だ。
 粛々と勉強し、こつこつと練習する。わるくない。この先にコンクールとか受験とかなくても、この地道な日々を続けることに喜びは感じられる。
 ま、ほんとにずっとそれだとつらいかな。行事が続き、やることが目白押しになってる時期は、大変だけど気分もあがっていて、はあはあ言いながら顔は笑っている。同時に、はやく落ち着いたい、じっくり本を読みたい、のんびり映画でも観たいと思い始めている自分もいる。
 昨日は、非日常から日常にもどる節目にするために、のんびり気味にすごした。
 「夜中にどうしてもいなり寿司が食べたくなるケース」みたく、どうしてもお笑いが観たくなり、ルミネザよしもとに行った。横澤夏子さんの「音楽の先生」ネタを生で見れてよかった(ほかにネタあるのかな?)。フットボールアワーの安定感や、ザぼんち師匠の大御所感はさすがだったが、バンビーノ、トロさーもんの完成度にうなった。ほんとによく練習してることがと伝わってくる。
 ルミネザよしもとの舞台に立つのは、所属芸人さんピラミッドの頂点の方々だ。一応プロを名乗る何百組、予備軍まで含めるとその何倍もの数の頂点に立つには、努力だけではいかんともしがたい部分があるだろう。
 ネタそのものもすごいが、それを支えている彼らの裾野が倍音にように伝わってきて、ええもん見せてもらえたわ~と感じ入るのだろう。

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ピラミッド

2016年07月18日 | 日々のあれこれ

 

  堀裕嗣先生は、教員のありようを「教師力ピラミッド」という三角形の図で説明する。
 三角形を横線を2本引いて三分割する。
 底辺の枠に「生活力・モラル」。真ん中の枠をさらに縦に二分割して、「指導力」と「事務力」を並立する。
 三角形の頂点側に「創造性」「先見性」。(ここに絵が描ければ簡単なのだが … )
 とにかく土台の部分に人としての基本能力があり、その上に教員としての指導力と事務力がある。
 堀先生がこのモデルを発表されたとき、自分にとって一番ピンときたのは、この「指導力」と「事務力」との並立感、つまり同じくらい大事と言われていることだった。
 そうなんだよねぇ。授業だけが大事とか、おれは授業で勝負するとか言うタイプの人にかぎって、事務的なことがおろそかで、実は困ったちゃんという場合は多々あるのだ。あ、こんな話を書くつもりではなかった。
 三角形モデルは、いろんなものを説明するのに実に的確だなと感じるのだ。
 最近、しみじみ感じているのは楽器のプレイヤーとしての三角形だ。
 心密かに自分にも戒めながら部員たちに話していること。
 まず人としての土台がある。その上に芸術があり、その上に技術や理解が並立してのっている。
 純粋な技術面だけ考えたら、中学校から何年も楽器を続けている子たちにおいつくのは難しい。
 でも、裾野を広げ、頭を使って伸びていったなら、三角形の大きさ自体はそれなりのものになる。
 過去そんな先輩は何人もいた。

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長い一日

2016年07月17日 | 日々のあれこれ

 

  いつも通り集合してブレス練習、ストレッチ、個人練をして楽器を積み込み、県営大宮球場に向かう。
 日曜で、応援の多そうな学校の試合であるせいか、球場周辺は例年以上の大渋滞だ。
 それを見越して学校を出たはずだったが、堀之内の交差点をまがり列がぴたっと動かなくなってからは、試合開始に遅れることも覚悟した。
 例年のことながら、想定されるはずの事態を前にして、毎年同じ事をくり返すことしかできない運営の方々の力量を痛感せざるを得ない状況だった。車の誘導にかぎらないが、全体像を見ながらしきる方がおそらくいらっしゃらないのであろう。こればかりは、同じ教員として何も言うことはできない。
 まだ吹奏楽関係の大会の方が、いろいろと改善されながら運営されている。それでもトラブルは必ずあるけどね。今年はどんな仕事に配置されるのだろう … 。

 試合開始が予定より30分遅れたので、安心して準備しながら、試合前のノックや、向かい側の応援の様子などを見ていた。試合がはじまる。ダルビッシュ二世と称される一年生ピッチャーは、なるほどスラッとして、キレのある球を投げる(なあんて、わかったふうなことを書いたりして)。
 でも振り遅れることもなく、ヒットをうち、先制点も奪った。本校の先発星野くんは、初戦より少しのびはないかとも感じたが、ここという時に三振をとれるさすがのピッチングをする。今日も大丈夫かなと正直思った。
 残念ながら、少しずつ歯車がかみあわなかっただろうか。ぎゃくに栄さんは、いろんなものが少しずつよくかみ合っただろうか。投手交代や気持ちの持ちようなども。
 残念だ。けっこう先をみすえて買ってあった日焼け止めがあまってしまう。
 ただ、われらはむしろここから夏のスタートのようなものだ。
 楽器を片付けて駐車場までてくてく歩き、学校にもどり、少し身体を休めて、夕方からはバンドレッスンを受けた。
 自由曲もだいぶ吹けるようになってきたかなと思っていたのだが、つかまりはじめるとコテンパンだった。
 そんないい加減にやってんじゃねえ、そんな程度でできた気になるなとのお言葉は、自分の身につきささる。
 今までなら、野球応援のあとにバンドの指導を受けるスケジュールは組まないし、入れてもあんまり効果ない可能性もあるが、たまたまこうなった日程とはいえ、そしてつらいならやめるぞとの叱責も受けはしたものの、結果的には中身の濃い指導を受けることはできた。
 この後やるべきことも見えた。
 あらためて思ったのは、曲ばかり練習してたのではダメという、当たり前の事実だ。
 ここは、部員たちとしっかり共有していかないといけない。目の前の譜面だけさらっていても上手くならない。
 とにかく人としての裾野を広げなければ。
 レッスン後、バスで駅まで送りながら、そんなことを考え、学校にもどったあと、急遽思いついた漢文の講習用のプリントを一枚つくった自分のエラさよ。まさに文武両道。つらいけど少し楽しい。

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水やり(2)

2016年07月15日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「水やり(2)」


 フィジカルを鍛えるには、基本トレーニングが必要だ。
 講談社の編集者として『ドラゴン桜』を担当した佐渡島庸平氏(№19既出)は、受験勉強の世界でさまざまな取材を行った結果、シンプルな事実に気づいたという。


 ~ 「小さい頃は数学が得意だったのに、いつからか不得意になった」という人は多くいます。そういう人たちに共通していたのが「計算問題を大量にやらなくなった時期に数学を嫌いになっている」ということでした。
 小学生までは、誰もが計算ドリルや宿題で出された計算問題にたくさん取り組みます。数学が苦手であっても、かけ算の「九九」や「たし算・ひき算」ができない日本人はほとんどいないでしょう。それは小学生時代に、ほぼ全員が繰り返し計算問題に取り組むからです。
 ところが中学生になると学校の授業では、抽象度の高い数学的思考を説明する時間が増えて、小学生のように単純な計算問題をやらなくなる。するととたんに数学ができなくなるのです。
 取材先の先生の指摘は興味深いものでした。ただ単に計算が遅くて問題を解ききれなくなっただけなのに、難しくて自分には解けないのだと思い込んで、数学を嫌いになってしまう、というのです。だから、中学、高校でも計算問題をもっとたくさんやって計算力をつけるだけで、数学の実力はまったく変わります。 (佐渡島庸平『ぼくらの仮説が世界をつくる』ダイヤモンド社)
 ~


 基礎力は山の裾野だ。裾野の広さがないと高い山がそびえない。
 高度な問題を解く、抽象度の高い問題を解くには、その下支えとなる計算力が必要だ。
 計算問題をやっていないと、数学的基礎体力が落ちてしまう。
 腕立てが三回もできない体力では、スポーツを楽しむことができないのと同じだ。
 単純に重い物がもてる、たくさん走れる、遠くに飛ばせるといった、筋力レベルの体力があるかないかで、競技のレベルがどれくらい変わるかは、みなさんの方がよくわかっているはずだ。
 英語でも同じことが言える。英語が苦手です、とくに長文が読めませんなどと訴えてくる人は、たんに単語力がないだけの人がほとんどだ。
 人間全体で考えてみよう。睡眠、栄養、運動という「水やり」をし続けてはじめて、自分そのものの大きさが変わっていく。
 そんなこともしないで「夢」とか「やりたいこと」とか言ってもしょうがないではないか。

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