水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

下町ロケット(3)

2015年11月30日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「下町ロケット(3)」


「ふざけやがって」クルマの後部座席で、財前は吐き捨てた。
 佃の返答に気分を害しながら、一方で財前には別の目論見もあった。佃製作所が現在かかえている訴訟問題は、ナカシマ工業という大手が相手だ。担当する顧問弁護士とは旧知の間柄だった。久しぶりに連絡をとって情報を得ていた。おそらく一年と持たずに佃製作所は危機に陥る、そのときには20億円よりもはるかに安く技術を買いたたけるにちがいない … 。
 しかし目論見は外れる。佃製作所は、新しい弁護士のもと、実質的に勝ちに等しい和解で裁判を終わらせた。この状況では仕方ないと判断した財前は、再び佃製作所を訪れ、特許の買い取りではなく、使用許諾という形で使わせてほしいと交渉する。使用料は年間5億を用意すると言った。
 一度社内で検討させてほしいと保留した佃航平から電話が入ったとき、不本意な形ではあるが、これでやっとロケット事業を前に進めることができると安堵した。
 ところが、航平の口から出た意外な申し出に、財前は言葉を失った。
「特許使用じゃなく、部品供給ではいけないか」
 本気で言っているのだろうか? 一回の町工場が、ロケットの部品をつくるだと?
「エンジンの全ユニットを製造させろというんじゃない、特許のあるバルブシステムに限定してだ」
「お話は理解できますが、そういう部分を外注するという発想はもともと持ち合わせておりませんもので … 」忍耐力のすべてを動員して財前は会話を続ける。
「うちは、エンジンをつくる会社だ。特許料で稼ぐ会社じゃない」
 怒鳴りたいのをおさえて電話を切る。佃は思っていたような中小企業の経営者ではない。しかし、はいそうですかというわけにはいかない。
 交渉のため、再度、佃製作所を訪れた財前は、勧められて社内を見学する。
 思いのほか、雰囲気がいい。設備や管理体制も一級品だ。そして、研究開発部。若い研究員がのびのびと働いている。手作業で鉄板に穴をあけネジを埋め込む作業は、驚くほど技術が高い。
 研究室の中央のテーブルにおかれた部品は、問題のバルブだった。世界中がほしがる製品だ。
「どうしてこんなものをつくろうと思ったのですか?」
 財前は考えてもいなかったことを口にしていた。
「あえて言えばチャレンジかな。このアイディアは、小型エンジンの構造を考えていて偶然思いついたものなんだ。難しい製品だが、だから手がけることで会社全体の開発力も技術力も上がっていく。それに、自分の手でエンジンを作り、ロケットを飛ばすのは私の夢だったからね」
 佃製作所には何かがある。どんな会社も最初から大会社であったのではない。一流の技術があり、それを支える人間達の情熱――。もしかしたら、巨大企業となった帝国重工に欠けているのもそれかもしれないと、財前は漠然と感じていた。
 こうして、佃製作所の部品は、納品のための様々なテストを乗り越え、納入が決まる。
 航平の夢は、実現に近づいていく。遠回りではあったが、夢のままで終わらせなかったのは、現実の娑婆を力を蓄えながらしたたかに生き続けてきたからだ。


 ~ 「俺はな、仕事っていうのは、二階建ての家みたいなもんだと思う。一階部分は、飯を食うためだ。必要な金を稼ぎ、生活していくために働く。だけど、それだけじゃあ窮屈だ。だから仕事には夢がなきゃつまらない。」  (池井戸潤『下町ロケット』小学館文庫) ~

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0706

2015年11月28日 | 日々のあれこれ

 

 三年前に卒部していったOBの保護者の方が集まる会によんでいただいた。
 場所は大宮の「0706(ゼロナナゼロロク)」 辻村深月か! というつっこみはマニアックかな。
 わかりにくい店ですよと事前に知らされていたので、地図をしっかり読み込み、食べログで外観写真をチェックして出かけた。大宮駅東口を出て一番街のアーケードを通ると、魅力的なお店がたくさん並んでいる。時間があれば立ち飲み屋さんで一杯だけ呑んでしまいそうだ。交差点を渡ってさらに進むと、地図から判断してここだろうと思われる道が、ていうか路地は、予想以上に狭い。自分の感覚を信じてそこに入って数歩で、写真と同じたたずまいの建物があったけど、ここが飲食店と思う人はいないだろう。
 小さな会社の事務所を尋ねる気分でアルミのドアを開け、階段を登ると、突然おしゃれな空間が目の前に広がる。
「桃花源記」で、漁人が突如目の前に広がる美しい村を目にしたときのような感覚はこれに違いない。
 ほとんどの方がおそろいで、場所が分からないと電話しなかったことを褒めていただいた。
 果物とフォワグラ風味のソフトクリームみたいな前菜、ごま豆腐とかクリームチーズの味噌漬けなどの先付け、お刺身とカルパッチョと中間ぐらいのサーモン、牡蠣をピーマンで巻いて揚げたもの、どの料理も極めてレベルが高い。料理の最後に出た豚しゃぶは、ふつうのポン酢、黒ごまのごまだれ、卵黄と柚胡椒という三種のたれが供される。たっぷりの脂身がしつこく感じない。
 雰囲気といい、お料理といいまさに桃源郷だった。
 もっとうれしかったのは、OBたちがいろんな形で音楽を続け、元気にやっている様子を聞けたことだ。
 今年は定期演奏会を記念的なものにするので、お母様方もぜひお越しくださいと伝え楽しい会を終えたのだった。
 みなさま、ありがとうございました!

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下町ロケット(2)

2015年11月27日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「下町ロケット(2)」


「佃製作所? いったい何者なんだ、この会社は … 」
 帝国重工の本社ビルの一室で、財前道生(みちお)は書類に書かれた会社名を穴の空くほど眺めていた。
 株式会社佃製作所、資本金3000万円、従業員200名。大田区にあるエンジン部品の製造開発を手がける中小企業――。帝国重工からすれば吹けば飛ぶような規模の会社だ。
 帝国重工の宇宙航空部は、政府から民間委託された大型ロケットの製造開発を一手に引き受ける国内最大のメーカーである。宇宙事業「スターダスト計画」を社長の肝いりでスタートさせ、巨額の資金を投じて水素エンジンを開発していた。
 しかし、その新型エンジンの重要な部品の特許が認められない、すでに同じ技術が登録されているとの報告を、担当から聞いたのだった。
 帝国重工の技術力は世界のトップクラスだ。大学の研究室や他の大企業の研究室ならいざ知らず、まさか聞いたこともない中小企業に、先を越されるとは。財前は、佃製作所のことを調べさせた。
 社長の佃航平は、宇宙開発機構に昔所属していた研究者であったこと、会社自体は30年以上の歴史をもっていること、堅実な経営を行っているようだが、今は訴訟問題に巻き込まれ資金繰りに苦しんでいることもつきとめた。
「君が佃なら、この特許、いくらで売る?」報告書を投げつけた財前は、開発主任の富山に聞く。
「これだけの特許を、そう安くは売れないと思いますが … 」と言葉を濁す富山に冷たい目を向けていた。特許開発の遅れは、直接の担当者である富山はもとより、自分の責任問題にもつながる。ここは、佃の特許を買い取ってしまうしかない。
 そして今の状況から考えて、佃製作所は喉から手が出るほど目先のカネを欲しがっているにちがいないと、彼の嗅覚はとらえていた。「よし、私が直接出向こう」下町の中小企業に、帝国重工の部長が乗り込んで交渉するという。
「20億で、いかがでしょう」突然の金額提示に、佃は一瞬息を呑んだ。
「あの特許技術は、弊社が開発したロケットに搭載されてこそ生きるはずです」財前が続ける。
 20億あれば、今の会社の窮地は脱することができる。しかし苦心して開発した技術が自分達の手を完全に離れてしまうということだ。
 許諾料を払いながら使用してもらうのではだめかと言う佃に、会社の方針に反するからあくまでも買い取りだと財前は主張する。
 財前達が帰ったあと、佃製作所の会議室は紛糾した。特許の売却を主張する営業系社員と、反対する技術系社員とで意見とで二分された。しかし、最も強く賛成すると思っていた経理部長の殿村が反対に回った。20億では安すぎるというのだ。
「売却は見送りするのが本社の結論です」
 佃の言葉を聞き、財前は狼狽した。まさか、この提案を受けないなんて … 。「御社の現状を考えたら、売却されるべきじゃ … 」と言いかけた財前に、佃はこう言う。
「うちの財政事情など心配してもらうことはない。特許が必要なら、自社で開発したらいいじゃないか。特許を自社で持ちたいから売れ、なんてのは大企業の思い上がりですよ。うちの心配をする前に、そちらのスターダストなんとかいうプロジェクトを心配した方がいいんじゃないですか?」

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「先従隗始」の授業 2

2015年11月26日 | 国語のお勉強(漢文)

 

「先従隗始」の授業 2


 隗 曰
「古 之 君 有 以 千 金 使 涓 人 求 千 里 馬 者。
 買 死 馬 骨 五 百 金 而 返。
 君 怒。
 涓 人 曰『死 馬 且 買 之。況 生 者 乎。馬 今 至 矣。』
 不 期 年 千 里 馬 至 者 三。
 今 王 必 欲 致 士 先 従 隗 始。
 況 賢 於 隗 者 豈 遠 千 里 哉。」
 於 是 昭 王 為 隗 改 築 宮 師 事 之。
 於 是 士 争 趨 燕。


Q「古之君有以千金使涓人求千里馬者」とあるが、誰が誰にどうしたのか。
A「古之君」が「涓人」に「千里馬」を「千金」で「求」めさせた。

「有」
 A 有レB。 … AにB有り。→AにはBがある。

「者」
  ~者「~もの・~こと」… ~もの・~こと〈体言化〉
  ~者、「~は」… ~は・~というものは〈主題の提示〉

使(二)A V(一)。 … AをしてVしむ。→AにVさせる。

以レA V … Aを以てVす→AでVする。

 川 東 之 生 徒 有(下)好(二)波 瑠(一)者(上)。 … 川東の生徒に波瑠を好む者あり。

 以(二)千 金(一)使(三)弟 買(二)波 瑠 之 写 真 集(一)。
                                 … 千金を以て弟をして波瑠の写真集を買はしむ。

 川 東 之 生 徒 有(下)以(二)千 金(一)使(三)弟 買(二)波 瑠 之 写 真 集 者(上)。
                 … 川東の生徒に千金を以て弟をして波瑠の写真集を買はしむる者有り。

Q「君怒」とあるが、なぜか。
A 一日に千里を走る名馬を買い求めさせた涓人が、五百金も使って死んだ馬の骨を買ってもどってきたから。


〈抑揚形〉
  A 且 ―― 、況 B 乎。 … Aすら且つ ~ 、況んやBをや。
               → Aでさえ~(x)だ、ましたBはなおさら(x)だ。

(例)新 庄 且 活 躍、況 松 井 乎。(新庄すら且つ活躍す、況んや松井をや)

Q A、Bにあたる語は何か。
A A … 新庄 B … 松井
Q 松井選手はどうだ(x)と言いたいのか。
A 言うまでもなく活躍するということ。

 新 庄 且 活 躍、況 松 井 乎。
                       ∥
           松 井 必 活 躍。

 死 馬 且 買 之。況 生 者 乎。(死馬すら且つ之を買ふ。況んや生ける者をや)

Q A、Bにあたる語は何か。
A A … 死馬 B … 生者
Q 「生者」をどうする(x)と言いたいのか。
A 言うまでもなく高く買うということ。

 死 馬 且 買 之、況 生 者 乎。
              ∥
           生 者 必 買 之(と世間に伝わる)
                ↓
     (その結果)名馬は自然に集まるでしょう
              ∥
           馬今至矣

Q「今王必欲致士、先従隗始」の「始」とは、具体的にどうすることか。二字熟語を2つ抜き出して答えよ。
A 師事 厚幣

 先従隗始 … まず、この私(隗)を厚遇してほしい

Q 抑揚形の基本形に直した次の文の空欄には何が入るか。

 郭 隗(=A)且 厚 遇 之、況〈  B  〉乎。

A 賢於隗者

先 従 隗 始
   ∥
郭 隗 且 厚 遇 之、況 賢 於 隗 者 乎。
                ∥
            賢 於 隗 者 必 厚 遇 之(と世間に伝わる)
                ↓
       (その結果)賢者は自然に集まるでしょう
                ∥
            賢 於 隗 者 豈 遠 千 里 哉
                ↓
            賢 於 隗 者 不 遠 千 里、而 争 趨 燕

豈 V 哉。 … 豈にVせんや→ どうしてVしようか、いや決してVしない。

 ※ 豈 V 哉 = 不レV!  豈 不レV 哉 = V!

Q 「千里馬」「死馬骨」は、それぞれ何をたとえたのか。
A 千里馬 … 賢於隗者 死馬骨 … 郭隗

 

〈 前置詞 〉 S・「前」レ ~・V・O  
 自レ~・従レ~「~よリ」… ~より・~から
 以レ~「~ヲもつテ」… ~によって・~を用いて・~で・~を
 与レ~「~と」… ~と
 為レ~「~ノためニ」… ~のために
  対レ~「~ニたいシ」 … ~に


Q 「士争趨燕」とあるが、なぜか。
A 郭隗より優れていると自負する賢者たちは、自分ならもっと燕に厚遇されるはずだと思ったから。

Q「先従隗始」は、現在ではどういう意味か。
A 言い出した者から実行しなさい。

 

(現代語訳)
 燕の人々は太子の平を立てて君主とした。これを昭王といった。(昭王は)戦死者を弔い、生存者を見舞い、へりくだった言葉遣いをし、多くの礼物を用意して、賢者を招聘しようとした。(しかし賢者が集まらなかったので)昭王は郭隗に問うて言う、「斉はわが国の混乱につけこんで、燕を攻め破った。私は燕が小国で、(斉に)報復するには力が十分でないことをよく承知している。(そこで)ぜひとも賢者を味方に得て、その人物と共に政治を謀り、先代の王の恥をすすぐことが、私の願いである。先生、それにふさわしい人物を推薦していただきたい。私自身その人物を師としてお仕えしたい。」と言った。
 (郭)隗は言う、「昔、ある国の君主で、涓人に千金を持たせて、一日に千里を走る名馬を買いに行かせた者がおりました。(ところ涓人は)死んだ馬の骨を五百金で買って帰って来ました。君主は怒りました。涓人は言いました、『死んだ馬の骨でさえ買ったのです。まして生きている馬だったらなおさら高く買うに違いない(と世間の人々は思う)でしょう。千里の馬は、すぐにやって来ます』と。一年もたたないうちに、千里の馬が三頭もやって来ました。今、王が、ぜひとも賢者を招き寄せたいとお考えならば、まず、この隗からお始めください。まして私より賢い人は、どうして千里の道を遠いと思いましょうか。(いや、千里の道も遠しとせずにやって来るでしょう)」と。
 そこで昭王は、隗のために新たに邸宅を造って郭隗に師事した。すると(それを聞いた)賢者たちは先を争うように燕に駆けつけた。

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クリスマス解放戦線

2015年11月25日 | 演奏会・映画など

 

 渡辺源四郎商店という劇団の「クリスマス解放戦線」を観た。
 青森中央高校の畑澤聖悟先生が主宰する劇団で、演劇の世界では全国に名をとどろかす青森中央高校OBがその主体となっている(と思う)。
 たとえば埼玉栄高校吹奏楽部さんのOBがバンドを作ってセミプロとして活動する、みたいななものだろう。
 三年前に、参宮橋のオリンピックセンターで、青森中央高校演劇部の「もし高校野球の女子マネージャーが青森の「イタコ」を呼んだら」、通称「もしイタ」という演目を見た。それにしても青森の高校生が東京公演をするなんて … 。
 そのときに印象に残っていた役者さん(生徒さん)が、立派な女優さんになられているではないか。
 これって、ひょっとして研究生時代から応援し続ける宝塚ファンとか、ジュニアから応援しているジャニーズファンとかと同じ感覚ではないか。
 あと、そうやって芝居を続けている若い役者さんを見ると、「案の定」という感覚ももつ。
 高校時代に演劇と出会い、どっぷりつかってしまい、芝居のない人生は想定できなくなる。
 仕事と両立しながら、地元の劇団員として精進を積んでいる分にはいいかもしれないが、中にはそれで食べていきたい、東京に出たいと思う子もいるだろう。
 しかし、楽器もそうだけど、食べていける人はほんのひとにぎりだ。
 お芝居の世界は、音大のようなシステムもほとんどないから、プロとアマの差が音楽の世界以上に曖昧なのではないか。いや、同じか。自称ミュージシャンも山ほどいるから(おれも気持ちの上ではミュージシャンだけど、仕事はちゃんとしてる。ああ、歌を作る時間がほしい)。

 作品の舞台は、「クリスマス禁止条例」が施行されている近未来の日本。
 クリスマスをこっそり楽しもうとする若者たちが集う、あるアパートの一室という設定の、表面的にはシチュエーションコメディぽい作品だ。
 しかし、設定の一つ一つ、セリフ、装飾など、舞台上のすべてのものに込められた寓意の総量はたぶん莫大だ。
 「クリスマスにどんちゃん騒ぎをする姿は、美しい日本にふさわしくない」という理由で、あれよあれよと法案が国会を通過してしまうと、その後はどんどん弾圧が激しくなっていく … という状況が徐々に伝わってくる。もろ今の政治状況を風刺している。
 そこに、都会と地方や、富裕層とそうでない人、若者と大人の格差の様相などを重ね合わせて、笑わせられながら、いつしか笑い顔がひきつっていくドラマだった。
 国語の先生らしく、掘れば掘るほど理屈と毒がわいてくるような作品で、今まで観たなかで一番畑澤先生ぽいと自分的に思う。
 
 こまばアゴラ劇場は小さいハコだが、通路も埋める超満員。当日券で最後に入って来たお客さんを、畑澤先生自ら手際よく席に導く。
 きっと学校でもいろんなイベントをしきってらっしゃるのだろう。
 部活で全国的な成果をあげている先生に対し、学校では部活しかやってないのではないかと批判する声を時折見かけるが、自分が知っているかぎりでは、校務も高いレベルでこなしてる方ばかりな気がする。
 そうか、うちの先生もそうだものなあ。
 その昔、西部地区の吹奏楽連盟がお招きして、市立柏高校の石田修一先生のお話をうかがった。
 部活の運営よりも、当時学年主任としての日々の取り組みをご紹介されていて、あとは大阪音大時代にどうやって効率よく稼いでいたかの話も興味深く、部活運営の原理も同じだというお話に感銘を受けたものだ。
 自分なりに参考にして働けたせいか、その後学年主任にはなった。全国常連への道は遠い。

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下町ロケット

2015年11月24日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「下町ロケット」

 佃航平には、宇宙飛行士になりたいという幼い頃からの夢があった。
 その夢を抱きながら大学ではロケット工学を学んでいる時、当時最先端の技術者だった大場教授の講義で「ロケットエンジンは神の領域だ」という言葉を聞く。二年生のときだった。航平はその言葉に魅了された。宇宙飛行士になりたいという漠然とした夢が、自分で設計したロケットを飛ばしたいという具体的な目標に形を変えた。
 大場研究室に所属した航平は、大学で7年、卒業後は宇宙科学開発機構の研究員として2年の時間を費やし、ついに画期的なロケットエンジンを開発する。
 しかし、そのエンジンを搭載した実験衛星ロケット「セーレーン」の打ち上げは失敗した。
 何百億円もの国費が投入されたプロジェクトだった。注目が大きかっただけに世間のバッシングも激しかった。何よりつらかったのは、自分を支えてくれていると思っていた研究仲間や上司からそっぽを向かれたことだ。責任の全て航平一人に押しつけようとする組織のありようにも失望した。
 折しも、電子機械を製作する佃製作所を経営していた父が病に倒れ、そのまま亡くなった。
 航平は開発機構の研究員の職を辞し、実家である佃製作所の社長に就任したのだった。
 佃製作所は、小型エンジンを主力商品とするようになった。新エンジンの研究開発を行いながら、実際に製品化していく。規模では大手にはかなわないものの、技術があり、性能のよい製品を作る会社として評判になり、順調に業績を伸ばしてきた。
 しかし、研究と経営とは異なる。会社がうまく回っているうちはいいが、取引先との関係に齟齬が生じ一方的に契約を打ち切られたりもする。経営に陰りが見えると、社内の空気も微妙なものになり、大手でもないのに研究開発費を使いすぎだという、航平のやり方に対する批判もうまれる。
 当面の危機を乗り切ろうと出向いたメインバンクから融資を断られた帰り道、経理責任者の殿村が「夢を追いかけるのは、しばらく休んではどうですか」と話し始める。


 ~ 「社長はまだ研究者だった頃の夢が忘れられないんですよ。だけど、もう社長は研究者じゃない。経営者なんです。社長は私ひとりが研究をこころよく思ってないと考えているかもしれませんが、社内には同じ考えの者が何人もいます。せっかく上げた利益が研究に消えていく――そう彼らは思ってます。社長がいうように研究開発の成果がいまの売上げに結びついていると理解している者はむしろ少数です。このままだと社内、バラバラになってしまいますよ。ですから――研究開発をやめないまでも経営資源をもっと他のところに回しませんか。水素エンジン絡みとかじゃなくて、もっと実用的なエンジン構造にテーマを絞れば社内もまとまるし、本当に実利に結び付くものになると思うんです。そうしましょう、社長。」 (池井戸潤『下町ロケット』小学館文庫) ~


 航平は言葉を失った。しかし腹は立たなかった。社長にここまではっきり意見するには決心がいったはずだし、同じ考えの社員も実際多いのだろう。何より、本気で会社のことを考えた上で進言してくれたのだと思えた。

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レインツリーの国

2015年11月22日 | 演奏会・映画など

 

 アンコンの帰りに、圏央道を初めて使ってみたら、久喜から川島インターまでほんとにすぐだった。1070円。一時間のイメージのところを20分ぐらいだし、道も快適だからコスパは十分だろう。254号線がなぜか大渋滞なのが残念だった。でも、東部地区が一気に近くなった気がする。
 わずかの差で県大会を逃したものの銀賞はよくがんんばったと思い、アンコン個人的打ち上げに「みかみ」さんに寄り辛味噌ラーメンを食す。麺が平打ちに変わっていた。スープとよくからまる。スープ自体も丸く熟成されてきていて、濃厚な味噌味のポタージュを生パスタで食べている感覚もあった。どこまで進化させれば気がすむのか。店主は私たちをどこへ連れて行こうとしているのか。肉厚のチャーシューが二枚入り、味玉も乗って800円は、これ以上コスパのよい食べ物がちょっと思いつかない。

 今日から公開だったと思いつくといてもたってもいられず、ららぽーと富士見のレイトショーで「レインツリーの国」を見る。
 ネット上で知り合った若い男女が恋に落ち、困難を乗り越えて互いの思いを成就させていくという有川浩さんの小説を映画化したものだ。「空の中」「フリーター家を買う」「阪急電車」を有川作品ベスト3って書いたことがありが、この「レインツリー」と、まもなくこれも映画公開となる「植物図鑑」も愛おしい作品だ。「クジラの日」も捨てがたいなあ。
 二人が困難を乗り越え、紆余曲折を経て結ばれるという展開は普通といえば普通だが、「レインツリー」は女の子が聴覚に障害をもっている。

 若い会社員の伸は、どうしても気になっている本の結末をネットで知ろうとして、あるサイトにたどりつく。そのサイトの管理人である「ひとみ」にメールを送り、やりとりしているうちに意気投合した。
 二人はメールのやりとりをしながら、自分の気持ちを素直にさらけだせる相手がこの世に存在したと、お互いに感じていた。
 となると、生身の存在にふれあいたくなるのは必然だ。二人は約束して会うことになる。
 ところがこの初めてのデートがうまくいかない。
 伸君が考えていた御飯やさんに入る。人気店で混んでいたが、席が見つかった。よしOK! と思い席に案内しようとすると「私は混んでいる店はいやだ」とひとみさんが言いだす。
 別の店に移動するが、味は今一歩だった。そのあと映画を観ることにしたが、「どうしても洋画の字幕でないと観ない」と彼女が言うので、それに合わせようとすると、つまらなそうなのしかやっていない。入ると案の定そうだった。
 もうお開きにしようとして帰り際に乗ったエレベーターで、重量オーバーのブザーがなったのに彼女が降りようとしない。
 「おまえ、いい加減にしときや!」と彼女の手をひいてエレベーターを降ろす。
 「ごめんなさい」と頭を下げたさげた彼女の耳に補聴器があることに、伸はやっと気づく。
 「耳、聞こえへんのか? そんなら最初に言うてくれたらええやん。耳が悪いから気分悪なるとか、つきあい方を変えるヤツやとか思われたなら、それが一番気分悪いわ」
 「ごめんなさい、でも一回だけ普通の女の子としてデートみたいなのしたかったから … 」
 いきなりせつなくないですか?
 
 伸は、病気のことを勉強し、気を遣いながら接しようとするが、なかなか思うようにいかない。
 伸からすれば、ひとみは、必要以上に自分の障害を不幸だと捉えているように見えるのだ。
 「自分だけが辛い思いしてるって顔しすぎやろ!」
 「あなたには私の気持ちはわからない!」
と喧嘩し、いろいろあって(急にざっくりしてしたなあ)、うまくいく(有川さんだもの)お話だ。
 
 誰かを一方的に弱者にしたり、悪者にしたり、逆にいい人にしたりすることを、徹底して排除しようとした小説だったと記憶している。
 ひとみさんを一方的にかわいそうな人にはしてないし、伸くんをただ純粋ないい人にももちろんしない。気遣いに足りない周囲の人物も多く登場するが、その人たちを一方的に悪者にすることもない。
 そのへんのきめ細かさは本当に徹底されていた。
 演出なのか、役者さんの力量なのか、脚本そのものなのか、原因はわからないが、そのへんの気遣いがやや不足しているかもしれないと感じた。
 とはいえ、それは自分の期待が勝手に大きすぎただけであって、十分によい作品だ。
 このまま人権教育の映画としても使える。ていうかこのレベルのものを見せたい。
 レイトショーで1300円だったけど、もちろん1800円でも惜しくない。

 ただなあ … 。「会おう」と言った伸のメールに、あまり気が進まない旨を伝え、あげくのはてに「私、あんまりキレイじゃないし」と書いてくる。「何言うてんのん、オレはひとみさんの中身が好きなんや」とかやりとりしてて、当日現れたのが西内まりあさんというのは … 。
 そんなことってあり得るか。たまたま引っ越した家の隣に独身のスカーレット・ヨハンソンが住んでる映画あったけど、そんなねぇ … 。近所にできたお弁当屋さんに行ったら松雪泰子さんがいたとか。
 美容院を営む伸の実家で、母親に頼んで髪を切ってもらう。
 もさっとした感じだったのが、そこで見違えるようにかわいくなる … という展開が後半あるのだが、最初の登場から「キレイでない」とは見えない。
 多部未華子さんや門脇麦さんだったら、このあたりをお芝居力できっちり演じ分けてくれたんじゃないかな。
 もちろん、西内まりあさんを見れたこと自体はうれしい。最後のファッションショー的なサービスシーンも眼福だった。

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アンサンブルコンテスト

2015年11月21日 | 演奏会・映画など

 

サックス3重奏チームが、銀賞いただきました!

ありがとうございました!!

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NOBU(2)

2015年11月18日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「NOBU(2)」

 火事の後、時間の感覚さえ忘れるほど打ちひしがれてしまった松久さんだったが、ふと気づくと自分の周りにはいつもキャッキャッという子どもたちの笑い声があった。
 幼い娘たちは、父が仕事に行かず家にいるということがうれしかったのだ。
 もう、焦ってもしょうがない、一日一歩、一日1ミリでもいいから前に進もうという気持ちにさせたのは、この無邪気な笑い声と、そばにいてくれる妻の存在だった。


 ~ 今でも、このときのことを思い出すと体が震えます。けれど、二十代の終わりにどん底まで落ちる体験をしたことが、僕をシンプルな生き方に導いてくれたのかもしれないと思います。お店をたくさん出したいとか、お金持ちになりたいとかの目標ではなく、ただ目の前のお客さんによろこんでいただきたくて一生懸命料理をつくり、サービスをする――そんな生き方です。 (松久信幸『お客さんの笑顔が、僕のすべて!』ダイヤモンド社) ~


 アラスカの新店舗は保険にも入ってなかったので、文字通り一文無しに、いや借金だけの身になった。知り合いに帰りの飛行機代を借りて帰国すると、妻子は実家に預け、松久さんは単身ロスアンゼルスに渡る。ペルー時代に知り合った寿司職人が呼んでくれたのだ。
 「三つ輪」という店で一心に働きながら借金を返し、実家に仕送りもした。2年経って永住権が取れると、「三つ輪」のおやじさんは、「おまえはもっと自由にやるべきだ」と手放してくれ、「王将」という日本料理店に働き場所を見つけた。
 ここで松久さんは、ペルー・アルゼンチン時代の経験をいかしながら、新しい日本食のメニューを試し始める。日本の寿司そのものでなく、一手間加えて生魚に親しみのない人たちにも食べやすいものをつくった。今もNOBUの看板メニューである、「銀ダラの西京焼き」が完成したのもこの時だった。「王将では珍しい料理が食べられる」と評判になり、行列ができるほどになった。
 1987年、ついに松久さんは独立し、ビバリーヒルズに一軒の和食店をオープンさせる。これが現在の「MATSUHISA(マツヒサ)」である。
 場所柄から、ハリウッドスターたちも訪れるようになった。なかでもロバート・デ・ニーロ(皆さんはあまり知らないかもしれないけど、映画史に残る大スターです)は、足繁く店を訪れ、一緒にニューヨークで店を出そうと誘われた(4年後に「NOBU NEW YORK」として実現する)。


 ~ 寿司職人になりたいという夢と、海外で働きたいという夢は、たしかに若い頃から抱いていました。しかし、まさか世界中に自分の名前のついたお店をもつなんて、まさか自分の名前のついたホテルができるなんて、考えてもいませんでした。 … 人生は、やってみなければわからない、努力しなければ答えは出ない。必ず失敗もするし、失敗からも大事なことを学べる。ただ、常に自分は「熱い自分でいろ!」と命じてきました。 ~


 杉戸町の悪仲間とバイクを乗り回していた高校時代の姿を、今の松久さんが見たらどう声をかけるだろう。みなさんは、20年後、30年後の自分にどう声をかけられたいだろう。

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世界中がヒトカラ

2015年11月17日 | 日々のあれこれ

 

 多木浩二「世界中がハンバーガー」は、ファーストフード店(とくにマクド)が世界中に広がっている現象を取り上げ、食文化としてだけではなく、ポストモダン的な人間関係の様相を説明した秀逸な現代評論だ。
 なぜか今年の一年生の教科書からなくなってしまったので、プリントで問題形式にして勉強している。
 宮廷社会における晩餐会、市民社会における家族団欒の食事、そしてファーストフードの食事。
 それぞれの食事の光景は、前近代、近代、現代それぞれの人間関係の様相を象徴する。
 現象がどんな本質を表しているのか考察するのが評論ですね … と教えながら、ふと思いついたのはカラオケの変遷だ。
 カラオケが誕生して一般的に使われ始めたのは、自分が高校生ぐらいの時だろうか。
 教室で話しても生徒さん方はピンとこなかったらしいエイトトラック(おれの説明が悪かったのか)。
 カセットのでかい版なんだよと言っても、カセット自体がもう過去の遺物になっている。
 で、当時「カラオケ」と言えば、不特定多数の大衆の前で歌うという行為と結びついていた。
 村の夏祭りの企画にカラオケ大会があったし、酒場で歌うにしても、知らないお客さんの前で歌うのが普通だった。とはいえ全く見知らぬ人しかその場にいないわけではないから、その都度変化する疑似共同体を感じながら歌っていたのだ。
 働き始めてしばらくしてカラオケボックスが誕生した。エイトトラックのカセットを出し入れする時代は終わり、レーザーディスクに代わる。カラオケが置いてある酒場にも通ったが、仲の良い同僚達とカラオケボックスに繰り出すようになると、その気楽さが楽しかった。他のお客さんに気を遣わなくてもいいし、少人数で行けばたくさん歌える。徐々に通信のシステムも導入されていったが、初期の通信は音質がレーザーよりかなり劣った。
 そのシステムも圧倒的に向上した。
 カラオケボックス自体、種々様々な形態をとるようになる。豪華な部屋と食事を提供する高給店もできたけど、少人数を対象にする部屋の比率がだんだん大きくなっていったのではないだろうか。
 現在、カラオケボックスを一人で利用するいわゆるヒトカラは、別に寂しい人のふるまいではなくなった。
 私めも遅ればせながらデビューした初めての夏の日、ちょっとだけ気恥ずかしさを感じながら受付したけど、お店の人は不思議そうな顔はしてなかったと思う。
 親しい仲間で行っても、多少は気を遣う。かりに二人だったとしても交互に歌うのを原則にしたいと思うし、年の差があると、さすがにこの歌は引かれないかなと選曲も考える。
 一人はそういうのが百%ない。なさすぎるのがさびしいと言えばさびしいが、それ以上に楽なのは、たしかで、ちょうどハンバーガー店で好きに食べている気楽さと同じだ。
 ずっといたければいればいいし、同じ曲を三回練習してもいい。
 カラオケボックスが「カラオケの近代化」だとすれば、ヒトカラ、ワンカラは、まさにポストモダンだ(ちなみにワンカラ店は、居住スペースが狭いのが自分には難点だった)。
 食事の光景以上に、現代社会の人間関係の様相を象徴的に表している。
 カラオケに関する論文も無限にありそうなので、ちょっと調べてみようかと思った。

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