水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

ルイ・ブラス

2016年04月30日 | 演奏会・映画など

 

 「ルイ・ブラス2016」は、小塚類先生を慕う若者たちによって企画された一回限り(たぶん)の演奏会だ。
 太川陽介ファンの集いではない。 
 若者達といっても中心人物たちは、アラサーかな。全国各地で吹奏楽指導者として活躍されている小塚類先生は、数年前まで中央大学を指導されていた。そのころ薫陶を受けたメンバーたちが集まったのだから、上手に決まっている。本校OBもステージ上にたぶん4人。ていうか彼らが企画の中心だった。
 なので、会場がウエスタ川越であり、うちの金管メンバーもショスタコービッチ祝典序曲のバンダとして出演させてもらった。いい経験だったにちがいない。
 祝典序曲に、課題曲1と3、ホルストの第1組曲、アルメニアンダンス1&2つまり全曲というプログラム。
 こんな上質な演奏で、古典のような作品を生で聴けることをちゃんと自覚していたら、近隣の中学高校さんに強くアピールしておくんだった。うちの子たちに聴かせることができたことをよしとしよう。
 次があれば … ってどうかな、ないかな。メンバーがその一回性を自覚していることも、今日の演奏を素敵なものにしていた大きな要因ではないだろうか。
 もう、みんな大人で、今日出られるかどうか微妙だった人もいるはずだし、お金もかかっているだろうし。バンダふくめると100人以上のメンバーがよく集まったものだと思う。
 企画しきったうちのOBもえらい。そんなOBの基礎をつくったおれもえらい。
 OB中心のバンドが上手な理由は、自分たち自身、メンバー、そして指導者について、お互いによくわかっていて、さらにそれを時間の蓄積のなかで相対化できるからだろう。
 年をとってみて、こんな簡単なことが何であの時できなかったのだろうと気づくことがある。
 ほんのちょっと角度をかえてみたら、何でもなかった、みたいに。
 もちろん、楽器だけでなく、仕事でも、人間関係でも。
 なかなか気づけなくて悶々とするのが若さで、その経験自体、人の成長には必要だけど、年をとり別の見方ができるようになると、後悔と恥ずかしさがつのるときもあるが、それを受け入れるしかないと思ったとき大人になれる。
 すべてを悟ってしまうと、大人どころか神に近づいてしまうので、それもおもしろくない。
 その年その年で、あきらめたり、あわあわしてみたり、どうにでもなれと思ったり、どうしようもなくなったりするとこが人生なんだなあと思う自分が歌ったので、「人生ぇってえぇえ、ふしぎぃな ものですねぇ」という歌詞が、昨日農協祭りにおこしいただいた皆様の心にがつんとしみたのであろう。

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かわごえ春の農業まつり

2016年04月29日 | 演奏会・映画など

 

ありがとうございました!!

 

 

  かわごえ春の農業まつり2016  ステージ発表

日 時 4月29日(祝)10:00~10:30

会 場 農業ふれあいセンター(川越市伊佐沼887)

演奏曲 「宝島」「君の瞳に恋してる」など

 ☆ 会場に駐車場はありませんが、埼玉医大前臨時駐車場より
   会場まで無料送迎バスが運行します

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笑顔(3)

2016年04月27日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「笑顔(3)」


 少年を見て思わず後ずさったことを、浜田さんは後悔した。
 重度の障害を持った少年が、ラーメン屋さんのお手伝いをしたいという素直な気持ちからとった行動だったのだ。
 自分を恥じるとともに、「人は誰でも人のためにできることがあるんだよ」と教えられたような強い衝撃を受けた。
 施設の給食室が完成するまでの約一ヶ月間、ラーメンを出前するたびに、少年をはじめ、多くの子供たちが岡持ち運びを手伝ってくれた。
 給食室が完成した後は、施設にいく理由がなくなり寂しくなった浜田さんは、施設の子供たちと職員さんたちを全員店に招待することにした。
 20人も入れば満員の店である。そこに50人近くの人が入り、立ったまま目をキラキラさせながらラーメンをすする。
 施設の子のほとんどは、外食する経験などなかったのだ。
 「おじちゃん、おいしい。ありがとう」と喜ぶ子ども達の様子を見ると、えもいわれぬ感動が浜田さんをおそった。
 この出来事があってから、浜田さんは機会を見つけ、いろいろな場所にラーメンを提供しに出かけるようになる。
 その過程で多くの人と出会い、仲間が生まれ、志を同じくする仲間とボランティアNPO法人「ラーメン党」を立ち上げることになった。


 ~ 11年の東日本大震災では、南三陸町、石巻、気仙沼、いわきなど、宮城、福島両県の避難所約20カ所で炊き出しを行った。12年以降も毎年、仮設住宅などで炊き出しを続けている。今年の3月11日にも東北を炊き出しで回り、帰宅した直後の地震だった。
 「ありがたいのは、東北からすごいエールがあること」。浜田さんのラーメンを食べた東北の被災者たちから「生きてるか」「何が必要だ」と連絡が入った。すでに、東北の被災者有志が「困った時はおたがいさま」と支援金を募り始めているという。全国の被災地での1杯のラーメンの縁が、熊本に集まっている。
「だからこのラーメンは、東北の被災者のみなさんからの炊き出しです」。復旧、復興へは長丁場になりそうだが「体力が続く限り、ラーメン作ります」と話した。 (「日刊スポーツ」2016年4月20日 ~


 自分の作ったラーメンで、たくさんの人が幸せになってほしい。 
 その目的のために、被災地にでかけていって炊き出しを行うのは、自分の中ではある意味当然のふるまいだ。
 えらい、見習いたい、尊敬する … と他人から賞賛を受けるだろうが、浜田さん自身にすれば、自分のやりたいことを普通にやっているだけに違いない。

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笑顔(2)

2016年04月25日 | 学年だよりなど

 

    学年だより「笑顔(2)」


 鹿児島県の種子島で生まれ育った浜田さんは、高校卒業後、島にある雪印乳業の工場に就職した。幼い頃神童と呼ばれるほど学業優秀で、自分で詩集をつくるほど文学好きだった浜田さんは、早稲田大学文学部への進学を考えていた。しかし高3の秋に父親が急逝する。自身さんはもとより、弟たちも中学を出たら働けと言う親戚たちを、自分は働くから弟たちは進学させてほしいと説得し、一家を支えることとなった。
 5年後、営業職として長崎に転勤しないかという打診を受ける。妻帯者として転勤すれば手当が高額になると聞かされ、密かに憧れていた同僚の女性に「一緒に行く?」と廊下で声を掛け、二週間後に結婚すると長崎に向かった。
 はじめは都会の暮らしと、営業の仕事そのものに慣れることができなかったが、奥さんの支えもあり徐々にその力を発揮していった。取引先の会社の社歌を作詞してあげたり、自作の詩集を再びつくるようにもなった。
 35歳でサラリーマン生活をやめると、お茶の販売会社を立ち上げる。軌道に乗ったその会社を親族にまかせ、今度はあらたにスーパーマーケットの経営に乗り出す … 。
 順調のはずだったが、親族にまかせていた会社が立ちゆかなくなっていることがわかった。その時点では既に手を離れていた会社ではあるが、任せきりにした自分に責任があると思い、負債の全てを一人で背負うことにした。
 浜田さんは、離婚届を勝手に書いて役所に提出する。種子島の実家にもどってほしいと妻に頭を下げると、「あたしはずっとあんたのファンやから一緒におる」と涙ながらに奥さんは答える。
 「ねえ、なんで二人でラブラブごっこやってんの、大事なこと勝手に決めて」と口を尖らせたのは、中3だった長女である。「おもしろそうやから、あたしたちもお父さんと一緒にいてやるわ」と3人の娘たちが笑いながら話す。
 自宅を手放し、落ち着くところを探し、あてもなく九州各地に車を走らせ、ガソリン切れで車をとめた高速道路の高架下、ワンボックスカーで一家は生活を始めた。熊本県の益城町である。
 近くにラーメン屋があった。ラーメンを食べに出かける余裕はなかったが、店の休憩時間に顔を出し、新聞を読ませてもらった。お礼にと皿洗いを手伝ったりしているうち、いつしか店主と昵(じっ)懇(こん)となり、実は焼き肉屋をやりたいというその店主から店を譲り受けることになった。
 平成元年、ラーメン屋を始めて4年目の春のことである。店の近くに障害者福祉施設ができることになり、完成間近のその施設に初めてラーメンを出前に行った。


 ~ 完成間近の施設から出前の注文を受けた私は、岡持ちを下げて玄関に入りました。
 少年がこちらを見ています。やがて彼は何かを叫びながら突進してきます。私は後ずさりましたが、少年はなおも何か言いながら、しかし静かに手を差し出したのです。そして岡持ちを握ると先に歩き始めました。 (濱田龍郎『貧者の一灯』熊日出版) ~

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笑顔

2016年04月21日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「笑顔」


 NPO法人「九州ラーメン党」代表の浜田龍郎さんは、二十数年にわたり、全国各地の被災地でラーメンの炊き出しを行う活動を続けている。
 先の東日本大震災においても、いちはやく現地にかけつけ、17箇所で炊き出しを行った。
 あまりにも悲惨な状況を目の当たりにし、一年や二年で片付くようなものではないことを身をもって感じた。継続して支援を続けていきたいと考えた浜田さんは、それ以来、毎年東北地方にでかけ、各地の仮設住宅を訪ねては、交流会や炊き出し活動を行っている。
 先月も、宮城県の石巻市、福島県の郡山市に出かけていた。活動を終え、ボランティア仲間たちと、はるばる郷里の熊本県の益(まし)城(き)町にもどった直後、町を大地震がおそった。先週14日のことである。そして16日深夜、本震とよばれる震度7に再び見舞われる。余震はおさまる気配がない。
 益城町はほぼ壊滅状態となった。浜田さんの自宅も損壊した。
 そんな中、浜田さんは、18日には自宅付近で炊き出しを開始していた。


 ~ 「たまたま被災者になりましたけど、逆に被災地まで出向く時間をかけず、発生直後から動き出せました」。
 雲仙・普賢岳の噴火以来、阪神・淡路大震災、東日本大震災など、全国の被災地で通算8万7000杯のラーメンの炊き出しを続けてきた益城町のNPO法人「九州ラーメン党」代表浜田龍郎さん(71)は19日、スープの仕込みをしながら笑顔で言った。
 14日夜の前震、16日未明の本震で、益城町は壊滅的な被害を受けている。浜田さんの自宅もメチャクチャだ。それでも18日から、ラーメンの炊き出しを始めた。地震発生以来、近所の住民たちに200食のラーメンを振る舞った。「みんな食べていない。避難所では家族にパン1個とか冷たいおにぎり1個。温かい食事で喜んでもらえました」。
 麺は冷凍麺を常備しており、スープや、わかめ、キクラゲなどの乾物は、いつでも被災地に飛べるように用意してある。水は、良質な湧き水がある。浜田さんが炊き出しを始めると、近所の知人たちが、次々に食材を持ち寄ってくれた。植木町からラーメン店の友人は麺を、近所の農家の友人はネギやトマトを持ち寄ってくれている。 (「日刊スポーツ」2016年4月20日) ~


 自分自身が被災民になることを、浜田さんはイメージしていただろうか。
 そうなってみて「かえって被災地に出かける手間がはぶけた」と言える心の持ちようは見事としか言いようがない。
 他人のために何ができるのか――。それを第一に考える人生を送っていると、かくも人のメンタルは強化されるのかとも、教えてくれる。
 もともとは普通のラーメン屋さんだった浜田さんだが、ある出来事をきっかけに、ボランティア活動としてラーメンを届けるようになった。
 ラーメンは、生活の糧ではなく、被災地の人に温かいものを届けたい、つかの間でも笑顔をとりもどしてほしいという願いのこもったものになった。

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訓読練習プリント

2016年04月19日 | 国語のお勉強(漢文)

 

 例年、新入生部員の9割が初心者なので(今年は5人も入ってくれた)、全員に一通り楽器を体験してもらってから、パートを決めている。
 同時に、各パートの先輩が適性をみてチェックし、全部回ったあとで、本人の希望と、先輩達からのリクルートによってパートが決まっていく。
 ただトランペットは希望と適性とが相当合致してないと、なかなかつらい思いをすることが過去多かった。
 一昨年からかな、楽器のレッスンの先生もよんでチェックしてもらうことで、トランペットメンバーの上達スピードがあがったと思う。今日はその日だった。
 その体験コーナーのあとは、今日は楽典の講義。どうすればリズムが生まれるか、四分音符とは何か、音階って何か … 。楽しいけど、授業より一生懸命やるので(あっ)、ちょっと疲れた。

 にもかかわらず、漢文の授業では毎回ちょっとした確認プリントをやろうと急に思いついて、つくってみた。
 重要例文集の音読、確認テスト、問題(演習)を解く、解説を聞く、本文の音読というパーツの組み合わせを基本パターンAとして今年は進めていく。


訓読の練習1

1 其 母 使 女 問 父 (其の母 女(むすめ)をして父に問はしむ。)

2 天 帝 使 我 長 百 獣 (天帝 我をして百獣に長たらしむ。)

3 魯 欲 使 楽 正 子 為 政  (魯 楽正子をして政(まつりごと)を為さしめんと欲す。)

4 真 希 好 彼 所 作 餃 子 (真希 彼の作る所の餃子を好む。)

5 男 得 一 女 所 解 毛 衣 (男 一女の解く所の毛衣を得(う)。)

6 波 瑠 為 主 役 (波瑠 主役と為る。)

7 我 為 先 生 所 叱 (我 先生の叱る所と為る。)

8 波 瑠 為 国 民 所 愛 女 優 (波瑠 国民の愛する所の女優と為る。)

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そもそも

2016年04月18日 | 日々のあれこれ

 

 現代文2こ、漢文1こ。
 年度初めの授業は、つい根本的なことを語ってしまう。そもそも漢文とは、そもそも評論文とは … 。 でも「そもそも論」は、国語では大事だ。
 ふだん本を読むのなら「○○という小説は面白かった」で終わればいいけど、授業の国語での「読み」は、その経験を転移できなければ意味がない。
 ある文章を読解したなら、その時に身につけた読み方を、他の文章を読むときにも用いるようにする。
 そんな読み方を教えること。
 入試の個別相談をしていると、国語が苦手でなかなか成績があがりませんという訴えを聞くことがある。
 不思議と数学や英語のそれはあまりない。国語が圧倒的に多いには、成績をあげる対策がはっきりしないことに第一の要因がある。
 英語や数学は、かりに成績が悪くても、何をどうすればいいのかが見えやすい。
 国語でそれが見えにくいのは、中学校の授業で「その文章」の読解を行っても、「他の文章」にどう役立てるかが見えにくいのではないだろうか。
 「その文章」をわかるために、どんな読み方をすればいいのか。したのか。
 一つでも何らかの方法が身につけば、「他の文章」を読む際に役立てられる。
 お金に困っている人がいたとき、お金を上げることより、お金をかせぐ方法を教える方が根本的に役に立つのと同じだ。
 それにしても、相変わらず今日もいい授業ができた。こんないい授業を公欠で聞けない子が何人かいるなんて。
 四月の第二週にもう試合をやってる部活って、なんなんだろ。新しいクラスに慣れたり、勉強の意識を根付かせたりする時期としてとらえるべきなんじゃないだろうか。
 そういう意識があまりにないことが、選手の不祥事を生む土壌につながっていると思ってしまうのは、考えすぎかな。

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志(3)

2016年04月18日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「志(3)」

 島田紳助氏は、自分の作った教科書をもとに、相方の松本竜介氏に講義をした。
「これからの時代、何が売れるのか」「どうやったら売れるのか」「俺はこうしたい」 … 。
 もし自分が間違っていて半年経っても結果が出なかったらすっぱり諦める、でもまず半年付き合ってくれと語り、練習を重ねた。
 そうして臨んだ「NHK漫才コンクール」。紳助竜介の芸歴では普通は出場させてもらえない。
「のちのちチャンピオンになる俺らなら、新人相手の戦いなどへでもないから」と会社を説得し、「そこまで言うならすきにせえや」ということになったのだ。
 予選を通過して決勝の8組に残ったことは、紳助には当然のことだった。そして本戦。
 3位と発表されたとき、紳助以外の関係者はみな、「まさかここまでとは」と思ったはずだ。
 しかし紳助氏は負けた悔しさと怒りで、表彰式で「こんなもん、いらん」と花束を投げつける。
 優勝して泣いている先輩にまで「泣いてる場合ちゃうで、ボケコラ」と暴言をはく。
「ほんとうの一番は俺等やいうことをこれから証明したるわ!」とNHKの担当者達に言い放ち会場を後にした。ずいぶん後になって、さすがにあの時はまずかったと紳助氏は考えたそうだが、それほど当時は、自分に自信があったということである。
 その自信には、どんな根拠があったのか。
 彼らが後に大成功を収めることなど、誰も予想していない。彼ら自身も、何か科学的根拠があって、つっぱっていたわけではない。
 何事も、そして誰にとっても、最初の自信に根拠などない点は、同じではないだろうか。
 根拠のない自信を、ほんとうにいけるという確信にかえるものは何か。
 それは、これだけやっている、ここまでやったという努力しかない。
 自分の漠然とした夢を、なんとなくやれそうだという思いを、確かな「志」に形づくっていくには、地道な努力を積み重ねるしかないのだ。


 ~ 君たちの才能は「1」かもしれないし、「5」かもしれない。
 でも、それは自分たちで得たんじゃない。親から与えてもらったもの、神様に与えてもらったもの。だけど、努力は自分で覚えるものです。
 誰でも頑張って「5の努力」をすれば、「5の筋力」を得ることができます。
 それを得ることができたら、この世界が駄目でも、他の世界で絶対成功できます。
 なぜか。この世界が駄目だったら、次に見つけた新しい世界に「5」をかける。それが駄目だったら、また次に見つけた新しい世界に「5」をかける。
 そうやっていったら、そのうちにちゃんと自分に合う世界が見つかって、成功するんです。
「5の筋力」を持っているやつは時間はかかっても絶対成功する。 (島田紳助『自己プロデュース力』ヨシモトブックス) ~


 成功した人は、努力している。ごはんを食べるように、歯を磨くように努力している。

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モヒカン、故郷に帰る

2016年04月16日 | 演奏会・映画など

 4月16日。
 結局18人が入部カードを出してくれた。大切な仲間だ。
 さらに迷っているからと見学に来た子も一人いた。例年、楽器決めが終わるころに来る子もいるので、まだまだ地道に勧誘し続けたい。
 はじめての自由曲合奏。真島俊夫先生の新作「富士山」は、やりがいありまくりだった。
 いい感じになる予感がする。曲が届いたとき、スコアを読んでうるっと来てしまったのは、ひさしぶりの感覚だった。
 練習後、急いでららぽーと富士見に向かい、「モヒカン故郷に帰る」を観る。券売機にカードいれたら6ポイントたまっていたので、ただで見れた。ラッキーだったけど、見終わってご祝儀出したいくらいいい映画だった。
 松田龍平さんは、じょうずだなあ。とぼけた味わいがますますお父さんぽくなっている。
 あと、前田敦子さんの出る作品で、はずれたことがない。この作品でもいい仕事している。少人数の中学校吹奏楽部が登場するが、絶妙の「へたさ」でリアルだった。

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金曜日

2016年04月15日 | 日々のあれこれ

 4月15日。
 新入生勧誘の最終日。例年に比べ、迷いながらふらふらしている一年生が少なく感じる。見学者は15人くらいだったろうか。もう少しきてくれるといいんだけどなあ。個人練習のあと基礎合奏を30分。終えて、ひさしぶりにバランス整体院にいく。どこかがひどく痛いというわけではないのだが、からだが歪んでいる感覚があったので。ごぶさたしてますとベッドの横に立つと、「ああ、水持さん、ひどいな」と見た瞬間に先生が言う。ここも、ここもと押されてうめき声をあげ、横たわって10分ほどボキボキしてもらい、どうですかと立ち上がったとき、背が5㎝くらい伸びた気がした。鏡に映った顔も5歳は若返っている(当社比)。これで今週も無事おえられそうだ。

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