水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

神様メール

2016年05月31日 | 演奏会・映画など

 

 たとえば千年後、われわれの子孫たちはどう暮らしているだろうか。ちゃんと生息してるかな?
 千年前に藤原道長がぶいぶいいわしてたように、いま安部首相ががんばっているから、千年後もきっと誰かが中心となって切り盛りしてくれてるだろう。「国」という概念は残っているかどうはあやしい。
 国の保護下にある伝統文化、たとえば能や狂言、文楽のような形で、ある帝国の庇護のもとに「日本」という文化国家が継承されている … みたいな状況になっている気もする。すでに今もそれに近いと言うこともできるのだが。

 千年後、「はて神はどのように世界をつくりたもうたのか」と研究した人が、こういう光景だったに違いないとこの映画の映像を発表したなら、未来の人たちはものすごく納得するような気がする。
 ブダペストに住む神様一家。地下の一室で、神は自身の寂しさをまぎらすためにパソコンを用いて「人」を作り出した。
 そのまんまじゃ面白くないし、神を有り難がらないから、不安や不幸を意図的に作り出す。
 神が、綿密に不幸の法則を作り出している様子は笑える。
 「第1526条:パンは必ずジャムを塗った側が下になって落ちる」「1678条:スーパーの列は自分が並んだのと違う列が早く進む」 … 、あとなんだっけ。
 そういうのを嬉々として神様は書いてはエンターキーを押している。
 地下室には世界のジオラマもあり、時々飛行機を落としてみたり、バスを転落させてみたりし、種々の不幸を作り出し「おお神よ」と嘆く人間を見て笑っている。
 そんな悪趣味な神である父に嫌気がさし、ビールを呑んで泥酔しているすきに、娘のエアは家を出て人間界にやってきた。人間界への行き方は亡くなった兄のJC(イエスキリスト)に教えてもらった。
 洗濯機を40度のやわらか洗いにセットしてドラムに入り、一時間這っていけば人間界のコインランドリーに出られると。

 洗濯機が異世界への通路になる発想は普遍的でおもしろい。邦画「バブルへGO」では広末涼子がスエットに着替えて洗濯槽にとびこんだし、宅間孝行の舞台「晩餐」も、未来からやってきた息子が洗濯機の中から訪れる。
 洗濯機にはそんな連想をさせる何かがあるのだろう。ていうかほどよいからね、装置として。

 娘のエアを追って、父親の神も人間界に降り立つ。しかし、そのふるまいの強引さと傲慢さは、頭のおかしい人にしか見えず、あちこちで騒ぎをおこしては結局捕まり、ウズベキスタンの収容所に送られてしまうのだ。
 これも風刺がきいていておもしろい。実際に神様がそばにいたら、これくらい嫌なヤツで、これくらい頭おかしい人だろうなと思ってしまう。

 エアは、家を出る前にとんでもないことをしていった。
 父のPCをいじって、人間のスマホに余命を送ってしまったのだ。
 ある日神様からメールが届く。「あなたの余命は残り5年二ヶ月です」「22年です」「84時間です」 … 。
 いったい誰がやった悪質ないたずらかと世界中で問題になり、犯人捜しも行われるが見つからない。
 送られたメールが、すべて現実になることを人々が気づくのに時間はかからなかった。
 こんな元気な俺がすぐ死ぬわけないだろとインタビューに答えていた若者に、トラックがつっこんでくる。余命数十年の青年がビルから飛び降りてみたら、歩いてきた人にぶつかって助かる。
 寝たきりの年老いた夫のスマホに「余命22年」と表示され、献身的に介護していた若い妻のスマホには「余命3年」と表示される。もう少しの辛抱だと思ってたのにと、怒り狂う妻を笑うことはできない。
 紛争地帯では、ばからしくなった兵士達が戦闘をやめてしまう。

 余命を知るということはどういうことか。
 そこで初めて人は自分の生き方を見つめ直す。
 自分はどう生きたかったのか、生きたいのか。そして人々は残りの人生を大切に生きようとする。
 余命についてはどうすることもできないと悟った人々は、誰と一緒に最期を迎えるかについての努力もする。
 そんな世界に降り立ったエアが、生き方を変えようとしている人たちによりそい、その人たちの身体に流れている音楽を聴き、彼らの物語を記録していく。それが「新・新約聖書」になると。
 
 設定も、そこで描かれる「神」の姿(これ、たとえばキリスト教信者からクレーム大丈夫かなと思うほど)も、はちゃめちゃなのだが、通奏低音のように存在する哲学は(たぶんだけど)深い。まことに映画らしい映画だ。

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ドーパミン(2)

2016年05月30日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「ドーパミン(2)」


 日常的にドーパミンが出やすい状態は、どうやってつくればいいか。それにはコツがある。


 ~ ドーパミンはタダなのですが、ドーパミンを出すには、実はちょっとしたコツがいります。
   … どういう時にドーパミンが出るかというと、「サプライズ」の時に出ることがわかっています。簡単に言うと、ドーパミンはちょっと意外なことがあると、出るのです。
 子どもの頃はサプライズがたくさんあります。
 子どもというのは、この世の中のことをあまり知りません。だから、経験したことがない、初めてのことがたくさんあります。
 たとえば2歳の子どもは今年の春、物心ついて初めて桜を見るわけです。赤ちゃんの時も見ていたかもしれないけれど、その時はあまりよくわかっていなくて、今年の春、初めて「桜っていうのはなんなんだろう」と思って見るわけです。
 「さまざまなこと思い出す桜かな」という松尾芭蕉の旬がありますが、私たち大人も桜を見て、昔のこととかいろいろなことを思い出します。ですが、物心ついて初めて見た桜は、子どもにとって大きなサプライズです。この時にドーパパミンが出ます。
 同じように、初めてイチゴを食べた子どもの脳を想像してみてください。皆さんはイチゴを食べ慣れていますが、子どもは生まれて初めてイチゴを食べるわけです。赤くて三角をしているものはなんなんだろう。そういう味のものがあることも知らないで、おっかなびっくり食べてみます。初めてスイカを食べた時、初めてバナナを食べた時、子どもの脳では何が起こっているかというと、ドーパミンが出ているのです。
 ドーパミンは初めてのことをした時に出るのですが、それはちょっと不安になるくらいの初めてのことでないとダメなんです。 (茂木健一郎・羽生善治『「ほら、あれだよ、あれ」がなくなる本』徳間書店) ~


 自分が理解できる範囲内のもの、結果がわかっているものをやるとき、ドーパミンは出ない。
 なんかよくわからないけど、これからどうなるの? どこに連れてってもらえるの? 何が自分にもたらされるの? というドキドキする状態のとき放出されている。
 「素直に勉強に取り組むタイプは伸びる」と前に書いたが、脳科学的にも説明がつくだろう。
 提示された新しい問題に素直に向かい合っているときは、初めてイチゴを食べる状態なのだ。
 これを解きなさい、これを読みなさいと指示されたとき、「これって何のためにやるんですか?」「やって、何かいいことあるんですか?」という人には出ない。
 そもそも「学ぶ」とはどういう状態を指すのだろう。
 それまで知らなかったこと、自分にないものを身につける変化のことを言うはずだ。
 だとしたら、それがどういうものかわからないものをまま、とりあえず言われた通りのみ込んでみることではないか。何かよくわからないけど、自分を変えてくれそうなものに人はドキドキする。ドーパミンが放出され、前頭葉が活発化し、どんどん吸収していく。

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キングズ・シンガーズ

2016年05月29日 | 演奏会・映画など

 

 キングズ・シンガーズ。1968年に、ケンブリッジ大学を構成するキングズカレッジの学生によって結成されたコーラスグループである。依頼メンバーが入れ替わりながら現在まで半世紀近く活動を続け、世界各国でコンサートを行い、グラミー賞を二回受賞している … 。

 幼いころからダークダックスやデュークエイセスが好きだった。あ、ボニージャックスもだ。
 高校時代には、デュークエイセスの福井公演に行って感激した。後に本校の入学歓迎演奏会でよぶことができたが、その福井公演の感想を直接告げるまで20年かかった。
 キングズシンガーズをNHKFMで初めて聞いたのはたまたまだったのだろうか。
 あまりにも厚く、豊かなハーモニー。今は、どんなに難しいコードで歌っているか理屈ではわかるが、当時はただただすごいと感じるだけだった。
 ラジオから録音したカセットテープを聞くのだから、音質自体は今とは比べものにならなかったはずだ。でも何度も聞いた。テナー、バリトン二人、バスという普通の四人編成のうえに、裏声で歌うカウンターテナーが二人配置された六人編成。音楽的には最大限の編成だ。しかもアカペラ。
 今でこそ、アカペラのコーラスグループは山ほどあるが、キングズシンガーズが草分けと言っていいのではないだろうか。当時はボイパなんて言葉もなかったと思う。
 高校時代に聞いていた歌声は、たぶん創世記のメンバーだった。生で聴きたいと思ったかな。あんまり思わなかったんじゃないかな。まさか本場に行くことはないし、仮に日本公演があったとしても東京まではなあという感覚だったろうし。
 30年以上経って初めて、彼らのコンサートに行けた。場所は紀尾井ホール。
 自分にはあまりなじみのない美しい音楽ホールだ。そういえば、亡くなった真島俊夫先生が「地球」という新曲を発表されたのを聴いたのはここだった。
 当然、創世記のメンバーは一人もいなくて、予想以上に若いメンバーだった。パンフレットを見ると、2010年とか2014年に加わった方もいる。
 歌声も若い。もちろん上手い。いや、上手い下手を云々するレベルではない。
 クラシカルな彼らのオリジナル作品、世界各国の民謡(日本も含めて)、ビートルズ、アメリカのポップス、どの楽曲をとっても、クラシックの上品さと、ポップスの華やかさがほどよく混じり合い、会場一杯を包み込む倍音に身を委ねてしまう。
 アンコールの「ダニーボーイ」「ふるさと」は、さすがに決壊してしまった。
 年配のお客さん比率が高かったが、親に一緒にお子さんもけっこう目についた。入場できたの? というくらい小さい子もいたのだが、みんなちゃんと聴いている。
 都会のお父さんお母さんは、こんな音楽を子どもに聴かせるのだなあと別のところにも感心した。うちも一回サントリーホールのオケに連れてったな。あとミューズの林家たい平師匠も行ったか。もうどこもついてきてくれない。

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ドーパミン

2016年05月27日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「ドーパミン」


 体育祭お疲れ様でした。三年生の強さはひしひしと感じただろうが、十分に闘えたという実感ももてた大会ではなかっただろうか。来年は、下級生を圧倒する力を見せよう。そのために、この一年間、人としてがっつり成長いこう。
 そのためには、毎日脳内にドーパミンを放出しまくって、勉強、運動、行事、友人関係あらゆる面で前向きに取り組んでいく必要がある。
 「文武両道」というと、言葉は古くさい(実際、司馬遷『史記』にまで遡るらしい)が、脳内物質の働きから見ても、理に適ったありようなのだ。
 部活で今一つ成果が出ない、人間関係も煮詰まっている、何より時間がとられている、よし部活をやめよう … という発想はありがちだ。
 心機一転うまく運ぶ場合もないことはないが、気持ち的にマイナスのままだと、勉強もはかどらない。結果的に、時間ができたにもかかわらず、思ったほど成果が出ないということは、よくある。 マイナスの精神状態では、何をやっても思ったようにいかなくなるし、逆に、やる気に満ちあふれている状態は、部活でも調子がいいし、勉強においても短時間で効果的な学習ができる。
 その要因として考えられるのが、「ドーパミン」とよばれる脳内物質の働きである。
 この脳内神経伝達物質は、人間の「快感」「やる気」「学習能力」などを司っている。
 生物が自己の生命を維持していくためには、自己のおかれた環境に適応していく必要がある。
 自己の生命維持のためによりよい経験をした場合には快感を感じ、再びその快感を得るためにはどうすればよいかを学びたいという意欲がわくようにするのがドーパミンの働きだ。
 ものごとがうまくいった時には、再びその経験をしたいと人は思う。興味がわいたことにのめりこんだり、苦しい勉強や練習にでさえ、時間を忘れてうちこんだりする時がある。
 生きる意欲そのものを司ると言えるドーパミンが放出されやすい状態は、結果として勉強にも運動にもよい影響をもたらす。


 ~ 皆さんの周りにも2歳の子とか、5歳の子とか、小学生とか、小さな子どもがいると思いますが、よく観察してみてください。子どもの脳は元気です。なぜ元気なのでしょうか。若いから元気なんだ、というのは当たり前です。
 実は、子どもたちの脳が元気なのには理由があるのです。
 その秘密を担っているのが、「ドーパミン」という物質です。
 脳の真ん中の中脳というところから、前頭葉に放出されます。ドーパミンが放出されると、脳は嬉しいのです。嬉しいだけではなく、前頭葉を活性化してくれます。
 前頭葉は脳全体の司令塔です。前頭葉が活性化すると脳全体も活性化し、回路を強めてくれるという働きがあります。
 ドーパミンは前頭葉のために神様が作ってくれた素晴らしい物質なのです。
 子どもの脳が若々しいのは、ドーパミンがたくさん出ているからです。 (茂木健一郎・羽生善治『「ほら、あれだよ、あれ」がなくなる本』徳間書店) ~

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体育祭

2016年05月26日 | 日々のあれこれ

 

 昨日の予選に続いて、今日は川越市陸上競技場に移動しての体育祭本戦。
 暑かった。途中から少し風が吹き、日差しが弱まる時間帯もあったが、さわやかな五月というよりは、夏だった。
 しかし、こどもたちはなぜあんなに元気なんだろう。
 「教師は生徒と同じ場にいないといけない」という向山先生の教えがあったと思う。
 寒い日の全校集会で、ある先生が自分だけ日の当たる場所に移動したのを見とがめて、そういうときは自分だけ遁れようとするのではなく、子ども達をどうすべきかを考えるべきだとおっしゃってたような気がするけどなあ … 。
 でも、今日は、今の自分はというべきかな。なるべく日陰になる位置を模索し続けた。
 何かあったときに動けるようにしておく以外に、今日の自分に仕事はないのだから、自分に何かあってはいけないのだ。
 朝の電車遅れによる開会の遅れにもかかわらず、予定時刻を少しすぎたぐらいで全体が終わり、やはり三年生が上位を独占したものの、二年生もそれなりに勝負に食い込むというなかなかいい展開だった。
 閉会式での校歌を聞きながら、ふと自分の高校時代を思い出す。
 自意識ばかり強くてアウトサイダー的な立ち位置で過ごした高校時代、つまり己の中身のなさを見透かされることをおそれ、ひねくれた格好のつけかたをしていた三年間だったが、唯一自分からメインストリートを歩きたいと立候補して応援団長になった高3の夏。
 文化祭と体育祭を連続して行うイベントに向けて、夏休み中から踊ったり、作り物をしたりし、学校近くの友だちの家に泊めてもらったりし、ひねくれキャラだったくせに閉会式で号泣していた、なんともかわいらしい自分を、もう恥ずかしくなく思い出せるようになった。
 いざこざも怪我人もなく「活躍」の場がなかったことを神に感謝し、学校にもどって「山月記」の予習をしていると、李徴のことがたいそう愛おしい。

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イチロー・スズキ(2)

2016年05月24日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「イチロー・スズキ(2)」


 試験おつかれさまでした!
 これから、やるべきことを今日中に一覧にしておこう。これだけは今日中に。
 スタディサポートの復習問題をやってない人はそれを、そして答案の返却を待たずに中間テストの解き直しを、「ToDoリスト」にいれること。卒業するまで繰り返して言うつもりだが、学校のテスト範囲を順番に身につけていくことが、目標へ近づいていくこととイコールの関係だ。
 小学生のうちから1年365日のうち360日激しい練習をしていた。残りの五日も軽く練習してただろう。「努力」とか「がんばる」のレベルではなく、日常生活の一部になっていたはずだ。


 ~ ハイレベルのスピードでプレイするために、ぼくは絶えず体と心の準備はしています。
 自分にとっていちばん大切なことは、試合前に完璧な準備をすることです。
  … 準備は、打席に入る前に汗だくのTシャツを着替えるとか、スパイクに泥がつまっていないかチェックするとかいうことです。精神状態は、多くのうちの準備のひとつに過ぎません。
                    (児玉光雄『イチロー流準備の極意』青春出版社) ~


 「いちばん」とは言葉通り一番なのだ。結果がどうこうより、自分として完璧な準備ができたか、どうか。完璧な準備をしたうえで本番の臨んだなら、結果がどうあれ後悔はしなくなるからだ。
 だからイチロー選手は、ヒットか凡打かでそのつど一喜一憂しない。
 むしろ凡打のときに「今のバッティングは明らかに理想に一歩近い付いていた」とふりかえったりする。そして試合が終われば、道具を片付け、マッサージをし、必要なトレーニングをし、エネルギーを補給し、翌日に備えていく。


 ~ まず家に帰ります。妻が夕食を準備する間、自分のマシーンでトレーニングをすることで翌日に備えます。夕食を食べて、そこからまたマシーンでトレーニングします。そして、2時間マッサージを受けます。
 毎晩? 毎晩です。 ~


 試合のあと、ロッカールームでオイルを使いながらグラブの手入れを入念に行っているとき、すでに「明日」が始まっている


 ~ ようするに“準備”というのは、言い訳の材料となり得るものを排除していく、
 そのために考え得るすべてのことをこなしていく、ということですね。 ~


 イチロー選手の暮らしには、オンとオフの境目がない。
 目標が達成できるかどうかではなく、達成するための努力をし続けることが大切だと考えている。結果として、歯を磨くように仕事の準備をし、ごはんを食べるように打席に立つことになる。
 夢をかなえるために「がんばる」とか「気合いを入れる」との低次元の発想はそこにはない。

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残念

2016年05月23日 | 日々のあれこれ

 

 「笑点」の新司会者が春風亭昇太師匠になると、けっこうテレビやら新聞で報道されていた。ここ何年も「笑点」を見た記憶はないが、メンバーの中から新しい司会者を選ぶなら、昇太師匠しかないと普通は考えるだろうから、ま、ふつうかな。
 落語界にとって最近の一番大きなニュースは、喜多八師匠の訃報だ。
 66歳。いまを生きる現役の噺家さんで「名人」と言えるのは誰ですかと聞かれたら、多少寄席に行ったりする人なら、喜多八師匠の名をあげる人は多いにちがいない。
 やる気なさそうに高座に登場し、ほんとはもう帰りたいんだけどね、とほんとに具合悪いのかなと一瞬思わせておいて、噺に入るとぐいぐい引っ張っていく。端正な語り口ゆえにうまれるお殿様や若旦那のおかしさは天下一品。
 これでやる気に満ちあふれていたら、非の打ち所がなさすぎて、逆にお客さんの息がつまるんじゃないかと思ううまさだった。だから、あんな韜晦(とうかい:自分の本心や才能を隠しておくこと)をしていたのではないかと、個人的には思っていた。
 ラジオのアナウンサーが「メリハリの利いた芸で親しまれた … 」と話していたが、こいつ絶対聞いたことないよなと思う。
 今月号の「東京かわら版」に、喜多八師匠の上がる落語会情報はいくつも出ている。お身体の具合が悪いのは承知しながら、まだまだ高座に上がられるつもりだったのだろう。残念だ。
 昇太兄さんは56歳。笑点メンバーに入ると若手扱いされる。
 「笑点」から離れても扱いは中堅だろうか。落語芸術協会では一番お客を呼べる存在で、協会の理事でもあるが、お身体さえ大丈夫なら、ずっと第一線で活躍し続けるだろう。
 いいなあ、落語界は定年がなくて … 。

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「雑説」の授業 3

2016年05月22日 | 国語のお勉強(漢文)

 

三段落


10 策 之 不 以 其 道。
11 食 之 不 能 尽 其 材。
12 鳴 之 而 不 能 通 其 意。
13 執 策  而 臨 之 曰、「天 下 無 馬」。
14 嗚 呼 其 真 無 馬 邪、其 真 不 知 馬 也。

 

10 (奴隷人)策之 → 不以其道。
       ↓
11 (食馬者)食之 → 不能尽其材。
       ↓
12 (千里馬)鳴之 → 而 不能通其意。
       ↓
13 (食馬者・奴隷人)執策  而 臨之曰、「天下無馬」


14 嗚呼 其真 無馬 邪
       ↑
       ↓
     其真 不知馬 也。


Q「策之」について「策」の主語と「之」の指示を抜き出して答えよ。
A「策」 … 奴隷人
 「之」 … 千里馬

Q「其道」とはどういうことか。
A 千里の馬の扱い方。

Q「鳴之」について「鳴」の主語と「之」の指示内容を抜き出して答えよ。
A「鳴」 … 千里馬
 「之」 … 奴隷人or食馬者

Q「不能通其意」は、a「其の意に通ずる能はず」、b「其の意を通ずる能はず」というように二種類の訓読が可能だが、それぞれの場合をわかりやすく訳せ。に
A a 奴隷人(食馬人)の心に届けることはできない
  b 千里馬の気持ちを伝えることはできない

Q「嗚呼」は、(1)誰の、(2)どのような気持ちか。
A(1)作者(韓愈)の、
 (2)名馬を目の前にしながらその才能を見抜くことができず、名馬がいないと嘆く人に対する絶望的な思い。

Q「千里馬」「伯楽」はそれぞれ何をたとえていると考えられるか。
A 千里馬 … 有能な人材
  伯楽  … 有能な人材を見いだして登用する為政者


 伯楽の不在 → 千里馬のみじめな状態
   ∥
 すぐれた為政者の不在 → 有能な人物の不遇な状態


Q「常馬」「粟」は何のたとえか。
A 常馬 … 平凡な人
  粟 … 報酬・業務

Q 漢文の書き手・読み手とは、書かれた当時においては一般的にどういう人物か。
A 古代中国の知識人。インテリ。科挙の試験に合格し、役人、官僚、政治家となった人たちであり、多くは同時に文学者である。

Q この文章が書かれた時代、役職、地位を得るにはどのような状況になったと考えられるか。
A 科挙に合格しても、その後要職に取り立てられ出世できるかどうかは、派閥の力や賄賂の多寡にかかっていた。

Q 筆者の主張はどのようなものか。
A 上に立つ者の無能ぶりを批判している。

Q なぜ例え話で述べるのか。
A 身の安全を確保するため。

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海よりもまだ深く

2016年05月21日 | 演奏会・映画など

 

 是枝監督って、歌謡曲の歌詞を聴いてピンとくると、そのイメージを作品にまで結晶できるのだろうか。
 ま、同じクリエイターとして、その感覚はわかるな(はぁ?)。
 「麦の唄」を聞いてて、サビにつながるセリフが思いついた瞬間に、前回の定演の「え、信長ってだれだし?」のストーリーがさあっとわきあがってきたことがあったが、そんな感じだろう。うん、まちがいない。映画化してカンヌに出品しようかしら。
 是枝監督も、テレサテン「別れの予感」がある日耳に入ってきて、そのとき何か降りてきたにちがいない。


  泣き出してしまいそう 痛いほど好きだから
  どこへも行かないで 息を止めてそばいて

  身体からこの心 取り出してくれるなら
  あなたに 見せたいの この胸の想いを


 なんて、アツイ歌詞。これのどこが「別れの予感」と、お子ちゃまなら思ってしまうかもしれない。でも、ここまで好きだからこそ、思いたくもない「別れ」が頭をよぎってしまうのさ。


  教えて 悲しくなるその理由 あなたに触れていても
  信じること それだけだから


 「好きすぎて悲しくなる」のはくろうさぎの気持ちと同じ。


  海よりも まだ深く 空よりも まだ青く
  あなたをこれ以上 愛するなんて わたしには出来ない


 こんなに深く愛する気持ちを作品にしたのかと思ったら、ちがってた。
 「そんなに深く愛する人なんていないのよ」と樹木希林は言う。
 「そこまで愛せないからこそ、人は生きていけるんじゃないの」と。
 阿部寛の別れた奥さん真木よう子さんの言葉もリアルだった。
 「しなきゃ、決められないでしょ」
 というセリフ。
 「愛や好きだだけで、結婚なんてできないわよ」

 現実を見つめる女性陣に対して、いつまでもふらふらしている阿部寛さんの姿は、男の象徴なのかもしれない。
 「なりたいものになれたかどうかが問題なんじゃない。なろうとして生きることが大事なんだ」と小学6年の息子に語る。 
 自身、作家になるという夢を捨てずに生きているものの、本気で精進しているようには全く見えず、養育費もアパート代も滞っている状態で、小銭が入ると競輪ですってしまうダメ男。
 あげくの果てに、団地に住む母親(樹木希林)のへそくりを探し出そうとする企みは、姉(小林聡美)に見透かされてしまう。
 女性が見ていたら、「こんな男は別れて正解」と感じるのかもしれない。
 いや、男でもだめだな。友だちになれるかといったら微妙だな。むしろ、こんなダメ男となんで一緒にいるの? と諭したくなる女性が現実にはかなりいそうだ。
 真木よう子だって、決して阿部寛がきらいなわけじゃない。
 一言もそんなこと言わないのに、それは伝わる。何か事件が起こって、二人はよりを戻すことができました、ぱちぱち … みたいな映画には絶対にならない。
 
 よくよく考えてみれば、是枝作品はどれを何を思いだしてみても、別に大事件はおこらないのだ。「海街」はあの四人が一つ屋根の下にいること自体が事件ではあったが。
 大事件がそうそうは起こらない日常を題材にしながら、その日常自体が愛おしいと思えるような奇跡を描く天才が、是枝監督だろうか。
 セリフや表情はもとより、ちょっとした小道具一つとっても、気づいたら目頭があつくなっている作品だった。カルピスのシャーベットでさえ泣いたおっさんはいると思う。

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「雑説」の授業 2

2016年05月21日 | 国語のお勉強(漢文)

 

 「雑説」の授業 2

 二段落


5 馬 之 千 里 者 一 食 或 尽 粟 一 石。
6 食 馬 者 不 知 其 能 千 里 而 食 也。
7 是 馬 也、雖 有 千 里 之 能 食 不 飽、力 不 足、才 美 不 外 見。
8 且 欲 与 常 馬 等、不 可 得。
9 安 求 其 能 千 里 也。


5 馬之千里者 … 一食或尽粟一石
   ↑
   ↓
6 食馬者   … 不 知其能千里
          而食    也
   ↓
7 是馬也 有千里之能
       ↑雖
       ↓
      食不飽
       ↓
      力不足 → 才美不外見
8   且 
 (千里馬)欲与常馬等 → 不可得
   ↓
9 安求其能千里也 (=不能求其能千里!)

 

Q4「不知」とあるが、何をか。
A4 自分の養っている馬が、抜きんでた能力を持っていること。

Q5「是馬」とは何のことか。30字以内で述べよ。
A5 持っている能力の高さを理解されずに飼われている千里馬。

Q6「才美」と同義の語を4字で抜き出せ。
A6 千里之能

Q7「安求其能千里也」を訳せ。
A7 どうしてこの馬に一日に千里走るように望むことができようか、いやできない。

☆ 反語 … 疑問文の形式を借りた否定文。

 なぜ疑問の形を用いるか
  ↓
 通常の否定文のプラスαのニュアンスをこめるため
  ↓
 プラスαとは、基本的に強調・可能

  安V也 豈V哉 → 不V! or 不能V!

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