たとえば千年後、われわれの子孫たちはどう暮らしているだろうか。ちゃんと生息してるかな?
千年前に藤原道長がぶいぶいいわしてたように、いま安部首相ががんばっているから、千年後もきっと誰かが中心となって切り盛りしてくれてるだろう。「国」という概念は残っているかどうはあやしい。
国の保護下にある伝統文化、たとえば能や狂言、文楽のような形で、ある帝国の庇護のもとに「日本」という文化国家が継承されている … みたいな状況になっている気もする。すでに今もそれに近いと言うこともできるのだが。
千年後、「はて神はどのように世界をつくりたもうたのか」と研究した人が、こういう光景だったに違いないとこの映画の映像を発表したなら、未来の人たちはものすごく納得するような気がする。
ブダペストに住む神様一家。地下の一室で、神は自身の寂しさをまぎらすためにパソコンを用いて「人」を作り出した。
そのまんまじゃ面白くないし、神を有り難がらないから、不安や不幸を意図的に作り出す。
神が、綿密に不幸の法則を作り出している様子は笑える。
「第1526条:パンは必ずジャムを塗った側が下になって落ちる」「1678条:スーパーの列は自分が並んだのと違う列が早く進む」 … 、あとなんだっけ。
そういうのを嬉々として神様は書いてはエンターキーを押している。
地下室には世界のジオラマもあり、時々飛行機を落としてみたり、バスを転落させてみたりし、種々の不幸を作り出し「おお神よ」と嘆く人間を見て笑っている。
そんな悪趣味な神である父に嫌気がさし、ビールを呑んで泥酔しているすきに、娘のエアは家を出て人間界にやってきた。人間界への行き方は亡くなった兄のJC(イエスキリスト)に教えてもらった。
洗濯機を40度のやわらか洗いにセットしてドラムに入り、一時間這っていけば人間界のコインランドリーに出られると。
洗濯機が異世界への通路になる発想は普遍的でおもしろい。邦画「バブルへGO」では広末涼子がスエットに着替えて洗濯槽にとびこんだし、宅間孝行の舞台「晩餐」も、未来からやってきた息子が洗濯機の中から訪れる。
洗濯機にはそんな連想をさせる何かがあるのだろう。ていうかほどよいからね、装置として。
娘のエアを追って、父親の神も人間界に降り立つ。しかし、そのふるまいの強引さと傲慢さは、頭のおかしい人にしか見えず、あちこちで騒ぎをおこしては結局捕まり、ウズベキスタンの収容所に送られてしまうのだ。
これも風刺がきいていておもしろい。実際に神様がそばにいたら、これくらい嫌なヤツで、これくらい頭おかしい人だろうなと思ってしまう。
エアは、家を出る前にとんでもないことをしていった。
父のPCをいじって、人間のスマホに余命を送ってしまったのだ。
ある日神様からメールが届く。「あなたの余命は残り5年二ヶ月です」「22年です」「84時間です」 … 。
いったい誰がやった悪質ないたずらかと世界中で問題になり、犯人捜しも行われるが見つからない。
送られたメールが、すべて現実になることを人々が気づくのに時間はかからなかった。
こんな元気な俺がすぐ死ぬわけないだろとインタビューに答えていた若者に、トラックがつっこんでくる。余命数十年の青年がビルから飛び降りてみたら、歩いてきた人にぶつかって助かる。
寝たきりの年老いた夫のスマホに「余命22年」と表示され、献身的に介護していた若い妻のスマホには「余命3年」と表示される。もう少しの辛抱だと思ってたのにと、怒り狂う妻を笑うことはできない。
紛争地帯では、ばからしくなった兵士達が戦闘をやめてしまう。
余命を知るということはどういうことか。
そこで初めて人は自分の生き方を見つめ直す。
自分はどう生きたかったのか、生きたいのか。そして人々は残りの人生を大切に生きようとする。
余命についてはどうすることもできないと悟った人々は、誰と一緒に最期を迎えるかについての努力もする。
そんな世界に降り立ったエアが、生き方を変えようとしている人たちによりそい、その人たちの身体に流れている音楽を聴き、彼らの物語を記録していく。それが「新・新約聖書」になると。
設定も、そこで描かれる「神」の姿(これ、たとえばキリスト教信者からクレーム大丈夫かなと思うほど)も、はちゃめちゃなのだが、通奏低音のように存在する哲学は(たぶんだけど)深い。まことに映画らしい映画だ。