急だけどお祝いするから来てと連絡を受けて、練習後、南古谷から大宮、そして東武野田線で春日部へ向かう。初めて野田線に乗ったのは赴任して二年目の家庭訪問のときだったろうか、このまま乗っていると野田の醤油問屋に着くのだろうか。生涯数えるほどしか乗ったことのない電車だが、乗り慣れた車両なので落ち着く。むしろ新河岸から東上線に乗ろうとして東急の赤い車両が来ると落ち着かない。
駅近くの「だん家」という居酒屋で、親しい先生方と、三郷北高校さんの西関東出場を祝ったのだった。
昨年まではB部門に出場していて、今年からAでいきなり西関東。きけばステージにのっていたのは45人で、オーボエ・ファゴットはいないそうだ。
A部門で西関東に出場できる学校さんといえば、巨大戦力を有し、練習場所に恵まれ、予算も潤沢に … というイメージがある。
実際にはどの学校も大変苦労されていることは重々承知はしているのだが、それでも三郷北さんのような、常連校に比べればきわめて「普通」の学校が上位に食い込んだことは、ものすごくはげみになる。
とくに特殊な練習をされているわけではない。まじめの積み重ねが結果になった、と思う。
見習うべきだ。顧問ももっと誠実に曲の分析をしないといけないし。もっと愚直に練習したいと思った一夜だった。
100回に1回成功するとき、「成功確率は1%」だと表現する。
1回だけチャレンジした場合に、成功確率は1%で、失敗確率は99%だ。
2回だとどうなるか。99%×99%=約98%が失敗なので、どちらかで成功する可能性は2%。
3回は、4回は、 … 。50回チャレンジし、すべてに失敗する確率は61%、一回でも成功する確率は39%になる。100回やった場合には、成功する可能性が63%まであがるという。
この話は、染谷昌利『ブログ飯』という本に紹介されていた。
もともとは、「R25」というWEBサイトに載っていた記事だそうだ。
成功確率1%でも、100回やってみると、成功の可能性が63%になる。
実際には、何回もやっていればスキルもあがっていくはずなので、可能性が1%「も」あることがらなら、数十回チャレンジするうちに必ず成功してしまうとも考えられる。
問題は、2、3回とか、せいぜい10回とかでやめてしまう場合が多いことではないのか。
ちなみにさっきの計算にもどると、418回やれば、成功確率は99%になるんだって。
すごくない?
成功確率1%ってどういうのだろうか。
突然、学生時代に体育科教材研究の授業を思い出した。小学校教員を目指していたので、当然体育の単位もとらないと免許がもらえない。
「けあがり→前回り→後ろ回り→飛び越し降り」がたしか試験のメニューで、自分にとってはけあがりが難関だった。マットと鉄棒間の高さが自分にほどよくフィットしたときは上がれるのだが、そうでないときは情けないくらいに上がれない。
ましてチキンだから、試験の時にびっと上がれる可能性って1%だったかなあと思って。
それで、夜友人を呼び出して、夜中の公園で練習したことをおぼえている。
でも、4%ぐらいはもともとあったかな。
本校が今年県大会に進める可能性って、何%だったのだろう。自分の中では50%以上にはなっていた(ほんというと、もう少しあがってたのだが、言えない)。むしろ、過去に県大会に行けた年の方が、直前の感覚では小さかった。かりに実際の可能性が33%しかなかったとして、じゃ3回演奏できたら上に行けたのかといったら微妙だ。
ずぶんが橋本愛ちゃんに告白して交際してもらえる可能性って、ひょっとしたら1%はあるんじゃないだろうか。だとしたら、400回ほど告ってみたら、衝撃のスクープが起こりうるのだろうか。うるような気もしてきた。どうしよう。
というように具体的事例を考えてみると、「成功確立1%」という想定自体が難しいことはわかる。
でも、成功確率はほとんどない、1%しかない、でもゼロではない、と思えることだったなら、とりあえずひたすらチャレンジしてみる手はあるのではないだろうか。
成功確立が1%あるというのは、実はけっこうあるってことなんだろう。
ぎゃくに一回やってみて、それがダメで諦められるようなことなら、最初から成功させたいことではなかったのだとも言えるし。
「あまちゃん 歌のアルバム」
amazonに予約して楽しみに待っていたアルバム。なんといっても「潮騒のメモリー」のユイちゃん、アキちゃんバージョンが入っているのがいい。潮騒のメモリーズが歌い始める。「来てよ その日を飛び越えて~」。そして1番に入り、薄幸の美少女ユイちゃんのソロパート「北へ帰るの 誰にも会わずに~」が流れてきたとき、号泣してしまったずぶんはバカですか。文化祭で歌おうかな。
「FOLK SONGS 2」
あややの「ひこうき雲」がいいってネットで話題になっているそうなので、買ってみた。松浦亜弥さんが歌が上手なことなど自明の事実すぎるのだが。あやや、中澤裕子、メロン記念日というハロプロの方々が、懐かしのフォークソングを歌うという企画盤だ。「花嫁」「恋人よ」「木綿のハンカチーフ」「いちご白書をもう一度」「冬が来る前に」「ひこうき雲」 … 。買って良かった。「いちご白書」歌いたくなった。
排郷メイコ「HELLO TREE 」
本寸法の音楽も聴きたくなって、知らない人だけど買ってみた。石川晋先生という、ふつうの(ふつうとは言えないか)中学校の国語の先生でありながら、音楽への造詣のおそろしく深い方が北海道にいらっしゃる。どんな音楽評論家より信頼できるのだが、さすがに石川先生おすすめだけのことがあった。
ポップであり、フォークであり、ロックな音楽。かわいいのに、すごみがある。楽曲も歌も。
この心臓をわしづかみにくる感じというのは、高校生の時とかに出会わなくてよかったと思う。学校行かなくなってたかもしれない。ちょっと歌ってみようなどとはおそれおおくて思えない。
夏期講習第4週は1、2年みんなが参加するので、午前中は講習、午後は練習の文武両道パターンになった。
ということは、朝普通に出勤し、午前はしゃべりまくって、午後はどなりまくってという、夏休みらしさのまったくない状態になる。ま、涼しい地域ではすでに二学期がはじまっているし、埼玉県でも今日から二学期という学校があるから、それでいいのだけど。このごろ公立の先生の話をきくと、私立の学校以上に夏休みらしき日々がなくなっているようだし。
その昔、「学校の先生っていいよなあ、休み長くて」なんて言われる時代があったけど、今やかげもかたちもない。学校というシステム自体が通用しない時代になっていながら、いろいろ表面的な部分の微調整でのりきるしかない私たちの一つの姿なのだろう。
「物事にはアップデート(改良)とイノベーション(革新)とがある」と何かに書いてあったが、学校という近代的システム自体の「イノベーション」が本当は求められているのだと思う。
なんてかっこつけて言ってみたところで、われわれ下々の勤労者は与えられた枠のなかで働くしかない。
その枠のなかで一生懸命はたらくことで、イノベーションできる人材を育てることがでいるかもしれない。
インダイレクト(間接的)イノベーターと自分をよぶことにしよう。かっこよくない?
公立の先生方も、それによってお給料があがるわけでもないし、どうみても出世を考えてるわけでもなさそうなのに、働く方はほんとうによく働かれる。
私立は、ちゃんとしないと学校の経営に影響するので、働かざるを得ないけど、なんでと思うくらいだ。
我々はいくら働いたって、何かをイノベイトできるわけでもなく、後世に名を残すわけでもない。大金持ちになれるわけでもないし、有名人になれるわけでもない。
働くことがかなり好きな方が一定数いるのだ。どの業種でも同じだろう。
働くことで得られるものの中で価値あるものは何かと言えば、やっぱり出会いではないだろうか。
あらたまって言うのはこっぱずかしいけど。
お金はもちろん大事だけど、ふつう我々は大金持ちにはなれないのだし、起業して年商何十億になりましたなんてのも無理なだから、そんなのを第一に考えるより、どんな出会いがあったかで自分の仕事の質をはかるのは悪くないと思う。
「いい加減な気持ちで取り組んでると、いい加減な奴に負けるぞ。」(室積光『都立水商』小学館文庫)
という言葉があったが、「いい加減に働いてると、いい加減なヤツとしか出会えないぞ。一生懸命働いてると、金は持ってないかもしれないが志の高いヤツと出会えるぞ」と言えるかもしれない。
この仕事をすることでいくら儲かるかより、誰と出会えるかという感覚は悪くないよね。
9月の演奏予定
9月7日(土)、8日(日)10:00~15:00
川越東高校翔鷺祭「ライブ喫茶」@4F第二講堂
9月15日(日)14:00~14:30
星野高校星華祭「合同演奏」@第二校舎中庭
9月23日(日)13:00開場・13:30開演
「吹奏楽秋の男祭り2013」(新企画)@新座市民会館
参加校:慶応志木高校・立教新座中学高校・城北埼玉中学高校・本校
ご来場お待ちしてます!
今日は、星野高校さんとの打ち合わせ会。
毎年参加させていただいている、星野高校「星華祭」中庭特設ステージ(新日本プロレス上福岡大会「コモディーイイダ駐車場特設ステージ」みたいだけど)における合同演奏の打ち合わせだった。
演奏曲を決め、踊りや企画の分担を決め、合同練習の日程を確認した。
来週の日曜は、初企画である「私立男子校で集まってなにかやろう会」の合同練習がある。
夏の終わりというより、もう次の企画に向けてのわくわく感と、少しの不安とが入り交じった感覚がある。
練習の質を高めていかないととうてい間に合わない曲数が目の前にある。
仕事があるのはありがたいのと同じで、やることがあるのはありがたいことだ。
そのためにも宿題チェックは徹底しなければ。
駿台教員研修会で霜栄先生の「センター現代文講座」を受けながら、そうか伊坂幸太郎の「死神」はポストモダンだったのかと思い立った。
日本人にとって死神といえば、長く「アジャラカモクレン、テケレッツのバア」だった(若い方は知らないかな、落語「死神」にでてくる死神退散の呪文で、「寿限無」の次ぐらいに有名な落語のセリフ)。
おじさんかおじいちゃんかわからないような貧相で暗い顔をしたおっさんが、死神がこの世の姿を現すときのビジュアルだった、ということを言いたいのです。
しかし、数年前にかわった。
「デスノート」のリュークは、人には見えない。化け物でもなく怪獣でもなく、あえて言えば西洋の悪魔のイメージに近く、羽のはえた姿は天使が悪い方へ変態するとこうなるのかと思わせる姿だった。
日本人の死神像は、数年前にやっと西欧化、つまり近代化したのだ。
お金に困って死のうとしている男に、「ちょっと助けてやろうか」という人間くさい死神が、落語の死神。
ノートに書かれた人間の命を容赦なくうばう「デスノート」の死神。
そして、今や、死神といえば「千葉」という時代が訪れた。
伊坂幸太郎『死神の浮力』があまりにおもしろかったので、文庫で『死神の精度』を読み直してみた。
おもしろい。純然たるエンターテインメント。
登場する死神たちは、そのつど状況に応じた人間の姿をともなって人間界に現れ、調査対象となった人間が「可」なのか「見送り」なのかを見極める。
死に対するウエットな感情をまったく持たない点で「近代的」死神のようであるが、時折人間の感情を自分なりに整理し「見送り」を申請して新しい人生を与える点で、「落語的」死神以上に人情があつい。
プレモダンでもなくモダンともいえない、ポストモダンとしての死神像がそこにある(無理矢理なこじつけにちょっとつかれた)。
『死神の精度』は、吹奏楽曲でいえば、のりのいいポップス曲。演奏会2部の楽しいステージのオープニングで鉄板の盛り上がりを約束する曲のイメージだ。
そして『死神の浮力』は、1部のメインにも2部のメインにもなり、コンクール全国大会で演奏されてもなんの問題もない大曲だ。そう、伊奈学園さんの「レミゼラブル」のように。
純文学とかエンタメとかの枠組みを超えている。
幼い子どもを事件で失った夫婦の悲しみ、そういう事件にまきこまれた人を世間はどう扱うかという現代社会の問題、さらに人はなぜ生きるのかという根本的な問題。
「死神」という荒唐無稽の存在をもちこむことで、かえって人間存在の不条理を浮き彫りにしながら、生きることへの一筋の希望を見いださせる展開。
ひとつひとつの言葉、様々な場面の描写のどれをとっても、今年書かれた日本語のなかで最も良質なものであることは間違いないと感じた。
良質なエンタメ作品としてしか評価できない人もいると思うけど、そんな次元ははるかに越えている。
ということで、今年読んだ小説ベスト3をあげておきたい。
辻村深月『島はぼくらと』。高校の先生でこれ読まないなんてありえない。
江國香織『はだかんぼうたち』。「本の雑誌」が上半期1位にしたのも納得できる。
伊坂孝太郎『死神の浮力』。日本の小説のポストモダンとしての形がやっと一つ示された。
あと、谷村志穂『空しか見えない』、木皿泉『昨日のカレー、明日のパン』、島田雅彦『ニッチを探して』も、金賞代表として推薦したい。
コンクールで演奏する曲というと、前はオーケストラのアレンジ作品や、吹奏楽オリジナルの名曲、現代曲といったイメージだった。ジャズっぽい曲とか、ミュージカル音楽とかはあまり演奏されなかった、というか避けられてきた。
市立柏高校さんを始めいくつかの学校が様々な曲を開拓してきたが、そういう方面では、埼玉県のトップランナーたちの貢献は多大なものがある。
「こういう曲はコンクールには向かない」というようなしばりは今やすっかりなくなったような気がする。
要は上手ければいいのだし、いいサウンドなら評価されるのだ。音楽的な内容うんぬんはそれほど問題とならない。
大体、クラシック音楽は拡張が高くて、ポップスは芸術性が低いという価値観自体に意味がない。
ジャンルそのものに貴賤はないのだから。
もちろん、そのジャンルが未成熟か、すでに峠はこえているものなのか、といった段階はある。
それぞれのジャンルの内部は、玉石混交でできている。
そして、既成のジャンルをこえたものが時代とともに絶えず生まれている。
今年のコンクールで聴いた伊奈学園さんの「レミゼラブル」などはまさにそれだった。
昔ながらの吹奏楽のサウンド感では作り得ない響きと、「しょせん」ミュージカル音楽を、オケものの古典的名作に比してなんら遜色ない格調の高さに昇華している点で、当然吹奏楽の最先端であり、いまの音楽の最先端といってもいい。
今年の結果からすっかり立ち直ってコンクールを思い出してみると、伊奈学園さんの「レミゼラブル」、花咲徳栄さんの「マインドスケープ」、松伏さんの「鼓響Ⅱ」が、最も心ふるわされた演奏だった。
お盆休みが終わって練習再開した。いきなり新しい曲を3つ合奏してみる。
先月までは、ひたすらコンクールの曲ばかりさらっていたが、一気に大量の曲を練習する時期になった。
文化祭の曲、そしてその先に控えている数々の演奏会の曲だ。
でも、基本の公式を覚えたあとは、練習問題にひたすら取り組んでいくように、無理目の曲にもどんどん取り組んでいかないと吹けるようにならない。
応用問題を解かないと基本は定着しない。
もちろん、ストレッチしてキャッチボールするように、ロングトーンやスケールや基礎打ちも毎日やらないといけないし。
勉強も部活も、伸びるためのだんどりは同じだ。仕事も。
人間関係の作り方もかな。
学生時代に人間関係の作り方の基本を身につけておけば、社会人になっても応用がきく … ていうのは、ちがうような気もする。
そうか、人間関係の作り方には基本も応用もないのかな。
こっちがフレンドリーな表情をつくれば相手もそうなる、こっちがびびっている時は大体相手もびびっている、追いかけすぎると相手はひく、気になったら遠慮せずに声かけたもん勝ち … というような原則の数々は、学生時代も大人になってからも関係なく、必要なのは「あっ、これは基本だ」と気付く感覚だろう。
ただし、基本をはずしてくる人もいる。いい方向でも、悪い方向でも。
仮に、この人とつきあうのは自分にとってマイナスかもと感じたときは、距離をおく必要がある。
そういうセンサーを身につけるには、たぶん経験量しかない。
「公式集」や「3D」みたいな本もないわけではないが、こればっかりは経験してイタイ目に遭って学ぶしかなくて、若いうちにある程度のイタイ目にあっておくことはむしろ大事だ。
だから若い人たちには、ラインではなく、面と向かって言い合いしてほしいなあ(ってどんだけ年寄り目線なんだ)。
ラインのやりとりとかで人間関係をグダグダにさせないように気をつけるのは、教員の仕事になってきているのだろう。
映画「風立ちぬ」は美しい作品だった。
アニメーションはあまり観ようと思わないが、ユーミンの「ひこうき雲」とともに映される長い予告編を目にしたなら、やはり経験しておくべきだろうと思って南古谷ウニクスにでかけたのが、コンクール練習と野球応援のあいま。
美しい映画ではあったが、気付いたら爆睡していた。目覚めたときには何の話なのか理解できず、途中で席を立った。でも岡田斗司夫氏が98点の作品とか書いてたのをその後目にして、先日再チャレンジした。ちょうどポイントもたまっていたことだし。
美しい映画だった。でも、つまんなかった。
結論を言えば、あの予告編で感動してそれでおわりにしてよかったかもしれない。
もちろんこれはあくまでも個人的な感覚であり、作品の出来が悪いと言いたいわけではない。
日本のアニメの最高峰だと今後も評価されるのだろうし、それはそれでいんじゃないかな。
感動する人は感動する。あわない人にはあわない。お子さんは連れて行っても楽しめない。なんかすごいって言っておいた方がいいのかなと思う人はすごいと言う。
アニメ好きな人は、中身うんぬん以前にそのクオリティの高い映像に感動するのだろう。
あと、映画って何かとか、もっと大げさに芸術表現とは何かとか、そういうことを理解できない人は、ひょっとしたら意味不明のいちゃもんをつけるかもしれない。
「登場人物がたばこを吸いすぎである」とか。
「あなたがたはアホでいらっしゃいますか? 脳みそが難破されているのではございませんか。
たばこを吸い続ける登場人物たちもふくめて、戦前の日本の美しさは、まちがいなく描かれていた。
アニメーションは、美しくないものまで美しくしてしまうところが、自分は気に入らないのだろうか。
サナトリウムを抜け出して二郎の下宿で暮らす菜穂子も、もし実写だったなら、相当やつれた姿で描かざるを得ないだろう。
飛行機をつくる三菱工場の工員たちも、埼京線の混雑など比ではないくらいのすし詰めの列車に乗る人々も、関東大震災で被災した人たちの姿も、おそろしい現実として観る者の目にうつることだろう。
そういうものもすべてアニメは抽象化してしまう。
そういう意味で、宮崎監督にとって「現実」が手段にすぎないのではないか。
自分が直接体験できない「現実」を体験したくて映画館や芝居小屋に足を運ぶ身にとって、ちょっとお上品すぎて退屈であったとしてもしかたないかなと思った。
「パシフィックリム」は逆に、アニメやマンガで描かれた怪獣や戦闘ロボットを、よくぞここまで実写化したと感動する。そこにいるのは本物の怪獣であり、本物のマジンガーZだ。ストーリーは「少年ジャンプ」そのままで、登場人物の心情は、中学入試問題にもならないくらいわかりやすいが、映像の迫力には圧倒される。さすがアメリカというしかない。こんな映画をつくる国と戦争して勝てるわけがないのは言うまでもない。
土日と、大宮そごうで開催中の「私学フェア」相談員を担当する。
昨日は朝から昼過ぎまでだったが、約30組の方と休み無く話した。
「私学フェア」を検索すると、
~ 27年の歴史と実績で、受験生、保護者、教育関係者の期待にお応えする「埼玉私学フェア」。
各校のブースには、パンフレットのほか、写真パネルなどを使った各校の紹介に加えて、各校担当者が、個別の進学相談や質問にもきめ細やかに応じます。 ~
と書いてあったけど、「きめ細やかに応じ」られたかなあ。
ずっと並んで待ってらっしゃる方がいて、それが気になるので、質問によってはちょっといなし気味になってしまったかもしれない。
ブースに座られて「では学校概要を説明してください」と言われると、「まったくゼロから?」と思ってしまうこともあるのは正直なところだ。
様子をうかがいながら「私立の男子校で、文武両道を目指し … 」と話し始めると、どんな情報を希望されているかがわかることもある。そこに焦点をしぼって話していかないと列が長くなるばかりなのが、校外での説明会の難しいところだ。
「いまの学力が○○ぐらいなんですが、これから勉強すれば大丈夫ですか」的質問には力が入れて答える。
全然大丈夫です、本校は○○ぐらいまであげてくれれば入れますが、正しいやり方で、一定時間勉強すれば絶対あがりますから!
実際、ちゃんとしたやり方で、やるべきことをこなしたなら、それでも足りないほど難しい学校ではない。
成績が伸びないとしたら、やり方がおかしいか、やり足りないかのどちらかで、本校在籍中の生徒諸君を見ててもそれは同じだ。そして圧倒的に後者が多い。
おそらく多くの中学生も、 … あ、もう出かけなきゃ。