二次、私大直前講習がはじまっている。国立組の演習で扱った、竹内敏晴「思想するからだ」がするするっと頭に入ってきて、前の代を教えた三年前より読解力が上がっている自分を感じた。えらくね?
お芝居に関する題材であったことも大きいかもしれない。
二流の役者の演じ方に二種類あると、竹内は言う。
たとえば登場人物の「悲しさ」を表現するときに、一つは「悲しみ」のジェスチュアにとびつくこと。いかにも悲しそうに見せるには、こういう発声をし、こんな振る舞いをするべきだという、学んだパターンに自分をはめようとする。
もう一つは、ほんとに悲しくなって涙を流すこと。芝居の人物の心情ではなく、自分自身が悲しい思いにひたり、さめざめと涙をながす。
どちらも、「悲しい」という言葉で型にはめられた類型を演じているだけで、そのときの本当の感情は伝わってこない。その感情はたまたま「悲しい」という言葉で対象化されるが、感情そのものとイコールではない、と述べる。
本当の悲しみとはいかなるものか。
~ 本来「悲しい」ということは、どういう存在のあり方であり、人間的行動であるのだろうか。その人にとってなくてはならぬ存在が突然失われてしまったとする。そんなことはありうるはずがない。その現実全体を取りすてたい、ないものにしたい。「消えてなくなれ」という身動きではあるまいか、と考えてみる。だが消えぬ。それに気づいた一層の苦しみがさらに激しい身動きを生む。だから「悲しみ」は「怒り」ときわめて身振りも意識も似ているのだろう。いや、もともと一つのものであるのかも知れぬ。
それがくり返されるうちに、現実は動かない、と少しずつ〈からだ〉が受け入れていく。そのプロセスが「悲しみ」と「怒り」の分岐点なのではあるまいか。だから、受身になり現実を否定する闘いを少しずつ捨て始める時に、もっとも激しく「悲しみ」は意識されて来る。 ~
「悲しみ」と「怒り」とは「もともと一つ」って、ほんとになるほどと思う。
生きているすべての人間に与えられる様々な出来事は、時にまことに理不尽で、怒りしかわかないものの、受け入れざるをえないものばかりだ。
もっとはっきり書くなら、誰もが経験する近親者の死、親しい人を失うこと、一方的にでも自分が心ひかれている人の死を知ったときに起こる感情は、「怒り」とも「悲しみ」とも説明できないような、からだの中に満ちあふれてくる何かだ。
~ とすれば、本来たとえば悲劇の頂点で役者のやるべきことは、現実に対する全身での闘いであって、ほとんど「怒り」と等しい。「悲しみ」を意識する余裕などないはずである。 ~
年始に、「劇団だっしゅ」の女優さん、山口奈実さんからメールをいただいた。
今年の本公演は「Disaster」の再演なので、ぜひお越し下さいとのことだった。
「だっしゅ」さんを初めて観たのが、震災から半年後にかけられたこの公演だった。
津波から町民を人々を守ろうと避難をよびかける放送をし続け、自らは犠牲になった役場の女性職員が描かれていた。
それ以降、震災をテーマにした数々の作品を、観たり聴いたり読んだり書いたりした。
直接扱っていない作品であっても、登場人物の心には震災経験が刻み込まれていたり、街の景色にそれが感じられたりするようになった。
何かを創造しよう、表現しようという心を持つ人なら、むしろ震災と無関係に何らかの作品を作り出すのが難しくなったということもできるかもしれない。
そうして、ここ3年のいろいろを振り返ったとき、震災の理不尽さをストレートに訴えかけたこの「Disaster」が、今も一番心に残っている。
主人公安藤幸を失って慟哭する恋人の姿(男優さんのお名前をおぼえてないのが自分らしいかも)は、まさに怒りとも悲しみとも言葉化したのでは表しきれない、からだの高まりだったなと、ふと思い出したのだ。
~ 感情の昂(たか)まりが舞台で生まれるには「感情そのもの」を演じることを捨てねばならぬ、ということであり、本源的な感情とは、激烈に行動している〈からだ〉の中を満たし溢(あふ)れているなにかを、外から心理学的に名づけて言うものだ、ということである。それは私のことばで言えば「からだの動き」=actionそのものにほかならない。 (竹内敏晴「思想するからだ」東大2008年第4問より) ~
その後も、人の「命」や「絆」を題材にし、下ネタ満載ながらも、気づくと人間の業をえぐるような作品を、相変わらず大塚の秘密基地みたいな劇場で、かけている。
時を経て再演される「Disaster」がどう生まれ変わるのか、今から楽しみだ。