水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

蜩ノ記

2012年01月27日 | おすすめの本・CD

 昨日の「スペイン」合奏では、案の定リズムをごましながら吹いている子がいたので、リズムマスター練習プリント簡略版をつくり直した。スペインのフレーズをまずリズムだけ完璧にする。さらにそのリズムパターンをBmのスケールで吹いてみる。それから曲にもどれば完璧になる … 予定だったが、自分がぼけてて教本のAmのスケールを指示してしまったり、思った以上にリズムがとれなかったりして予定してた通りにはいかなかった。毎日やろう。
 昼間は私大・国立二次対策の講習が続いている。講習の予習と、気がつくとたまっている添削とで、きついけど、「お願いします」ともってくる子たちの目をみると、すべて受け入れてしまう。ていうか泣きそうになる。
 よく勉強するわ、みんな。この時期こんなに学校に来てがんばっているだけで、高校時代の自分より、いや浴衣ギャルを見て酒呑んでる今の自分よりも、みんなはるかに人格的に優れている子たちばかりだ。遊びの時間をけずって仕事しようと思う。

 ただ、仕事がたまっている時期に読む本がまたやめられず、浅田次郎氏が絶賛してた直木賞の作品は読み出すとなかなか置けなかった。
 『蜩の記』の主人公戸田秋谷(とだしゅうこく)は、城主の側室が襲われたのを助けて匿ったおり、不義密通をはたらいたとの嫌疑で幽閉され、10年間の家史編纂作業の後に切腹という咎をうける。
 秋谷は、弁解をすることもなくそれを受け入れ、藩内の山村に家族とともに暮らし、その作業を続けている。藩の中枢は、筋を通し、村人からも慕われている秋谷を煙たい存在と考え、壇野庄三郎に様子をみにいかせる、というところから物語ははじまる。
 3年後にお腹を召す、つまり自分の命にはっきりとした区切りが見えるという条件下で、自分のやるべきことを粛々とこなす秋谷の姿は、つい座り直そうと思ったときがあった。
 おまえの生き方はそれでいいのか、浴衣ギャルと談笑してていいのか(しつこい)とつきつけてくるのだ。

 不義密通の疑いをかけられた側室はその後仏につかえる身になり、松吟尼とよばれている。
 二人が事件後数年を経て対面する場面は心にしみる。
 父の無実を信じている娘も対面の場にきていた。娘の薫が「父は若いころどんなでしたか」松吟尼に問う。お父上のことは何かを知っていると言うほどの接点はなかった、ただ、自分を助け出してくれたときに「ひととしての縁」を感じたという。
 「ひととしての縁とは、どのようなことでございましょうか」と薫が問うのにこう答える。


 ~ 「この世に生を受けるひとは数えきれぬほどおりますが、すべてのひとが縁によって結ばれているわけではございませぬ。縁で結ばれるとは、生きていくうえの支えになるということかと思います」
 … 「あのように美しい景色を目にいたしますと、自らと縁のあるひともこの景色を眺めているのではないか、と思うだけで心がなごむものです。生きていく支えとは、そのようなものだと思うております。御仏の弟子となったいまでも、そのことに変わりはありませぬ」(葉室麟『蜩ノ記』) ~


 この世に生をうけ、何十年も生きてきて、たくさんの人と知り合ってきた。
 接する時間は長かったわりにつきあいの減ってしまった人もいれば、ほんの少し会っただけなのにずっとその存在が大きく心を占めている方もいる。
 ある人の存在が大きかったり、ありがたかったり、ときにはうざかったりしても、「縁」を感じる人はいるもので、そういう方の存在が自分の生きていく支えになっているのだけはまちがいないと思うのだ。

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塚田農場

2012年01月26日 | 日々のあれこれ

 25日、すべての入試が終わる。併願Ⅱ入試の面接では吹奏楽部の子と出会えなかった。
 会議などをおえて、夕方大宮へ。新人戦の反省をしようとお仲間の先生方と一献かたむけのだ。
 大宮東口を出て「塚田農場」さんという居酒屋へ。
 予約で一杯で、入り口付近の寒い席しかないと言われたが、全然OKと言って入れてもらう。
 注文をとりにきた女の子が浴衣姿で明るい子で、いきなり「浴衣かわいいね」「ありがとうございますぅキャピッ」なんて会話をしてしまう。
 お通しにキュウリ丸ごと一本とキャベツが八分の1くらいでてきて、「お味噌たっぷりつけて食べてください!」というので、大雑把なのかなと思ったけど、素材に自信がありますよ的なお店で、かじってみるとおいしい。
 メニューには地鶏とかきびなごとかあるので九州の方の料理をメインにしているのかと思う。
 おお、チキン南蛮があるではないか。当然注文し、トマトサラダ、きびなご炙りなどをいただいただきながら、生ビールをいただく幸せ。大人になってよかった。
 あとバンバンジー、さつまいもフライ。自家製豆腐を頼んだら「いまから固めますから少しお時間いただきます」と言う。いいねえ。
 ほのぼのと呑んで帰る予定だったのに、S先生とK先生との激論がはじまり、どうしようかと思ってたら浴衣のおねえちゃんが、「このお店のシステムだけ紹介させてください」と来てくれて助かった。
 お店から名刺をもらえるのだが、はじめて来店すると主任の肩書きの名刺になるという。いや学年主任だけで十分なんだけどと内心思いながら聞いてると、来店するたびに課長、部長、専務と名刺がかわっていくそうだ。
 「じゃあ名刺に○○ちゃんのアドレス書いてよ、いいじゃん」とか言っているおれが会からは少しういていたかもしれない。いや、それは空気をかえるためにあえてのことである。
 むね肉のたたき、ソース焼きそばに炊(水)餃子。食い過ぎじゃね?
 とくに餃子は鍋仕立てででてきて、そのスープがうまい。
 ラーメン入れたらいいだろうなと思ったら、そういうシステムになってて、しめにラーメンをいただき、激論のお二人はデザートのプリンで少し落ち着かれたようだった。
 わたくしも、ビールのあとぽんかんサワー呑みいの、「獺祭」が日本酒メニューにあったので頼んでしまったりいので、学生時代には考えられないような贅沢な呑みである。いいか、たまに贅沢するのも。
 浴衣のおねえさん方がほんとによく働いている。入り口付近の席が寒いのはよくわかるくらい、ずっとお客さんが出入りしている盛況店で、平日なのに予約もたくさん入っている。それも納得のお店だ。
 今日、ネットで検索してみたら、いっぱいお店がある。
 もともとは宮崎県のお店で、直営農場をもち居酒屋一号店からスタートして数年でこんなになったのね。どの世界にもすごい人はいらしゃるものだ。専務くらいにはかるくなってしまいそうな気がする。

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2012年01月24日 | 日々のあれこれ

 22日は単願、併願の入試。面接のとき、吹奏楽部だったという受験生が二人きた。
 25人ぐらいで面接をしているから、計算上今年は50人の吹奏楽経験者が入学してくるのだろうか。
 例年どおり2人ぐらいだとしたら、その2名がたまたま自分の面接だったということは運命だとしか言いようがない。
 昨日は入試の中日で、平常授業はあるが、放課後は生徒立ち入り禁止になるので、文化部はお休みになる。
 なので、帰りがけに新都心まで行って「ヒミズ」を観た。
 園監督作品を絶賛する方は多く、この映画もそういう扱いをうけているが、どうなのだろう。監督自身が「裸の王様」でいいなら何も言わないけど。でも、誰か言ってあげた方がいんじゃないかな、稚拙だよって。 いや、しかし人はみな裸の王様だ。われわれだって、面と向かって何か言われることってほとんどないし、言わないし。たとえば若い先生の研究授業なら、ほんとにずけずけ言うし、聞いてくれそうだったらわら半紙二枚くらい書いてあげるけど、同期ぐらいだとそんなに本気には評しない。
 ぎゃくもまた同じだ。考えてみるとコンクールの講評用紙とはなんとありがたいことだろう。
 いつもMT先生のきびしいお言葉には傷つくけど、真実ではあるし、なにくそと思わせられる。もらった日は破り捨てようかと思うこともあるけど、数ヶ月後に読み直し、あらためてコンクールの音源を聞くと、真摯に頭を垂れざるを得ない。バンドレッスンの先生から時々おれの行き届かぬ点を指摘していただけるのもありがたい。
 映画にも講評用紙があって「技術6・映像7・解釈7・表現6」とか書いてあげれたら参考にしてもらえるかな。「主役の演技8・原作の扱い7・構成感4・自主製作映画の雰囲気9」とか。
 映画がはねて外に出ると、オーマイガ! 雪が積もっている。映画より寒くなった。
 みぞれの予報だから大丈夫だろうと思ったのに、あまかった。
 おそるおそる車を走らせるしかない。さいわい大宮付近から離れるほど雪は減ってたのでなんとか帰れた。 今日は特待生の入試。さすがに車での登校はあきらめ、受験生用にバスで登校した。
 雪にこんなに弱くなってしまった。明日もう一日入試だ。

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シャボン玉とんだ宇宙(そら)までとんだ

2012年01月22日 | 演奏会・映画など

 土曜日の午後、音楽座のホームタウン公演「シャボン玉とんだ宇宙(そら)までとんだ」に出かけた。
 新宿の小田急改札付近でロマンスカーの券売機に心ひかれ、ふらふらと特急券を買ってしまう。町田までの28分。特急券は400円。ちなみに池袋からふじみ野までのTJライナー乗車券は300円で20分の乗車。ロマンスカーの座席はJRの特急の普通車よりグレードが高かった。東上線はベンチ、小田急線はソファー。どちらがお得かは論をまたない。がんばれ東武鉄道。このシートに二人並んで座ったら、箱根に着く前にロマンスが生まれるのはまちがいない。すばらしすぎるぞ、小田急電鉄。「株式会社ロマンス」か!
 駅のホームの売店には魅力的なお弁当も売っている。知る限り駅弁のなかで最もCPが高いと思ってる崎陽軒のチャーハン弁当も売っている。新宿でGOGOカレー食べずに来ればよかったと思ったくらいだ。
 土曜のため電車は空いている。おそらくウィークデーだったら、町田まで乗ってしまう通勤の方はけっこういるだろう。ゆったりした気分で座ってたら睡魔に襲われたが、寝過ごして箱根まで行かなくてよかったが、箱根って電車だとほんと近い。
 雨のなかを市民ホールまで歩く。お芝居が始まる。先日本校を訪れてくれた冨永波奈さんがでてくる。うしろで踊っている北村祥子さんもすぐわかった。知り合いがステージにいるのがこんなにどきどきするなんて。よかった知り合いになれて。忘れられないようにメールとかこまめに送るようにしようっと。
 作品は、「作曲家を目指して生きる純朴でシャイな青年・三浦悠介と、スリの親分に育てられた孤児の折口佳代の、純粋な愛を描いた物語」で、音楽座ミュージカルの原点と言える作品だ。
 過去何回もの公演で、多くの人が涙を流し、数々の演劇賞にかがやいてというのも納得できた。
 あらためてミュージカルとは総合芸術だとも感じた。
 昔タモリ氏が、セリフの途中で突然歌い出すミュージカルは不自然だと言ってたのを聞いた。
 たしかにそのとおりだ、そこだけとりあげたら。
 でも不自然と言うなら、高尚な劇団の「赤毛もの」(もうこんな言い方しないかな)なんかもけっこう不自然だ。つまり洋もののお芝居ですね。ブロンドのかつらをかぶった役者さんが「ねぇ、ジェニファー、素敵な夜をすごしてね」みたいな会話するやつ。
 どんなにリアルにつくろうとしたところで、お芝居は根本的に虚構だ。
 ウソくさいものが真実を伝えることもあれば、ふだん遣いの自然な会話だけで構成されたお芝居なのに現実感がない場合もある。
 何が不自然て、役者さんが役に扮して毎日同じ台詞を話していることが一番不自然なのだ。
 自分たちの伝えたいことを他人に伝えようとして、しかも商業演劇だからお客さんに楽しんでもらいたいという思いがあって、その手段としていかにも高尚な演劇を選ぶ人がいれば、宝塚を選ぶ人もいれば、コントを選ぶ人もいれば、プロレスを選ぶ人もいる。
 伝えるためなら何やってもいいんじゃないかな。
 楽器での表現にも同じことが言えるかもしれない。
 できれば、なんらかの形で部員のみなさんにもこの表現形態を経験させてあげたいとも思う。

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共喰い

2012年01月21日 | 日々のあれこれ

 活字で読んだだけだが、芥川賞を受賞した田中慎弥氏のインタビューがイカしてた。

 「自分がもらって当然」「都知事閣下のために、もらっといてやる」

 都知事閣下が「バカみたいな作品ばかりだよ」と事前にもらしていたのが伏線になったようだが、文学を志すものなら、これくらいとんがってないと面白くない。とくに若いうちは。談志師匠はずっととんがってたけど。
 小説を書こうという志と、賞をもらって喜ぶという感覚とは、考えてみたら両極にあると言えるかもしれない。
 だから、「おまえらエラそうに選考してんじゃねえよ。だいたいあんたらの今の作品てなんなんだよ」的な感性で選考委員にたてつく若い作家は健全だ。
 じゃ、賞を辞退すればいいじゃんと思う人もいるかもしれない。
 その考えには一理ある。田中さんも考えただろう。
 でも、彼も自分の作品はいとおしいはずだ。
 書かずにいられなくて書いているのだから。
 宇佐美寛先生のお言葉を借りるなら、「自分の志がかわいい」のだ。
 作品である以上読まれてなんぼだ。たくさんの人々に読まれて、読んだ人の心に何かを残すことができてはじめて作品は報われる。
 自分の作品が読まれる機会が増える可能性があるなら、賞ももらうし、インタビューも受けるし、マスコミに顔もさらす。
 まして田中さんは高校卒業以来、生業にはつかずアルバイトもせず書き続けてきたという。
 ささえてくれた方もおられるだろう。それを思えば、人目にさらされてあれこれ言われるぐらいクリアしていかないと。そんな経験をすることも、作品に深みを与えることになるはずだから。
 えっ? なんか年よりの先生みたい口調になってる。やめよ。
 でも田中さんの「共喰い」は、これこそ芥川賞だよねという小説だった。もらって当然じゃないかな。

 でも(どこからの逆接?)賞って、そういうものかもしれない。
 賞そのものが最終目標ではないとみんなわかってはいるけど、自分たちを支えてくれる人のために、形あるもので何か恩返しできるなら、賞ねらいになんのやましいこともない。ていうか、とらないと。

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ワン・モア

2012年01月19日 | おすすめの本・CD

 内科医の柿崎美和は、道東の市民病院で、長患いをする患者を安楽死させた疑いをかけられ、ほとぼりがさめるまでと、今は島の診療所に勤務している。島民のほぼ全員がなんらかの形で漁業に携わり、誰が何をしているのかは島民のみんなが知っているような閉ざされた共同体だ。
 そこで知り合った漁師木坂昴と逢瀬を重ねるようになると、当然それは島の噂となり、昴の妻からも罵倒を受ける。


 ~ 美和は学生時代からの、割に合わない恋の数々を思い出した。誰かを恨んでいられれば、心のやり場に困ることもない。それは茜に対する親切心などではなかった。いつの間にか美和が、恨まれることを選ぶ方が楽になってしまったというだけのことだ。
「ちゃんと別れる。大丈夫、心配しなくていい。こういった湿った話、実はあんまり好きじゃないんだ。彼がどう思っているかは分かんないけど、こっちはただの遊びだし。悪かったと思う。ごめんね」 ~


 屈辱に耐えて唇をかむ妻の茜に、「もう一度だけ寝てもいいかな」と追い打ちをかける。体だけには未練があるからと。
 漁師は、オリンピックの候補になるほどの元水泳選手で、ドーピング疑惑をおこし結果として選手生命を絶つことになった。故郷にもどり鬱屈を抱えながら漁師をしている昴が、何か秘めたような目をもつ美和に惹かれるのも自然だったのかもしれない … 。
 ていうのが、一つめに入っている「十六夜」という短編。


 そんな暮らしをしていた美和に島を出る決心をさせたのが、幼なじみであり、同じ医者になった親友の滝澤鈴音だ。
 医学部を出て一生懸命はたらいて、父の遺志を継ぎ、やっと父の開業した滝澤医院を再開できたと喜んだのもつかのま、自らが癌に侵されていることを知る。
 医者の目で客観的に自分を診たとき、余命は1年を切っていると判断せざるを得なかった鈴音は、病院を美和に託したいと連絡する。
 二つめの短編は、その鈴音の視点で描かれる。


 勤務医時代からそばで鈴音をささえてきたベテラン看護師の浦田さん、高校時代から鈴音に思いを寄せ続ける放射線技師の八木くん、鈴音の元夫、コンビニ店員の佐藤君、次々と視点をかえて語られる短編集だ。
 それぞれの短編では、その視点人物が主人公となるが、全編を通して美和の存在との関わりが提示される。 「十六夜」でいきなりキャラ立ちしてる美和が一つのモチーフで、楽章が替わっても必ずそのモチーフがすっと立ち現れてくるような感じだ。


 浦田さんの章「ラッキーカラー」にこんな場面がある。
 滝澤医院に来る前の時代、癌を治療した赤沢さんが浦田さんに結婚を申し込む。
 そうやって申し込まれる患者さんがたくさんいるけど、みんな元気になると忘れるみたいですと、浦田さんはあしらう。
 五年経って再発してなかったら、もう一度会ってくださいと言い残して退院していった赤沢さんが、今の勤務先を見つけて連絡をよこし、二人は会うことになった。


 ~ 赤沢が、クロークの前に立っていた寿美子に気付いた。健康そうな頬がぱっと持ち上がった。紺色のスーツを着ていた。着慣れていないのがひと目でわかる。ネクタイの結び目が少々怪しかった。靴は新調したばかりという気配で、そこだけ妙に光っている。どんな思いで今日にのぞんだか、靴の先が教えた。 ~


 浦田さんは49歳だったかな。赤沢さんは5歳年下だ。
 この章は浦田さん視点なので、ここの描写は、赤沢が気合いを入れて来たことを読者に示すとともに、そんな赤沢をうかれることなく冷静に観察できる浦田さんということが伝わるようになっている。
 「正式に結婚を申し込まれたらどう断ろうかと思っていた」とか書いてなくても自然にわかる。
 視点を問うなら、こういう効果とのセットで問題にしてほしいものだ。


 ああ、それにしても美和さんは魅力的だ。女優さんならどなただろう。
 滝澤医院を美和に任せ、自分は治療ではなく緩和ケアを選ぼうとした鈴音を、なんとしても治すと宣言した美和の様子は、この浦田さんの章で描かれてた。


 ~ 「あんたの体のブツは、わたしが叩く」と言い放った柿崎美和のことを、鈴音は「彼女らしい」と笑った。五年間再発の恐怖に耐えた赤沢と、未知の治療に耐えている鈴音の面影が交互に内奥で重なりあう。 ~


 どんなふうに幕を閉じるのだろうとどきどきする最後の章。 
 重松清っぽく泣かせられるのはやだなと思いながら頁をめくる。
 タイトルの意味を最後に確認し、あたたかな気持ちで、この作品と出会えたことを感謝した。
 登場人物のすべてがこれほどきっちりとキャラ立ちしてる作品も珍しい。
 桜木紫乃さん、こっちが直木賞候補だったら受賞したのになあ。

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たま虫

2012年01月18日 | 日々のあれこれ

 は~い、じゃ、今日は小説講座の実践編第一回です。今までね、理論的に勉強してきましたが、今日から実際に書いてみましょう。
 どんな手順で書いてもらうか説明するよ。
1 まず今までの自分の人生をふりかえってみよう。
2 それぞれの年代別で、できるだけ具体的なエピソードを書き出してみよう。
3 そしたら分類してみるよ。楽しかったこと、悲しかったこと、うれしかったこと、笑ったこと、泣いたこと、怒られたこと、はしゃいだこと、つまずいたこと、悔しかったこと、というようにね。よく見てごらん、今まで何度も同じことしてないかな。人間て同じ失敗をくり返すよね。
4 その場面場面にあった、何か印象的な景色や風物、季節のもの、ちょっとした小物はないかな。小説の大事な小道具になるよ。悲しい時になぜかいつもアイス食べたくなったりしなかった? 悔しい時に決まって行く喫茶店とかない? 楽しかったときいつもそばにいたのは誰だった? そんなを思い浮かべよう。え? 何もない? じゃ、つくればいいじゃん。でっちあげ。それを創作って言うんだよ。思いついたかな、じゃ書いてみよう。

 先生! できました。提出しておきます。
 はい、じゃ明日までに読んでおくからね。

 どれどれ。ほおっ。「たま虫」ときたか。何々、自分の小学校時代、大学時代、無職時代の … 、ふむふむ、なるほど物事がうまくいかなかった時に必ずたま虫を目にした。なるほどねぇ、めちゃめちゃ作り物くさいけど、小説の形にはなっているな。
 ただ主人公がちょっと今時にしてはイタイなあ。いかにも昔風のプータローで自意識だけは微妙に高めのおにいちゃんて、どうなんだろ。友達いなさそうだな。
 娑婆でつらい思いをしてるのは自分だけだ、そしてそれは全部世間のせいだという、いかにも昔の文学青年の書くものみたいで、こんなのも一応ありだけど。よくこんな古くさいのを書けたなあ。
 今の時代には、何も生み出さないタイプの小説だ。メンヘラちっくな女の人もきもっ。
 ま、形としては小説になっているからギリギリ合格点にしておこうか。
 あと、もう少し「たま虫」の象徴性がうまく働くように添削しておいてあげようか。
 こんな対応じゃ、あれだ。たとえば入試で出題したら、正解がつくれないだろう。いや、これを積極的に試験に出そうなんて感性の人がいるとしたら、世間知らずの文学オタクとしか言いようがないか。

 こんにちは。
 はい、こんにちは。
 先生、すいません、まちがって提出してしまいました。あれ、自分が書いたんじゃなくて、実は井伏 … 。

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センター試験

2012年01月17日 | 日々のあれこれ

 1月16日。
 3年生が登校してセンターの結果をまとめる日。
 一喜一憂する何人かと話したり、担任の先生と思わず握手したり、苦渋の面持ちで見つめ合ってみたり。
 長い人生の中では数々のイベントのひとつにはすぎないが、18歳の高校生にとってセンター試験は、自分の人生を決めていく大きな壁のようなものととらえている子も多いだろう。
 勉強するしないは本人に責任だが、ちゃんと試験をしてあげるかどうかについては、大人はもうちょっとちゃんとしてあげた方がいいのではないか。
 センター二日目、理科の一科目目と二科目目の間にトイレ退出した生徒が多数いた会場もあったという新聞記事を読んだ。二科目目の問題を見てから教室外に出たのだから、不正をしようと思えばいくらでもできる。
 そこまでして点数とりたいヤツにはとらせてやればという気持ちもないではないが、不正をはたらこうと思えばそれが可能なシステムで実施している大人に問題があるのは間違いない。
 初日の社会の配り間違いも、あきらかに不利益を被った受験生がいるはずだ。
 「ちゃんとできないのなら、へんな変更すんなよ」という声を、高校教師の代表(いつから?)として書き記しておきたい。
 不正のシステムといえば、改善される気配のないのが国語の受験時間だ。
 現代文だけ2問を解答する場合も、現代文・古典の4問を解答する場合も同じ80分なのだ。
 評論、小説、古文、漢文と四題解くのに、80分は相当力のある子でもぎりぎりの時間だ。
 だから受験生は、時間配分を考えての練習を、国語についてはかなりやると思う。
 それでも、15分で解こうと思っていた漢文が去年みたいに難しくて例えば25分かかってしまうと、小説の後半は時間がなかったです、みたいになってしまう。
 今年は、極端に難しい問題はなかったけど、それ以前に問題の質が例年に比べて低いので、ほんとにこれが答えでいいの? という悩みでよぶんに時間がかかってしまった子は多いはずだ。
 小説の問6とか、今も正解の意味がわからない。
 ちゃんと勉強してきた子とそうでない子との差がつきにくい問題だったと感じているのは、自分だけではないと思うのだが。

 さて、新人戦の結果にめげているひまはなく、ひっしのパッチで練習していかねばならない。いただいた講評用紙を印刷して配り、基礎しっかりやろうと最初に話す。合奏はわたなべ先生におねがいし、川越市合同音楽祭の打ち合わせに川越高校まで。予想よりはやく終わったので(ていうか本田先生が全部だんどってくれてあった)、ドトールで少し読書と講習の予習。

 1月17日
 今日からはじまる講習の準備をしていたら、センターで今ひとつ結果が出なかった子がきて、「いろいろご指導いただいたのにいい結果が出なくてすいません」と言うではないか。謝るのはこっちだと言いながらロビーで少し話をする。
 人生は長いから、今時点での不本意な結果は、後々にはプラスだったと思える日が来るかもしれない。一方で誰の人生もいつ終わるを迎えるかわからないのだから、落ち込んでいたら時間がもったいない。結果は結果として受けとめて、次にできる最善のことをやろうよと諭す。いつしか自分に言い聞かせるように。
 午前の担当教室に行くと11人いる。「萩尾望都か!」と心のなかでつぶやきながら問題を解いてもらう。 午後のクラスには4人。人数は少ないものの、彼らの志望校にあわせた問題を毎日教えるには、さすがに予習が大変だが、やりがいがある。
 合間に部活の新しい曲の譜面を用意をする。なんかやりがいだらけだ。

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新人戦

2012年01月15日 | 日々のあれこれ

 新人戦行ってきました。応援いただいたみなさま、ありがとうございます。
 銅賞という結果でしたが、自分たちの現状をはっきり知ることができてよかったです。
 がんばります。


 1月13日。新人戦二日前。本番通りのイメージで、入場、通しの練習をする。制限時間内におさまる気配がない。自由曲はテンポのはやいところを少し早めに演奏したいが、自分もふくめて崩壊する危険性がある。本番もハモデさんにリズムを刻んでもらいながら演奏できないかと切実に思った。
 1月14日。
 センター初日の応援に東洋大学まででかける。そういうこともあるかと思ったけど、構内の駐車場にはいれてくれなかった。付き添いの親御さんなら多分みとめられるのに、付き添いに近い存在のわれわれを、駐車場だってがっつり空いてるのだから、2時間ぐらい置かせてくれたっていいじゃんと思う。でも、警備している側になって考えれば、いたしかたないかな。どこかで線をひかないといけないことだから。テレビとか来たら入れちゃうんじゃないかな。
 それにしても寒さは予想以上だった。ヒートテックを1枚よぶんにはいたくらいでは、全然だめだった。
 学校にもどり、とりあえず一杯のかけそばを食べて、暖を採っていたらもう合奏の時間。通し演奏が12分におさまる気配がないので、新人戦では認められて課題曲の一部をカットすることにした。
 やっと、いい音に聞こえる部分もある。「エアーズ」は曲の途中で何回も転調する。その調の音階の音、指遣いを確認し、音程を確認してからその部分を吹くと、まあまあそれらしいハーモニーになる。しかし、曲の最初から通してくると、やはり対応できない。これからの練習で、各調の練習を毎日きちっとやらないといけないのだなということがわかった。部員のみんなも自覚できたかなあ。だとしたら、出るかいがあるというものだが。
 1月15日。朝つくったお弁当(チャーハン、鶏唐揚げ、揚げシューマイ、いもとチーズのサラダ)を置き忘れて出勤してしまったのでコンビニで昼のお弁当、夕方のおやつなど買ってから登校。
 午前中最後の合奏をして、積み込みをし、会場に向かう。
 ちょうど駐車場がいっぱいで、でも出入りはあるから空くまで持とうとしてバーの前に停車してたら、じゃまだからだめという。たまたまその方だけの問題なのかもしれないが、けっこう威圧的だった。駐車場の方って公務員さんじゃないのかな。契約だろうか。しかたないので、とりあえず楽器をおろさしてくださいその後一旦出ますからと言って入れてもらった。楽器をおろしている途中で出る車があったので、お伺いを立ててからそこに駐車する。ふと気づくと駐車場待ちは認められはじめていた。
 今日は、チューニング室25分間の準備で本番にのぞまないといけない。午前中練習していっても、25分では音があわない。1時間あったらきちんと合うのかと言われたら「すいません」というしかないが、今はまず楽器の音をあわせること自体がきびしく、つまりそれは基本的な楽器の扱い力が身に付いていないという問題だ。これもみんなが自覚してくれるなら、出るかいがあるのだが。
 演奏した曲は、どちらも名曲でやりがいはあった。「復興」はこの先も演奏する機会があるので、突貫工事はもう終わりにして、もう一回きちんとさらい直したい。曲の構造やフレーズの作り方を学ぶのに大変ためになる曲でもある。

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本物の孤独

2012年01月12日 | 日々のあれこれ

 「いい文章があるよ」と教えてもらってて読みたかった文章がある。
 さいたま新聞に載った、鴻上尚史氏が新成人に贈った文章だ。
 なぜか該当号と思われる新聞が職員室の箱に見つからなかったがネットは便利だ。すぐ見つかった。


 ~ 「本物の孤独と出会おう」
 成人、おめでとう。でも、大人とはなんでしょう。賢いあなたは、年を重ねることと、大人になることは何の関係もないと見抜いているんじゃないですか? 
 あなたの周りには、二十歳をとうに過ぎているのに、少しも大人じゃない人が何人もいるはずです。
 大人と子供の違いはなんでしょう。二十歳を過ぎると、実にやっかいな問題にぶつかります。解決不可能な、どちらの結論を選んでも、間違っているんじゃないかと思えるような、正しい解決策が見えない問題です。
 でも、人生の問題とはそういうものです。大学入試まで、子供は「問題には必ず正解がある」と思い込まされていますが、もともと、人生の問題には、完全に正しい解答なんてありません。
 そういう時、子供は、自分で考えることをやめて、親や誰かのアドバイスや言いつけに従います。そうすれば楽ですし、責任も生まれません。子供とは、いつも誰かに手を引いてもらっている存在なのです。
 そして、二十歳を過ぎてもそうしている人は、絶対に孤独になりません。
 成人式でお酒を飲んで暴れている若者が、毎年話題になりますが、彼らは、本当の意味で一度も孤独になったことがない人達だと思います。
 孤独には、「本物の孤独」と「偽物の孤独」とがあります。
 一週間、誰とも話さなかったから孤独なのではありません。
 誰とも話さなくても、メールをやりとりし、インターネットで会話していれば、それは孤独ではありません。
 孤独とは、「一人で自分と向き合う」ことです。例えば、あなたがすてきなアドバイスを受けたり、役に立つ本を読んだりしても、一人でかみしめる時間がなければ、それはあなたのものにはなりません。今聞いた役に立つ情報を、右から左に伝えるだけでは、あなたのものになっていないのです。
 二十歳を過ぎて出会う解決不可能な問題は、親に判断を任せない限り、自分で解決するしかありませんが、「偽物の孤独」しか経験してない人は、アドバイスしてくれる人を求めて、ウロウロさまようのです。
 ただ「本物の孤独」の時間を持った人だけが、うんうんとうなりながら問題に取り組むことができるのです。
 もし「本物の孤独」を経験したいと思ったら、あなたは、携帯電話の電源を切り、パソコンやテレビから離れて、あなただけの時間を持つ必要があります。その時間が長ければ長いほど、あなたは「本物の孤独」と出会い、自分自身と会話を始められるのです。
 「本物の孤独」はしんどいですが、あなたに暗闇を進んでいく勇気をくれます。終わりが明確でない暗闇を一歩一歩、歩く時、あなたは初めて大人になるのです。(鴻上尚史)  ~


 「新成人に」というより、大人みんなが噛みしめるべき言葉かもしれない。
 鴻上氏が言うように、生物年齢的には大人でも、全く大人になってない人はいる。
 いっぽうで、高校生でもずいぶんと大人に感じる子もいる。
 十数年も生きてくれば、「正解のある問題」ばかりでなく「人生の問題」にもぶつかっているからだろう。
 そういう時、親や先生の指示に純粋に従ってきた子もいれば、悩んだり考えたりしながら自分で決めてきた子もいる。何にも従わず、かといって何も決めずに逃げてきたと言わざるをえない場合もあるかもしれない。
 たとえば高校や大学を選ぶことは「人生の問題」に該当するだろう。そこに正解はないから。
 A高校とB高校のどっちにいくのが正しいのかは誰にもわからない。
 選んだことを、そしてそこから生まれた結果を、誰のせいでもなく自分の責任として引き受けられるようになったとき、大人への一歩を踏み出しているということだ。
 それは二十歳になったから自然にうまれるものではない。
 たとえば第一志望ではなく本校に入学する子もたくさんいるが、事実をしっかり受け止めて自分で歩こうとする子は、顔が大人びてくる。
 高校受験や大学受験が人を成長させることが多い理由はここかな。
 見守ってくれる親がいて、声をかけてくれる先生がいて、悩みをきいてくれる友もいて、でも目の前の問題に向かうのは自分しかいなくて、その結果を受け止められるのは自分しかいない。
 自然と孤独と向き合わざるを得ない状況になる。
 自分の能力やら才能やら性格やら可能性やらに、目を背けてばかりはいられなくなる。
 「受験なんてものに束縛されたくない」などと言って、自分から目を背けている人には見えないものが見える。
 「孤独になれ、自分の世界に入り込め」と次の学年だよりに書こうと思っていたが、間違ってなかった。

 ふうっ、またいいこと書いちゃった。
 ちょっと自分にも向き合ってみようかな … 、だめだ、何もない。
 おぞましい欲望やら虚栄心やら楽していい結果を手に入れたいという思いで一杯だ。
 なんとか封印して目先の仕事を一生懸命やってごまかしておこうっと。

コメント (3)
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