~ 言葉は過去の言葉の宝庫を喚起できればできるほど、たんにそこに並んでいる文字を超えた豊かさを得ることができます。だから過去に書かれたものに対する「模倣への欲望」は肯定すべきなんですね。しかも、たくさんの文章を読んできた読者だけが、その豊かさを分かってくれます。乏しい読書経験しかなければ、どんな文章を前にしても、それだけのことしか読めない。(水村美苗インタビュー「世界中から『国語』がなくなる日」) ~
うん。こういう引用をすると、「さすが国語の先生」的な雰囲気がただよう。
先日、慶応小論文の過去問を添削してて読んだ文章だ。
本にかぎらないと思う。
音楽しかり、映画しかり、演劇しかり。ある曲を聴いて、ある映画をみて、何を感じるか、何を感じられるか。
経験によって築かれたその人の土台がどれくらいのものかで、感じ取れるものは変わってくる。
本を読んで、映画を観て、おもしろかった、つまんなかったって簡単に言ったり、書いたりするけど、そしてその時点におけるその人の感想として、どんなレベルのものであっても肯定されるべきものではあるけれど、そこには「すぐれた」感想、「稚拙な」感想というのは存在するのは間違いない。
何回も触れた堀先生の『教師力ピラミッド』にしても、10年前、20年前の自分が読んだら、今と感想は異なるだろう。
今の自分は、この書のどの部分が比類ないものであるか、かなりはっきりわかっていると思っている。
でも、あと10年経験を積んだあとなら(え? つまり教師生活終わるときじゃん、ひえぇ。やめたくないよぉ … )全く別種の感慨をもって、読み終えることになるかもしれない。
10年後の自分か。ちょっとあこがれるのは中島敦『名人伝』の紀昌(きしょう)の境地だ。
趙の国に紀昌という若者がいた。
よしおれは天下第一の弓の名人になろうと志を立てる。
そこで当代一の名人と言われる飛衛(ひえい)に弟子入りし、五年の修行を積み、自ら飛衛の域に達したという境地になる。飛衛から「しかし我々の技が児戯に等しいと思わせられる名人が、ある山奥にいる」と告げられ、紀昌は訪ねていく。
はるばる訪ねていき、出会った甘蠅(かんよう)という名人は、穏やかな目をしたよぼよぼの老人だった。
「自分の技を見てほしい!」と叫び、紀昌は矢をつがえるや遠くに向かって射かけると、はるか向こうの山の方に、鳥が五羽つながって射られていた(だったっけな、そんな話)。
それを見た名人が穏やかな声でつぶやく。
「なるほど、一通りはできるようじゃな。ただし、それはしょせん射之射じゃ。不射之射は知らぬようじゃ」
「はあ? じじい、わけのわかんねぇこと言ってんじゃねえぞ。だいたい、弓さえ持ってねえじゃねえかよ、どこが弓の名人だ」
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。若いの、見てみなさい」
といって老人は、両腕をおもむろに開き、弓をもっているかのような格好になると、ふっと矢を放ったかのように右手を離す。
すると、遙か遠くの方で、大鳥が五羽まとまってすうっと落ちていくのだった。
「これが不射之射じゃ」
紀昌は思わずそこにひれ伏して、弟子にしてくださいと頼むのであった。
なんかのひょうしに、この名人伝の話を授業ですると、だいたいみんな楽しんできいてくれる。
「不射之射」を目の前で披露されたならば、誰もが驚くのはまちがいない。
でも、われわれが目にして、驚くにしても、次に何を考えるかといえば、どういうしかけになってるんだろという発想だろう。
ていうか、甘蠅老人は、すくなくとも水持の前では、その技を見せてはくれない。
なぜなら、技の価値に気がつける人間であるかどうか、瞬時に見抜いただろうから。
紀昌は、そうではなかった。そうではないどころか、老人のすごさを、その時代で一番感じ取れる人間が紀昌だった。
だからこそ、老人は喜んで技を見せ、望み通り弟子にしたのだ。
なんていうの、示唆に富む話ですね。
さて、その後紀昌がどういう修行をしたのかは、記されていない。
しかし、紀昌が山を下りたあと、とんでもない名人になって帰ってきたという噂が町中に広がる。
誰もが、紀昌の弓を見たいと願う。
しかし、紀昌にそのそぶりが一切ない。
ある人が勇気をふりしぼって紀昌に頼みに行った。
「紀昌さま、この弓で、一度何かを射てくださいませんか?」
その時、紀昌はけげんそうな顔をして「いったい、それは何の道具ですか?」と言う。
「ご冗談を、あなたが極めて弓ではございませんか」
「弓?」
どうも、本当に紀昌が思い出せないことを男は悟り人々に話すと、それがまた伝説となっていく。
それ以来、都では一時、画家は筆をかくし、音楽家は楽器をかかくしてしまったという。
どう面白いでしょ、と聞くと、うなずく子が多い。
さて、教科書にもどるよ。ん? 教科書って何?
あとね、先生さっきから、この白い棒が何をするものかわからないんだけど … 、といってチョークを持って笑いをとるのがお約束のパターンだ。
なんか、いつかそんな日がほんとに来るような気がしてきた。
そうなると、「先生、こういう文章て、どうやって解けばいいんですか?」と尋ねられたとき、「うん、それね … 、読めばいいんだよ」と穏やかな声でつげると「へ? あっ、そうだったのか … (納得)」となるにちがいない。
ただボケたんじゃね? という扱いをうけるかどうか紙一重のところではあろうが。