設定が異常な物語は、それ以外の部分は徹底的にリアルしないといけない。
すると、「ありえない」ことが「もしかしたら」に変わる。
リアルのみで構成されている「現実」のほころびに気づくことになる。
入れ替わりものしかり、タイムマシンものしかり。
日常生活のなかで、あれ? と思うことがあっても、人は自分なりの理屈をつけてやり過ごす。
いそがしいしね。
小説も、映画も、お芝居も、そんな我々の日常に、ほおっておこうと思えば可能だけど、気にしはじめるとほおっておけない「とげ」が刺さっている感覚をもたらす。
一見突飛に見える作り話のなかに、それまで気づけなかった何かが見えてきて、ぞわぞわさせる。
作り話の「突飛な設定」は、実は人をぞわざわさせるための手段だ。
「そんなこと、あるわけないだろ」と聞く耳もたない人にとっては、なんの力も発揮しないけど。
~ 過去の自分が夢だったのではないかと思うときがある。今の俺が本当の俺で、過去の俺は偽物なのではないかと。怖くなる。男だった頃の自分を懐かしむこの感情すら、ただの妄想の産物なんだろうかと。
けれどこうやって水村と会うと安堵する。同じ体験をしている人間が目の前にもいる。俺のあの日々は嘘じゃなかったんだと胸を撫で下ろす。今更ながら俺は、年に一度会うという水村の提案に感謝していた。 ~
高校1年の夏に入れ変わった二人。
一晩寝ても、夏休みが終わっても、高校を卒業しても、元にもどることはなかった。
大学に進み、社会人になれば、二人の距離は遠くなっていく。
もう男にもどる日は来ないのだろうか……。
坂平陸の中に入った水村まなみは、自分よりもずっと上手に生きているように感じた。
自分の中身と外見とが、うまく一致しない人は現実にいる。
「あきらかに違う」とまでの違和感を持たずに生きて来れた自分だが、こういう作品を読むと、その苦しさの一端を想像することはできる。
こう動きたいのに、からだが言うことをきかないという経験は、あるな。
この先、年をとるにつれて、そんな思いは増えるのだろう。
中身と外見のくいちがいに悩む経験をまったくしないまま、一生を終える人はもしかしたら少ないのかもしれない。
いままで、入れ替わり系の物語を、エンタメとして消費してきただけだった。
『君の顔では泣けない』は、一気読みさせるけど、おもしろかったねではすまないものを残す。
~「み、水村。やばい。今、蹴った」
「は? なにが?」
「子供! 赤ちゃん! 今蹴ったよ、腹ん中で蹴ったー」
「えっほんとに? ほんとに、赤ちゃんっておなか蹴るの?」
「蹴る! 蹴ってるわ、これ! すごいよ、すごい脚力」
「ええーいいなあ、私もその感触味わってみたい。早く出たいって言ってるのかもね」
「おうおう、早く出てきてくれよ。母ちゃんはもうこの腹に飽きたよ」
「母ちゃんだって。うける」
「だって母ちゃんだもん、俺」 ~
この先どうなるのだろう。もとにもどる日はくるのだろうか。
なんの示唆もなく物語は終わっている(たぶん)。
ただ、どうなるにせよ、予想もしない人生を過ごした二人が、それゆえに気づくことができたいろんなことを支えにして、たくさんの人にやさしく生きていくのだろうと思える。つぎの直木賞これでいいよ。
すると、「ありえない」ことが「もしかしたら」に変わる。
リアルのみで構成されている「現実」のほころびに気づくことになる。
入れ替わりものしかり、タイムマシンものしかり。
日常生活のなかで、あれ? と思うことがあっても、人は自分なりの理屈をつけてやり過ごす。
いそがしいしね。
小説も、映画も、お芝居も、そんな我々の日常に、ほおっておこうと思えば可能だけど、気にしはじめるとほおっておけない「とげ」が刺さっている感覚をもたらす。
一見突飛に見える作り話のなかに、それまで気づけなかった何かが見えてきて、ぞわぞわさせる。
作り話の「突飛な設定」は、実は人をぞわざわさせるための手段だ。
「そんなこと、あるわけないだろ」と聞く耳もたない人にとっては、なんの力も発揮しないけど。
~ 過去の自分が夢だったのではないかと思うときがある。今の俺が本当の俺で、過去の俺は偽物なのではないかと。怖くなる。男だった頃の自分を懐かしむこの感情すら、ただの妄想の産物なんだろうかと。
けれどこうやって水村と会うと安堵する。同じ体験をしている人間が目の前にもいる。俺のあの日々は嘘じゃなかったんだと胸を撫で下ろす。今更ながら俺は、年に一度会うという水村の提案に感謝していた。 ~
高校1年の夏に入れ変わった二人。
一晩寝ても、夏休みが終わっても、高校を卒業しても、元にもどることはなかった。
大学に進み、社会人になれば、二人の距離は遠くなっていく。
もう男にもどる日は来ないのだろうか……。
坂平陸の中に入った水村まなみは、自分よりもずっと上手に生きているように感じた。
自分の中身と外見とが、うまく一致しない人は現実にいる。
「あきらかに違う」とまでの違和感を持たずに生きて来れた自分だが、こういう作品を読むと、その苦しさの一端を想像することはできる。
こう動きたいのに、からだが言うことをきかないという経験は、あるな。
この先、年をとるにつれて、そんな思いは増えるのだろう。
中身と外見のくいちがいに悩む経験をまったくしないまま、一生を終える人はもしかしたら少ないのかもしれない。
いままで、入れ替わり系の物語を、エンタメとして消費してきただけだった。
『君の顔では泣けない』は、一気読みさせるけど、おもしろかったねではすまないものを残す。
~「み、水村。やばい。今、蹴った」
「は? なにが?」
「子供! 赤ちゃん! 今蹴ったよ、腹ん中で蹴ったー」
「えっほんとに? ほんとに、赤ちゃんっておなか蹴るの?」
「蹴る! 蹴ってるわ、これ! すごいよ、すごい脚力」
「ええーいいなあ、私もその感触味わってみたい。早く出たいって言ってるのかもね」
「おうおう、早く出てきてくれよ。母ちゃんはもうこの腹に飽きたよ」
「母ちゃんだって。うける」
「だって母ちゃんだもん、俺」 ~
この先どうなるのだろう。もとにもどる日はくるのだろうか。
なんの示唆もなく物語は終わっている(たぶん)。
ただ、どうなるにせよ、予想もしない人生を過ごした二人が、それゆえに気づくことができたいろんなことを支えにして、たくさんの人にやさしく生きていくのだろうと思える。つぎの直木賞これでいいよ。