水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

くちづけ

2013年05月31日 | 演奏会・映画など

 映画「くちづけ」は、宅間孝行氏率いる劇団「東京セレソンデラックス」の三年前の舞台作品を映画化した作品だ。
 お芝居の脚本は、知的障害者たちのグループホームで起こった実際の事件をもとに、宅間氏が書いた。
 何人かの役者さんは当然、知的障害者を演じなければならない。
 観る側でありながら、だいじょうぶなのかな、どう演じても、そんなのは違うとか、当事者の気持ちをわかってないとか批判をうける危険性があるのではないか、なぜにあえてそんな脚本を書くのかと思った記憶がある。
 しかしファンクラブの会報からは、宅間氏が実際の施設をまわり、現場の人といろいろと話を重ねて脚本を直し、役作りをしていることが伝わってきた。
 幕が上がると(いやサンモールスタジオは幕はなかったかな)、スクリーンにニュース風の映像が映る。
 さらにニュースを読みあげる宮根誠司氏の顔が映し出されると、おおっと客席がどよめく。宮根氏が全国的にメジャーになりつつある頃だったかな。
 灯りがつくと、舞台はグループホーム「ひまわり荘」の一室となり、宅間氏演じる「うーやん」のまわりで起こる(起こす)事件が、ほのぼのと描かれ始める。
 ただ、世間と彼らとの関わりにおいては、笑ってはいられない問題が徐々に顕在化し、うーやんたちの「純粋さ」は、やはり世間では受け入れられないものであることが明らかになっていく。
 ホームに入居してきたマコという女の子とうーやんとの間にほのかな恋心がめばえるのと同時に、マコの父親が末期がんをわずらい、マコ一人残して旅立つわけにはいかないと苦悩する様子が描かれ始める。
 いったい、どんな結末を迎えるのか。
 悲しい結末のシーン、それからうーやんの妹が婚約破棄された後のうーやんの台詞らへんでは、シアターサンモールの客席を埋めた300人ぐらいのお客さんほとんどみんなグスグスいっていた。
 ほんと、あの時みんな泣いてたなあ、と映画を見ながら思い出した。
 映画は、おどろくほど舞台の雰囲気そのままを出そうと作られていたように思う。
 残念ながら、映画館はセレソンの客席のように満席ではなかった。すきすきだった。
 もったいない。もったいなさすぎる。
 うーやんは宅間氏自身が演じる。マコには貫地谷しほり、その父親に竹中直人というスウィングガールズコンビが配置され、ホームを経営するのが平田満、麻生祐未夫妻で、娘が橋下愛、うーやんの妹が田畑智子。
 あの脚本に、これだけの芸達者をそろえたら、グレードの低いものになるはずがない。
 もったいない。人権教育の映画にもそのままつかえる。こういうのこそ高校生に見てほしいなあと思う。

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体育祭

2013年05月30日 | 日々のあれこれ

 曇り空。ぱらぱらと降ってきてもおかしくない天気のなか体育祭は始まったが、太陽が照りつける下に比べたらこっちの方がずっといい。日焼け止めを塗るのさえ忘れてた。
 早めに競技を進行させ、綱引き決勝が終わったところで一雨きてコースが濡れてしまった。
 全力で走る競技は危険がともなう状況ということで、二人三脚、障害物競走と、フィールドで残っていた砲丸投げを行い、あとは打ち切って予選のタイムがそのまま決勝の記録として扱われることになった。
 でも、よかったんじゃないかな、そこまでやれたから。
 事故や事件さえなければひまなポジションなので、今日は楽しく見守るのみ。
 吹奏楽部員がかたまってフラフラし、応援(観覧)している姿が目につく。
 なんだ、君たち仲良いじゃないか、なのに、なんでタテあわないの? ぐらいの声をかけた方が顧問らしかったろうか。
 予定より少しはやく陸上競技場を出られたので、そっこうで学校にもどり、コンクールの負担金とチケット代を郵便局に納めにいけてよかった。
 おやつを買って帰り、採点。学年だよりなど。なかなか終わらない。amazonに頼んだCD、DVDが届いてちょっとだけ見ようかとの誘惑にかられるが、それはだめだ。
 実際の人生には、競技場よりたくさんの障害がおかれている。
 ただ、それらは、自分で置いたものであることがほとんどなのだ。

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人間性

2013年05月29日 | 日々のあれこれ

 体育祭予選は、雨模様のため体育館での実施となった。
 いつもより少しはやく練習をはじめられたので、一年生と上級生を分けての合奏、そして全員で西部地区で演奏する曲の合奏。一年生たちも、吹けてはいないけど、先輩の隣にいれば楽譜のどこをやっているのかは見落とさなくなっているようだ。
 たぶん明日は体育祭で授業はないだろうと思いながら、授業の予習も少しする。
 高校2年の現代文といえば「山月記」だ。
 その昔、ばりばり勉強してた頃、「分析批評」や田中実先生のご本を読み込んで、気合い入れて授業をすすめ、最後に「この小説の主題はなんだろう? ノートに書いてみて」と発問をする。
 指名した何人かが黒板に出て書きはじめたのを見て愕然とした記憶がある。
 「人間は努力が大切だ」「友情の大切さ」「自分のやりたいことを信じよう」 … 。
 伝わってなかった。文学とは何ぞや的な話でまとめようと思っていたのだが。
 自分の授業の未熟さも自覚したつもりだが、彼らがそれまでに受けてきた国語の授業にも多少は責任はあるのではないかと思った。
 やたら道徳チックなお説教になってしまう国語の授業に。
 ていうか「主題」の定義さえ決まってないのが、今の国語教育なのだけど。
 あらためて「教師用指導書」を読んでみると、やはり道徳チックに書かれていた。
 「詩人としての才能を自負するあまり、周囲との関係における人間性を失ってしまった者の悲劇性」(第一学習社)とかね。
 ていうか(また、使ってしまった)、この主題、日本語としても未熟だし。
 「詩人としての才能の故に、本来の自身を見失って、運命に翻弄されて人間性を失ってしまった者の悲劇」とまとめることもできるであろう … とも書いてある。
 まず、この日本語を生徒さんに添削してもらうことから始めようか。
 「人間性」て何。
 有名な「尊大な羞恥心」とか「臆病な自尊心」という言葉があって、このように表現される李徴の状態を「人間性の失われた状態」としているようだが、逆じゃね?
 自尊心がつよすぎて臆病になってしまうなんて、これほど人間的なことがあろうか。
 指導書を書かれるような先生方にもっと勉強してもらうためにも、この俺様の考えをがっつり書いてさしあげようかな。

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試験休み中

2013年05月28日 | 演奏会・映画など

 練習がない期間に観たもう一つのお芝居は、キャラメルボックス「ナミヤ雑貨店の奇蹟」。
 東野圭吾の小説を舞台化したものだ。
 小説を読んだあと、キャラメルボックスがお芝居にしてくれたら面白いだろうなあ、でも二時間にまとめるのは至難の業だろうと思ってけど、さすがに完成度の高いものになっていた。
 キャラメルさんを観るたびに思うけど、普通のお芝居に比べると、台詞量はかなり多い。
 多すぎると言ってもいいかもしれない。
 観客は、役者さんの台詞や動きの意味を考えたり、味わったりしているヒマはない。
 幕があいてからノンストップのジェットコースターだ。
 文学性よりも身体性。観客によぶんなことを考えさせるひまなく、一気に自分たちの世界に連れて行く。
 観てる側は安心して楽しみ、笑い、泣いていればいい。
 解釈したり、斟酌したりしなくていい。
 エンターテインメントとしてのお芝居の一つの極地だろう。
 そして、それを可能にしているのは、役者さんたちの高い身体能力である。
 思い切り情報量の多い脚本を書く成井豊氏の、劇団員に対するかぎりない信頼も感じられる。
 好きだった「東京セレソンデラックス」「劇団子」が活動をやめてしまい、困ったときにはキャラメルさんしかなくなってしまったので、ファンクラブに入ることにした。
 そうか、誰それが出ているから観に行こうとか、三谷作品だからとか、蜷川演出だからとかで観に行く芝居ではないとこが、キャラメルボックスのよさなのかもしれない。

 試験中には、川越市内の担当中学校へポスターやパンフレットをお届けするという営業活動も終えることができた。
 「勉強も部活もがんばってますので、ぜひすすめてください」と説明してまわると、共感してくださる中学校の先生が年々多くなるように感じる。ありがたいことだ。第一中学校では、KくんとSくんが吹奏楽部でお世話になっているそうで、ありがとうございます、と声をかけてもらえた。
「○○大学に何人入りました、いえ~いみたいなことを高校教員がやっとったらいかんね」
と、キムタツ先生が書いてらした。
 そのとおりだと思う。
 しかし、まず生徒さんに入ってもらわないことには話にならない。
 入ってくれさえすれば、こっちのもんだ。
 「勉強だけできればいい」という、最近のいくつかの県立さんとはちがうから。
 「○○にどれだけ入りました、いえ~い」にも違いがあることをわかってもらうのが、われら営業部隊の役割なのだ。

 さて、試験もおわった。次は、えっと … 、西部地区か。コンクールの申し込みもしなきゃ。

 

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立体感

2013年05月26日 | 日々のあれこれ

 先週最後の「あまちゃん」には胸がしめつけられ、嗚咽をもらしそうになったけど、うしろで娘がパソコンに向かっていたので、「はあ?、何泣いてんだよ、のめりこんでんじゃねえよ、エロおやじ!」(どんなキャラ?)とか言われたらヤので、こらえていた。
 先週は、おじいちゃん、お父さんとの別れ、そして初恋の人との別れ。それは親友との別れをも意味する。
 東京から北三陸に来て、いろんなものを手に入れたアキがいっきにいろんなものを失っていく急転直下の展開。
 あこがれの先輩に恋心をうちあけて断られるシーンでは、アキ以外は視聴者もみな失敗することがわかっている状態だったから、よりせつなさが募るという心憎い展開になっていた。
 思えば、週の前半、「先輩はアキのことどう思ってるんですか!」と詰め寄るユイの様子が見事な伏線だった。
 冷静なユイが、アキのことに対してだけ興奮してつっかかっている姿。
 あれ? ひょっとして、アキだからではなく、先輩のことだから? そういえばそれを予感させるシーンがあったような … 。
 こうなると、橋本愛ちゃんはサブテキスト(口ではそう言ってるけど、内面はちがう様子)を演じわける天才だから、びしびし伝わってくる。
 それに対し、アキちゃん役の能年玲奈ちゃんは、そういう表現をいっさいさせず、気持ちをそのまま表現させ続ける役作りで、演じさせ方でも対比が明確になっているのが巧みだ。
 喪失感。
 まえも書いたけど庄司薫の「赤頭巾ちゃん」シリーズから、先日出た「多崎つくる」まで、青春時代とは喪失の時代なのだ。それこそが本質と言ってもいいかもしれない。

 先週観た「ハイバイ」という劇団の芝居は、ある家族の一風景を描いた「て」という作品は、同じ時間帯を視点をかえて演じ直す構成になっていて、サブテキストが観客にはっきりと示されるものだった。
 寝たきりになっているおばあちゃんがいる。
 ずいぶん具合が悪くなっているので、家族みんなで集まろうという流れになる。
 家を出て暮らしている次男や長女が帰って来て、おばあちゃんの部屋でいろいろ話しかけている。
 伝わっているのか伝わってないのか定かではないが、おばあちゃんは、なんの脈絡もなく「昨日ね、こんなことがあったのよ」と話しはじめる。
 そこに、隣の建物で暮らしている長男が現れると、「ほんと、一回しかなかったことが何回もあったことになったり、ないことがあることになったり、たまったもんじゃねえよ」とおばあちゃんを攻める口ぶりで会話に加わってくる。
 「そんな言い方しなくたって、いいだろ。それにおばあちゃんちの応接間を自分の部屋みたいに使うな」という弟とけんかになる … 。

 このくだりにあたる時間帯が、おにいちゃん視点から再度演じ直される。
 すると、観客は「なるほど、こんな思いがこもっていたから、あんな憎たらしい言い方になっていたのか」と納得する。
 数年前はじめて「ハイバイ」公演を観たとき、これを定演のお芝居でも使ってみようと思って「ふれふれ龍馬」のとき入れてみた。
 今回再々演(ぐらいかな)の「て」を観てみて、あらためてよくできたお芝居だと思った。
 サブテキストを直接演じ直すことによって、演じ直されない他の登場人物も、きっといろんな事情があるんだろうなと思わせることになる。
 するとすべての登場人物のひとつひとつが、意味あるものとして台詞が立ち上がってきて、立体的になる。
 それは、舞台上の人物だけでなく、自分たちもそうなんだよなあとしみじみしてくるのだ。
 
 音楽の立体化は、どうすればいいのだろう。
 立体感のある演奏という言い方があるけど、うまくイメージがわかない。

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5月23日

2013年05月23日 | 学年だよりなど

 学年だより「目標」

 50歳にして東大合格を成し遂げた女性がいる。高3のときは京大を、一浪後、二浪後は東大を不合格となって、早稲田大学に進学する。卒業して二年で結婚、二人の息子をもうける。専業主婦だったが、次男が中学に入り時間ができるようになって、自宅で中学生相手の塾を開く。次男が東大を目指して失敗し、その浪人生活をやきもきして見守る中で、自分もチャレンジしてみようと思い立ったという。
 「けっして東大合格が30年ごしの夢であったわけではない」と彼女は言う。
 ただ、もともと好きだった語学の勉強は続けていて、フランス語検定にも合格していた。
 子育てや、ママ友との人間関係など、日々の生活のなかで、なかなか思うようにいかないこともあったが、勉強での達成感は、自分に自信をつけるうえで大変役立ったという。


 ~  毎日を充実して過ごすために必要なのは「夢」ではなく「目標」です。「漫画家になって年収1億円くらい稼ぎたいなあ」という大きな夢を抱きながら何もしない人と、「次の応募作では入選するぞ」と思って毎日一生懸命創作に励んでいる人、どちらの人生が充実しているかといえば、間違いなく後者でしょう。
 目標を持ち、それに向かって努力し、目標を達成する。その繰り返しが、日々を充実させ、人生を豊かにしてくれるのです。
 どんなに大きな夢も、その一歩は小さな目標を達成することからはじまります。
 大きな夢がある方は、その夢に近づくための小さな目標を設定しましょう。今は手が届かないその夢に、少しずつ近づくことができるはずです。
 夢がない方も、目標を設定しそれを達成することで、次の目標を見いだすことができます。そこから自分の夢が見えてくることもあります。
 私自身はフランス語検定2級に合格してから次々と目標が生まれました。東大合格という目標を達成した今の目標は、学期授業に全身全霊を傾けることです。その先に何が待っているのか、数年後には、私はどこでどうしているだろう? そう考えるとわくわくしてきます。
「小さな目標を達成する」ことを繰り返すことで、確実に人生は豊かになります。そして、大きな夢を抱いてそれをかなえた人たちもみな、小さな目標の達成を積み重ねてきた人たちなのです。 (安政真弓『普通の主婦だった私が50歳で東大に合格した夢をかなえる勉強法』朝日新聞出版) ~


 小さな成功を積み重ねることが大事だ。
 ちょっとずつ、「自分はやれた」という感触をからだに植え続けること。
 部活動で、しっかり返事をするとか、あいさつするとか、心をこめてグランド整備するとか、すべてここにつながってくる。
 人の心の方向性を前向きにするのは、ちょっとした行動だ。
 大きな夢を一気に実現することはできない。
 勉強ができない自覚がある人ほど、まずは授業の最初と最後に声にだしてあいさつしよう。

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アキちゃんはナウシカだ

2013年05月22日 | 日々のあれこれ

 古典演習の時間に「増鏡」の一節を読む。
 鎌倉幕府打倒を謀っていた後鳥羽上皇の動きを鎌倉側が察知し、時の執権北条義時が京都に攻め上ることを決意する場面である。弟の時房と息子の泰時が大将とする大群を仕立て、出陣前に息子に話しかける。
 「院のお気持ちがどうあれ、われわれは朝廷に対しやましい心はない。どのような戦いになろうとも、それは我らが運命じゃ。ただし、板東武士として恥ずかしい戦いだけはするでない。泰時、決して敵に後ろをみせてはならぬぞ。万が一打ち勝つことができたなら、再び足柄山を越えてもどってこい。」
 「父上の仰せられること、しかと承りました。立派に死んでまいります」
と、二人は涙にくれるのであった。
 義時といえば、松平健なんだよ。それでお姉さんの政子が岩下志麻で、頼朝は石坂浩二ね。
 ええ? なんの話かわかんないって? まじで。
 知っているわけないのである。
 大河ドラマ「草燃える」は、生徒さんたちが生まれる20年も前になるのかな。
 懐かしくなったので、「草燃える」をwikiってみたら、懐かしい名前がたくさん出てくる。
 おお、義時の息子泰時は尾美としのりさんではないか。
 「転校生」でメジャーになる前だっけ。
 そして今や「あまちゃん」アキのお父さんだ。
 平家物語で義経が出てくれば、タッキーではなく国広富之を思い浮かべてしまうのは昭和な人だ。
 クドカンさんも年はけっこう下のはずだが、昭和な感覚がふんだんにあらわれるところが、「あまちゃん」を録画してまで観てる要因であろう。
 キョンキョンの歌う姿なんて、ひさしぶりだったなあ。美保純さんも、とても年上とは思えない。
 昭和な感覚があるなら、「あまちゃん」のアキちゃんは、ナウシカではないだろうか。
 「中学生円山」風に「あまアキ」とよんでみると「ナウシカ」と少し近い(は?)。
 そう思いはじめると、空を飛ぶナウシカと、海にもぐるアキの姿が、その衣装まで含めて驚くほど類似していることに気付く。おお顔まで似てきた。ウニはウォームだ。(50歳を越えて妄想のとまらない国語教師水持になってきた)。
 閉塞した大人社会を打破するのは古来少女の仕事であった。
 ジャンヌダルクしかり、いやおそらく卑弥呼までさかのぼっても。
 取り立てて現代的な産業のない北三陸の地に降り立った少女は、新しき恵みをもたらすヒロインとなる。
 この先の展開には、アキちゃんが東京に出て行く東京編が用意されているという。
 大国トルメキアに出征するナウシカだ。
 生徒さんに「増鏡」の問題を解いてもらいながら、「朝ドラが成功する度合いは、主人公のナウシカ度合いに比例する」という仮説を思い立ったが、過去のは観てないので発展させようがなかった。

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普通の主婦だった私が

2013年05月21日 | おすすめの本・CD

 『普通の主婦だった私が50歳で東大に合格した夢をかなえる勉強法』がおもしろかった。
 「普通の主婦」というには、ちょっと条件が整いすぎの方かなと思ったけど、それでも50歳にして東大を普通に受験して合格するのはすごい。
 この方は、高校三年のとき京大を受けて不合格になり、一浪後、そして二浪後と東大を受験されたが不合格になって早稲田大学に進学している。
 それから数十年経って合格したのだから、若い時より学力があがったということになる。
 今の高校三年生の学力が三十年前と比べてどうだろうという疑問はあるが、人間の可能性を考えるうえで、夢がふくらむ。
 十代の頃、どうがんばっても100メートルを10秒台では走れなかったけど、50歳で再チャレンジしたら達成した … 、ということはおこらない。
 でも知力の面では、10代の脳にかなわないということはないのだ。
 ある意味当然かもしれないな。
 自分のことをふりかえっても、中身はほとんど成長してないとはいえ、経験だけはいろいろ積み重ねたから、何をしたら失敗するかの予想はけっこうできる。
 勉強の仕方も今なら大分わかってきたし、何にお金と時間をかけるべきかもわかる。
 齢を重ねれば、ビジュアルの老化はしかたないにしても、中身は今のところ思ってたほど劣化してないかもしれない。あ、暗記はだめか。やっぱこの方えらい。
 安政氏は言う。


 ~ 失敗を恐れて挑戦をやめてしまうのはとてももったいないことです。挑戦しないかぎり、成功はありません。
「自分にできるだろうか」
「本当は向いていないのではないか」
 そんな不安におそわれたとしても、まずははじめてみることです。私の好きな言葉に、「成功はプラス1、失敗はプラスマイナス0」というものがあります。
 失敗してもマイナスにはなりません。もしあなたが何かに興味を持ったのなら失敗を恐れず、挑戦してみましょう。(安政真弓『普通の主婦だった私が50歳で東大に合格した夢をかなえる勉強法』朝日新聞出版) ~


 ひょっとしたら、失敗もプラスになるんじゃないかな。
 今まで数々の失敗をしてきたのはまちがいないが(みなさまもそうですよね)、今になってみると、それらが人生の大きなマイナスになっているとは、ちょっと思えないので。
 よほどのことでなければ、長く生きてさえいればプラスにかえられるんじゃないかとこの頃思う。


 ~ 若いときほど、「ここで失敗したらすべてが終わる」という気持ちになりがちです。私自身も、18歳のときに京大の文学部と早稲田大学の第一文学部に、19歳と20歳のときに東大の文科三類に落ちたときには、この世の終わりのような気持ちになったものです。
 でも、その後入学した早稲田大学では混声合唱団に入り、生涯の友といえる友人たちとめぐり合い、「この世の終わり」どころか「この世の春」ともいえる楽しいキャンパス・ライフを送ることができました。主婦として、母親として、塾講師として過ごした時間にも、後悔はありません。
 若い方であれば、一度や二度試験に落ちたくらいで、どうってことはありません。挽回のチャンスは何度でもめぐってきますし、いくらでもやり直しが利くのです。 ~


 ほんとになあ。若い頃ってなんでせっぱつまってしまうのだろう。
 ちょっとしたことで、思い悩んでしまうのだろう。
 その一方で、何の努力もしないで、いつか希望はかなうと思ってみたり。


 ~ そして社会人の方であれば、仕事の実績や家事や子育ての経験など、すでにこれまでの人生で培ってきたものがあるはずです。新たに何かに挑戦し、たとえ、それが上手くいかなかったとしても、そのことによって、これまで積み重ねてきた人生の価値はいささかも損なわれることはありません。 … 一番もったいないのは、「ダメかもしれない」と思ったまま何もせずに、時間を空費すること。
 「プラス1」を目指し、まずは何かをはじめてみませんか? ~


 受験勉強をはじめて、どうしても行き詰まったとき、少しお酒をのんで寝てしまってすっきりしたという記述があった。大人になって受験勉強すると、そういうストレス解消法もある。
 そんなのも含め、勉強の具体的方法もたくさん載っていた。
 とくに目新しいものがあるわけではないが、なんていうか「生活している人」のフィルターを通って残った、現実的なものばかり書いてあると思える。
 勉強法の本には、あまりにマニアックな技法が書いてあるものも目にするけど、これほどバランスよくいろんな所に目が行き届いているのもめずらしい。
 軽い気持ちで読み始めたけど、とちゅうから赤線ひきまくりになり、学年だより数回分のネタを思いついてメモした。なんとコスパの高い本だろう。さらに同時に受験された次男とのくだりは、泣いた。
 ええ本ですわ。

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県庁おもてなし課

2013年05月20日 | 演奏会・映画など

 高良「あんたらに一番足りないものを教えてやろうか。民間感覚だよ」
 錦戸「はあ … 」

 

 効率よく利益を追求することが民間企業の第一目的であれば、そりゃあ役所に「民間感覚」が欠けているのは当然だ。世の中には効率最優先だけではうまくいかないこともある。民間企業が手を出せないことでも、長期的な展望に立って住民の利益となるなら、効率を無視して取り組まねばならないこともある。それが「公」として存在する理由の一つだ。
 ま、みんな理屈はわかってるんだけど。
 わかってはいるけど、いくらなんでもそれはないでしょという姿が見えてしまうから、つい「そんなお金の使い方は、そういう時間の使い方は『民間』では考えられない」と批判してしまうのだろう。

 そういえば、先日の西部地区吹奏楽連盟の会議での話。
 研究発表会の日程を検討する段になり、給料日(20日)には大会を入れない方がいいという話があった。20日に割り当てられた日への出張に難色を示す管理職がいたという。
 「はあ? 江戸時代か!」と内心思ったけど、もちろん口には出さない。県立高校さんは毎週木曜は職員会議が入っているため、その日はたぶん運動関係も公式戦は入らない。組織の論理が対外的なものに優先してしまうという意味で、「民間感覚」とはほど遠い感覚の一つだろう。
 じゃあ「民間感覚」の導入が絶対的に正しいのかいうと、そうも思えない。
 まして学校は、効率優先の考えとは真逆のありようで動かなければならないことの多い職場だ。
 前時代的な感覚が残っていることがかえって落ち着いた空間を成立させるためにはたらくこともあるだろう。

 もっといえば、民間企業でもダメダメな人はいっぱいいる。
 公務員なのに、なんでそんなに私生活を顧みずに働くの? という人もいる。
 「学校の先生も、一般の企業ではたらいてから先生になった方がいいんじゃないかな、先生は世間知らずだからさ」的な話をたまに耳にする。
 なるほどとは思うものの、そうしたからといって、学校にはない世間の論理を身につけて教育にいかせるようになる人とそうでない人はいるだろう。
 民間企業も、とくに大きな会社ほど、その会社独自の論理で動いているので、世間一般の人から見たらとんでもない風習があったりするものだし。
 いきおいで言ってしまうと我々は、民間企業に勤めていたり、自営であったり、つまり世間を知ってらっしゃるはずの方とふれあう機会も多々あるけど、ほれぼれするような社会性を感じられる方もいれば、唖然とする場合もけっこうあるのだ。

 結局人の問題なんじゃないかな。
 役所だから、民間だからという話ではなく。
 堀北真希ちゃん(もう、ちゃん付けはおそれおおい女優さんだが)は、アルバイトの職員だけど、「おもてなし課」の誰よりもいい仕事していた。
 その影響をうけて課のメンバーもどんどん前向きになっていく。
 一見かわいく、華奢で、つい支えてあげたくなるビジュアルでありながら、芯はしっかりもっていて、筋を通すべき所は通し、常に男を立てる気持ちを失わない。
 有川浩さんの描く理想的な高知女性の姿なのかなと思った。
 大はしゃぎしないお芝居なのに、実は内面では別のことを考えていることの表し方の度合いも絶妙で、さすがに映画でもドラマでもいつも主役をはり結果を残している人はちがうと思った。
 作品自体はつめの甘い部分もあると評する人もいるかもしれない。
 役所の描き方なんかは類型的にすぎるかもしれないし。
 でも、この女優さんを見てるだけで、世の中のお父さんは満足するだろう。
 そして、もう一人。錦戸君も「煮え切らないいい人」を好演してたが、サブストーリーのもう一つのカップルを演じる高良健吾さん。この俳優さんは泣かせる。
 いま、有川浩さんが書いた小説は、すべて映画やドラマや舞台になるいきおいだが、安心して笑って泣いてきゅんとしたいときには、有川作品はどんな形態であってもてっぱんだ。

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5月20日

2013年05月20日 | 学年だよりなど

 学年だより「孤独」

 「孤独」という言葉はマイナスのニュアンスでとらえられることは多いが、むしろ「孤独」は人を成長させるうえで、きわめて大切だ。
 孤独とは友達がいないことではないし、一見友達がたくさんいるように見えても孤独な人はいる。
 自分が一人になることをおそれるあまり、それほど気の進まない人との関係を無理に続けている場合は、そんな人が大勢いても孤独感が薄れることはない。
 自分の意志で一人の世界にすっと入っていける力、つまり積極的に孤独に入り込む力は、自分を成長させる。
 そういう姿勢を認めない友人がかりにいたとしたら、ただちに関係を断った方がいい。


 ~ その方法は簡単です。携帯電話などの一切の連絡ツールの電源を切った上で、カフェで勉強をするのです。スタバでも、ドトールでも、サンマルクでも、どこでもいいです。ただし、個人経営の喫茶店の様なひと気のないところはNGです。
 周りにいわゆる群れがいて、ワイワイしているような環境がベストです。だから、マクドナルドでも、モスバーガーでも、ケンタッキーフライドチキンでもOKです。
 で、そんなワイワイガヤガヤと、周りの群れが駄弁っている中で勉強をすると、どういう気持ちになるでしょうか?
「一人で勉強している俺ってカッケー、最強ー」
「君たちうるさいなー。僕は勉強をしているのだよ」
「やれやれ、若くてヤンチャってのはうらやましいものだね」
 などと、一人勉強をしている自分に軽い優越感を覚えることに気づくと思います。
 つまりこれにより、一人で行動することに優越感や快楽が条件づけられるわけです。
 そして、この一人カフェ学習を繰り返すことにより、あなたには孤独を屁とも思わないような、強じんな精神力が身につくというわけです。
 そして、これでわかったと思います。よくスタバでマックブックエアを開いて仕事している人を揶揄して「俺ってノマドだぜ~って感じでうぜー!」って言っている人がいますが。
 彼らもまた、孤独訓練の最中の方かもしれませんし、既に悟りの境地に達し、その周囲とのコントラストの優越感から、モチベーションを高めつつ仕事や勉強に勤しんでいるわけです。
 まあ、周りを見下すという考え方について、抵抗感があるかもしれませんけどね。ただ、周囲との比較から優越感を覚えることこそが、行動と快楽を結びつける上で最も合理的な方法なのです。 (関口智弘『群れない力』経済界新書) ~


 「なあ、どこそこで一緒に勉強しない?」と誘うのをまずやめよう。
 勉強は一人でするものだ。勉強はどこででもできるものだ。
 自分の頭でじっくりかみしめる時間があってはじめて、勉強したことが吸収されていく。
 そういう孤独の時間をもてるようになると、大人に一歩近づける。

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