水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

35㎞地点

2017年06月27日 | 学年だよりなど

 

    学年だより「35㎞地点」


 今の時点で思うような成績でなくても、まだ本格的と言える勉強を始めてないようでも、最終的にこの子は伸びていくのではないかと感じることが時折ある。
 ちょっとしたことだ。あいさつをしてくれた時の雰囲気とか、ノートをちらっと目にした瞬間とか、なんでもない受け答えや質問もそうだし、机の上の消しゴムのカスをまとめてゴミ箱に棄てている姿を見たときなどだ。科学的根拠はないが、多くの先生方が抱く予感は、相当高い確率で現実化する。残念ながら逆の場合もある。


 ~ マラソンの瀬古利彦さんが「マラソンの勝負は、35キロからです」とおっしゃっていました。
 35キロまでは、差がつかないという意味です。
「35キロからは、ふだんの練習と生活の差で勝負がつきます」
 さすが世界大会で、10回の優勝をされている瀬古さんでしか言えない、重みのあるアドバイスです。
 確かに、マラソンを見ていると、それまで一塊だったトップ集団が一気に開いていきます。
 それは、誰かがスパートをかけるというだけではなかったのです。
 誰もスパートをかけなくても、自動的に、ふだんの練習と生活の差が大きく開いてくるからなのです。これまで、あんなに調子が良かった選手が、気が付くと後方に置いていかれる。
 それが35キロなのです。 (中谷彰宏「メンタルで勝つ方法」ボウリングマガジン5月号) ~


 氷山の一角のように現れる心の持ちようが、いつしか蓄えられていく。


 ~ 長丁場のボウリングのトーナメントは、マラソンに似ています。
 ボウリングのトーナメントにも、35キロ地点があります。
 そこから一気に、打ち上げる選手と、置いていかれる選手に分かれます。
 あれだけ稼いだ貯金があっという間になくなる。
 あれだけ引き離されていたマーク数が、あれよあれよという間に、追い付いてしまう。
 見ている側としては、これほど面白い試合はありません。
 だから、トーナメントでは、何マーク貯金があっても、安心できないし、何マーク離されていてもあきらめなくていいのです。
 面白いのは、「ふだんの練習」だけではなく、「ふだんの生活」も差がつく元だということです。練習でどれだけ頑張っていても、半分なのです。
 半分は、生活をどれだけきちんとできているかということです。 ~


 現役生の受験勉強は、マラソンに喩えれば、まだ競技場を一周してロードに出たところだ。
 勉強の仕方というより、生活のありようを変えていくことで、ずいぶん先に勝負をもちこめる。

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「舞姫」という物語

2017年06月26日 | 国語のお勉強(小説)

 

 シンプルな構造としては、「ボーイミーツガール」であり「行って帰る」物語だ。
 「誰がどうした話」か。
 それは「太田豊太郎が、独逸に行き、舞姫と恋仲になり、妊娠させ、発狂させて、棄てて帰国する話」という身も蓋もない話になってしまう。
 ただし今回、「舞姫と恋仲に~」という素材そのものが何を象徴するのかを、漠然とつかむことができた。
 エリスは西洋文化の象徴なのだ。
 日本人が突然接することになり、その美しさに頭がくらくらになってしまった西洋文化そのもの。
 関川夏央はこう述べる。


 ~ 近代以降、現在に至るまでをつらぬいて日本に恩恵を与え、同時に悩み苦しませてきたのは西欧文明であり、西欧文明とのつきあいのきしみである。ありていにいえば、白人が東アジア人より美しいと見えたときに、日本の、あるいはアジアの苦悩ははじまった。そしてこの悩み、あるいはたんの居心地の悪さは、「戦後」からこちらに生きるわたしのなかにもあって、いまだに未整理である。(『坊っちゃんの時代第二部 秋の舞姫』双葉社) ~


 西洋のシステムを移入したものの、精神面では前近代性をそのままにしていることに発する(日本の)近代人の苦悩は、今も変わらず存在する。
 音楽、踊り、絵画、いろんな芸術ジャンルを思い描いてみても、関川氏の感じる「居心地の悪さ」を感じることは多いだろう。自分ら素人は、まあそんなものだなあ、やっぱ西洋人には勝てないなとか適当なことを言ってればいいけど、人生をかけて取り組んでいる人にとっては切実な問題なのだろうと思う。
 豊太郎が思わず目がくらみ、それでいて日本に連れて帰ることができなかったエリスは、まさに西洋そのものだった。
 豊太郎は、エリスという「宝物」を持ち帰ることはできなかったが、別のものを手に入れた。
 「エリスは持ち帰れないという現実を知る」という「宝」だ。
 これを成長という。
 主人公が、「行って帰る」物語。
 主人公が、自分の所属する共同体を出て、事件に遭遇し、なんらかの「宝」を手にして帰ってくる物語。
 「舞姫」は、あまりにも基本的な構造からなる物語だが、まさに近代小説の嚆矢(こうし:物事のはじめ:ちょっとカッコつけてみた)と言える作品だった。やってよかった。いまも自分の読解力が上がり続けてる。

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元を取る(2)

2017年06月22日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「元を取る(2)」


 大学で学んだことを、直接役立てられる仕事につける人は極めて少ない。
 多くの大学で就職の指導はしてくれるが、なんらかの保証があるわけではない。


 ~ 大学は、もっと「低機能」です。
 単位は与えますが、その単位は実社会ではほとんど役に立ちません。
 就職の保証どころか、役に立つと期待するほうがマチガイなんですよ。
 大学というのは、年間100万以上かけて通う「お稽古」施設です。
 ムダで贅沢です。だから素晴らしいんだし、その「ムダで贅沢さ」を素晴らしいと思える人た
ちの間で「価値」が通用しています。
 企業によっては学歴を重んじるのは、この「無駄な贅沢に身を投じる余裕と資格があったか?」
を人物採用の基準にしてるわけですね。 (「岡田斗司夫の毎日メルマガ」より) ~


 講義を受けて試験を受けて単位をとるのが、大学の基本要件だが、その講義内容というコンテンツで「元を取る」ことは不可能だ。純粋に講義内容そのものを知りたいだけなら、2000円出してその先生の書いた本を読んだほうが、よほど効率がいい。
 ただし、本に質問はできないが、大学では目の前に先生がいる。
 CDやiPodで聴く音楽とライブ会場で聴くのとではまるきり違うように、テレビでのサッカー観戦とスタジアムでの応援とではまるっきり違うように、それは次元の違う体験だ。
 その先生が話した内容よりも、どう話したか、どんな余談を語ってくれたかの方がむしろ大切だ。先生の立ち居振る舞いも含めて。そこに、学問に対する姿勢が現れるから。
 その結果、自分の師匠にしたいと思える先生に出会えるかもしれない。
 講義以外にも、先輩や同級生、サークル仲間など、いろんな人と出会える。
 たまたま学生食堂で隣り合った女性を結婚することになるかもしれない。
 師との出会い、得がたい友との出会い、生涯の伴侶との出会い、そして自分のやるべき仕事との出会い … 。これらはお金に換算できるものではない。
 就職のため、実社会に役立つことを身につけるため、といった目標のみで進学し、それだけで「元を取る」ことを考えたなら、かえって得るものの少ない学生生活になるだろう。
 だとしたら、仮にオープンキャンパスに行ってみるにしても、見たり聞いたりするポイントは何か。設備の豊かさでも、就職の実績でも、学食の豪華でも、出題傾向でもない。
 大学が提示するアドミッションポリシーも、実は表面的なものにすぎない。
 現場に行く機会があるなら、まずはその大学の「気」を感じてくることだろう。
 そのためには、オープンキキャンパスが開かれている日ではなく、何でもない日に行ってみた方がいい。そういう日に高校生の立ち入りが禁じられるようであれば、積極的に志望するのは考え直すべきかもしれない。
 何を学べるかではなく、何と出会えるか、誰と出会えそうかを優先したとき、見え方が変わる。

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作者の死

2017年06月21日 | 国語のお勉強(小説)

 

 作者と語り手はちがう人だ。
 森鷗外と太田豊太郎とが別人であるように。
 作品内で「私」という語り手が、作者本人の行状とおぼしき物語をつづったとき、「私」=作者と勘違いしやすい。
 しかし、太宰の小説に出てくる修二さんと太宰本人とは別人だ。
 だから、おっさんが「あたし」と自分を呼ぶヒロインを造形することもできる。
 他ジャンルでも同じで、映画で役を演じる小出恵介さんと、実人生の小出恵介さんがまったく別人だ。
 アイドルを演じる須藤さんと、実生活の須藤さんとは別人格だ。
 ちゃんとした国語教育さえ受けていたなら当然の知識だが、そうなっていない。
 国語と言わずとも、せめて日本人がみなプロレスを楽しむ土壌があるなら、不毛な議論をしなくともすむにちがいない。
 ヒーローショーにたとえてもいいかな。「仮面ライダーとショッカーが、ショーのあとに打ち上げするのはおかしい!」と叫ぶのはおかしい。

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元を取る

2017年06月20日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「元を取る」


 ファミレスのドリンクバーで「元を取る」ためには何倍飲まなければならないか。
 原価平均は基本的に一杯5円だから、190円のドリンクバーなら38杯飲むと元を取ったことになる。ただし、そのせいでお腹を壊すとマイナスになるので、よい子はチャレンジしない方が賢明だ。
 焼肉やしゃぶしゃぶの食べ放題は、13、5人前が採算路線として設定されるのが平均的だという。
 がんばって10人前食べたから「元はとったかな」と喜んでも、なかなかそうはならない。
 当たり前の話だが、そうでないとお店が成り立たないからだ。
 食べ放題で「元を取る」のは不可能なのか。
 食材の摂取だけでは、難しい。そもそも食べ放題には、何のために行くのだろう。
 「おなか一杯食べたい」は当然の目標だが、上限が決まった値段の安心感のなかで、思い切り食べたい思いが満たされることが一つ。
 そして食べ放題のお店ならではのイベント感覚だ。好きなものを好きなだけ食べ続ける。ふつうのお店なら、デザートに注文を許されるケーキは一種類だが、お皿一杯に全種類とってきても叱られることはない。
 ただし、一緒にいく相手が微妙だと、物理的に満腹しても精神的には微妙という場合がある。
 一緒に行った相手との仲が深まった場合は、物理的には全然元をとれてなくても、全く後悔はしないに違いない。
 食べ放題の本質はここにある。物理的食材だけで「元を取る」のはまず不可能だ。
 それ以外のもので、つまり精神的に得られたものの大きさで価値が決まる。
 先週、説明会にお招きした早稲田大学の授業料は、文系学部で年におよそ100万円、理系学部は140万円。お安い金額ではない。


 ~ 「大学の授業料て、おかしくないですか? 何十億、何百億かけた映画でも1800円なのに。  大学の1講義なら500円でいいだろ! 就職先を保証してくれる訳でも無いのに。 ~


 この質問に対して、岡田斗司夫氏は次のように答えている。


 ~ 学校は「文化背景」であり「帰属できる場所」です。
 過疎の村の小学校が潰れるとき、なぜみんな哀しいのでしょうか? それは学校が「教育サービス産業」ではなく、思い出の場所であったり、都会へ出た後も思い出せる故郷だからです。
 大学が潰れちゃうと、その大学の卒業生全員が履歴書に「元・○○大学」と書くことになります。つまり信用保証としても使えなくなっちゃう。学生は「将来の身分保障のためにも、大学が潰れたら損」なんです。だから学生や地域全体で「大学の現在と未来」を維持する必要がある。
 大学とは「帰属場所」「社会保障の担保」という意外な機能も持ってるわけですね。 (「岡田斗司夫の毎日メルマガ」より) ~


 大学はけっして「自由経済のロジック上にあるサービス機関ではない」と言う。

 

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西部地区

2017年06月15日 | 演奏会・映画など

 

西部地区研究発表会4日目

日時 6月15日(木) 15:22演奏予定

会場 所沢市民文化センターミューズ

 

       応援ありがとうございました!!

 

 

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脳の代謝

2017年06月12日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「脳の代謝」

 関東大会、インターハイ予選が続いている。部活によっては夏休み、二学期と試合が続く。
 今やるべき勉強をこなすには、いくら時間があっても足りないという感覚を抱く人も多いはずだ。
 「あれもやらなきゃ、これもだ、やべ時間が足りない」という毎日と、「ぼおっとしてたら、けっこう時間が経っていた」と感じるのと、どちらが幸せだろう。
 次から次へといろんなことをやりつづけた(やり続けざるを得なかった)日は、夕方の段階でその日の朝が遠い過去になっている。逆に何も予定がなかった休日、気づいたら、何もしてないのに一日が終わっていたということはないだろうか。
 「年をとると一年が早く感じる現象」というものがある。なぜ、そうなるのか。
 それまで生きてきた年月に比して、一年の比率がどんどん下がっていくからだという説が昔からあるが、生物学的には別の理由が考えられると、福岡伸一先生は述べられている。
 人間の細胞の分裂・分化はすべてタンパク質の分解と合成のサイクルによってコントロールされている。タンパク質の新陳代謝速度が、体内時計の秒針に該当するという。


 ~ そしてもう一つの厳然たる事実は、私たちの新陳代速度が加齢とともに確実に遅くなっているということである。つまり体内時計は徐々にゆっくりと回ることになる。しかし、私たちはずっと同じように生き続けている。そして私たちの内発的な感覚はきわめて主観的なものであるために、自己の体内時計の運針が徐々に遅くなっていることに気づかない。
  … タンパク質の代謝回転が遅くなり、その結果、一年の感じ方は徐々に長くなっていく。にもかかわらず、実際の物理的な時間はいつでも同じスピードで過ぎていく。だからこそ、自分ではまだ一年なんて経っているとは全然思えない、自分としては半年が経過したかなと思った、その時には、すでにもう実際の一年が過ぎ去ってしまっているのだ。
 そして私たちは愕然とすることになる。つまり、歳をとると一年が早く過ぎるのは「分母が大きくなるから」ではない。実際の時間経過に、自分の生命の回転速度がついていいけていない。そういうことなのである。 (福岡伸一『動的平衡』木楽舎) ~


 加齢とともに、脳の代謝スピードも遅くなる。ただし、その個体差は身体の差以上に大きい。
 相当のご高齢で知的生産物を次々とものにされている方もいれば、実年齢は若いのに凝り固まった考え方しかできない人もいる。身体以上に、脳は自分でなんとかできる部分が大きいからだろう。
 毎日「ヒマ~」と過ごしている人と、詰め込んで生きている人とでは、時の流れが違う。
 脳の代謝スピードを自分で落としていると、あっという間に時は過ぎ去ってしまうのだ。
 今みなさんが過ごすべき時間は、脳がばりばり代謝している時間だ。
 さすがにゲームをしている人はもういないだろうが、「とりあえず」スマホに手を伸ばしている時間は、脳の代謝が極端に落ちる。気づいたら数日間LINEもtwitterも見てないという毎日を過ごさないと、いろんなことは到底間に合わなくなる。

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メッセージ(2)

2017年06月09日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「メッセージ(2)」


 ある日、地球上の各地に謎の巨大な飛行物体が現れる。「彼ら」がどこから来たのか、何のために訪れたのかもわからない。アメリカでは、「彼ら」とコンタクトをとり、彼らがもっているであろう「言語」を解読するため、言語学者のルイーズが現場におもむく。
 アーモンド型(柿の種にも見える)の巨大な宇宙船、その内部には七本足の生命体が2体。
 高度な知性を有していることはまちがいない彼らが、イカ墨のような物体を吹き出して書道のような形象をつくる。
 その円環状の形象が、一つの内容を表す表意文字に相当することをルイーズはつきとめた。
 なぜ円環状なのか。その一文には始まりも終わりもないからだ。
 それは、彼らの持つ時間感覚に、始まりも終わりもないことを表していた。
 彼らとコミュニケーションをとりつづけるうちに、その円環的な時間感覚がルイーズに身にももたらされる。と同時に、病のため若くして生命を断たれた娘の「記憶」がよみがえってくる。
 意思疎通よりも排除を求める人たちも多いなか、ルイーズはあくまで根気強くコンタクトをとり続ける。それは母性をもち、娘を失った悲しみを心にかかえる彼女だからこそ可能だった。
 最終的には、彼女の「記憶」が宇宙船を攻撃しようとする中国軍をとめ、地球を救うことになる。
 亡くなった娘の思い出が、実は「未来の記憶」であることに気づかされたとき、映画を観ている私たちも、作品の描く円環時間のなかに吸い込まれていく。
 作品の冒頭で描かれた娘の死は、終わりではなく物語の始まりだったのだ。


 ~ これから先、自分に起こること、世界がどうなるのかを知ってしまったら、それは果たして幸せなことなのだろうか。まして愛にまつわることはなおさらだ。幸せなことだけ知るのであれば、いいけれど、愛する恋人、愛する家族との悲しい未来は事前に知りたくはない。この『メッセージ』のラストで明かされる事実のように。でも主人公のルイーズは、どんな未来が待っていたとしても、今その瞬間の愛を受け容れて生きていこうとする。
「自分がいつどうやって死ぬかわかったとしたらどうなるか。人生、愛、家族、友人、社会との関係はどうなるのか。死、そして命の性質やその機微と親密な関係にあることで僕らはより謙虚になることができる」(ドゥニ・ヴィルヌーブ監督)
 たしかにふつうに生活していると、時間はずっと続いていくもので、当たり前のように毎日がやってくると思っている。でもこの映画を観ると、ルイーズの立場になってみると、あのラストシーンの先の彼女の人生は、娘との人生も、夫との人生も、それぞれ別れの日を前提に生きていくことになる。 (新谷里映「愛の物語」映画『メッセージ パンフレット』より)~


 人は、未来のことなどわからないと言いながらも、いつか必ず死が訪れることだけは知っている。 誰もが「死」という最終的な未来を前提にして生きているのだ。死は身体の物理的な「おわり」でありながら、精神的には私たちの生を規定する「はじまり」とも言える。
 私たちは自らの意志で「おわり」を「はじまり」にして、生きていくしかないのだ。ルイーズが、「未来の記憶」を持ちながら、娘を生み、愛することを選択したように。

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メッセージ(1)

2017年06月06日 | 学年だよりなど

 

    学年だより「メッセージ(1)」

 たぶん誰もが「黒歴史」はもっている。
 なかったことにしたい過去、誰にも触れられたくない出来事、思い出したくない失敗の経験を。
 他人には死んでも掘り返してほしくはないけれど、自分の中では時折切ない痛みとともによみがえってくる。
 二度と繰り返さないようにしようとか、同じシチュエーションに出会ったときは対処の仕方をかえようという力となってそれは働くから、けっして「黒」ではなく、糧になっている。
 むしろ、そういう失敗の蓄積が自分という器を大きくするのだから、過去の意味、過去の価値を決めるのは現在の自分だといえる。
 逆に未来の自分がどうなるかを、確信もって答えられる人はいない。
 わからない度合いの高さで言えば、まさに「一寸先は闇」、未来の方がよほど「黒」かもしれない。
 とは言いながらも、実際には多くの人が「未来の自分」を見ている。
 今の延長上にしか、未来の自分は存在しえないからだ。
 思い出は、客観的にはすでに存在しない。自分の脳内で再生されるだけだ。
 では、未来はどうだろう。当然現時点では存在しない。
 しかし、それぞれの脳内でイメージをつくることはできる。
 脳内にしか存在しないという点では、過去も未来もそんなには差が無い。
 自分が描いた未来像を極力明確なものにし、その実現に必要なことを確実に行った場合、その未来は現実になる可能性が高くなる。
 過去が今の自分を作っているように、今の自分が未来を作るのだとしたら、過去も今も未来もかなりの部分が同時に存在しているのに等しい。
 私たちは「過去から未来に向かって直線的に流れるもの」として時間をとらえている。
 しかし、これは近代になってから生まれた時間の概念だ。
 時計によって計量的、客観的に時間をとらえていなかい時代、時間は「円環的」なものだった。
 春になれば花が咲き、夏の暑さを経て、秋に収穫したものを蓄えて冬を過ごす。
 また同じように春が来て、夏が訪れ … というように、円環する時間が繰り返されていく。
 今年は去年よりも発展する、新しいものにこそ価値があるという感覚は存在しない。
 同じ時間が繰り返されるのだから、経験を重ねている人ほど、物事の予想が立つ。
 いつ種をまき、いつ刈り入れたらいいかの判断は、若者よりも年寄りの方が正しい。
 そのような判断にとくに信頼がおける人は「日知り」(聖)とよばれ尊ばれた。
 宇宙、地球といった単位で時間をとらえた時、人の一生などほぼ無に等しい。
 そんなちっぽけな存在が、たかだかここ何百年で編み出した「直線時間」という近代的感覚は、それほど絶対的なものではないのかもしれない。
 公開中の映画「メッセージ」は、人間のそれとは全く異なる時間感覚を持つ地球外生命体と人類との接触を描いている。
 「彼ら」には過去も未来もなく、さまざまな事象が同時に存在する。そんな生命体が用いる言語があるとしたら、どのようなものか。地球人とのコミュニケーションが可能なのか。
 たんなる宇宙人との遭遇を描いたSFを越えた哲学的な問いをはらむ作品だ。

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「舞姫」教材研究

2017年06月05日 | 国語のお勉強(小説)

 

  「舞姫」教材研究5点セット。

1 井上靖訳『現代語訳 舞姫』ちくま文庫
2 谷口ジロー・関川夏央『秋の舞姫』双葉社
3 CD 加藤剛『名作を聴く舞姫』キングレコード
4 大西忠治編・加藤郁夫『「舞姫」の読み方指導』明治図書
5 映画『舞姫』東宝 篠田正浩監督・郷ひろみ主演

 可能ならこれらも。
6 斎藤美奈子『妊娠小説』ちくま文庫
7 田中実『森鷗外』有精堂
8 田中実『小説の力』大修館書店
9 六草いちか『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』講談社

 『舞姫』の予習をするのは、最低限1・2・3は手元に必要だ。
 できれば4があるといいけど、今絶版らしい。
 「舞姫」の現代語訳はググればいくらでも出てくるが、やはり井上靖先生のこれには誰も文句つけられない。
 2は、近代小説とはなんたるかを考える上で、国語の先生なら繰り返し熟読せねばならぬ。
 やらないことになった研究授業のシナリオの最後の部分、2の一節を借りてこう書いていた。

 「まことの我」を生きようすることはことはエゴなのか。
 豊太郎の悩みは、作者鷗外の悩みであり、青春そのものでした。
 それはまさに明治日本、近代日本の青春でもあったのです。(チャイムの音)

 5は、情景をイメージするのにいい。若き日の郷ひろみのお芝居もいい。
 太田豊太郎より、むしろ森鷗外の人生として描写されている。当時官費に洋行するとはどんなに大変なことだったのかを考えないと、「豊太郎ひどくな~い?」みたいな感想になってしまう。

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