今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

地震に弱い家

2015年04月27日 | 防災・安全

3びきの子ブタの話を思い出してほしい。
ワラの家と木の家とレンガの家があった。
暴風(オオカミの吐息)に弱いのはこの順だった。
では、地震に一番向かないのはどの家だろうか。

ネパールの地震被害は、日本にはない理由によって拡大している。
それはレンガ造りの家。

レンガを積み重ねただけの家は、広くユーラシアに拡がっている。
そして、アルプスヒマラヤ造山帯、すなわち激しい地殻変動の地帯もほぼおなじ領域になっている。
だから、四川省から、アフガニスタン、イラン、トルコに至る所で地震被害がひろがってしまう。

アルプスヒマラヤ造山帯以上に激しい地殻変動をしている環太平洋造山帯にずっぽり入っている日本は、
とてもじゃないが石造りの家には住めなかった。
明治になって一時的にレンガ造りが導入されたが、地震時に被害を大きくするため、廃れた。

日本の伝統的なわらぶき屋根こそ、地震に適している。
倒壊しても屋根が軽いため、圧死を免れるからだ。 

だが、災害国日本は、地震よりも台風や火災の頻度が高い。
わらぶき屋根はそれらにはめっぽう弱い。
これがジレンマだった。
江戸時代には、地震被害を減らすため、瓦屋根を禁止した所もあった。
日本ほど地震が多い所はなく、だからこそ地震対策をきちんとせざるをえない。

アルプスヒマラヤ造山帯周辺の地域には、
一生に一度来るかわからない地震に備えるほどの経済的・技術的余力がある所は少ない。
しかも乾燥地帯なので、ワラはもちろん木だってふんだんにつかえない。
一方、石なら至るところにある。

ということは、せめて鉄筋を入れるようにするべきだ。
日本のブロック塀も鉄筋を入れるのが義務化されてから、倒壊被害は激減した。 


岐阜城周辺を歩く

2015年04月27日 | 城巡り

せっかく岐阜に来たのだし、急いで帰る用事もないので、市内観光して帰ることにした。
実は以前、長良川を河口から水源まで沿って車で遡る旅をした時、一泊目を岐阜市の長良川温泉にとって、岐阜城には立寄ったので、それ以来となる。

温泉ホテルをチェックアウトし、荷物は預かってもらって、何はともあれ再び岐阜城を目ざした。
金色に輝く信長像が立っている(右写真)JR岐阜駅前のバスターミナルは岐阜バスがひっきりなしにやってくる。

その12番と13番の乗り口ならどれでも行けるといわれた。
岐阜市は市街地の南にJRと名鉄の駅があり、旧市街は北に拡がっている。
つまり市街地に行くには、駅からバスに乗る必要がある(駅前だけを見て、街の印象は語れない)。 

旧市街の北の区切りである「岐阜公園歴史博物館前」で降りる。
バスはこの先長良川を越えて、新市街地に進む。
目の前にそびえる金華山の頂きには復元された岐阜城天主閣が見おろしている。 

ロープウエイに乗って金華山の肩に達し、そこから岩の階段路を岐阜城に向う。

金華山は露岩だらけで、濃尾平野の北を区切る堅い残丘であることがわかる。
だからこそ、ここからの濃尾平野の眺めは広い(右写真)。
濃尾平野を制し岐阜城に入城した信長が「天下布武」を意識したのもうなづける。

かすかに小牧城の残丘も見える。
そう、実は山城巡りとして、清洲城→小牧城→岐阜城と、信長の足跡を追っているわけだ(次は安土城)。 

麓のロープウエイ乗り場の近くでは、信長居館跡の発掘調査が行なわれている。
居館跡がそれなりに復元されれば、新たな名所となろう。

公園を出て、近くの岐阜大仏を見上げて、 南に向う。
向った先には、岐阜善光寺があり、ここも御開帳をやっているが、2時間おきで、あいにく1時間後なのであきらめる。

善光寺の奥が、というより善光寺も門前の寺の1つとなっている長い参道と石段の奥には、金華山の鎮守のような伊奈波(イナバ)神社が鎮座している。

敷地も広く社殿も立派だ(右写真)。

ここもパワースポットだという看板があったので、iPadminiに入れてある愛用の幽霊探知器「ばけたん」を作動してみる。
この「ばけたん」を使ってきたおかげで私もだんだん霊感が鍛えられたので、
自分が何かを感じたら、「ばけたん」で探知するようにしている。
するとやはり「守り神の出現に期待」と出た。
さらにこの地にもともとあったという黒竜社も探知すると、同じく「守り神の出現に期待」と出た。
かように「ばけたん」を使うと、それなりの場所はそれなりの反応をしてくれるが、メジャーであっても何も感じない寺社では「何もない」と出る。

 あのホテルは気に入ったので、また岐阜に来ることになろう。
次に訪れるのは鵜飼関係かな。