国宝指定によって国立博物館で展示されていた深大寺の白鳳仏(釈迦如来倚像)が寺に戻ってきたのを待って、
野川歩きを再開した☞前回「野川を歩く2」。
すなわち、前回は深大寺で終えたので、今回は深大寺から再開。
そうすることで前回はレプリカの展示だった白鳳仏を”国宝”として拝観でき、
さらに何より嬉しいのは、もう一度深大寺そばを味わえる。
まずは深大寺そば。
まだ11時なのだが、一番人気の店「湧水」はすでに大行列だったので、
その近くの「大師茶屋」で数量限定の「粗挽き天もりそば」(1180円)を食べた。
”天ざる”ではなく”天もり”にしてくれているところが良心的。
深大寺そばの店は増え続けており、それぞれ個性を競っている。
おいしい深大寺そばを食べながら思うに、せっかく来たのだから一軒(一食)ではもったいない。
本当はそばのハシゴをしたいくらい。
結局、すべての店で食べ尽くすまでは深大寺を訪れる価値があるということだ。
腹を満たして、深大寺を詣でる。
ちょうど正午の鐘が撞かれていた。
めざす白鳳仏は以前とおなじ場所での展示だが、国宝になってからの変化は、
撮影禁止になった点と、両脇に同じ頃の似た造りでどうやら同じ仏師によるらしい関西の菩薩像のレプリカが並んでいる点と、
それをもとにテープでの解説がついた点で、あいかわらず拝観料は取らない(志納)。
このように深大寺は都内でも有数の観光的価値がある寺院で、創建の古さこそ浅草寺に一歩ゆずるが、
こちらには東日本最古の国宝白鳳仏があり、名物深大寺そばがある。
せっかくなので、翡翠と水晶のブレスレット(気を高めるため)と『住職がつづる深大寺物語』を購入。
さて中央高速道が上に通る野川に出て、地元の人たちが草に覆われた河原でバーベキューを楽しんでいる横を通り抜け、川歩きの続きをスタート。
野川は川沿いの舗装された歩道もあるが、草原状の河原の踏跡を進めるのがいい。
つまり、それができる分、自然が残っているわけで、コンクリの護岸が続く神田川やその支流とでは川の風景が異なるのだ。
三鷹市に入り、向いの左岸の奥には国立天文台の森が続く。
ここから左岸は、”国分寺崖線”といってずっと野川の左岸が高台状に続き、その崖から湧水が多いという
(その崖線に沿ったウォーキングルートもあるらしい)。
そして左岸の川沿いに、「長谷川病院」が見えてきた。
この病院、精神病院として有名で、まずは私の心の師である安永浩先生が勤務していた所。
そして、実は私が人生で最も苦しい時に、
小田晋先生(故人)の紹介を経て、この病院に非常勤での職を得ようと、面接に訪れたことがある。
残念ながら、先方が求める条件を満たさなかったので、むなしく帰った思い出の病院。
今度は自分が歩いている右岸側に「大沢の里 水車経営農家」という古民家があったので入ってみる(入場料100円)。
この民家は江戸の文化年間の造りで、その時代に水車小屋内の歯車を駆使した米の精米と麦の製粉が全自動化されていたというからすごい。
しかも歯車(名称は「万力」)までが地元産の木で造られている。
歯車の組み合わせで多彩な動きを構成し、しかもその動力エネルギーはずっと流れ続ける水流なのだ。
これは太陽光や風車よりも定常・安定したエネルギーで、24時間稼働できる。
この農家での歯車の組み合わせ技術が、「からくり」人形細工の元となったという。
19世紀初頭の農家でさえこの技術レベルに達していたのだから、そりゃ明治維新後の近代化はスムースに行くはず。
この施設は三鷹市の管轄だが、実は深大寺のそば店脇にも調布市による「水車館」があった
(あっちは無料で、規模も小さいが川ではなく湧水の水車)。
つまり、野川流域はかくも水が豊かだったのだ。
三鷹市大沢の地からさらに野川を遡ると、近藤勇の菩提寺(墓がある)龍源寺がある。
以前、新選組史跡探訪として、龍源寺から野川を歩いて深大寺に向かったことがある。
この地は近藤勇の生家もあり、子ども時代の勇こと宮川勝五郎も、あの水車小屋の見事なメカを見ていたことだろう。
さてここから野川は、周囲が公園状となり、楽しい風景に囲まれる。
野川公園とそれに続く武蔵野公園を貫く野川は、その間ずっと親水広場と化し、人と川との幸せな交流の場となる。
ここが野川のハイライトであり、他の川においてもこれに勝る親水地帯は存在しない。
ただ惜しむらくは、雨量が少ないためか、川が干上がっていること(写真)。
前回来た時の記憶では、私は川の中をバシャバシャ歩いて(徒渉して)進んだことになっている。
考えてみれば、履物がそれに対応していなければ無理な行為なので、
これは野川の親水性に感動したことによる記憶の捏造かもしれない。
野川がこの状態のまま水源まで続いてくれれば幸せなのだが、残念ながら、現実は冷酷だ。
小金井市に入ると、前原小学校が川の上にまたいで建っていて、迂回を強いる。
今までの都内の他の川歩きでも、川の上を敷地にして通行止めにするのはたいてい公立小中学校だ。
なぜあえて川の上に建てるんだろう。
いいかえればここから野川は、普通の住宅地での邪険な扱いを受ける哀れな川となる。
今までの自然で広い河原が夢であったかのような街中のコンクリに囲まれ、
さらに国分寺市に入ると、川沿いの道すらなくなり、家々は野川に背を向け、無視されるというより邪魔者扱いされる。
野川は存在感を最小にし、なんとか暗渠だけは免れている。
ときたま現れる「一級河川 野川」の標識すら不自然に映るほど、川は貧弱になっている。
かような状態なので、ここから先は、日ごろは入れない水源だけしか興味がもてない。
その水源に足を運べるのは11月の特別公開日を待たねばならない。
その部分だけを残して、川から離れ、国分寺駅に向かう。
幸せな野川を通った後の不幸な野川はいただけない。
野川歩きは武蔵野公園・野川公園より上流はおすすめしない。
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