すでに散り始めている今年の桜を見逃すまいと、江戸時代からの桜の名所である北区王子にある飛鳥山(あすかやま)公園に行った。
王子には飛鳥山公園の北を流れる音無川も桜の名所で、いわば山と谷の両方の桜を鑑賞できる。
王子に行った時は、音無川沿いの中華飯点で五目焼きそばを食べるのだが、
あいにく定休日のため、チェーン店でない駅そば「王子そば」でゲソ天そばを食べる。
飛鳥山に登る無料パークレール「アスカルゴ」は乗りたい人たちの長蛇の行列なので、徒歩で登る。
山上の桜は葉桜になりかけているが、コロナ禍から解放された人々が、桜の木の下にゴザを敷いて飲み食いを楽しんでいる(写真)。
こういう規制なく花見の宴を楽しめる情景はいいものだ。
さらにここには子供用の広場もあるので、若い家族連れも多い。
この公園内に博物館が3棟あり、その1つが郷土博物館である北区飛鳥山博物館(他は紙の博物館と渋沢史料館)。
以前にも訪れたが、最近始めた”郷土博物館巡り”の目線で改めて見学する(高齢者割で150円)。
ここは建物が新しく、また設計も洗練されていて、例えば階下に降りる階段も微妙に湾曲して、歩くにつれて視界が垂直だけでなく水平にも展開する。
北区では旧石器時代の展示は3万年前からで、昨日の松戸より5000年古い。
南関東の海岸線の遷移がきちんと説明されていて、北区に限定されない背景的知識をもとに展示を見ることができる※。
※:郷土博物館は、地元についての地質学・考古学・歴史学・生態学などの学術的情報をわかりやすく教示する教育施設だ。自治体の意気込みや学芸員の力量の発揮の場でもある。
北区は武蔵野台地と古東京湾だった東部低地の境界(京浜東北線)を跨いでいるため、原始時代から人が住んでいて、厚さ4mにもなる日本最大級の中里貝塚があり、その剥ぎ取り標本が展示されている(右写真の右上)。
説明によると、貝塚は単なる食べ残した貝殻などのゴミ捨て場ではなく、命あったものたちの埋葬の場でもあったらしい。
その貝塚で発掘された縄文人の全身骨格が展示されており(写真の中央上。縄文人は上の前歯が前に出ずに、下の前歯とぶつかっているのが特徴)、説明によると同じ場所から胎児の骨も埋葬されていたという(昨日の松戸は幼児だったが、こっちは胎児)。
また地元で発掘された全身の土偶が展示されているのも、豊かな縄文文化が広がった関東ならではか。
続く弥生時代は、東日本のたいていの博物館では、縄文時代と古墳時代の”つなぎ”のサラッとした展示で終わるが、ここは縄文時代に匹敵するくらいに充実していて、弥生時代では集落ごとの争いがあったとして、その争いの再現映像が弥生時代の住居の中から覗ける仕組みになっている。
古墳時代の地元発掘の埴輪も展示され、律令時代には北区は武蔵国豊島郡の郡衙が置かれたため、米倉である”正倉”の実物大の復元など、郡衙についての展示がある(国衙や郡衙でない所はこの時代の展示が乏しい)。
そこに掲示されていた律令時代の武蔵国内の郡の分布図を見ると、当時の郡境が現在の東京都境になっていることがわかる。
すなわち明治の廃藩置県は、試行錯誤の結果、結局は古代の郡境を復活させたわけだ。
平安末になると秩父平氏系の豊島氏がこの地を支配し、室町末に太田道灌によって滅ぼされるまで、ずっとこの地の主人であったので、中世の展示は豊島氏が中心となる。
かように歴史的に見て、北区こそ本来は「豊島区」を名乗るべきなのだ(北区内に豊島という地名も残っている。そもそも東京23区で単なる方位の区名は北区だけ)。
江戸時代になると、将軍吉宗がこの地を気に入り、桜の名所とさせた(なので、ここは江戸時代から桜の花見のメッカ)。
その様子を示す映像を復元された御座所で腰掛けて見ることができる。
さらに区の北辺を流れる荒川の生態や洪水を前提とした生活形態の展示もある。
別の階では、この地に暮らしていたドナルド・キーンの企画展をやっていた。
かように、ここは周囲の区立博物館より設備も展示も充実している。
また、今でこそ北区一の繁華街は赤羽だが、訪れる先が多いのはむしろここ王子だ。