『夢の科学』(講談社・ブルーバックス)の著者アラン・ボブソン(医者、神経科学者)は、夢の最新理論である「活性化-合成モデル」の提唱者で、本書はその説明があるだけでなく、 彼自身の夢の実例を挙げて、 夢とはどのような体験なのかを論じている(夢についての本の中でイチ押し)。
彼によれば、覚醒と比較して、夢は以下のように「形」※が異なるという。
※:ボブソンは、夢の内容ではなく、夢の形を問題にすべきだと言う。それは賛成だが、彼自身の夢は形の種類に乏しい気がする。
●情動は、高揚感、怒り、不安が誇張される。
●闘争および逃走シーンがよく出てくる。
●夢の中の出来事に没頭。
●時、場所、人物に関する認識が著しく欠如。
また「目覚めている時に夢を見るのは実質的に不可能である」といっているが、「開眼夢」(私が発見?)という現象があるため、それは誤りだと指摘しておきたい。
また個人的には、はじめの二つの●は、子供時代の夢にはあてはまっても、成人以降の落ち着いた夢に当てはまるだろうか。
さらに、睡眠中の脳の状態としては、ノンレム睡眠中、特に深い徐波睡眠は、脳活動全体が低下している。
レム睡眠中に活動低下するのは、前頭前野背外側部(作業記憶、熟考、意志の中枢)、帯状回後部、海馬傍回で、
一方、活動が活発になるのは、橋被蓋核、扁桃体(情動の中枢)、帯状回前部だという。
上の●で列挙した夢において活性化される諸機能は、コリン※作動系が扁桃体・海馬を含む辺縁系を刺激するためであるという。
※:神経伝達物質であるアセチルコリンの元物質。ちなみに私は毎晩寝る前にコリンのサプリを服用している。
以上、とても参考になるが、気になるのは、夢の特徴を覚醒時の現実経験と対比して論じていること。
このやり方は、両者を対立概念化するため、相違点しか見えなくなる。
まさに二元論的思考の欠点だ。
ただし二元論思考は、言語による概念操作に必然的に付随するバイアス(無自覚な偏り)であるため、そう簡単に排除できない※。
※:二元論思考を批判して、不二一元論の思考を実践したのは8世紀のインドの思想家シャンカラ。
矯正しにくいその思考癖を変えずに二元論的結論に陥らないために、私が見出した方法は、二元にもう1つ要素を追加して、2対1の組みとし、その組合せを3回変えて比較をすることである。
毎回の思考作業は二元比較なのだが、これを各組みごと3つ繰り返すことで、三元間の相違だけでなく、共通性も見えてくる。
共通性が見えたら、そうれはもう二元論的思考によるバイアスから脱したことになる。
ということで夢と現実にさらに空想を加えて、夢であることの特徴を三元比較による思考実験で捉えてみよう。
ここでいう空想は、覚醒時の自由なイメージ表象(想像、夢想、回想)をいう。
では、夢・空想⇔現実、夢・現実⇔空想、夢⇔現実・空想という3つの二元対比を以下にしてみる。
①夢・空想⇔現実
前者は主観的構成に対して、後者は客観的に他者と協働で構成される。
すなわち他者と共有体験できない⇔できる、という対比。
また、認知対象の内的生成(トップダウン)⇔外的刺激の知覚(ボトムアップ)の対比でもある。
時間経過として、非連続性⇔連続性という対比もある。
現実を外部に実在しているものとみなすと、現実は主体が認識していない間も主体から独立して変化するが、前者は主体の認識中にのみ生成変化する。
さらにこれは当然なのだが、非現実的(時空間。行動能力が物理法則に従わない)⇔現実的(物理法則などに従う)という対比もある。
すなわち、前者は、客観的な法則性とは異なる原理で生成変化する。
②夢・現実⇔空想
この対比によって、夢と現実との対比では見えてこない、夢と現実の共通性が見えてくる。
任意に構成できない⇔意のままに構成できる、受動的⇔能動的、という対比が明らかである。
ただ夢も現実も主体の働きかけは可能で、何もできないわけではなく、行動によって事態を展開できる。
この共通性があるからこそ、我々は夢を見ている間、それを”現実”と思うのである(明晰夢を除く)。
この共通性にもっと注目すべきである。
③夢⇔現実・空想
睡眠中と覚醒中の対比であり、両者でシステム0の状態が異なる。
では夢に対する現実と空想の共通性は何か。
これはけっこう難しい。
心理学者の渡辺恒夫氏※に頼ると、夢は現在しかないが、現実と空想は過去や未来という時間の幅をもって体験できる。
※:『人はなぜ夢を見るのか:夢科学四千年の問いと答え』(化学同人)。ただし氏も夢と現実の対比。
二元論バイアスを脱するもうひとつの方法は、対比する概念対の狭間に注目して、両者の移行・混合状態をあえて想定することである。
陰陽理論が単純な二元論でないのは、陰と陽との間に移行・混合状態を認めるためである。
①夢と現実の狭間
この狭間は、「開眼夢」すなわち開眼していて夢イメージを経験する場合である。
これは滅多に経験しないが、私は2020年7月に、読書中に経験した→「白昼夢(開眼夢)というものを見た」
そこでは現実の書面の視覚像と夢イメージが二重写しになった、混合状態である。
それと、現実→レム睡眠の急激な移行現象が前回言及した「金縛り」。
覚醒状態のまま幻覚を伴うので、まさに夢状態との混合に等しい。
②空想と夢の狭間
入眠時幻覚が相当する。
寝床に入って閉眼しての空想が夢に移行する瞬間があり、自分が能動的にコントロールしていたイメージ表象(人物)が突如自律運動を始めるのである。
この劇的変化に驚いて、目が覚めてしまう(覚めずに見続けていたかった)。
空想と夢は、登場人物は共通でありうるが、動きの主体性が質的に変化する。
③現実と空想の狭間
覚醒時に現実と空想は並立可能で、明らかに区別できる。
現実の視覚経験中に、頭の中でイメージ表象しても、脳のスクリーン上での精細度がまったく異なっているので、混同することはない。
イメージ表象は、視覚像的には低精細で、半透明よりもさらに薄いためだ。
この点が現実と精彩度に差がない開眼夢と違う(開眼夢を経験すると、夢の精細度がいかに高いかが、現実視覚像と直に比較して分る)。
一方、記憶対象として、事実経験(記憶表象)と空想とが混同される事は、記憶の研究で確認されている。
この場合は、ともにイメージ表象であるため、精細度に差がないため、混同しやすいと思われる。
これで分ることは、夢は現実映像に近い精細度だということ(感覚・知覚的精彩度ではなく、心のスクリーンに映った認知的精細度)。
だから、夢の中では、それを現実と思ってしまうのだ。
記憶によって想起された夢では、その精細度自体は想起できないが、逆に夢が完全にモノクロであれば、夢の中でも違和感を覚えるはずである。
ただ、色彩が夢の主題でないため、あるいは自明視されているため、思い出してもその記憶がはっきりしないだけである。
もちろん、触覚や味覚・嗅覚も夢で体験しうる。
以上から分ることは、夢を現実だと思い込む理由は、精細度に差がないだけではなく、それが自我にとってはともに受動的な対象世界の経験、すなわち世界経験だからだ(夢=世界というのは渡辺氏の着想)。
もちろん、夢自体は客観世界ではない。
かといって深遠な内界への沈降でも、記憶の機械的処理でもない。
自我にとってはあくまで外の”世界”経験だ。
夢という疑似世界経験はなぜ可能なのか。
次はそれを問題にする。→夢を見る心④へ