こんな夢を見た。
小田急ロマンスカーの特別車両を前にしての会場で、乗車券購入者がじゃんけんに勝つとグッズをもらえるというイベントをやっていて、私もそれに参加する。
じゃんけんの相手は会社側の若い女性(実在する女性ではない)。
結果は以下の通り。
1回目:あいこ…多分パーかグー。
2回目:チョキのあいこ…こちらのチョキが指が閉じていた(半ばパーを出すつもり?)。
3回目:こちらがチョキで相手がパー…自分でチョキを出そうと意図したのではなく、通常のじゃんけんでやるように、あえて意図をせず、指の勢いに任せた。
この結果私が勝ち、自販機から出てくるグッズをもらうことになった。
その後の夢のなりゆきよりも、目覚めてからこのじゃんけん勝負が気になった。
なぜなら、私は相手の出す手を予想できなかったから。
すなわち、夢の中の相手は現実の他者のように予想不能な行動をしたから。
夢は自分の心が作るものだろう。
自分があらかじめ勝つストーリーだったのなら、なぜあいこをくりかえす冗長な状況を挟んだのか。
冗長性を排除できないリアルな現実のようではないか。
既存の研究者は夢の非現実的性格を強調するが、私は夢がいかに現実の世界経験に近いか、夢の他者がいかに”他者”然としているかの方に注目する。
自分の夢の中に、自分とは別人格の他者が登場していることこそが問題だと思う。
夢を現実と対比するより、想像と対比してみる。
覚醒時のイメージ表象(想像)では、こちらが意識的に対象の挙動を操作できる。
というより、そもそもこちらの意思で操作しないと対象は動かない。
想像の他者は、自我の操り人形でしかない。
自我の操り人形ではない夢に出てくる他者は、どこからきたのか。
心理学者は、夢は自己の無意識の投影であるという。
でも夢はあきらかに(睡眠中の)意識現象(システム2)であり、夢主の自我は私の自我と同一人格である。
夢を見せるシステム2には、自我だけでなく、自我以外の他我も存在しているようだ。
我々の心の中に、自我でない他者がいる(ただし特定の人格をもってはいない)。
その他者が特定の形態で顕現するのが夢ではないだろうか。
人格解離という現象は、その可能性が覚醒時に実現してしまった病理である。
私は正常な心の可能性として人格の複数性を認めている。
その場合を、異常でない現象として「乖離」と表現する。
すなわち、夢の中の他者、とりわけ実在他者でない場合は、この乖離他者である。
龍樹の論理を使うなら、
夢の中のその人は、自己(夢主)でもなく、(外在する)他者でもない。
すなわち自他二元論の否定である。
自他二元論を否定することで、見えてくる存在がある。