廃墟考

2018-05-31 01:36:29 | その他旅行き
昔、書籍を扱う店で廃墟を写した写真集を見かけ、買って帰ってじっくり鑑賞したいなと思ったが、写真集ってお高い。
ビニールが被せられ、中身を確認できなかったので、代金に見合う本なのかどうか分からず、その時は購入に踏み切れなかった。
その後も同じような写真集を見るたび心が揺れるのだが、買うことができずにいた。
しかし、先日とうとう一線を越えてしまった。
最近、金額が普通でない桁のモノを度々買っていたから、金銭感覚が狂ってるのかもしれない。
少し薄めの装丁で、1800円とまあいいかと思わせる値段だったし。
「美しい日本の廃墟」という。

<碓氷峠旧丸山変電所>


ページをめくるに連れ思い出した。
本当の廃墟というのは、その荒廃感がすごいんだということを。
大昔、興味本位で天井の高い結構な広さの倉庫だか作業場だかの廃屋に入り込んだ時の感覚が蘇った。
剥がれた壁、天井からは板がぶら下がり、足元には鋼材が散乱し塵が積もっている。
入ってすぐは、ひどいなこれはと思うだけだったが、奥に踏み入るに従って恐怖が胸に染み込んできた。
崩壊することは無いにしても、安全な場所では無いという認識もあったが、それよりどうしようもなく荒んで病んだ人の心の中に踏み込んだような感覚に肌が粟立ったのだ。
早々に外へ逃げ戻った気がする。

<摩耶山登山道にて>


でも、あの記憶はなんなんだろう。
実は思い起こす画像は曖昧なのだ。
いつ、どこで、なぜ、という情報を思い出せない。
そんな記憶があるような気がするのだが、町工場とかでアルバイトした時の経験と映画のシーンなんかが入り混じったものなのだろうか。
カメラを持つ前だったから写真は当然残っておらず、本当にそんな経験をしたのか怪しい。
足元が悪く、歩くのに注意したのと、荒んだ場所の普通でない雰囲気は、記憶にしっかり残っている。

<友ヶ島にて>


京都国際写真祭のフォトチャンネルを廃墟萌えゆえに作成したと書いたが、荒れ果てた廃墟は萌えるものではないな。
真逆の感情を呼び起こす。
そうだ、数年前の瀬戸内国際芸術祭で廃村と一軒家の廃屋を見学したのを思い出した。
あの生活感を残す部屋の腐り方は萌えられるものではなかった。
私が楽しめるのはせいぜいが管理され整備された「きれいな」遺構までだろう。

<高見島板持集落跡>


山中の森で木々が枯れ、朽ちていっても、そのさまに奇異な感慨など湧かないが、人工物が人の手を離れ朽ちていくさまを見ると心が動くのはなぜだろう。
それが自然の作り出す姿であるのに。
人の営みは自然と対立しているということか。
人は自然の営みを理解しつつも、街の環境に長くいると、管理・整備されて存在するのが当たり前となり、人の手が及ばなくなり自然が再び侵食してくると、そのギャップに麻痺した心が反応するのだろうか。
その昔、自然と調和し共に暮らしていた頃は、人工物とて天然素材で作られており、朽ちて自然に戻る過程を見たとしても、なんら違和感は無かったに違いない。

<南アルプス山中にて>