東日本大震災の津波で宮城県石巻市の幼稚園の送迎バスが流され園児が死亡した事故を巡り、園児4人の遺族が幼稚園側に2億6700万円の損害賠償を求めていた訴訟で、仙台地裁は17日、園側に1億7700万円の賠償を命じる判決を言い渡した。(CNN)
斉木裁判長は「巨大な津波に襲われるかもしれないと容易に予想できた」と指摘。「園児は危険を予見する能力が未発達だから、園長らは自然災害を具体的に予見し園児を保護する注意義務があった」と判断した。その上で「園長は津波警報が発令されているかどうかなどの情報を積極的に収集する義務があったのに怠った」と注意義務違反を認め、「その結果、高台にある幼稚園から海側の低地帯に出発させて被災を招いた」と結論づけた。
判決などによると、園長は震災発生後、園児をバスで帰宅させるよう職員に指示。バスは海抜23メートルの高台にあった園から低地の海沿いに向かった。その後、津波にのまれ、園児5人と女性職員1人が死亡。運転手は車外に押し流されたが無事だった。(日経新聞)
以上が、事件・判決の概要である。この判決に対し、私は次の点で、反対である。
第1に、事実関係の認定について。「バスは海抜23メートルの高台にあった園から低地の海沿いに向かった」とされるが、この認定が事実だとしても、その時の自然的、状況的な実情をどう判断したのか、判決では考慮されていない。親元に早く返したいという園長の判断や、現実に運転した運転手だってあの異常事態において気が動転していての決断だったと思う。注意義務を怠ったなどといえるのか。異常時で重要なのは平時の判断に戻れ、というのがある。園長が親元へと判断したことは平時に戻れということだろう。この判断に過失があるとは思えない。現場に立ち会ったわけではないが、あの未曾有の自然災害の中で、園児を乗せたバスの運行についての是非を法的な正邪として問うことが果たしてできるのだろうか、全くの疑問である。
第2に、判定の基準になっているのは、近代法の判例からであろう。近代以前、例えば鎌倉や江戸期だったら、現行法規は当然適用できない。今回のような極端な自然災害下では、それと同じで、近代法が適用できる範囲を超えているはずである。現行法の適用は近代社会や現代社会において平時であるという限定のうえに乗っかっているはずである。だから場合によっては、権力者は超法規的処置とか非常事態宣言とかを執行するのである。この判事は、自分の判断がどの範囲内で有効なのか、まったく理解していないと言わざるをえない。
第3に、被害者、特に幼い子どもの犠牲ということに過度におもねっているということである。
危険を予見する能力のない園児、という表現というのはいらぬ判定である。危険を予見できないのは、園児だけでなく誰でもそうであった。だから園長は帰宅を急がせたのであろう。子供を失った親の心情に思いを寄せたくはなるが、子供や親という立場を斟酌しすぎて論理的な判断を揺るがせにするのは、全くの思考の退嬰である。そして、その判定の中に倫理的な仮面をかぶった思想があったとすれば、それほど危険なものはない。
では、この問題に対するお前自身の判定はどうなのだ、と問われれば………もちろん私は法律の専門家ではないのだが、そのことを留保したとして、私ならば、訴えた訴状については、事実認定は行うが、刑罰については〈不能〉としか、判定しようがないのではないかと思う。つまり現行法を超えているので、第三者を仲介して双方で話し合い、納得しあうよりしようがないのではないか、ということである。
巨大な自然災害の前では、すべての事柄は、国家=法の規範を超えるのだ、ということは厳然としている。【彬】