(続き)
高校野球を経験した人なら誰でも知っていることだが、このスポーツ界ほど理不尽な、非常識的なものはない。社会の常識から隔たっている。例年、選手や監督の不祥事が発覚し、その後始末についても、疑念を買うことが多いのだが、それらは子葉のことであり、高校球界の根本の問題の在処は別なところにある。
例えば、1、2、事例をあげよう。
部員達の先輩・後輩の上下関係が強固に固定されていて、練習以外の学校生活全般にわたり下位のものに過剰な負担がかかっている。中学を卒業したばかりの子供にとっては、それはほとんど苛めであり、暴力である。使い走りから始まり、練習場や用具の整備、加えて練習態度が悪い、生活態度が悪いというだけで制裁の対象となる。しかも個人ではなく、これが、下級生全体の問題とされる。
個々人の学業や家庭生活の諸事情を全く関与させないというのも異常である。家庭の事情で部活を2~3日休みたいといった願いはほとんど聞き入れられない。部員を送り出している家庭では、家族全員の経済的・精神的犠牲によって選手を支えなければならない。
こうした事態は、レギュラー選手レベルなら上級生からの嫉妬としてあり得ることかもしれない。しかし、補欠や補欠にもなれないような下部の部員のほうにより強い縛りとなって慣習化されている。特に部員数の多い有名高校の野球部に顕著である。
その他、諸々ある。
こうした問題の根本は何に由来しているのだろうか。
私が考えるには、日本がスポーツを輸入した際、それを受け入れる役割を果たしたのが、学校・学生だったということにつきる。
スポーツの発生に想いをいたせば分かることだが、もともとお金があって、自由な時間がとれるブルジョアの余暇活動だったのがスポーツである。それを学生という、いわばモラトリアムな青年に預けたわけだから、弊害が起こるのは当然である。学生は、外見的には自由だが、その内実は素寒貧、ブルジョワとはまったく違う存在だ。スポーツを愉しむというような基盤なんてありやしない。この落差・矛盾を繕うために、先に例を出したような理不尽な振る舞いが生じたのである。特に個人競技ではなく、野球というようなゲームスポーツだからこそ、その弊害がいっそう顕著になった。しかも人気スポーツとして新聞社などのパブリシティに援用されることによって、歪んだ形でいっそう内側に封じ込められた。これが現在の、戦後からの変わらぬ高校野球の姿である。
このことの経緯は、より丁寧に説明する必要があるのだが、ここでの範囲外なので端折ります。
で、学校スポーツは廃止すべきというのが、私の意見である。
私達庶民の学校は主要学科だけで十分である。昔風にいえば、読み書きそろばん。音楽とか美術、家庭といったカリキュラムも外した方がいい。
教科に入っているこれら文化的な活動は、現在では公共施設や民間施設で十分すぎるほど代替できている。昭和20年代の民主主義教育とは、時代や経済状況が違うのである。
教師の負担を減らし、学校の再生(様々な問題が山積している)をはかるためにも、余分なカリキュラムは減らすべきだ。運動会などで、中高齢の女性教師が奮闘している姿を見ると本当に気の毒。あの「無法松」の映画に見る、明治時代の遺物そのものである。
今後、体育の中に武道を取り入れることになるらしいが、スポーツという観点からしてみても、本末転倒も甚だしい、と思う。【彬】