ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

世界の歴史

2017年03月28日 | 日記

 最近、歴史の本を2つ読んだ。

 ①「世界史」;カナダのウィリアム・H・マクニール博士著、1967年刊行、版を重ね世界中でよく読まれている。

 ②「アメリカ史」;山川出版の、各国史の中の一冊。

 今の、アメリカ、EU、など先進国で保護主義の動き、その背景にある、経済、所得格差、移民、等・・・を歴史の中で考えたいというのが理由である。

 ①  の「世界史」は事象の列挙と説明だけではなく、ある主張をもって書かれている、つまり、古代以降、文明の水準に達した文化圏が、周辺社会を攪乱し、そして、それを受けた社会はそれに適応していった・・・中東、インド、ギリシア、中国等々・・・そして、16世紀から今日までは、西ヨーロッパの力が、地球規模で広がり、アメリカ大陸もヨーロッパ文化の許に入っていった。

 ②  の「アメリカ史」はアメリカ合衆国の歴史事実を詳細に説明している。

 この二つの本を読んで総括し、思うことは

1. 国、地域などが、保護主義的な行動をとるのは歴史の節々に見られる。

2. 自らが経済的に豊かで安定なくしては、他者への寛容の精神はうまれない。

3. 極端な経済格差は争いにつながる。

4. ある文化圏が生じ、衰退していく、そして、新しい文化圏がうまれる。歴史は繰り返しの波のように見える。また、ある一つの状態に収斂していくようにも思える。解らないことだ。

 さて、

 長い歴史を読みながら、目に浮かぶのは、様々な波のその時代を生きている人間個人の姿だ。貴くも卑しくも、豊かでも貧しくも、そしてさまざまな肌の色の人が、自を生きている。人としてのプライドを傷つけるようなこと、また、著しい所得格差は是正しなければならない。 

 絵は、エジプトのピラミッド

   2017年3月27日   岩下賢治

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コンビニは便利だ

2017年03月18日 | 日記

 花をつけたまま冬を越したシクラメン。暖かくなり見違えるように生き生きとなる。


 コンビニはconvenienceつまり便利という意味だから、タイトルのように「コンビニが便利」というのは修辞の矛盾なのだが、にもかかわらず実感として、コンビニは便利だ、と言ってみたくなる。それほど私たちに日常に密着しているのがコンビニエンスストアである。
 私の住んでいる新宿区内では新しい店ができるとしたら、間違いなくコンビニだし、百メートルも離れずに同じようなコンビニが林立している。近頃はイートインの場所を備え、宅配物の受け渡し、金融の端末があって、さらにトイレも開放、そのうえ昼夜を問わずの営業だから、私たちの生活の結節点となっている。
 そんなコンビニなのに、なぜか店員は日本人ではなくアジア系の若い人たちが大多数だ。日本人らしき人といえば、その店のオーナーだけのようにみえる。こんなに依存しているのに、日本人がいないのは、この職場が何か特殊な問題をはらんでいるからのだろう。考えられるのは、当然、低賃金と深夜のきつい労働。
 近年、過酷な労働形態が問題になる企業というのは、ユニクロなどの安売り企業、居酒屋、宅配といった川上からの流れの最終的な川下、消費者との接点部分だ。高度資本主義社会では生産より消費が優先される(国民総生産の寄与率は個人消費が過半数を占める)のだが、その最大の経済現場はまだありうるべき仕組みが不確定なのである。いずれ二次産業より医療、健康、レジャーといったサービス業を中心とした三次産業が経済をはじめ世の中の仕組みを再編していき、社会総体のキーポジションを握るはず。その結果としてコンビニの店員も名前はともあれ社会関係のマネージメントを扱う重要な役割を得ることになることは目に見えており、いまはその過渡期というべきか。最近、各所にコンセルジュという呼び名の職業を持った人が現れているが、三次産業の現場に立ち働く人たちは商品の流通や技術革新の進むべき道筋を示す、いわば優秀なコンセルジュになっていくだろう。単なるレジおばさん的なコンビニの店員は早々にいなくなると思う。
 かつて、家電量販店が家電メーカーを差配したように、末端商品の流通や技術革新は、コンビニが発火点になって進んでいくことは間違いがないはずだ。【彬】

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私の3.11

2017年03月11日 | 日記

 2011年3月11日の大震災。私は、茨城県常陸大宮市の栃木県に近い、自分の勤める某事業所で被災した。日本に住んでいる以上、一生に一度は大きな地震を体験するだろうと思っていたが、その時が正にこれだと思った。

 教訓とは、他人から言われるのではなく、自らの体験の中から学ぶのだと思うのだが、自分は何を学んだのか?

 私事であるが当時の日記を読み返す。その一部は、「3月11日。午後3時ごろ、大規模地震あり。震源地、宮城県沖、震度9。こちらは、震度6.避難訓練通り、全員所定避難場所へ。人災なし。事務所2階の天井被災。・・・社宅までの道、信号つかず、ブロック塀ことごとく崩れる。部屋の中散乱し、電気、水道止まる。・・・・・余震一晩中続く。ケータイ、テレビ、不可で、世の中が見えない。・・・学んだことは、大災害に備え最低限の備えを自らしておくことだ。・・・」

「3月13日。・・・近所の人に教えられた、近くの水場で水汲み。脇に、小さな祠を祭ってある。昔から、地元の水田、住民の水場となっていたのであろう。・・・これは命の水場である。」

 現在、私は、東京に住んでいる。先の、震災の自らの体験をどう活かしているか?

 ①    被災した時は、近所のひととの協力が何より大切。

 ②    茨城に住んでいた時期は自ら、充分な備えをしていた。今はとても充分とは言えない。 

 今本当に思うことは、のど元過ぎれば熱さを忘れる、という言葉だ。今やらなければいけない。

 絵は、社宅近くの水場。小さな祠と石碑。2011年3月13日に描いたもの。尚、石碑には、

  「千早振る玉川村水の 流れ来る神ぞ引く 清きお井戸の水は 下の耕作

            昭和7年3月15日 建之。」とある

        2017年3月10日  岩下賢治

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学校給食は配給食ではない

2017年03月07日 | 日記

 早咲きのツバキ

 季節を問わず、学校給食の場では年に何回か食中毒トラブルが起きる。給食センターなどで一括調理し、各校に配達、それからクラスごとで配膳されるから、それらの経由の中で事故が起こるのは避けがたいのだろう。人手を極力減らし、費用も節約すると、こうしたシステムになるのかもしれない。

 しかし、こうした合理性は食の観点からは最も理想とかけ離れていよう。

 敗戦後の貧しい食生活から子供を守るために始まった学校給食であるが、その成果をいつまでも引きずった結果が、食の本来のあり方からもっとも遠ざかってしまったと言うわけだ。初期の給食には子供達の栄養面を含めた食の改善という近代的な眼目があった訳だが、同時に貧しい人たちへの配給という側面があった。配給されるものだから文句は言えないという考えもあったはずだ。だから今でも給食費を払わないという父兄が後を絶たないのである。

 食べ物は、調理した場所で直ちに食べると言うのが最善だ。生ものを扱う寿司がその代表である。貧しい時代はともあれ、現代において学校給食のように調理と食事場所が相当な距離で隔てられているという状況はあまりにも異常だ。

 そこで思いつくままに、いくつか提案したい。

 その一つは、校内に専用の給食室を作ることだ。図書室や音楽室、理科室、図工室を作るより給食室を作ることが最優先されるべきだ。生徒全員が集まる場所がないと言うなら、低学年、高学年で時間を分ければ済む。なぜ給食室かと言えば、教室はあまりによごれているからだ。掃除をしているとは言え、授業でホコリが立っている上、教師たちの使うハクボクが飛び散っているのが教室である。調理室で料理し、出きたてを食べることが、衛生面から考えても最善の方法である。早急に給食室を作るべきである。

 二つ目は、父兄の参加である。子供にとって学校は学習と同時にもっとも大切な生活の場である。そこに父兄は参加すべきだ。PTAというのは、父兄が行事に加わったりパンフレットをつくるのが本来の目的ではない。teacherとparentsが協同するという意味では、父兄が参画できるのは食の場がふさわしい。父兄が交代で食事の場に立ち会うというのが生徒の生活マナーを習得する意味でも重要なことだ。

 そして給食という名称を変えたい。名は体を表すというが、配給という名残を払拭しきれない給食だから、子供たち自身で配膳をし、汚れた教室内で食べるということを甘受しているのだと思う。配給ではなく、みんなで食事を共にする、共食あるいは校食にしたい。共に食べることは共同生活の根本である。【彬】


 

 

 

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