ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

爆走するオートバイ

2020年11月27日 | 日記

 鉢植えで満開の小菊

 街中を爆音を立ててオートバイが疾走する。明らかに騒音条例に違反していると思われるのだが、車検後に改造しているのだろう。この種のオートバイ、一向に減らないことを見ると、交通警察も大目に見ているに違いない。
 住民にとっては甚だ迷惑である。おそらくライダーは迷惑なのは承知の介、晴れの舞台で大暴れしているかのような快感に酔いしれているのであろう。かつて運転していた人に話を聞いたことがある。彼がいうには、音はできるだけ大き方がいい、そして内臓にビンビン響くような振動が伝わらないと、運転している気がしないという。
 四輪車の場合とは正反対である。四輪車の場合は箱の中で安全性を保障された中で運転であるが、オートバイは外気との闘いで、身の危険と隣あわせの冒険である。その狂気の運転が、物をいうのだろう。
 こうしたライダーからすると、郊外より街中の道路を走ったほうが、より人目に触れるし、また車の間を縫っていく快感があって、より気分が高揚するらしい。
 こうした意識の高揚は、何もライダーに限らない。ハロウインの喧騒やスポーツの祝賀パレードなどにも共通である。さらに言えば、都市の道路を占拠するマラソン大会もそうだ。つまり都市というゴミゴミとした空間を我がものにする快感なのだろう。以前は、繁華街が昼日中から音楽を鳴り響びかせ、わざと喧騒状態にしていたものだ。
 こうした事態を招くのは、おそらく都市の由来に理由があるかもしれない。
 都市というのはもともとお金や物が行き交う喧騒の場、つまり交易の中心なのである。騒々しく活況に溢れていることが、繁栄した都市なのであった。
 しかし、そうした喧騒状態は、産業社会が第一次、第二次段階でのことで、今日のように第三次、あるいはそこを超え、サイバー空間を行き交う時代ではそぐわなくなっていよう。これからは都市の役割は交易の場から、文化、生活の場となるはずである。文化的な高揚を押し出すことこそ都市なのである。例えば道路はサイバー空間としての表現の場となり、人々は道端に椅子を持ち出し、様々な映像を楽しみ、園遊を楽しむこようになると思う。
 都市は、生活の場なのである。交易物流は都市の外部で行われ、将来、街には木々が生い茂り、静かな環境に変貌しているだろう。
 爆音を立てて疾走するライダーが出る幕はなくなるはずである。そう願いたい。【彬】

 

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流行現象としてのコロナの波

2020年11月19日 | 日記

 落葉三葉

 コロナがついに第3波に突入したらしい。四月の第1波、八月の2波に続いての流行である。そしてこの第3波は、それまでに比べ、大きな波で、東京都内の場合、1日の感染者数が最大1000〜2000人にのぼるのではないか、と懸念されている。
 ところで、この《波》というもの、社会的な流行だとみなせば、例えばファッションとか、音楽、スポーツイベントとかにも見られ、人々の気持ちが波をうねるように高揚波及し、そして一定期間内で収束する。そして場合によっては、2番波、3番波と続くことがあるが、この連続的流行の場合には、流行の元にある核心部分になんらかの変容が起こって、消えたように見えながら再燃するという形をとる。ファッションだと、例えばスラックスの太さが次々に細くなりながら、限界に達すると変容し、生地が伸縮性のあるもに変わる、そして2番波が来るといったように。
 コロナの流行をこうした社会現象として見れば、ファッションと同じように、コロナ自体の変容を通して第2波、そしてその後の動きに至っていると類推することができよう。
 いうまでもなく第1波は物珍しく人々の注意を強く喚起する。今から振り返ると、第2、3波と比べると感染者は相当に少なかったのにもかかわらず、特措法の「発出」などという、行政上の強権が飛び出したことから明らかなように、コロナは単純に目に見えぬ悪魔であった。
 続いて、第2波は酷暑にもかかわらず、海水浴から避暑などの外出が制限された。
 こうした経緯の中で、つまり流行の波が収まりかけていたにもかかわらず、再度の波が押し寄せたのは、第1波の時のコロナの素が、何かの理由で変容したのではないか、と想定しなくてはその原因を説明できない。柳の下のどじょうで、同じものは二度と生起しないものなのだ。おそらく、巷間でも指摘されているように、コロナウイルスは収束するごとに「感染力を強化」=変容しきたのではないのか、と考えられる。そうでなければ第二波以降、感染者が多くなるはずはない。
 感染力の強め方の変化では、一つはコロナ自身が長生きするように変容したのではないかと考えられる。例えば第1波段階だと、タンパク質などの物質に取り付いて活動できる期間を3日だとすると、第2波の時には、5日になり、そして3波では7日間になるというように。その結果、感染者が多くなる。
 二つは細胞分裂が早くなったこと。初期のコロナに比べ、分裂が早くなった分、ウイルス数がぐんと増えるわけである。
 これら2つの変容によって、感染力は格段とアップしたと思われる。しかし反面、こうした変容はコロナ自体の弱毒化を促したと考えれれる。重篤な感染者が少なくなったのは、その反映である。もちろん医学的対応の結果だろうが、それだけでなくコロナの弱毒化が大きく作用していよう。
 つまり、コロナは初期の強力有害な細菌から、弱毒化しコロナ自体が長く生き残る自己変容が起こったのだろう。いわば適者生存である。
 とすれば、私たちはコロナに対しは、それほど恐れなくとも良いことになる。感染者が1万人とか10万人になろうとも、単なる変わった風邪だと処置すれば良いことになる。こうした判断は私の特殊の考えではなく、周辺や各種方面から聞こえてくる多数の意見となっているように思う。
 以上は、医学・細菌学ではなく社会論からみたコロナ問題である。【彬】

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ノーベル賞作家、Gluck(グリュック)さんの作品を読む

2020年11月18日 | 日記

 この度、今年のノーベル文学賞を受賞した、Louise Gluck(グリュック)さんの作品、The Wild Iris(野生のアヤメ)を読みました。授賞理由の「個人の存在を、普遍的存在に高める、朴訥とした美しさをたたえる比類なき詩的表現。」がどうしても気になったのです。

 63編の詩集で、それぞれの詩に、花の名前、季節、気候、などのタイトルが付けられ、一人称 I(私)で語られる。そして、その(私)は、擬人化されたアヤメということらしい。

 舞台背景は、大きな庭。その擬人化されたアヤメが、庭という舞台の上で、人と植物等をからませ、様々な事柄を独特な詩的表現で語る。

 容易な言葉を使っているが、僕にはこれらの詩を頭で読むのは難しい。感性、と、想像力で、読むものだろう。ちなみに、詩集の題名ともなっている、The Wild Iris は以下の詩です。日本語は僕の訳です。

 

The Wild Iris 野生のアヤメ

At the end of my suffering there was a door. 

 私の苦しみの終わりにはドアがありました。

Hear me out: that which you call death

I remember.

 聞いてください:あなたが死とよぶもの。私は覚えていますよ。

Overhead、noise, branches of the pine shifting. Then nothing. The weak sun flickered over the dry surface.

 頭の上は、騒めき、松の枝が揺れ動く。何もありません。弱い陽の光が乾いた地面で揺らめいていました。

It is terrible to survive as consciousness buried in the dark earth.

 暗い地面に埋まったまま意識をもって生きていくのは辛いものです。

Then it was over: that which you fear, being a soul and unable to speak, ending abruptly, the stiff earth 

bending a little. And whatItook to be birds darting in low shrubs.

 それでも終わったのです:あなたが恐れているものは。魂はあるのですが話すことが出来ません。突然終わって、

固い地面が少し傾きました。それを、私は灌木のなかでの鳥打ちかと思いました。

You who do not remember passage from the other world I tell you I could speak again: whatever returns

 from oblivion returns to find a voice:

 あなたは、他の世界からの道を覚えていないのですね。申し上げますが、私は再び話すことが出来きたのですよ:

忘却の回復からの再び得たもの、それはなにはともあれ、声、を見つけたということです:

From the center of my life came a great fountain, deep blue shadows on azure seawater.

 私の命の中心から、大きな噴水が沸き上がりました。深い青色の影を紺色の海の上に映して。

 

 以上です。

 グリュックさんは、社会から圧し潰されそうな弱き人たちに寄り添う優しさのある作品を発表してきたという。格差の広がるこの厳しいこの世界で、このような詩が必要なのかもしれない。グリュックさんの詩は難しいが心に引っかかるものがあり、この秋に何度も読みたいと思うのです。

  2020年11月17日  岩下賢治

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第二の故郷へ、里帰り

2020年11月14日 | 日記

 先日、茨城県常陸大宮市を訪れた。ここには仕事の関係で、13年間住んでいたが、5年前に後ろ髪引かれる思いで東京に帰ってきた。ここでの楽しい暮らしが当地を第二の故郷にしてしまい、秋深まると、故郷を想う気持ち強く、ようやく里帰りとなったわけだ。

  茨城での生活圏はクルマを使うのでかなり広かったが、里帰りは、電車と徒歩にした。特に、知人、友人を訪ねるのではなく、「自分の暮らしていたところ」に会いに来たのだ。

 水郡線の常陸大宮駅から、住んでいた社宅まで、徒歩で50分。両側4車線の国道バイパスが通り、それに沿って、スーパーマーケット、ホームセンター、飲食店、市役所、図書館、自動車販売店、等々生活に必要な店舗、施設がそろう。一つ一つ見て回る。懐かしいなあ....。昼食は、当時よく訪れていた、家庭的な食堂でとる。変わらずご夫婦二人でやっている。僕が、「五年ぶりに来ました。旅行で近くに来たので...。」ご主人「もうそんなになりますか。」これがこの旅で唯一交わした会話であった。

 社宅では管理人や、社員である住人に会うことはなかった。皆出払っていた。建物を一巡りし、その裏手を進んでいくと、添付の絵のように、田んぼが広がり、遠くに丘になった森が見える。あの森の向こうには、里山や田畑、そして民家がある。茅葺の家もあったな。ここらあたりを、当時ランニングの練習コースにしていたんだなあ。

 この日の歩行時間は3時間半ほど、12~13kmくらいだろうか。これで、里帰りは一応できたと思う。特別なことがなければもう来ることはないだろう。自分の気持ちは収まったようである。

 自分の性格形成には茨城での生活が寄与しているように思う。息苦しいと思うとき、ふと茨城の頃のことを思い起こすと気持ちが和むのだ。

   2020年11月13日  岩下賢治

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塩との闘い

2020年11月11日 | 日記

 白粉花、です。

 宮本常一に「塩の道」という名著がある。日本には地表に露出した岩塩が無いので、内陸部で生活していた人たちがいかに苦労して塩を手に入れたか、という民俗学レポートである。
 今、塩というと、減塩とか、塩分のとりすぎだとか、そんな話になりがちだが、昔は塩は命を繋ぐ大切な食品であった。だから、ある時から塩は国家が統制する専売品=専売公社が管理することになった。そんな塩というのは、今みたいなサラサラした焼塩ではなく、俵に入って苦汁(にがり)を含み、俵から水気が滲み出るような相当に重いものだった。長野県などに保存されている塩街道での塩蔵を見れば、それがどのように運ばれ、どのように保存されていたかを知ることができる。
 いわば人間は塩との闘いで生存してきたとも言えるのだ。
 もっと具体的に言えば、大岡昇平の名作「野火」が思い出される。フィリピン戦線で敗残兵となった兵士がひとり野山を彷徨い、その果てに米兵と出くわす話だが、その兵の背嚢には塩が大切にしまってあって、その塩があることで生きる余力を得るのである。それほど塩は生きていく上で不可欠なものだった。
 それもそのはずで、人間に限らず、あらゆる地球上の生命は海から誕生していて、その海水の塩分濃度をバランスよく保たないと生命を維持していくことができない仕組になっているからである。
 日本の製塩法は海水を限りなく蒸発させて、土や木の枝に結晶したものをさらに煮出して作る。昔の教科書には、そんな塩田が雨の少ない瀬戸内海付近にたくさんあったと教えていた。しかしそうした方法は、最近のこと、いわば中世以後である。それ以前の、上代や弥生期の方法はどんなであったのだろうか。
 万葉集の時代では、海水が付着した海藻を刈り取り、それを煮出して製塩していたことを示す歌がたくさんある。藻塩刈る、と読まれている風俗がそれで、そうして取った塩を内陸部に移送する苦労。おそらく物物交換、交易の元祖は塩の運搬ではなかったか、と思えるのである。
 翻って人類の未来への道のり=たとえば宇宙空間への生活拡大も、この塩との戦い、処理の問題になるのではないか。また例えば、コロナの防疫はひょっとすると、海水から絞り出した苦汁を含んだ塩の摂取が相当に効果的では? などと勝手に想像してしまう。
 塩について考えを巡らすのは、テレビの料理番組からである。調理は全て「塩加減」という。病気を含め生命の健全な保持は、全て塩加減というべきか。【彬】

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