鉢植えで満開の小菊
街中を爆音を立ててオートバイが疾走する。明らかに騒音条例に違反していると思われるのだが、車検後に改造しているのだろう。この種のオートバイ、一向に減らないことを見ると、交通警察も大目に見ているに違いない。
住民にとっては甚だ迷惑である。おそらくライダーは迷惑なのは承知の介、晴れの舞台で大暴れしているかのような快感に酔いしれているのであろう。かつて運転していた人に話を聞いたことがある。彼がいうには、音はできるだけ大き方がいい、そして内臓にビンビン響くような振動が伝わらないと、運転している気がしないという。
四輪車の場合とは正反対である。四輪車の場合は箱の中で安全性を保障された中で運転であるが、オートバイは外気との闘いで、身の危険と隣あわせの冒険である。その狂気の運転が、物をいうのだろう。
こうしたライダーからすると、郊外より街中の道路を走ったほうが、より人目に触れるし、また車の間を縫っていく快感があって、より気分が高揚するらしい。
こうした意識の高揚は、何もライダーに限らない。ハロウインの喧騒やスポーツの祝賀パレードなどにも共通である。さらに言えば、都市の道路を占拠するマラソン大会もそうだ。つまり都市というゴミゴミとした空間を我がものにする快感なのだろう。以前は、繁華街が昼日中から音楽を鳴り響びかせ、わざと喧騒状態にしていたものだ。
こうした事態を招くのは、おそらく都市の由来に理由があるかもしれない。
都市というのはもともとお金や物が行き交う喧騒の場、つまり交易の中心なのである。騒々しく活況に溢れていることが、繁栄した都市なのであった。
しかし、そうした喧騒状態は、産業社会が第一次、第二次段階でのことで、今日のように第三次、あるいはそこを超え、サイバー空間を行き交う時代ではそぐわなくなっていよう。これからは都市の役割は交易の場から、文化、生活の場となるはずである。文化的な高揚を押し出すことこそ都市なのである。例えば道路はサイバー空間としての表現の場となり、人々は道端に椅子を持ち出し、様々な映像を楽しみ、園遊を楽しむこようになると思う。
都市は、生活の場なのである。交易物流は都市の外部で行われ、将来、街には木々が生い茂り、静かな環境に変貌しているだろう。
爆音を立てて疾走するライダーが出る幕はなくなるはずである。そう願いたい。【彬】