スケッチ=近所の老描
最近「終活」などという言葉が幅を利かすようになった。死への道筋をたてようというのである。馬鹿げている。老人は死に向かって生きている存在ではないのだし、もし問うとするなら「老人の未来」である。小児に未来があるように、老人にも未来があるはずだ。ただし、子供のように単に将来に向かう「時間的」な意味で未来が広がっているわけではない。いままで生きてきた結果としての未来である。そんなものがあるかという問いに、私は次のように答えたい。
まずは〈家族からの解放〉である。
老人は家族を作り、子供を育て、主役を次の世代に譲り渡した存在である。かつて私たちの生活が農業に依存していた時代には、家族は子供から老人まで、家を繋ぐ役割を負っており、世代が交合して初めて生活が成り立った。だが、今日のような高度な資本性社会での核家族では、子供が独立すれば、その役割は終えるのだ。蓄えもほどほどある。高齢者がスポーツや旅行を楽しんだり、あるいは文化活動等にいそしむ余裕ができるのはこのためである。この状況をもっと積極的に評価し、高齢者=老人を家族から解き放なすことが老人の未来をより豊かにする根本なのだと思う。
もちろん、夫婦も解体してよい。ただし、法的・制度的な意味での夫婦関係である。長年培った伴の意識は、良しにつけ悪しきにつけ、簡単に解消されるものではない。だから解体と言っても、独立した個人として人生を選択出来るという意味での夫婦関係の解体である。そうなると、単独老人として衣食住をどうやりくりするのか、といった疑問が付き纏う。が、都会の生活をみれば分るように、単独者として十分対処できるような環境が既にできあがっているのである。
独身老人を「おひとりさま」などと気取っていないで、老人家族を解体することに向けることが、老人の未来を構想するうえの前提になると思うのである。
そのことによって、老老介護の果ての殺害などといった悲劇が避けられるのだ。【彬】