私には長く付き合いのあるランニングの仲間がいる。それら友人らの走る姿は否が応でも憶えていて、遠くでも走る恰好から誰彼を判別することができる。同じ走るのでも、それぞれのフォームには千差があるからである。この違いは普通「個性」と言っている。
しかしながらよく考えると、この個性と言う言葉には何か重要なものが隠れ落ちているように思う。フォームの違いは、それぞれの筋力の使い方の巧拙に由来しているし、強弱にも関連している。見方によれば、弱点の表れともいえるのだ。弱点なら補正の対象となる。これを「個性」とくくってしまっては先に進みようがない。
おそらく個々の特長を個性(パーソナリティ=個人性)と言うようになったのは、戦後教育における過度なプラグマティズムの影響なのだろう。長所であれ、弱点であれ、自覚し発見できれば、矯正するに如くはない。長所はその裏側に欠点が潜んでいるものだ。
私たちは標準というものに偏見があるように思う。標準というと平均とか形にはめるとか思いがちだが、バランスがとれた理想という意味も含んでいる。例えば計理士の数字の書き方、あるいは筆耕者の文字の書き方を見ればわかるように、書き手の個性はまったく消えて、標準化される。これは本来、職業人の前提で、オリンピック参加の標準記録というようなものに相当しよう。いつでも、一定のレベルの記録は残せるのだということ。
昔、小林秀雄は職人と芸術家の違いについて、職人というのは、同じことを同じように繰り返すことができる人だ、と述べていた。芸術家である前に、職人であるべきなのだ。フランスではアルティストとアルティザンを分けている。個性を言う前に標準化への訓練がどんなに大切かということである。
長所短所を個性として放置しておくのは、長所短所の原因をはっきりと認識できないところから発生しているように思う。多くの場合、長所は欠点の裏返しであり、それは蝶番のように繋がっているのだと思う。しかし、補正の仕方は難しい。
で、長所を伸ばす指導法とかなんとか、一様に眉唾ものだと推して知れる。スポーツと芸術の秋に思うことである。
*絵はイヌマキの実。赤い部分が果肉で、子供の頃よく食べた。標準からほど遠い絵ですが、蒙御免。 【彬】